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どんな本?
室町時代を舞台に、後の北条早雲こと伊勢新九郎盛時の若き日々を描く歴史作品である。
物語の概要
駿河から京へ戻った新九郎は、近江に出陣中の将軍・足利義尚に挨拶を試みるも門前払いを受ける。その後、細川政元から「義尚はもう長くない」と告げられ、自らが推す新将軍候補・清晃(足利政知の息子)の擁立に協力するよう求められる。義尚のために自分ができることはもうないのかと落ち込む新九郎だが、幼い頃の彼との“ある約束”を思い出す。物語は、室町幕府第九代将軍・義尚の最期と、新たな将軍候補となる二人が担ぎ上げられる様子を描く。
主要キャラクター
• 伊勢新九郎盛時:後の北条早雲。名門伊勢家の一員として成長し、将軍家や有力大名との関係を築きながら、自らの理想と現実の狭間で葛藤する。
• 足利義尚:室町幕府第九代将軍。新九郎が仕える主君であり、物語の中でその最期が描かれる。
• 細川政元:有力大名であり、新九郎に新将軍候補・清晃の擁立を打診する。
物語の特徴
本作は、歴史的事実に基づきつつ、主人公・新九郎の人間的成長や葛藤を丁寧に描いている。特に、将軍継承問題や権力闘争の中での新九郎の選択や行動が、物語の大きな魅力となっている。また、史実に忠実でありながらも、現代的なギャグや表現を織り交ぜることで、読者に親しみやすい作品となっている。
出版情報
• 出版社:小学館
• 発売日:2024年12月12日
• ISBN:9784098631179
• 判型:B6判
• 頁数:176頁読んだ
本のタイトル
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あらすじ・内容
新将軍“選”開始!?新九郎に無職の危機!
駿河から帰洛し、近江に出陣している将軍・義尚に挨拶に向かうも、
門前払いされた新九郎。
そこで、細川政元から「義尚はもう長くない」と告げられ、
自らが押す新将軍候補・清晃(足利政知の息子)の
擁立に協力するよう打診される。
義尚のために自分ができることはもうないのか、と
落ち込む新九郎だが、幼い彼との“ある約束”を思い出しーーー
室町幕府、第九代将軍・義尚の最期。
そして、新たな将軍候補となる二人が
担ぎ上げられる!
感想
竜王丸の領国化した駿府から離れ帰京した新九郎。
駿河在国中に堀越公方足利政知の奉公衆となり、伊豆国田中郷と桑原郷を所領として与えられていた。
元々室町の奉公方の新九郎は戸惑っていたが、そこに細川政元から、その対価の任務として足利義知の次男、清晃を次期将軍にすれば室町と一緒になるから大丈夫だと言われ。
自身が次期将軍職の争いに巻き込まれている事に気が付く。
そして現在の将軍、足利義尚は六角討伐のために勾の陣にいたが上手く行かず、酒に溺れて身体を壊して長享3年(1489年)3月26日、第9代将軍・足利義尚が近江国の陣中で病没した。
1年以上、竜王丸のために駿府を領国化していた新九郎は義尚に面会できずに門前払いを喰らっており、何度も酒を諫めていたが家臣達にシャットアウトされて伝わっていなかった。
寵臣の結城尚豊に酒を控えるようにと諫言して欲しいと言うが、結城は自身の立場が悪くなるから言いたく無いと言う。
日に日に弱って行く義尚に耳障りの良い事を言えと言う結城に新九郎は怒り。
そのまま陣から京へと帰還。
その後、姉へ駿府の馬を送ってほしいとお願いして、義尚に献上しようとしたが訃報が来てしまった。
足利義尚の死去と将軍後継問題の発生
義尚には嗣子がなく、将軍職の後継問題が浮上した。
足利義政の後継者選定
後継者候補は、堀越公方足利政知の次男、清晃と義政と将軍職を争った弟の義視の子、義材であった。
義尚の父であり、第8代将軍であった足利義政は、時期将軍候補である清晃と義材の何方が適性があるか見極めると言う。
その間の執政は義政が行うと言ったが、彼は脳梗塞で倒れてしまった。
その報せを聞いて、京に居なかった義材が上洛して京に入り、いよいよ後継者争いが本格化するかと思ったら。
義政は脳梗塞からすぐに復帰して天皇からも正式に将軍職への復帰を許可され執政を行う事となった。
そして当初の予定通り後継者はまだ決めないと言う。
それに対して日野富子は不平不満を持つ。
不安定な状態となり新九郎は父から、この後継者争いは清晃と義材の後ろ盾である足利政知と足利義視の寿命が先に尽きた方が将軍となると言う。
後ろ盾の亡くなった方を義政は後継者に指名して自身の権勢を維持しようとするだろうと言っていたが、義政自身が先に死ぬ可能性を無視していた。
そして、2度目の脳梗塞で倒れてしまった。
すぐに復帰したが、義政がいつ死ぬかわからなくなった。
その心配をし始めた時に、新九郎は義材が将軍となったら義材の父、義視に恨みを買っている事に言及。
それを避けるためには清晃が後継者になるしか無い。
もし、義材が将軍になったら冷飯を食わされると思っていた。
そして、恐れていた事。
義政が3度目の脳梗塞を発症して意識が混濁した状況となり、日野富子の仲介で義視が見舞いをしてドサクサに義材を後継者にさせようとしたら。
義政の意識が戻り「誰が対面を許した」と言って追い出してしまった。
後継者問題は再度振り出しに戻ってしまった。
そんなある日、伊勢貞陸が訪問してきて義材が新九郎に会いたいと言ってると伝えてきた。
足利からの命令に伊勢が無視するわけにもいかず、義材と面会し問答をすると義材はかなりお人好しだとわかった。
反対にいい人過ぎて将軍職が務まるか心配になるくらいでもあった。
そして、3度の脳梗塞で倒れた義政は何とか執政をしていたが亡くなってしまった。
享年55歳であった。
後継者を誰にするか決めずに亡くなってしまった義政。
その妻である日野富子が後押した義材が第10代将軍へと就任
さらに対抗馬であった清晃には第二の御所と呼ばれる小川第を譲り、将軍職は義材だがいつでも変われるようにと清晃の方も後押ししていた。
だが、義視が小川第を打ち壊して日野富子の言う事を聞かないと表明。
そして、新九郎は足利義材と義視が居る三条御所の申次衆となり公職に就く事となった。
だが、彼は堀越公方足利政知(清晃の父)の奉公衆でもあり二重の職と所領を持つ事となってしまった。
その堀越公方足利政知の伊豆では次期当主の事で騒動が密かに起こっていた。
茶々丸が時期当主だと周囲が思っていたら、政知は三男の潤童子を次期当主にしようと動いていた。
これに対して政知の死後に茶々丸がクーデターを起こす事となるのだが、、
その前に上杉政憲が切腹したと竜王丸と伊代の下に書状が来る。
伊豆異変が始まる。
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その他フィクション
備忘録
「今川氏親と伊勢宗瑞」より引用
17巻
駿河山東地域などの領国化
範満討滅後の山東地域の抗争と支配
範満討滅から2か月後の長享2年正月、竜王丸は山東入江庄高橋辻での合戦後、由比助四郎光規の戦功を評価し、その後も興津彦九郎に本領を安堵するなど、家臣団の再編を進めた。同年9月には伊勢盛時が竜王丸の代官として社領の安堵を行うなど、山東地域の支配体制の確立が見られた。これにより、山東地域全体を支配下に置くことが進展し、新たな知行関係が構築された。
矢部氏一族の滅亡と山東地域の領国化
竜王丸による範満討滅の際、今川氏の譜代家臣であった矢部氏一族が抵抗した結果、滅亡に至ったとされる。これにより、入江庄を含む庵原郡が戦火に見舞われた。矢部氏の一族はかつて今川家譜代の重臣として活動していたが、範満擁立を支持したことが命運を分けた。
伊勢盛時の功績と新たな所領
範満討滅の功績により、伊勢盛時は富士郡下方地域で300貫文の所領を与えられた。この地域は富士川を挟んで山東地域の東に位置し、竜王丸の勢力が河東地域まで広がったことを示している。盛時は「家宰」や「後見役」としての役割を果たし、竜王丸の支配体制の補佐に尽力した。
山東から河東地域への支配の進展
竜王丸は範満討滅後、山西地域から山東地域に進出し、さらに丸子に新館を築きながら支配体制を強化した。長享2年後半には山東地域の支配を確立し、延徳元年初頭には知行関係を再構築した。その後、河東地域の富士郡下方地域にも進出し、山西から河東に至る広範囲な領国化を達成した。
駿河国全体の統一に向けた課題
駿河国には富士郡北部や駿東郡など、竜王丸の支配外となる地域も存在し、それらは富士家や大森家といった国衆が支配していた。また、堀越公方足利家の勢力も駿東郡南部に及んでいたと考えられる。このため、駿河国全体の領国化が達成されるのはさらに後のことであった。竜王丸は堀越公方足利政知との連携を通じ、領国の安定化を目指していたとみられる。
18巻
盛時の帰京
伊勢盛時の駿河在国と竜王丸の領国化
伊勢盛時は駿河に下向し、範満討滅や竜王丸による領国化を主導した。盛時は竜王丸の代官として打渡状を発し、その支配体制を補佐していた。その後、領国化が確立すると、盛時は京都に戻った。この帰京は竜王丸の領国確立が達成されたことを受けての動きであり、延徳三年五月には将軍足利義材の申次衆に就任していた。
盛時と足利政知の関係
盛時は駿河在国中に堀越公方足利政知の奉公衆となり、伊豆国田中郷と桑原郷を所領として与えられていた。このことから、政知の了解と連携のもとで範満討滅が行われたとみられる。盛時の役割は竜王丸を今川家当主として確立させることであり、領国化達成後に幕府役人としての本来の立場に戻ったと考えられる。
清晃擁立の挫折と盛時の帰京後の役割
義政と細川政元による清晃擁立の計画は、義材が将軍に就任したことで一度頓挫した。盛時は帰京後、義材の申次衆として活動しており、義材への近仕が対立関係にあった清晃との利害調整に関係していた可能性がある。しかし、政知の死後、清晃の将軍就任の道は完全に閉ざされた。
足利政知の死と清晃擁立の動き
延徳三年四月に政知が死去したことで、情勢は急変した。政知は三男潤童子を後継とし、長男茶々丸を排除する計画を進めていたが、政知の死後、家政は円満院が取り仕切ったと推測される。これにより茶々丸が排除され、潤童子が家督を継ぐ動きが進められた。
19巻
堀越公方足利家の内乱
足利政知の死と茶々丸のクーデター
延徳三年四月、足利政知が死去した後、茶々丸は七月にクーデターを起こした。継母円満院と弟潤童子を殺害し、堀越公方足利家の家督を強引に継承した。これにより堀越公方家中は混乱に陥り、旧政知派との抗争が激化した。
盛時の駿河下向とその背景
伊勢盛時は延徳三年八月に再び駿河に下向した。この動きは、茶々丸のクーデターによる竜王丸との関係悪化を受け、駿河領国の安定を図るためとみられる。また、姉北川殿の助言や要請もその決断に影響を与えた可能性がある。
堀越公方家の分裂と茶々丸の孤立
クーデター後、茶々丸は堀越公方家中の支持を完全には得られなかった。「今川記」や「異本小田原記」によれば、執事上杉政憲が諫言を行うも受け入れられず、最終的に自害したという記録がある。また、茶々丸が家臣を処罰したことで内紛が激化し、伊豆国内は争乱状態に陥った。
盛時の立場と堀越公方内乱への介入
盛時は政知の奉公衆として伊豆国内の所領を与えられていたが、茶々丸による所領の没収により旧政知派として扱われたとみられる。このことが盛時の堀越公方内乱への積極的な関与を促し、明応二年には伊豆侵攻を開始する要因となった。
登場人物
伊勢新九郎盛時(いせ しんくろう もりとき)
伊勢新九郎盛時は、戦国時代初期の武将であり、後に北条早雲(ほうじょう そううん)として知られる人物である。応仁の乱から戦国時代へと移り変わる混乱期に活躍し、関東における後北条氏の祖として大きな足跡を残した。
足利義政(あしかが よしまさ)
足利義政は、室町幕府第8代将軍であり、足利義教の子である。応仁の乱の勃発に深く関与した人物として知られる。義政は幼少期から将軍候補として育てられ、1449年(宝徳元年)に将軍職に就任した。当初は幕府の統治を積極的に行ったが、次第に政治への興味を失い、文化的活動に専念するようになった。
義政の治世では、銀閣寺(慈照寺)を建立するなど、東山文化を象徴する文化事業が展開された。しかし、後継者問題や細川勝元と山名宗全の対立が引き金となり、応仁の乱が発生した。義政は乱の後、政治から退き、実質的には隠居生活に入り、義尚に将軍職を譲った。
足利義尚(あしかが よしひさ)
足利義尚は、室町幕府第9代将軍であり、足利義政の嫡男である。義尚は父義政から将軍職を譲られ、1473年(文明5年)に若くして将軍に就任した。当時は応仁の乱の余波が続き、将軍としての権威は低下していた。
義尚は室町幕府の権威回復を目指し、近江国や六角氏に対する軍事行動を展開したが、強硬な政策が裏目に出ることも多かった。長享3年(1489年)、近江国への出陣中に病を患い、陣中で死去した。義尚の死は後継問題を引き起こし、義材(のちの義稙)の将軍就任へとつながった。
義政と義尚の治世は、室町幕府の衰退期と重なり、政治的混乱や文化的栄光が入り混じる時代を象徴している。義政が生み出した東山文化は後世に大きな影響を与え、義尚の果敢な行動は、幕府再興の意志を示すものとして評価されている。
足利義材(後の足利義稙)
足利義材は、室町幕府第10代将軍であり、足利義視の子である。義材は従兄弟である足利義尚の死去を受けて、義政の養子として将軍職を継承した。その就任は長享3年(1489年)の義尚死去後、翌年の延徳2年(1490年)に正式に行われた。
義材の治世は、室町幕府の権力が衰退し、大名間の抗争が激化する中で行われた。特に義材は、細川政元をはじめとする有力守護大名との関係に苦心し、その統治は不安定であった。義材は義尚とは異なり、幕府の力を維持しようとしたが、後の義稙としての復帰も含め、政権の変動が続く激動の時代を象徴する存在であった。
清晃(後の足利義澄)
清晃は、堀越公方足利政知の次男であり、室町幕府の第11代将軍となる足利義澄である。生母は円満院武者小路氏で、義澄は幼少期から政治的に重要な位置にあった。父政知は、清晃を将軍後継者とするため、室町幕府や有力大名との連携を図った。
清晃は、文明11年(1479年)までに父の尽力で細川政元との協力関係を築き、長享元年(1487年)には京都に上洛し、天龍寺塔頭・香厳院の院主となった。この背景には、当時の将軍足利義尚の健康悪化があり、清晃が次期将軍候補として取り沙汰されるようになったことが挙げられる。
しかし、父政知の死後、兄茶々丸との内紛が発生し、堀越公方家は混乱した。結果として清晃の将軍就任は一度頓挫したが、のちに細川政元の支援を得て将軍に就任した。
細川政元(ほそかわ まさもと)
細川政元は、室町時代後期の武将であり、室町幕府の管領を務めた人物である。後に「半将軍」とも呼ばれるほどの権力を持ち、将軍家をも左右する存在として知られる。応仁の乱以後の混乱期にあって、幕府や細川家の中枢で活躍した。
日野富子(ひの とみこ)
日野富子は、室町幕府第8代将軍・足利義政の正室であり、足利義尚の母である。室町時代を代表する女性政治家であり、その強い政治的影響力から「女将軍」と称されることもある。応仁の乱をはじめ、幕府の政治や文化に深く関与した人物である。
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