「お金の流れで見る戦国時代 歴戦の武将も、そろばんには勝てない」感想文

「お金の流れで見る戦国時代 歴戦の武将も、そろばんには勝てない」感想文

読んだ本のタイトル

#お金の流れで見る戦国時代  歴戦の武将も、そろばんには勝てない
著者:#大村大次郎 氏

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あらすじ・内容

元国税調査官には「戦国時代の覇者」はこう見える! 税金、外国との貿易、国内物流、経済政策……ただ武力と知略が長けていれば覇者になれるわけではない。真の戦国“経済”巧者は誰だ!?

(以上、Amazonより引用)

感想

なかなかに面白い。

武田信玄は耕作地が少なく、貧乏で住民に重税を課していたらしく。
北条側に逃げる流民が多かったらしい。

「信玄堤」を造成しないと収穫すらままならないほど土地が悪く、武田信玄は上洛したくても上洛するための食糧を確保出来なかった。
さらに鉄砲などの最新武器を早く手に入れてはいたが、、
織田信長に商業網を寸断されて、鉄砲に必要な火薬の原料などが手に入れられなかった。

そして、三方ヶ原の戦いでは上洛するための賭けに出ていたらしい。

上杉謙信は肥沃で恵まれた領土を持っており、港も持っていたおかげで商業も盛ん。
軍事力を持てるだけの地盤を持っていたが、他国に攻め入る戦力を持っておらず、どうやら上杉謙信は下剋上の戦国時代という認識が無かったらしい。
むしろ自身は室町幕府の守護としての役割を真っ当していたつもりらしい。

毛利元就は下克上で主家を倒し、急激に領土を拡大したせいで地盤固めに奔走しており上洛する機会を逸していた。

応仁の乱で負けた側にいた北条早雲は、今川家の家臣から善政を敷いて戦国武将最大の領土を得たが、、

京都から地理的に遠く、上洛をしたくても遠すぎて出来なかったらしい。
あと、周辺には同盟をしていたとはいえ今川、武田が北条の土地を虎視眈々と狙っていたのでスキを見せるわけにわいかなかった。

そして、織田信長は祖父の代から強固な経済基盤があり、領民の人気を得るために溜まりに溜まった不満。
自社、仏閣が領民から税を取ることを禁止して、国人衆達からも様々な利権を引き剥がして民に善政を敷いた。 

その過程で寺社との衝突があり比叡山焼討ちのような事も起こってたらしい。
それを悪く書かれて第六天魔王と言われていたらしい。

でも、織田信長は京都に上洛したさいに商業の中心で鉄砲の火薬の原料の硝石を輸出している堺を武力を背景に脅して支配下に置いてしまう。

そして、輸入品の硝石を半ば独占したとこで天下統一に近づいたが、、

明智光秀の反乱で夢半ばで終わってしまった。
その明智光秀は、織田信長から領地変えを言い渡されていたのだが、、

それに不服で反乱を起こしたのだろうと著者さんは予想している。

そして、豊臣秀吉は主だった織田信長の真似をしていたのだが、、、
大阪城も織田信長が基礎を作っていたらしい。

朝鮮侵略はどうしたら良いのか分からなかったらしい。
織田信長も朝鮮侵略への戦略を企てはおらず、豊臣秀吉は自らの力で侵略しようとしたら失敗してしまった。
その途中で豊臣秀吉は亡くなってしまい。

そして徳川家康が商業を牛耳っている豊臣家が邪魔で、それを攻め滅ぼしてしまった。。

何気にこの時期も経済は重要だったんだな、、

最後までお読み頂きありがとうございます。

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Nonfiction

備忘録

はじめに

戦国時代は多くの人々にとって人気のある時代であり、その魅力は「上昇志向」と「戦い」に関連するイメージにある。しかし、この時代を「経済」という視点から見ることで、新たな理解が得られることが本書のテーマであった。戦国武将たちの強さや成功の背後には、「経済感覚」や「経済政策」が大きく影響しており、織田信長や徳川家康も「お金」によってその成功を支えていたのである。本書は、戦国時代を経済面から分析することで、従来の歴史解釈とは異なる一面を浮かび上がらせることを目指していた。読了後には、戦国時代がより現実的で立体的に見えることを筆者は確信していた。

第 1章
幕府の〝財政破綻〟から戦国時代の幕が上がる

戦国時代の発端とされる応仁の乱は、室町幕府の財政的脆弱さが大きな要因であった。幕府は財政破綻に陥り、将軍家の権威が低下した結果、抑制力を失い、周囲の大名たちが権力争いに介入するようになった。これにより、幕府は単なる「お飾り」と化し、社会秩序が崩壊していった。

室町幕府は日明貿易で財政再建を試みたが、貿易資金を調達できず、最終的には貿易権を売り払う状況に陥った。また、幕府は直轄領の減少により財政基盤を弱め、酒屋土倉役という税収に依存したが、徳政令の発行により収入源をさらに失った。

このような状況下で、幕府の土地仲裁機能も低下し、土地争いが頻発するようになった。幕府が権威を失ったことで、土地の所有権が曖昧になり、力のある者が土地を支配する時代が始まった。これが戦国時代の始まりであり、幕府の衰退がその大きな要因であった。

第 2章  
桶狭間の戦いは〝経済覇権争い〟だった!

戦国大名の起源は鎌倉時代の「守護」「地頭」に遡り、これらの役職は当初、武家の争いを調停・監督する立場にあった。しかし、室町時代になると、守護は税の徴税権を持つようになり、次第に領主としての地位を確立していった。戦国時代には、この守護大名が「戦国大名」に変化し、実質的な支配権を持つ者が地方の支配者となっていった。

戦国大名の財政は厳しく、たとえば越後の長尾家では赤字が膨らんでいた。多くの戦国大名は商人や富農から借金をしており、武力による強制徴収は長期的には財政を悪化させるリスクがあった。そのため、戦国大名たちは税制を整備し、領国経済を活性化させることで財政を改善しようとした。

その中でも北条早雲は、複雑な税制を整理し、減税を行うなどして領国を安定させ、後北条家を大大名に育て上げた。また、戦国時代の「下克上」は限定的で、豊臣秀吉を除いて、ほとんどの有力大名はある程度の家柄を持つ者であった。織田信長も、父の遺産や経済力を背景にして台頭してきた。尾張の織田家は、物流の要地である津島を支配することで経済力を強化し、信長の躍進を支えたのである。

知多半島は常滑焼の生産地であり、中世から日本有数の工業地帯であった。また、塩の生産地としても知られ、尾張の経済的な中心地であった。この地域を支配することは、経済的に非常に価値があった。織田信秀はこの地域を支配し、強力な財力を築いた。

桶狭間の戦いも、知多半島の支配を巡る織田信長と今川義元の争いが背景にあった。今川義元は知多半島を狙い、信長と対立したが、信長はその経済力を背景に迅速な軍事行動で今川軍を破った。

信長の勝因には、強力な常備軍と高い機動力があり、これを可能にしたのは信長の優れた経済力であった。また、戦後のイメージ戦略として、織田軍が少人数で大勢の今川軍を打ち破ったと誇張されたが、実際にはその戦力差はそこまで大きくなかったと考えられる。

第 3章  
織田信長の〝錬金術〟を徹底調査

織田信長は、残虐で気性が激しい人物として知られていたが、実際には領民に対して驚くほど善政を敷いていた。信長は、領内統治をうまく行い、領民に対して厳しい税を課さず、中間搾取を減らすことで、農民の負担を大幅に軽減していた。また、訴訟の解決や道路整備、兵糧の備蓄なども指示し、領民の生活を安定させていた。

さらに、信長は「防御御札」を導入し、戦争による村や町の被害を防ぐための措置を取った。これにより、信長の軍勢は規律を守り、戦争中でも領民に対する被害を最小限に抑えることができた。

信長の経済政策として有名なのは「楽市楽座」であり、これは市場を自由化し、商業の発展を促進するものであった。また、信長は関所を廃止し、物流の発展に大きく寄与した。この政策により、人々の生活は豊かになり、民衆からの支持を得た。

信長は、既得権益を廃して民衆に利する政策を行った政治家であり、彼の統治は多くの人々に感謝されていた。

織田信長は、物流拠点で育った経験から、流通の重要性を認識し、大規模な道路整備を行った。これにより、他国との交易が格段に容易になり、人々の生活が向上した。信長は、入江や川に船橋を設置し、悪路を改善し、道路の幅を標準化するなど、詳細な指示を出して道路整備を進めた。また、琵琶湖の摺針峠の開削や、四条橋、天竜川への橋の建設など、大規模なインフラ工事も実施した。これにより、物流が発展し、領民の生活が大いに改善された。

第 4章  
税金オンチ・武田信玄は〝破綻寸前〟

武田信玄は、信長との経済力の差に苦しんだ。信玄の本拠地である甲斐武田領は、農地が貧弱で水害も多く、信玄は領内の土木事業に多くの時間と資源を費やさざるを得なかった。信玄は農地整備や河川工事を行い、領内経済の改善を図ったが、その一方で、戦費を賄うために重税を課し、領民に厳しい負担を強いた。信玄は「棟別銭」などの税を強化し、さらには領民全体に対して罰金的な税を課すなど、苛酷な課税政策を実施したが、それでも信長との経済格差を埋めることはできなかった。結果的に、信玄の経済力の不足が彼の戦略的な限界を生み、信長との競争において大きな劣勢を強いられたのである。

武田信玄は重い税制を敷き、厳しい取り立てを行っていた。逃亡した者はどこまでも追跡され、税が納められない場合、村全体でその不足分を負担させられた。信玄の増税政策は農民に過酷な負担を強い、農民の逃亡を増加させた。また、信玄は寺社に多額の寄進を行い、信仰に依存する姿勢を見せていたが、経済政策では銭不足や関所の増設など、領内の経済発展を阻害する要因を作り出していた。信玄の領土拡張も、実際には織田信長の戦功に依存していた部分が多く、独自の軍事力によるものとは言い難かった。結果として、信玄の経済政策は領民に重い負担を強い、その統治は信長に比べて経済的に劣勢であった。

第 5章  
軍需物資の〝調達スキル〟が武将の生死を分ける

戦国時代において、軍需物資の調達が戦争の勝敗を左右した。特に鉄砲は戦国時代の戦術において重要な役割を果たし、織田信長はその大量調達に成功して敵を圧倒した。武田信玄も早期に鉄砲を導入していたが、充分な鉄砲と弾薬を確保できなかったため、信長に対抗できなかった。堺は当時、日本における最大の鉄砲製造地であり、世界水準の製鉄技術を持っていたが、堺は自治都市であり大名の支配を受けにくい場所であった。信長は堺の商人たちを巧みに制圧し、堺を無傷で支配下に置いた。これにより信長は強力な軍需物資の供給源を手に入れ、戦国時代の覇者としての地位を確立した。

織田信長は、堺を支配下に置いた後、堺の豪商であり茶道の宗匠である今井宗久を重用した。今井宗久は信長の軍需物資調達の要として、堺の代官に任命され、堺を中心に鉄砲や火薬の調達を担当した。これにより信長は、堺を拠点に東日本の大名に対して経済封鎖を行う力を得た。

一方、武田信玄は信長の経済封鎖に苦しめられ、軍需物資の確保に難儀していた。信玄は領地が山に囲まれた「陸の孤島」のような状況にあり、物流が非常に制限されていた。特に火薬の原料である硝石の入手が困難であったため、武田軍は十分な装備を整えることができなかった。この装備の不足は、信玄が長篠の戦いで敗れた一因と考えられる。

信玄が西上作戦を決行した際、経済的な困難から軍の進行が遅れ、攻城戦で苦戦を強いられた。そのため、信玄が病死したとしても、信長に対して軍事的に優位に立つことは難しかったとされる。信玄の経済的な困窮と焦りが、彼の死期を早めたと考えられる。

第 6章  
〝血と欲望〟にまみれた南蛮貿易の収支決算

戦国時代の日本において、南蛮貿易が経済の趨勢を大きく握っていた。ポルトガルやスペインからの南蛮船は、貿易だけでなくキリスト教の布教も目的としており、宣教師と共に日本各地で交易を行った。特に鉄砲や火薬の原料となる硝石など、軍需物資の多くは日本国内では生産できず、南蛮貿易を通じて入手することが不可欠であった。

戦国大名たちは、この貿易の重要性を理解し、キリスト教の布教を許可することで南蛮船を誘致した。大内義隆や大友宗麟などの大名たちは、早期にキリスト教を受け入れ、南蛮貿易を通じて大砲などの軍事力を強化することに成功した。

大友宗麟は、ポルトガルとの貿易を通じて軍需物資を独占し、敵対する大名に対して優位に立つことを目指した。彼はキリスト教に関心を深め、晩年には自ら洗礼を受けて布教活動に積極的に取り組んだ。

総じて、南蛮貿易は日本の戦国時代における経済と軍事力の重要な要素であり、キリスト教布教と貿易が密接に結びついていたことが大名たちの政策に大きな影響を与えたと言える。

織田信長は南蛮貿易を直接行っていなかったが、堺の商人たちを支配下に置くことで、南蛮貿易の利益を間接的に享受していた。信長は堺の豪商たちから多くの南蛮貿易品を贈られ、これを活用していた。また、信長の後継者である柴田勝家や豊臣秀吉も南蛮貿易を活用し、その利点を享受していた。

平戸や天草地方には、戦国大名たちの経済戦略と南蛮貿易の影響で、隠れキリシタンが多く存在していた。平戸の領主、松浦隆信は貿易の利を得るために、明の海賊である王直やポルトガル商人を迎え入れ、キリスト教の布教を許可した。これにより、キリスト教徒が増加し、後に江戸時代に隠れキリシタンとなった。

隠れキリシタンは村全体で信仰を守り続け、独自の文化を形成した。平戸の根獅子はその象徴的な地域であり、江戸時代から平成まで信仰を守り抜いた。隠れキリシタンの信仰は「隠すこと」が重要な要素であり、現在でもその詳細は明らかにされることが少ない。

第 7章  
比叡山フィナンシャル・グループ「年利は 48 ~ 72%です」

戦国時代には、武家だけでなく強大な寺社勢力も存在していた。寺社は莫大な財力を持ち、治外法権のような特権を享受しながら広大な領地を所有していた。比叡山延暦寺を筆頭に、寺社は荘園や金融業を通じて日本経済の中枢を掌握していた。

寺社は「土倉」と呼ばれる質屋業を展開し、高利貸しを行っていた。比叡山延暦寺は、日本最大の金貸業者として悪名高く、年利48~72%という高利息で貸し付け、取り立ても非常に強硬だった。このため、多くの人々が借金のために土地を失い、寺社に対する不満が高まっていた。

さらに、寺社は商業にも強い影響力を持っていた。当時の市(いち)の多くは寺社の境内で開かれ、寺社は商品の流通を支配し、独占販売権を取得することもあった。これに対抗するため、織田信長は楽市楽座を設け、寺社勢力の支配から商業を解放しようと試みたのである。

戦国時代において、寺社勢力は非常に強大な財力を持ち、政権に対しても強い影響力を持っていた。寺社には貴族や武家の次男や三男が多く在籍し、彼らが家からの支援を受けていたため、寺社の財力はますます増大していった。このため、政権も寺社に対して厳しい態度を取ることが難しくなっていた。

寺社の中でも特に比叡山延暦寺は、その財力と横暴な態度が目立ち、たびたび政権に対して強訴を行っていた。これに対して足利義教は、比叡山のふもとの坂本の町を焼き払うなどの対抗措置を取ったが、寺社の勢力を完全に抑えることはできなかった。

信長が比叡山を焼き討ちしたのは、寺社の横暴な態度に対する対処として、足利義教に続くものであったが、寺社勢力の影響力が減少するまでには至らなかった。

第 8章  
〝集金レジャーランド〟としての安土城

織田信長が安土に城を築いた理由は、安土が当時、日本で最も進んだ商工業地域であり、交通の要衝でもあったからである。近江の豊穣な土地と、百済からの技術流入により、安土周辺は商業、文化の中心地となっていた。信長はこの地域に安土城を築き、極彩色で装飾された天守閣や石垣を備えた画期的な城を作り上げた。安土城下町は信長の都市政策により急速に発展し、その後の城下町づくりのモデルとなった。

織田信長は、安土城を単なる城ではなく、レジャー施設としても機能させた。彼は城内で祭りやライトアップを行い、多くの人々が参加できる催しを開催した。また、安土城を一般公開し、庶民にも見学を許可した。この公開には入場料を徴収する工夫も施されていた。さらに信長は、安土城内に自身を神として祀る神社を建設し、伊勢神宮のような宗教施設として利用しようとした。これは信長が宗教の集金力や集客力を利用し、さらなる経済的利益を得ようとした試みであった。

第 9章  
上杉、毛利、島津……諸大名たちの経済戦略

上杉謙信と毛利元就は、経済的に豊かであったにもかかわらず、信長に遅れを取った。上杉謙信は越後の港や金山から莫大な収入を得ていたが、彼は室町幕府の秩序に固執し、天下を取る野心がなかったため、全国的な勢力拡大を目指さなかった。一方、毛利元就は石見銀山を手中に収めるなど経済的には恵まれていたが、彼の急速な領土拡大に対して内政や軍備の充実が追いつかなかった。また、元就は石見銀山を幕府や朝廷に献上することで、大名間の対立を避けようとしたが、これが逆に信長のような強力な経済力を持つことを阻んだ。結果として、両者とも信長の戦略に及ばず、彼に敗れることとなった。

毛利元就は、瀬戸内海や村上水軍を十分に活用できず、信長に対抗しきれなかった。瀬戸内海を支配することで信長の物流を制限することが可能だったが、村上水軍との関係が「協力関係」に留まり、完全に従属させることができなかったため、元就はその利権を最大限に利用できなかった。木津川口の戦いでは、最初は村上水軍が優位に立ったものの、信長が経済力を駆使して鉄甲船を開発し、織田水軍が勝利を収めた。この戦いにより、毛利軍は決定的な敗北を喫し、その後の海戦も避けるようになった。さらに、信長は村上水軍を調略し、毛利の戦力を弱体化させた。

一方、島津家は琉球貿易によって経済力を増強し、鉄砲や西洋技術をいち早く取り入れることで軍事力を高めたが、信長や秀吉に遅れを取った理由は「スタートの遅さ」にあった。島津家は内部の争乱に時間を費やし、勢力を拡大する時期が遅れたため、信長が天下統一を進める中で追いつくことができなかった。

長宗我部元親も経済力と軍事力を背景に四国平定を目指したが、信長の天下統一計画に遅れ、信長との交渉で不利な条件を突きつけられた。元親は信長の命令を拒否したが、信長の四国征伐計画によって挫折し、結局は秀吉に降伏することで、土佐一国のみに留まった。

第 10章  
「本能寺の変」と「土地改革」の謎

織田信長は、本能寺の変において、天下統一を目前にして斃れたが、その背景には信長が進めていた大規模な改革があった。この改革は武家社会そのものを消滅させる可能性があり、特に「土地制度の改革」に焦点が当てられていた。信長は、家臣に与えた所領を「所有権」ではなく「管理権」として扱い、実質的には全領土を自分の直轄領とみなしていた。これは、武家と土地が不可分であるという封建的な価値観を根底から覆すものであり、家臣たちを単なる土地の管理者とすることで、彼らを頻繁に国替えさせ、土地への執着をなくそうとした。

さらに、信長は所領の治政についても細かく指示を出し、家臣たちが独自に土地を支配することを許さなかった。こうした信長の改革は、当時の武家社会の常識を完全に否定するものであり、信長の下では武家は土地の所有者ではなく、単なる管理者とされるべき存在となっていた。

信長の改革は武家社会全体に大きな影響を及ぼし、反発を招いた。本能寺の変は、このような信長の改革に対する強烈な抵抗として起こるべくして起こった事件であったと言える。

本能寺の変の4年前、荒木村重の謀反が発生し、これが本能寺の変の前兆とみなされている。荒木村重はもともと摂津池田家の家臣であり、信長により大抜擢され、摂津一国を任されるまでに至ったが、突如として信長に反旗を翻した。この出来事は、明智光秀の謀反と多くの共通点があり、信長の新しい土地制度に馴染めなかったことが原因と考えられる。

織田家では、家臣に所領を「与える」のではなく「管理させる」というシステムが導入されており、信長は国替えを頻繁に命じていた。生え抜きの家臣たちはこのシステムを理解していたが、「中途入社」の者たちは違和感を覚えていた。特に光秀は、自身の治めていた丹波や近江を「自分の領地」として捉えており、信長の国替え命令に耐えられなかった。信長は光秀を特別扱いしていたが、最終的に国替えを命じたことが、本能寺の変の引き金となったとされる。

第 11章  
秀吉は無謀な朝鮮出兵で何を得ようとしたのか?

明智光秀は本能寺の変を起こし、信長を討ったが、その後わずか数日で敗れたため「三日天下」と呼ばれた。彼の行動は無謀とされがちであるが、実際には計算があった。しかし、その計算が誤ったのは、織田軍に優れた指揮官である豊臣秀吉と柴田勝家が存在したためである。彼らは信長の死後も動揺せずに軍をまとめ、光秀をすぐに討伐した。光秀は信長が倒れれば織田軍は崩壊すると考えていたが、これが大きな誤算であった。

一方、秀吉は信長の後を継ぎ、彼の計画を引き継いで実行した。秀吉の代表的な経済政策である大坂城の築城や太閤検地は、信長がすでに考案していたものであった。秀吉は信長の計画を忠実に実行し、丁寧に仕上げたが、それが彼の欠陥となり、独創性に欠ける面もあった。信長の計画を忠実に再現することで、秀吉は一時的に成功を収めたが、最終的にはその限界が露呈したのである。

豊臣秀吉は、織田信長の政策を継承しながらも、信長とは異なる状況に直面していた。秀吉は低い身分から天下人に成り上がったため、家臣たちとの関係に苦労し、信長と同じ手法を用いることが難しかった。その結果、彼は小牧長久手の戦いで徳川家康に敗北し、以後、家康との直接対決を避けるようになった。

秀吉は直轄領を持つことで家臣とのバランスを保ちつつ、信長の土地政策をある程度踏襲していた。しかし、彼はキリシタン禁制を実施し、南蛮貿易による武器の輸入や人身売買に対する懸念から、信長とは異なる対応を取った。また、朝鮮出兵という大きな過ちを犯し、国力を浪費した結果、内部での対立が深まった。特に、石田三成と加藤清正らの対立が関ヶ原の戦いに繋がり、豊臣家の滅亡を招いたのである。

第 12章  
家康の〝経済効率のいい〟天下取り

徳川家康は、戦国時代を制した最終的な勝者であるが、その戦略は信長や秀吉とは大きく異なっていた。信長や秀吉が積極的に天下を取ろうとしたのに対し、家康は非常に受動的な戦略を採り、無理をせずに機を窺い、敵が弱まったときにのみ動いた。家康は大きな戦闘を避け、敵が崩れるのを待ってから領土を広げるという、いわば「火事場泥棒」的な手法を多用したのである。

家康が最初に大きな成功を収めたのは桶狭間の戦いで、今川義元が討たれた後に独立し、信長と同盟を結ぶことで三河を平定した。次に、本能寺の変で信長が倒れた際、織田家の混乱に乗じて甲斐と信濃を併合した。このように、家康は主君の不幸を利用して飛躍を遂げた。

さらに小田原征伐では、家康は秀吉の命令で北条氏を討ち、結果として大幅に領土を拡大した。秀吉は家康に北条氏の旧領を与える代わりに、遠江からの転封を命じたが、家康はこれによって更に力をつけた。家康の戦略は、無理をせずに機を待ち、相手が弱ったときに最小のコストで最大の利益を得る「火事場泥棒主義」であった。

秀吉は、関東移封後の家康に広大な領地を与えるという判断を行ったが、これは結果的に失敗であった。秀吉は経済力で家康を圧倒できると自信を持っていたが、領地が持つ「人」という資源による軍事動員力を過小評価していたのである。郷村からの兵士動員は、当時の貨幣経済の未発達さを背景に、金だけでは確保が難しかった。家康の領地の広さは、秀吉政権にとって大きな不安要素となり、関ヶ原の戦いでの家康の勝利は、家康の「火事場泥棒的」戦略によって、経済効率の良いものとなった。家康は自ら積極的に動かず、他者の内紛を利用して最終的な勝者となったのである。

家康は、直轄領を広げることで、経済的にも軍事的にも圧倒的な優位を確立した。その結果、徳川幕府は江戸時代を通じて強固な財政基盤を持ち、250年以上続くこととなった。家康は信長と秀吉の失敗から学び、中央政府による土地の一括管理を避け、自身の直轄領を可能な限り広く保つ戦略を採った。また、オランダとの貿易を許可し、プロテスタント国との関係を利用することで、キリスト教の影響を制御した。

最後に、家康が蓄えたとされる「徳川埋蔵金」は、家康が後世のために残した財産であったが、江戸時代の終わりにはほとんど失われていた。この「埋蔵金」の伝説は、家康の財力とその後の散財に起因するものであり、実際には残っていなかった可能性が高いと考えられている。

参考文献

『信長公記』太田牛一原著、榊山潤訳、ニュートンプレス/
『日本史』ルイス・フロイス著・柳谷武夫訳、平凡社(東洋文庫)/
『イエズス会日本年報』村上直次郎訳・柳谷武夫編、雄松堂出版/
『甲陽軍鑑』佐藤正英訳、ちくま学芸文庫/
『徳川氏の研究  戦国大名論集 12』吉川弘文館/
『長宗我部氏の研究  戦国大名論集 15』吉川弘文館/
『島津氏の研究  戦国大名論集 16』吉川弘文館/
『織田政権の研究  戦国大名論集 17』吉川弘文館/
『戦国の地域国家』有光友學編、吉川弘文館/
『天下統一から鎖国へ』堀新、吉川弘文館/
『戦国大名と一揆』池享、吉川弘文館/
『戦国大名の兵粮事情』久保健一郎、吉川弘文館/
『流通経済史』桜井英治・中西聡編、山川出版社/
『知多半島郷土史往来  第 4号』西まさるほか著、はんだ郷土史研究会/
『近江から日本史を読み直す』今谷明、講談社現代新書/
『湖の国の中世史』高橋昌明、平凡社/
『織田信長合戦全録』谷口克広、中公新書/
『戦国大名』黒田基樹、平凡社新書/
『日本生活文化史 4』河出書房新社/
『日本生活文化史 5』河出書房新社/
『日本史小百科「貨幣」』瀧澤武雄・西脇康編、東京堂出版/
『日本史小百科「租税」』佐藤和彦編、東京堂出版/
『畿内・近国の戦国合戦』福島克彦、吉川弘文館/
『織田家の人々』小和田哲男、河出書房新社/
『信長とは何か』小島道裕、講談社/
『織田信長』西ヶ谷恭弘、ナツメ社/
『近世城郭の研究』加藤隆、近世日本城郭研究所/
『天下統一と城』千田嘉博・小島道裕編、塙書房/
『安土・信長の城と城下町』滋賀県教育委員会編著、サンライズ出版/
『安土城再見』兵頭与一郎、西田書店/
『戦国城下町の研究』小和田哲男、清文堂/
『織田信長』脇田修、中公新書/
『桶狭間の真実』太田満明、 KKベストセラーズ/
『信長・徹底分析 17章』小和田哲男、 KTC中央出版/
『今川義元』小和田哲男、ミネルヴァ書房/
『三河物語葉隠  日本思想体系 26』岩波書店/
『月刊  文化財  平成元年9月号「清須城とその城下町」』梅本博志、第一法規/
『信長の城』千田嘉博、岩波新書/
『楽市論』安野眞幸、法政大学出版局/
『織豊期検地と石高の研究』木越隆三、桂書房/
『戦国・織豊期の都市と地域』小島道裕、青史出版/
『信長の城下町』仁木宏、松尾信裕編、高志書院(「安土山と安土山下町」木戸雅寿)/
『中世人の生活世界』勝俣鎭夫編、山川出版社/
『戦国期の政治経済構造』永原慶二、岩波書店/
『中世日本商業史の研究』豊田武、岩波書店/
『戦国織豊期の貨幣と石高制』本多博之、吉川弘文館/
『日本中世貨幣史論』高木久史、校倉書房/
『貨幣と鉱山』小葉田淳、思文閣出版/
『中近世日本貨幣流通史』浦長瀬隆、勁草書房/
『天王寺屋会記』津田宗及ほか、淡交社/
『宋銭の世界』伊原弘編、勉誠出版/
『国民生活史研究 2』伊東多三郎編、吉川弘文館/
『中世後期の寺社と経済』鍛代敏雄、思文閣出版/
『寺社勢力の中世』伊藤正敏、ちくま新書/
『中世の寺社勢力と境内都市』伊藤正敏、吉川弘文館/
『講座日本荘園史 4』池上裕子、吉川弘文館/
『戦国時代の荘園制と村落』稲葉継陽、校倉書房/
『信長が見た戦国京都』河内将芳、洋泉社/
『寺社勢力』黒田俊雄、岩波新書/
『織田信長石山本願寺合戦全史』武田鏡村、ベスト新書/
『戦国の村の日々』水藤真、東京堂出版/
『信長の天下所司代』谷口克広、中公新書/
『堺鉄砲』堺市博物館/『鉄砲伝来の日本史』宇田川武久編、吉川弘文館/
『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』桐野作人、新人物往来社/
『日本中世の流通と対外関係』佐々木銀弥、吉川弘文館/
『南蛮船貿易史』外山卯三郎、大空社/
『堺と博多』泉澄一、創元社/
『沈没船が教える世界史』ランドール・ササキ、メディアファクトリー新書/
『金銀貿易史の研究』小葉田淳、法政大学出版局/
『越境する貨幣』歴史学研究会編、青木書店/
『海外貿易から読む戦国時代』武光誠、 PHP新書/
『信長と十字架』立花京子、集英社新書/
『天下一統  日本の歴史 12』中央公論社/
『百姓から見た戦国大名』黒田基樹、ちくま新書/
『戦国・織豊期の徳政』下村信博、吉川弘文館/
『東国の戦国争乱と織豊権力』池享、吉川弘文館/
『風林火山の帝王学  武田信玄』新田次郎、堺屋太一ほか著、プレジデント社/
『武田信玄合戦録』柴辻俊六、角川選書/
『上杉謙信』花ヶ前盛明、新人物往来社/
『長宗我部元親』山本大、吉川弘文館/
『戦国大名の日常生活』笹本正治、講談社/
『雑兵たちの戦場』藤木久志、朝日新聞社/
『毛利氏の研究』藤木久志編、吉川弘文館/
『毛利元就のすべて』河合正治、新人物往来社/
『村上水軍全史』森本繁、新人物往来社/
『上杉謙信のすべて』渡辺慶一、新人物往来社/
『上杉景勝のすべて』花ヶ前盛明編、新人物往来社

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こも

いつクビになるかビクビクと怯えている会社員(営業)。 自身が無能だと自覚しおり、最近の不安定な情勢でウツ状態になりました。

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