どんな本?
『現代思想入門』は、千葉雅也著の書籍で、2022年3月16日に講談社から出版された。
この本は、「新書大賞2023」の大賞を受賞している。
本書は、現代思想の真髄をかつてない方法で書き尽くした、究極の「入門書」。
デリダ、ドゥルーズ、フーコー、ラカン、メイヤスーなど、最高峰の哲学者たちの「考えていること」が面白いほどよくわかる内容になっている。
また、「物事を二項対立で捉えない」「すべての仕事を“ついで”にやる」など、哲学とライフハックがダイレクトにつながる視点も提供している。
きちんとしすぎる窮屈な管理社会からの逸脱を肯定する言葉に励まされるこだろう。
この本は、自分自身が「こうでなければならない」という枠から外れていくエネルギーを感じ、それゆえにこの世界において孤独を感じている人たちに、それを芸術的に展開してみようと励ますために書かれたとされている。
現代思想について学びたい方にとって、非常に有用な一冊と言える。
読んだ本のタイトル
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あらすじ・内容
《「新書大賞2023」大賞受賞!!》
現代思想入門
人生を変える哲学が、ここにある――。
現代思想の真髄をかつてない仕方で書き尽くした、究極の「入門書」
■デリダ、ドゥルーズ、フーコー、ラカン、メイヤスー……
最高峰の哲学者たちの「考えていること」が面白いほどよくわかる!
■「物事を二項対立で捉えない」「すべての仕事を“ついで”にやる」……
哲学とライフハックがダイレクトにつながる!
■きちんとしすぎる窮屈な管理社会……
秩序からの逸脱を肯定する言葉に励まされる!
「本書は、「こうでなければならない」という枠から外れていくエネルギーを自分に感じ、それゆえこの世界において孤独を感じている人たちに、それを芸術的に展開してみよう、と励ますために書かれたのでしょう。」 ――「おわりに 秩序と逸脱」より
はじめに
本書は、1960年代から1990年代にかけてフランスで展開されたポスト構造主義の哲学を紹介している。
ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーの三人の思想家によって代表される現代思想を学ぶことで、現実を単純化せず、複雑性を理解する力を高めると著者は主張する。
秩序化と規制の進行に対して警鐘を鳴らし、人々が自由に生きる困難を語っている。
第一章 デリダ──概念の脱構築
デリダは、二項対立の概念を脱構築することを提唱した。
彼は、一般に対立する概念の関係を再評価し、その複雑な相互依存性を明らかにすることで新たな視点を提供する。
デリダの思考法は、通常の論理的進行とは異なり、読者に新鮮で挑戦的な読み方を求める。
主要な著作には『声と現象』や『グラマトロジーについて』がある。
第二章 ドゥルーズ──存在の脱構築
ジル・ドゥルーズは、固定的な秩序からの解放を促し、新たな関係性を広げる哲学を提唱した。
彼の「リゾーム」概念は、物事が多方向に関連し合う存在観を示し、世界を動的で相互接続されたものとして理解するための枠組みを提供する。
ドゥルーズとガタリは、精神分析を批判し、個人の自己理解が多様な関係性の中で自由に形成されるべきだと主張する。
第三章 フーコー──社会の脱構築
ミシェル・フーコーは、社会の脱構築をテーマに、特に権力の本質と機能について深い洞察を行った。
彼は権力が上からだけでなく、下からも支えられているという複雑な循環構造を示し、権力のシステム自体から逃れる「逃走線」を引くことの重要性を強調している。
フーコーの考え方は、権力の多方向の関係性を理解し、単なる抵抗ではなく、システムからの逃走を目指す。
第四章 現代思想の源流──ニーチェ、フロイト、マルクス
本章では、ニーチェ、フロイト、マルクスの三人の思想家が取り上げられている。
ニーチェは秩序と非理性のパワーバランスを重視し、フロイトは無意識の概念を導入して人間の行動の深層を探求した。
マルクスは経済の問題を社会の構成の中心として捉え、資本と労働の対立による社会構造を分析した。
これらの思想は、現代思想の基礎を形成し、後の文化や政治運動に大きな影響を与えた。
第五章 精神分析と現代思想──ラカン、ルジャンドル
本章では、精神分析と現代思想の関連について述べている。
特にジャック・ラカンの理論が現代思想において重要な役割を果たしているが、その内容は複雑であるため、複数の解説書を参照することが推奨されている。
ラカンは、去勢や欲望の対象(対象a)を通じて人間の精神の成り立ちを説明し、精神分析が人間の無意識の力を探求することで現代思想のクリエイティビティの源泉となっている。
第六章 現代思想のつくり方
本章では、現代フランス思想、特にポスト構造主義とその後継である「ポスト・ポスト構造主義」について述べている。
カトリーヌ・マラブーやカンタン・メイヤスーなどの新世代思想家が紹介されており、現代思想を生成するための原理が提案されている。
これにより、新たな問題提起が可能になるかもしれないとされている。
第七章 ポスト・ポスト構造主義
本文は、21世紀におけるフランス現代思想の展開に焦点を当てている。
デリダやドゥルーズの死後、新世代の思想家たちの台頭が紹介されている。
特にメイヤスーの『有限性の後で』が注目されている。また、バディウやランシエール、ハーマンのオブジェクト指向存在論など、新たな動きとして「思弁的実在論」が挙げられている。
おわりに 秩序と逸脱
本書の執筆に際し、著者は過去の経験や現代思想への興味が動機となったことを説明している。
本書は、著者の青春の総括として位置づけられており、他の人々にとっても役立つことを願っている。
著者は、現代思想が秩序と逸脱のバランスを考える上で重要であると強調し、読者がそれを理解し、応用する手助けとなることを期待している。
感想
本書は、フランス現代思想の入門書として非常に有用な一冊である。
本書は、デリダ、ドゥルーズ、フーコーといった思想家たちの理論を通じて、現代社会における複雑な問題を解き明かす手助けをしてくれる。
特に、デリダの「脱構築」、ドゥルーズの「リゾーム」、フーコーの「権力と規律」の解説は、理解しやすく、具体的な例を交えて説明されているため、初学者にも優しい内容であった。
本書を読んで感じたのは、現代思想が持つ「脱構築」の力強さである。
デリダの二項対立の解体や、ドゥルーズのリゾーム概念を通じて、私たちは既存の枠組みを超えて新たな視点を得ることができた。
特にデリダの脱構築は、日常の中で見落としがちな細部に光を当て、常識を覆す力を持っていた。
これは、現代社会における固定観念や偏見を見直すための重要なツールとなるだろう。
また、ドゥルーズの存在の脱構築は、固定された自己同一性を超え、多様な関係性の中で自由に自己を形成することの重要性を教えてくれる。
フーコーの社会の脱構築も、権力がどのように人々の生活に影響を与えるかを深く洞察し、自分たちが無意識に従っている規律の背後にある力関係を明らかにした。
本書は、現代思想の複雑さを解きほぐし、読んだ者がそれを理解し、自分自身の生活や考え方に応用するための具体的な方法を提供してくれた。
秩序と逸脱のバランスを考えることは、現代社会において非常に重要である。
本書を通じて、私は現代思想が持つ力とその応用可能性を再認識し、日常生活や社会問題に対する新たな視点を得ることができた。
『現代思想入門』は、哲学に興味を持つ者にとって必読の書だと思う。
デリダ、ドゥルーズ、フーコーの思想を学ぶことで、私たちは現代社会の複雑さを理解し、それを超えるための新たな視点を得ることができるだろう。
本書は、哲学的な思考を深めるための絶好の入門書であり、現代思想の奥深さに触れるための扉を開く一冊だと思われる。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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その他ノンフィクション
備忘録
はじめに 今なぜ現代思想か
本書は、1960年代から1990年代にかけてフランスで展開されたポスト構造主義の哲学を紹介している。
この思想は、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーの三人の思想家によって代表される。
現代思想を学ぶことは、現実を単純化せず、複雑性を理解する力を高めると著者は主張する。
また、秩序化と規制の進行に警鐘を鳴らし、人々が自由に生きる困難を語っている。
現代社会の秩序化、クリーン化が進む中で、ルールに収まりきらない状況や複雑なケースが無視されがちであると指摘されている。
著者は、法的にセーフかアウトかという二元的な考え方に疑問を投げかけ、秩序から逸脱することがクリエイティブな力を生み出すと述べている。
それにより、人々が多様な生活を守るために現代思想が重要であると強調している。
著者自身が1978年生まれであり、20世紀の思想に影響を受けていること、デジタル・ネイティブの世代にとって逸脱をポジティブに捉えることが違和感を持たれるかもしれないとも述べている。
また、秩序を作る思想と秩序から逃れる思想のバランスが重要であると論じている。
本書は、1960年代から1990年代にフランスを中心に展開された「ポスト構造主義」についての入門書である。
デリダ、ドゥルーズ、フーコーの三者の理論が中心となるが、これらの理論はインターネット以前のものであり、現代の文脈では古いものとなっている。
この本を通じて、読者は現代思想の基礎を理解し、更に発展した入門書へと進むことができるようになる。
本書ではポスト構造主義とポストモダン思想に関しても言及されている。
ポストモダンは「近代の後」とされ、価値観の多様化や共通の理想の喪失を指摘する。
さらに、ポスト構造主義者たちは構造主義の静的な世界観に対して、パターンの変化や逸脱を重視する姿勢を取る。
また、デリダの「脱構築」の理論に基づき、二項対立を解体することで、新しい見方や理解の形成を試みる。
専門的な入門書としての位置付けを持つこの本は、デリダの考え方や、それに関連する哲学的な概念への理解を促進するためのものである。
このような入門書を読むことにより、読者は現代思想の複雑さを解きほぐし、より深い学問的なテキストへと進む準備ができるようになる。
グレーゾーンにこそ人生のリアリティがあるというテーマで、秩序からの逸脱が単なる暴走を褒め称えるものではなく、自分の秩序に従わない他者を受け入れることの重要性を示している。
トラブルがつきものであるが、他者との関わりによって乱されたり、受動的な立場に置かれることが人生の魅力とされる。
また、能動的であることだけが良いとされがちな現代社会において、受動性もまた重要な要素であることを指摘している。
能動性と受動性のどちらも人生のリアリティにおいてはプラスやマイナスを単純に決定できないとされる。
本章はこの議論から始まり、デリダの脱構築の理論を最初に理解することが求められる。
第一章 デリダ──概念の脱構築
デリダの「はじめに」では、二項対立のどちらをとるべきかという問題からは外れた具体性へと焦点を合わせ、現代思想としての「脱構築」を解説している。
デリダは二項対立を創出したわけではなく、それを脱構築する新たな思考法を提案した。
一般に二項対立とは、反対の関係にある概念のペアを意味し、デリダの考え方は、これらの二項対立を単なる対立としてではなく、より複雑な関係性として捉え直すことを指す。
デリダはアルジェリア出身のユダヤ系フランス人として異文化の中で哲学を展開し、その背景が彼の考え方に影響を与えている。
主要な著作には『声と現象』や『グラマトロジーについて』があり、彼の思考スタイルは非常に実験的で独特である。
デリダの著作は通常の論理的進行とは異なり、読者に新鮮で挑戦的な読み方を求める。
入門としては、デリダの思考に慣れるために高橋哲哉の解説書が推薦されている。
デリダは、二項対立の分析を通じて、通常見過ごされがちな側面に光を当て、それによって新たな理解を促す。
デリダは二項対立の概念を用いて、通常は本質的なものが非本質的なものよりも重要とされる考え方に挑戦している。
彼は非本質的なものの重要性を強調し、これが現代思想における画期的な貢献である。
デリダのこのアプローチにより、ジュディス・バトラーやポストコロニアリズムの議論などが可能となった。
彼の思考法は、本質的なものと直接的なものを同一視し、非本質的で間接的なものを価値あるものとして再評価する。
また、二項対立は日常的なあらゆる対立を「話し言葉」と「書かれたもの」という対立に置き換えて考えることができる。
このようにして、デリダは非本質的なもの、つまり他者に向き合い、その他者性に開かれることの倫理性を探求している。
第二章 ドゥルーズ──存在の脱構築
ジル・ドゥルーズは固定的な秩序からの解放を促し、新たな関係性を広げる哲学を提唱した。
1980年代の日本で、浅田彰の『構造と力』に影響を受け、ドゥルーズおよびドゥルーズ+ガタリは注目された。
彼らは資本主義内での新たな可能性を模索し、資本主義を内側から変える方法を探求した。
しかし、1990年代に入り、ドゥルーズの楽観的な視点は後退し、より複雑な対立や衝突に焦点を当てたデリダ的な思考が前面に出た。
インターネットの普及と共に、ドゥルーズの理論は再び関心を集め、「リゾーム」概念が現代の関係性に適用された。
ドゥルーズの主著には『差異と反復』や『意味の論理学』があり、彼の思考は独特の抽象性を持つ。
ドゥルーズの哲学は、存在が差異によって形成されるという視点を提供し、世界を動的で相互接続されたものとして理解するための枠組みを提示する。
ドゥルーズとガタリは、精神分析を批判し、家族だけに焦点を当てた個人の自己理解を問題視した。
彼らは、人間の行動や精神が幼少期の家族関係だけで決定されるという考え方を拒否し、多様な関係性の中で個人が自由に形成されるべきだと主張する。
そのために、固定された自己同一性に縛られず、様々な活動や実践を通じて自己を準安定化させることが重要であると彼らは説いている。
また、彼らの思想は、管理社会やコミュニケーションの商業化に対する批判を含み、人々が自由に多様な声を持ち、自己同一性を超えた関係性を形成することの重要性を強調している。
ドゥルーズのリゾームの思想は、クリエイティブな関係性を拡大する一方で非コミュニケーションの必要性も主張する。
これは矛盾しているように見えるが、実際にはこれらの命題が両立することはない。
関係性を広げたり抑制したりするバランスはケース・バイ・ケースで調整されるべきである。
このように、人間との関わり方は愛と支配の間の微妙なバランスを必要とし、すべての関係性は常に生成変化の途中にある。
そのため、具体的な状況に応じて柔軟に対応することが求められる。
第三章 フーコー──社会の脱構築
ミシェル・フーコーは、「社会の脱構築」をテーマに据え、特に権力の本質と機能について深い洞察を行った。
彼の権力論は、従来の権力者と被支配者という二項対立の図式を超え、権力が上からだけでなく、下からも支えられているという複雑な循環構造を示している。
フーコーによれば、権力は無数の力関係が絡み合うことで成立し、人々はしばしば無意識に自己従順化を行い、自らを支配者の意向に沿うよう形成してしまう。
これにより、権力は上下双方からの力の作用により成り立っており、単純な支配者対被支配者の図式に留まらないと説く。
フーコーの考え方は、単なる抵抗ではなく、権力のシステム自体から逃れる「逃走線」を引くことの重要性を強調している。
フーコーは、個人の行動を規制する「規律訓練」と、集団や人口全体に対する影響を考える「生政治」の概念を提唱しています。
生政治は、人々の物理的な健康や安全を確保しようとする政策を指し、例えばワクチン接種のように、個人の意志に関わらず実施されることが多いです。
これに対し、規律訓練は個人の内面に訴えかけるもので、自発的な行動変更を促すものです。
フーコーの理論においては、これらの統治技術がどのように個人と社会に影響を与えるかが重要です。
彼は、社会が個人の多様性を認め、規制を過剰に行わずに個々人が自由に行動できる状態を理想としています。
しかし、現代社会においては、即物的なコントロールが強化され、生政治の側面がより顕著になっていると指摘しています。
このように、フーコーは個人と社会の関係、特に権力の構造がどのように個人の自由や行動に影響を与えるかを深く探求しています。
そして、人々が個人としてどのように自由を実現できるか、またその自由が社会的な統治技術によってどのように形作られるかを問い続けています。
ここまでのまとめ
本書の初めの三章で、デリダ、ドゥルーズ、フーコーの思想が概説された。
デリダは「脱構築」の概念を用いて、一般的な二項対立の思考術を問い直し、対立する両側が依存し合う状態を目指す。
ドゥルーズは「存在の脱構築」を提唱し、物事が多方向に関連し合うリゾーム的な存在観を展開する。
そしてフーコーは「社会の脱構築」を進め、権力が一方的なものではなく、多方向の関係性で構成されていると考察する。
デリダは、脱構築を思考の技法として、ドゥルーズは存在の多次元的な相互関連性を指摘し、フーコーは権力が社会全体にどのように作用しているかを分析する。
これらの思想は、二項対立や固定観念を超えた新たな理解を可能にし、それぞれの分野で脱構築的な見方を提案している。
第四章 現代思想の源流──ニーチェ、フロイト、マルクス
本章では、ニーチェ、フロイト、マルクスの三人の思想家が取り上げられている。
これらの思想家は、秩序の外部や非理性的な要素を探求した。現代思想においては、権威的な秩序に対する批判と、外部への逃走や逸脱がクリエイティブな行為と見なされる傾向がある。
特に1968年の五月革命は、学生と労働者が従来の社会を批判する動きとして象徴される。
ニーチェは「悲劇の誕生」で、ギリシアのアポロン的な秩序とディオニュソス的なカオスとの間のダイナミクスを探求した。
彼は形式(アポロン)と、その中に含まれるエネルギー(ディオニュソス)の間の緊張関係を悲劇として表現した。
ニーチェはまた、秩序と非理性のパワーバランスを重視し、どちらか一方に偏ることなく、その間のグレーゾーンを重要視した。
一方、フロイトは無意識という概念を導入し、人間の行動の背後にある深いロジックを探求した。
無意識の考え方は、人間が自己の行動を完全にはコントロールできないという事実に光を当て、精神分析という新しい領域を開拓した。
無意識は、意識的には理解しがたい行動の動機となる深層の心理を表している。
これらの思想家は、従来の秩序や理性に対する異議を唱え、人間の深層心理や社会構造の見直しを促した。
彼らの考えは、後の文化や芸術、政治運動にも大きな影響を与えている。
精神分析の実践は、自由連想法を用いて自分の心の本当のダイナミズムを探究するプロセスである。
分析家のオフィスにあるカウチに横たわるクライアントは、目に見えるものなく、心に浮かぶことを自由に話し続ける。
この過程で、分析家はクライアントが話す内容に基づいて解釈を提供する。
この方法により、クライアントは自己の恐れやその他の感情が過去の出来事や人間関係、特に親子関係とどのように関連しているかを理解し始める。
精神分析は、記憶と感情の連鎖を解きほぐす長期にわたる過程であり、クライアントが自己の変化を自覚することを目指す。
このプロセスを通じて、個々の経験の重要性と、それが形成する個人の心理的構造の理解が深まる。
無意識の偶然性や、その中での自己の位置づけが明らかにされることが、この治療法の本質である。
精神分析は個別の心理を大切にし、一般化できない多様な人生経験に焦点を当てる。
マルクスは経済の問題を社会の構成の中心として捉えた人物である。
彼によれば、経済は資本と労働の対立によって動いており、この対立が下部構造と呼ばれる理由は、それが表面的な社会の状況に覆われて見えにくくなっているからである。
労働者は自分の労働力に対して賃金を受け取るが、それによって生産される剰余価値は資本家に搾取される。
これにより、搾取される側と搾取する側に分かれる社会構造が形成される。
マルクスは、偶然による立場の違いがこの搾取構造を生み出すと指摘し、労働者は自己の力を取り戻し、より自律的になるべきだと主張した。
彼の考えは、労働運動や抵抗運動の方向性に影響を与え、個々が自分自身に力を取り戻すことを目指すべきだとするマルクス主義の視点を提供している。
第五章 精神分析と現代思想──ラカン、ルジャンドル
本章では、精神分析と現代思想の関連について述べられている。
特にジャック・ラカンの理論が現代思想において重要な役割を果たしているが、その内容は複雑であるため、理解には入門書などの複数の解説を参照することが推奨されている。
デリダやドゥルーズ +ガタリなどは、精神分析批判を通じて自らの理論を展開しており、現代思想における精神分析の重要性を示唆している。
精神分析は、人間の行動や思考の背後にある無意識の力を探求することで、人間の過剰な性質や秩序からの逸脱性を明らかにし、これが現代思想におけるクリエイティビティの源泉とされている。
また、ラカンの理論では、人間の成長や主体化の過程が詳しく説明されており、子供の発達を通じて人間がどのように「人間らしく」なっていくかを示している。
本文は、去勢という概念について説明している。
去勢は、子供が母との一体感から分離される心理的プロセスを指し、精神分析ではこれを「エディプス・コンプレクス」として捉えている。
具体的には、父という第三者が介入することで、母子間の密接な関係が阻害され、子供は母との一体感から遠ざかることを余儀なくされる。
このプロセスは、子供が客観的な世界との関わりを学ぶ上で不可欠であるが、同時に根本的な喪失感をもたらす。
また、精神分析の観点から見ると、人間の欲望は根本的な欠如から生じるとされている。
これは、母の欠如を補うための無意識の努力として現れる。
ラカンはこの状態を「欠如の哲学」と呼び、人間は絶対的な安心を求めつつもそれが決して完全には達成されないと考える。
欲望の対象(対象 a)に対する追求は、最終的には常に不完全なものとして終わり、その過程で新たな欲望が生まれる循環が人生を形成する。
さらに、ラカンは人間の精神を「想像界」「象徴界」「現実界」の三つの領域に分けて考察している。
子供は生まれたときから想像界において無秩序に世界を体験し、言語の導入によって象徴界が形成され、世界が分節化されていく。
成長と共に、想像界のエネルギーは象徴界によって制約されるが、これによって社会的な生活が可能になる。
現実界は、言語やイメージで捉えられない領域として位置づけられ、これが人間の発達において根本的な課題となる。
秩序の形成としての儀礼の役割と、それが人間に与える影響について説明している。
人間は本能的な動物ではないため、秩序ある行動をとるためには外部からの構築、すなわち「第二の自然」の形成が必要である。
学校での制服着用や整列、合唱などの行動は、共通の行動を通じて秩序が教育される例である。
これらの行動は一見意味不明なもののように見えるが、そこには人間が秩序を求める本能が働いているとされる。
また、フーコーの規律訓練に対する批判を参考にしつつ、規律が人間に安定感と快感をもたらす一方で、時にはルールから逸脱しエネルギーを解放したい欲求も人間には存在すると指摘されている。
暴走族の例は、ルールを破りながらも内部に厳格な秩序を持つという、人間の矛盾した性質を示している。
儀礼は人間が自らを有限化する方法として機能し、それによって安心感と快感を得ているが、その根底には逸脱への衝動も潜んでいる。
この二重性が人間のドラマを形成し、さまざまな文化的な現象や政治的な動きにメタ的な分析を可能にすると説明されている。
結局のところ、儀礼とは人間が日常生活で経験する去勢の反復であり、ルーティンを通じて人間がどのように自己を制約し、同時にどのようにしてその制約から逃れようとするかを示している。
このプロセスを通じて、人間は社会の一員としての自己を形成し、個人としてのアイデンティティを確立していく。
第六章 現代思想のつくり方
この文書は、現代フランス思想、特にポスト構造主義とその後継である「ポスト・ポスト構造主義」について述べている。
カトリーヌ・マラブーやカンタン・メイヤスーなどの新世代思想家が紹介されており、デリダ、ドゥルーズ、フーコーなどの理論の構築方法にも焦点を当てている。
現代思想を生成するための原理が提案され、これにより新たな問題提起が可能になるかもしれないとされている。
著者はフランス現代思想を構成する四つの原則を提案している。
これらは他者性の原則、超越論性の原則、極端化の原則、反常識の原則である。
これらの原則は、先行する理論や思想から新たなアプローチを生み出す際の指針として機能する。
最後に、デリダやドゥルーズと比較してレヴィナスの哲学が紹介され、彼の主著『全体性と無限』と『存在するとは別の仕方で』が触れられている。
レヴィナスの哲学は他者との関係に焦点を当て、「存在」という概念を再解釈している。
現代思想の構築方法とポスト構造主義からポスト・ポスト構造主義への展開を説明している。
文中では、デリダ、ドゥルーズ、フーコーといった思想家の理論がどのように形成されているかを四つの原則(他者性の原則、超越論性の原則、極端化の原則、反常識の原則)を通じて解析している。
さらに、カトリーヌ・マラブーとカンタン・メイヤスーという新世代の思想家がどのようにこれらの原則を応用し、既存のポスト構造主義を超えているかについても論じている。
これらの議論は、現代思想の新たな展開として、差異と同一性の問題を再考するための基盤を提供している。
第七章 ポスト・ポスト構造主義
本文は、二十一世紀におけるフランス現代思想の展開に焦点を当てており、デリダやドゥルーズの死後、新世代の思想家たちの台頭を紹介している。
マラブーとメイヤスーはその代表であり、特にメイヤスーの『有限性の後で』は注目を集めている。
また、バディウやランシエールなど、以前は陰に隠れていた思想家たちも再評価されている。
新たな動きとして「思弁的実在論」が挙げられており、その代表的な議論としてメイヤスーの理論が示されている。
この理論は、人間の意味付けとは独立した、物自体の実在に焦点を当てている。
また、ハーマンのオブジェクト指向存在論が、個別のオブジェクトの内在性に光を当てる立場をとっていることも説明されている。
ラリュエルの非哲学も紹介されており、彼は哲学の二項対立を超えた「一者」という概念を提唱している。
この新しい動きは、ポストモダンの相対主義に対する一種の逆張りであり、より深いレベルの相対主義を提示しているとされる。
この文書では、デリダの脱構築的思考が取り上げられている。
二項対立に基づく思考が一般的な意味固定を試みる中、デリダはそれに揺さぶりをかけ、常識に反する多様な解釈の可能性を示した。
彼の見解によると、意味づけは必ずしも成功せず、人間は絶えず理解を逸脱する何か、すなわち否定神学的Xの周りを回り続ける。
メイヤスーはこのプロセスに対して、一義的な意味づけが可能であると反論し、数学を用いてその実現を主張する。
彼のアプローチは、否定神学的思考からの脱却と捉えられる。
これに対して、東浩紀は、日本の現代思想が複数性に注目し、単一のXではなく、より多様で分散した関係性の探求を重視している点を強調している。
フーコーは、罪責感にとらわれずに日々の小さな過ちに対処する古代ローマの賢人たちのアプローチを評価している。
このような反省のあり方は、無限に深まることなく、具体的な問題解決に焦点を当てる。
以上のように、現代思想は、絶えず新しい解釈を求め、言語や思考の限界を探る試みであるとされている。
これは、思考が常に進化し、新たな文脈で再解釈されるプロセスを示している。
この文書は、現代思想の読み方についての指南を提供するものである。
特に現代思想的な文章の読み方に焦点を当て、その読み解きにおいてハードルを下げることを優先する姿勢が推奨されている。
読書は必ずしも完全なものではなく、完璧に通読する必要はない。
むしろ何度も読み返し、理解を深めるプロセスを重視している。
また、現代思想の文章を理解するための具体的なポイントがいくつか挙げられており、それには概念の二項対立に注目する、固有名詞や豆知識を無視して読む、高度なレトリックに振り回されない、原典の文法構造を意識するなどが含まれる。
最終的には、読者が自分のペースで読書を進め、徐々に読解力を高めることが奨励されている。
おわりに 秩序と逸脱
この文書は、著者が『現代思想入門』を書き上げた経緯と感慨を述べたものである。
本書は立命館大学の授業「ヨーロッパ現代思想」を基にし、授業に参加した学生や編集者、他の専門家たちの協力を得て完成された。
著者は、過去の経験や現代思想への興味が本書の執筆を動機付けたことを説明している。
また、自己の現代思想への理解が「飽和」状態にあるとして、その理解を書籍という形で外部化した必要性を感じたと述べている。
これは著者にとって、現代思想というテーマに対する長期にわたる格闘の総決算であり、自己の青春の総括として位置づけられている。
著者は、本書が他の人々にとっても何らかの形で役立つことを願っている。
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