どんな本?
「脱税の日本史」とは、日本の歴史を税金の視点から見直すための一冊である。
この本を通じて、古代から現代にかけての日本で行われた脱税の歴史を学ぶことができる。
著者は元国税調査官で、その専門的な知識を活かして、歴史的な事件や人物の背後にある税金の問題を明らかにしている。
内容は、大化の改新のような古代の出来事から始まり、平安時代の貴族の脱税、戦国時代の武将たちの税制、江戸時代の財政政策、近現代の税金逃れの手法に至るまで、幅広くカバーしている。
特に興味深いのは、織田信長の比叡山焼き討ちや源平合戦など、有名な歴史のエピソードが実は税金と深い関係があったことが語られていた。
この本は、ただの歴史書ではなく、税金という経済的な要素を通じて、日本の社会構造や権力の動きを理解する手がかりを見せてくれる。
歴史に興味のある方はもちろん、現代の税制や社会問題に関心のある方にも役立つ内容となっている。
「脱税の日本史」を読むことで、歴史上の出来事を異なる角度から見ることができ、税金が国や社会にどのような影響を与えてきたかを理解することができるだろう。
読んだ本のタイトル
(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。
あらすじ・内容
元国税調査官が日本史にガサ入れ! 古代から現代まで庶民は税金に苦しんできた。そして歴史的な事件の背景には脱税が絡んでいた。税金で読み解く源平合戦、織田信長による比叡山焼き討ちは寺社の脱税が原因、二宮尊徳も脱税していた! 明治の財閥の脱税事情など目からウロコの日本史の意外な真実がわかる一冊。
第1章:大和朝廷の課題は脱税防止だった
大化の改新は、中大兄皇子と中臣鎌足が主導し、土地の国有化と中央集権の強化を図った。この改革で、土地を国の管理下に置き、税制を整備して脱税を防ごうとした。しかし、豪族の力を抑えるために蘇我氏を討つなど、強硬な手段も採用された。また、朝鮮半島との関係による防衛上の課題も重要視されていた。
第2章:平安貴族は脱税で墓穴を掘った
平安時代に荘園制が拡大し、国司の腐敗が進んだ。戸籍の管理が疎かになり、徴税システムが崩壊。国司が地方で権力を握ると、朝廷からの独立を図り、荘園の私有化が進んだ。菅原道真の清廉な改革も貴族の反発にあい、失脚してしまう。朝廷の財政危機が進行し、治安の悪化や武家の台頭につながった。
第3章:源平合戦は脱税合戦だった
源平合戦の背景には、平氏と源氏の間の経済的な争いもあった。特に平清盛は公職を利用して脱税し、巨額の富を築いた。これが源頼朝に利用され、地方武士の支持を集めて鎌倉幕府を確立。政治体制の変化が進み、中央集権から地方分権へと移行した。この変動は、税収の流れを変え、武家時代の幕を開けることとなった。
第4章:戦国大名も脱税に悩まされた
戦国時代、寺社や大名が脱税を利用し、経済力を拡大。織田信長は大規模な検地を行い、不正を抑制。さらに楽市楽座を導入して商業の自由化を推進し、税制の改革で支持を集めた。武田信玄の増税政策は領民からの反発を招き、経済的な困難が続いた。
第5章:なぜ江戸時代は脱税が少なかったのか?
江戸時代には脱税が少なく、税制が比較的安定していた。農民の教育水準の向上と社会的な富の蓄積が、広範な脱税の必要性を低減。また、農民と町民に対する税負担が適正化され、経済活動が活発化。これにより、社会全体の安定が保たれ、脱税の動機が減少した。
第6章:大日本帝国の脱税攻防
明治時代の地租改正で税制が一新され、物納から金銭納税への移行が進んだ。これにより、農民の負担が軽減され、経済成長が促進された。しかし、戦前日本はタバコや酒税に依存し、脱税が一般的な行為となっていた。戦時中の財政需要が高まり、家庭での密造酒や偽金製造が盛んに行われた。
第7章:戦後のドサクサ脱税
戦後、GHQの占領下で財閥が解体され、大資産家の資産が厳しく課税された。しかし、田中角栄などの政治家は脱税を巧みに利用して政治資金を形成。また、西武グループなど大企業も複雑な節税策を用いて税負担を回避。政治団体を通じた税逃れも一因となり、税制の不公平が問題視された
第8章:巧妙化する現代の脱税
現代では、脱税の手法がより巧妙化し、特に海外のタックスヘイブンを利用した節税が増えている。企業や個人が住所地を海外に設定し、日本の税制を逃れるケースが見られる。また、政治家の税金問題も依然として続いており、税制の不公平が社会的な不信感を生んでいる。
感想
誰も税金を払いたく無いらしい。
でも、国家、自治体の運営には資金は必要。
取りやすい所から取り、バランスが崩れると国家、自治体は破綻する。
古代から同じ過ちを繰り返しているのに、短絡的な強者は自身の富を惜しんだら、基盤を崩してしまうのに、何度も同じ過ちを繰り返す。
今現在も歴史は繰り返し、自民党議員が裏金を作って脱税をしている。
本書『脱税の日本史』は、古代から現代にかけての日本における脱税の歴史を、元国税調査官の視点から解き明かす一冊である。
古代の大和朝廷の税制から始まり、平安、鎌倉、戦国、江戸、明治と続き、現代に至るまでの脱税事情が詳細に語られる。
特に注目されるのは、税金が歴史的な出来事にどのように影響を与えたかであり、源平合戦や織田信長の比叡山焼き討ちなど、脱税が歴史の流れを変えるほどの重要なファクターであったことが明らかにされている。
読者はこの本を通じて、日本の歴史を新たな視点で捉え直す機会を得ることができる。
税制の不平等がどのようにして社会の不安定や権力者の変動を引き起こしたかの具体的な事例が豊富に紹介されており、歴史的な出来事への理解が深まる。
特に、税金という視点から見ることで、中央の権力が弱まるとどのように社会全体のモラルやバランスが崩れるかが描かれる。
また、戦国時代や江戸時代の財政状況、明治の大日本帝国時代の税制改革、そして現代における巧妙な脱税の手法まで、時代ごとの税制の変化とその影響が具体的に述べられている。
戦後の財閥解体や現代の国際的な税逃れまで、時代を超えて進化する脱税手法に対する対策も考察されている。
この本は、ただの歴史書以上の内容を持ち合わせており、経済学、政治学、社会学の要素が交錯することで、よりリアルで生々しい日本の歴史の一端を垣間見ることができる。
税金という切り口から紐解かれる日本史は、読者に新たな発見を与え、歴史に対する興味を深めさせるだろう。
特に、権力と富が集中する場所での脱税活動がいかにして社会全体に影響を及ぼしてきたかが、この一冊から学べる最大の教訓である。
最後までお読み頂きありがとうございます。
(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。
類似本
お金の流れで見る戦国時代 歴戦の武将も、そろばんには勝てない
税金格差
増税地獄 増負担時代を生き抜く経済学
脱税の世界史
追跡 税金のゆくえ
“歪んだ法”に壊される日本 事件・事故の裏側にある「闇」
その他ノンフィクション
備忘録
第 1章 大和朝廷の課題は脱税防止だった
「大化の改新」は、古代日本の重要な出来事であり、皇極天皇4年(645年)に中大兄皇子や中臣鎌足らによって行われた。目的は、非効率的な税システムを改革し、国の財力を集中させ、脱税を防止することであった。この改新は、土地の私的所有を禁止し、すべての土地を国のものとし、田畑を民に貸与する形式で徴税した。また、豪族による世襲制を廃止し、有能な人材を起用し、戸籍を整備することで中央集権を強化した。さらに、朝鮮半島との関係が深く、領地を失うリスクが国家存続の危機を意味していたため、防衛体制の強化も求められた。大化の改新は、豪族の反発を抑えるために蘇我氏を滅ぼすことで、土地の国有化を実現させた。
古代日本、特に大和朝廷は、高度な会計システムを持っていた。この進歩的な会計制度は、古代中国から導入された可能性が高く、日本の中央集権化と国力の増強に寄与した。会計システムは、徴税や徴兵などの国家運営に不可欠で、軍事力を強化する上でも重要であった。大和朝廷は、文字の導入と会計技術の適用によって、強大な国家を形成した。また、班田収授の法により土地を国家が管理し、農民に貸与するシステムが確立されていた。この制度は、中国の均田法をモデルにしており、日本ではより徹底して実施されていた。租庸調という税制は、古代日本の独自の進歩的な要素を含み、社会保障制度も組み込まれていた。このように、古代日本の会計システムは、国土調査を含む広範な管理と監督を可能にし、国の統治と発展に大きく貢献した。
古代日本では、国衙が租税の収受や物品の取引を行った際、返抄と呼ばれる領収書が発行されていた。これは税金の納付が完了した証明として機能し、結解という収支計算書の作成に利用されていた。国衙に保管された記録は公文の一部として朝廷に提出され、国司の交代の際には全ての未精算事項が清算される必要があった。この厳格な会計管理は、国司による着服を防ぐために重要であった。国司の任期は当初四年と定められており、地方での長期勤務による不正や癒着を防ぐ意図があった。
第 2章 平安貴族は脱税で墓穴を掘った
古代日本では、公地公民制のもと、豪族から土地を取り上げ、中央集権国家を形成していた。班田収授の法により、全ての農地を国家が管理し、民に均等に配分されたが、100年も経たずにこの制度は崩れ始めた。特に荘園の発生が朝廷政権の崩壊を加速させ、その背景には朝廷の財源不足があった。また、天平7年から天平9年にかけての天然痘の大流行は、朝廷に大きな打撃を与え、多くの人々が死亡した。これを背景に、天平13年に聖武天皇は国分寺建設を命じ、天平15年には東大寺の大仏造立を決定し、その財源として墾田永年私財法を制定した。この法律により、「すべての田は公有」とされた律令制の理念が崩れ、荘園制が拡大した。さらに、蝦夷地問題も朝廷の財政を圧迫し、東北地方の蝦夷との38年戦争が発生し、その結果、治安が悪化し、関東地域の武家の成立につながった。
平安時代における「国司」という官職は、中央政府から各地に派遣され、行政や徴税業務を担当していた。国司のポストは中級貴族向けであり、大化の改新以降に設けられたものである。国司は、豪族に代わって地方の行政と徴税を管理し、朝廷への直接統治を支える役割を果たしていた。しかし、平安時代に入ると、国司の権限は拡大し、腐敗と門閥化が進んだ。特に戸籍の作成が曖昧になり、徴税額の決定が国司の判断に依存するようになった。
荘園が増える主な理由は二つあり、一つは墾田永年私財法による新田開墾、もう一つは戸籍調査の欠如による公地の荘園化である。この時期には、戸籍の作成が不定期となり、人口把握が不正確になったため、班田収授システムが揺らぎ始めた。また、農民が戸籍を操作して脱税し、富裕農民が貧しい農民の田を買い取り、私的に荘園化するケースが増加した。
朝廷は「荘園整理令」を発令して荘園の増加を抑えようとしたが、成功しなかった。この脱税問題を解決しようとした菅原道真は、寛平の改革を指揮し、清廉な国司による適正な徴税を目指したが、名門貴族たちの反発により失脚し、悲劇的な結末を迎えた。彼の失脚後、名誉回復することなく大宰府で死亡し、その後彼に関連する不審な死が続いたため、「道真の祟り」と言われるようになった。
平安時代に国司の役割は、中央政府から各地に派遣される行政および徴税の責任者であり、税収の一部を中央に送るものの、残りを着服する慣習が広まっていた。国司の抜本的改革を試みた菅原道真は、他の貴族からの猛反発を受け失脚し、大宰府に流された。やがて、朝廷は国司の中間搾取を黙認し始め、国司は豊かな地域に赴任することを望むようになり、彼らの地位は家柄に依存するようになった。
この体制を最も利用したのが藤原道長であり、彼は摂関政治を行う藤原氏の一員として、国司や国司希望者から多額の賄賂を受け取っていた。この腐敗したシステムにより、国司は巨額の利益を上げ、その代償として国の税収は減少し、朝廷の権威も低下した。
後半の平安時代には、国司から軍事力を持つ者が現れ、彼らは軍事貴族として知られるようになった。この変化は、戸籍の曖昧化や班田収授制度の崩壊により、徴兵制度が機能しなくなったことに起因していた。これにより、国司は地元の豪族と連携して自衛の軍事力を確保し、平安時代末期には源氏や平氏のような軍事貴族が政治に大きな影響を及ぼすようになった。
第 3章 源平合戦は脱税合戦だった
平安時代の末期、平氏と源氏は政治的勢力を築き、源平合戦の末に源氏が勝利し、武家の時代が始まった。平氏、特に平清盛は、公的な役職を利用して私的な富を蓄え、特に貿易からの脱税を通じて巨額の富を得た。清盛は日宋貿易を盛んに行い、博多や神戸に港を設立し、貿易から大きな利益を上げた。彼の権力は、天皇や上皇との直接的な交流を可能にするほど強大であった。しかし、その富は平家の政治的基盤を危うくする一因ともなった。
一方で、源頼朝は脱税集団であった武家を結集し、平氏との戦いに勝利した。頼朝は地方の武家に土地の所有権や徴税権を認め、中央貴族からの独立を図った。朝廷からの多くの権限を獲得し、その権限を用いて鎌倉幕府を確立させた。これにより、頼朝は地方武士の支持を得て、新たな政治体制を構築することができた。
文治5年(1189年)、源頼朝は実弟である源義経を殺害した。義経は源平合戦の主要な功労者であり、頼朝の支配を支える重要な存在であったが、その死因は長い間謎とされていた。義経が幼少期に頼朝と生き別れた後、藤原秀衡の庇護を受けていたが、頼朝が挙兵するとこれに応じて兄を支援した。義経は平家追討の指揮を任され、その軍功で頼朝の勢力拡大に貢献した。しかし、頼朝は義経が後白河上皇から勝手に官職を受けたことを理由に、彼を殺害する決断を下した。鎌倉幕府の成立と安定のため、頼朝は武家が朝廷と直接接触することを禁じており、義経の行動は幕府の基本的な方針に反したものであった。これが頼朝による義経殺害の直接的な理由であるとされている。
鎌倉時代は、1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開設したことに始まり、1333年に幕府が滅亡するまでの約140年間である。この時代は、日本の政治が京都の朝廷から武家の手による幕府へと大きく移行した時期であり、武家政治の確立期とも言える。
頼朝は、源平合戦を制して平氏を滅ぼし、武士団を中心とした新しい政治体制を構築した。鎌倉幕府では、守護と地頭という新しい職が設けられ、全国の治安維持と租税収入の管理を行った。守護は各国の治安を守る役割を持ち、地頭は荘園や公領の管理を担っていた。
この時代は、武士の地位が確立され、武家法(武家の法律)が成立した。また、元寇という外敵の脅威に対する防衛も大きな課題となり、武士たちは国防の責任を担うようになった。
鎌倉時代の終わりごろには、幕府の内部分裂や政治的混乱が進み、最終的には後醍醐天皇による建武の新政によって幕府が滅亡した。これにより、南北朝時代に突入し、日本の中世は新たな段階へと移行していった。
応仁の乱は、1467年に始まり、日本全国に戦国時代の長期的な戦乱を引き起こした。この乱の原因は、鎌倉幕府と室町幕府の短命の背景にある政治的不安定さと財政力の不足にある。室町幕府は特に、経済的に弱体であり、財政状態は常に厳しいものであった。
室町幕府の財政基盤の弱さは、南北朝時代を経て足利尊氏が幕府を発足させた当初から顕著であった。幕府の直轄領、すなわち「公方料所」は限られており、その広さははっきりしないものの、石高で言えば多く見積もっても200万石程度だったとされる。
このように直轄領が少ないため、幕府の直属軍も少なく、守護大名や管領の力が相対的に強まっていた。守護大名の中でも、細川家や山名家などは将軍家を上回る広大な領地を有しており、経済力においても将軍家を凌ぐ存在であった。細川家は近畿・四国一帯に大きな影響力を持ち、山名氏も14世紀末には中国地方で多くの国の守護を務めていた。
この経済力の不均衡が、幕府の指導力低下を招き、最終的には応仁の乱という大規模な内戦に発展してしまった。足利将軍家が守護大名に対して十分な力を持てず、彼らの私利私欲による政治の不安定化が進んだ結果、戦国時代が始まったと言える。
第 4章 戦国大名も脱税に悩まされた
中世日本で寺社は脱税を利用して巨大な経済力を築いた。彼らは広大な荘園を所有し、税の免除を受けていたため、多くの土地が寺社に寄進された。特に比叡山延暦寺は、日本最大の貸金業者としても知られ、莫大な経済力を持っていた。信長による比叡山延暦寺の焼き討ちは、この強大な寺社勢力を弱めるための行動であった。この出来事は、寺社の勢力削減と脱税の終結を目的としていた。
織田信長は戦国時代の中間搾取を禁止し、大減税政策を行った。これにより、信長は領民からの支持を得て、領土拡大と安定した統治を実現した。信長は年貢を収穫高の3分の1に設定し、当時としては非常に低い税率を実現している。また、信長は枡の統一を行い、不公平な税の徴収を防いだ。さらに、大規模な検地を行い、固定資産台帳を作成して土地の正確な管理を実施した。信長はまた、関所を撤廃して不正な税徴収を防ぎ、物流を促進し、民の生活を改善した。これらの政策は信長の天下統一事業を支え、庶民からの高い評価を受けた。
織田信長は「楽市楽座」を導入し、商人が自由に商品を販売できる環境を創り出した。これにより、従来の座制度による商業の独占を廃止し、すべての商人が税の負担なしに商売を行えるようになった。楽市楽座の目的の一つは、寺社などが持っていた既得権益を削減することにあり、これにより市場の自由化を実現した。信長は岐阜の城下町造営の際、加納の市においても商人の自由な商売を保障し、市場でのトラブルに対する信長家の介入も禁じた。これにより、市場は寺社の手から離れ、商業が活性化された。
武田信玄は甲斐の貧弱な土地を背景に、領民からの税収を増やすために度重なる増税を実施した。天文10(1541)年に領主としての地位に就いた信玄は、翌年に早くも大規模な増税を行い、新たに「棟別帳」を作成して家屋ごとに課税する「棟別役」を導入した。これにより、毎年一定の税収を確保しようとしたが、農作物の出来が悪くても決められた税を納める必要があったため、農民の負担は大きくなった。また、信玄は領内の各家庭から「棟別役」を強制的に徴収し、払えない家庭が出た場合、郷村全体で不足分を負担するよう要求した。この重税政策は、領民の逃亡や詫言の殺到を引き起こし、領内は経済的にさらに困窮した。このような負のスパイラルが、武田家の政策によるものであり、信玄の死後もエスカレートする形で続いた。
元亀元(1572)年10月、武田信玄は将軍足利義昭の求めに応じ、信長包囲網の盟主として西上作戦を開始し、三河の徳川領を侵攻した。信玄は信長を追い詰める機会を得たと見られがちだが、経済的には信玄が苦境に立たされていた。戦費の不足が深刻で、新たに税を設けても、集めた戦費は7千両と、信長が容易に集めた金額と比較して非常に少なかった。信玄軍は経済的に逼迫しており、装備も不十分で、小規模な城を落とすのにも長時間を要していた。特に、二俣城や野田城の攻略には、装備不足が顕著で、力攻めではなく回りくどい戦法を取るしかなかった。このため、信玄が京都に進出する計画も実現できず、最終的には信玄の進軍が遅れ、病死することになった。信玄の死により、彼が信長に追い詰められていたという見方は誤りであることが明らかになった。
第 5章 なぜ江戸時代は脱税が少なかったのか?
江戸時代は他の時代に比べて脱税が少なかった。その理由は、江戸時代の社会システムが合理的であり、民の側も無理な脱税をする必要がなかったからである。家康は信長の改革を取り入れ、財政的な余裕もあり、領民に配慮した政治を行った。江戸時代の農民は非常に苦しい生活を強いられているように思われがちであるが、実際には農民が文字を読めるなど教育水準が高く、社会がそれなりに豊かであったことがデータからも明らかである。また、識字率が高かったことや、教育への投資が活発であったことから、江戸時代の農民は教育を受けさせる余裕のある家庭が多かった。飢饉などの犠牲者も他の時代や地域に比べて少なく、江戸時代の食料生産や技術水準は高かった。さらに、囲米などの制度によって災害時の支援が充実しており、社会保障も整っていたため、脱税の必要性が低かったと考えられる。
江戸時代の農民たちは、税が比較的重くなかったために豊かな生活を送ることができた。年貢は一般に五公五民とされるが、実際には三公七民程度であり、初期のインフラ整備の費用がかかった時期を除いては、比較的低い税率が維持されていた。年貢の決め方には検見法と定免法の二種類があり、検見法では役人へのもてなしや賄賂によって年貢を低く抑えることが可能であった。一方、定免法は過去の収穫量に基づき一定期間同じ年貢を課すもので、農民にとって安定した収入が見込めるため生産意欲を促進した。
また、農村には「隠し田」と呼ばれる簿外の田が存在し、これには税が課されなかった。これは役人も知っていたが、通常は見て見ぬふりをしていた。検地、すなわち土地調査は非常に困難であり、農民の反発が大きな障害となった。特に全国的な検地は豊臣秀吉の時代以降行われていなかった。
町民には基本的に税が課されておらず、特に江戸の町民は地税を免除されていた。これは家康が江戸に人を呼び寄せるために寛大な政策として採用したもので、それが江戸時代を通じて維持されたため、町民たちは幕府に対して大きな恩義を感じていた。
江戸時代、京都の商家では、間口が狭く奥行きの長い「うなぎの寝床」と呼ばれる建物が多く見られました。これは、間口に応じて税金が課される「地口銭」を避けるため、税額を安くする工夫として採用された建築スタイルであった。同様の税が江戸でも課され、間口が狭い家屋が多く見られたのも同じ理由による。
また、北前船に関しても、船の中央部の広さに応じて高率の出入国税が課されたため、船主たちは船体をいびつな形に設計し、税負担を軽減させる工夫を行っていた。これにより、北前船は特徴的な形状で知られるようになった。
幕府は貨幣鋳造の独占権を持っており、貨幣の鋳造から得られる益を重要な財源としていた。さらに、金の品位を下げた「貨幣改鋳」によって財政再建を図り、その差益を収入としていた。特に、万延二分金の発行によって大量の収入を得たが、これが大量発行された結果、インフレが発生し、経済が混乱する原因ともなった。
幕末期に諸藩は、幕府の「万延二分金」の大量鋳造に触発され、偽金製造を通じて倒幕運動の資金を作成した。摩藩や土佐藩を含む諸藩が、幕府の貨幣を模倣して自らも偽の二分金を作り、これを財源として使用した。これらの活動は、諸藩が直接的な税徴収を逃れつつ、間接的に大きな財政負担を負っていた背景から進んだ。坂本龍馬も土佐藩の偽金製造に深く関与し、その製造法を藩に献策した。諸藩による偽金は、市場で一定の価値を有し、金や銀を含むため完全に無価値ではなかった。
また、幕府は新たな財源を求めて「御国益掛」という新税を検討する部署を設置し、新しい税制を導入しようとした。その中で、福沢諭吉が関わった「洋書税」も提案され、これに強く反発した。福沢は幕府が洋書を独占的に輸入し、高価で販売する方針に反対し、幕府の政策に噛みついたため、幕府との関係が悪化し、役職を解かれた。これにより、明治維新時には幕府側ではなく、独立して英語教育に専念する道を選ぶこととなった。
第 6章 大日本帝国の脱税攻防
明治時代に行われた地租改正は、税制の大改革であった。これにより、従来の物納であった年貢が金銭納税に変更され、農民の実質的な負担は減少し、経済成長と国民生活の向上に寄与した。地租改正は土地代の3%を税率とし、収穫に基づかない一定額の納税によって、農民の生産意欲を高め、農業生産は明治45年間で2倍に増大した。また、税の公平性と透明性が向上し、不正が減少した。
税制改正は、土地の実際の収穫量を明らかにする土地調査も含んでおり、これにより隠れた収穫量が明らかになった。地租改正により設定された税率は、農民の負担を軽減し、全国で一律の負担率を実現した。ただし、明治時代の経済発展によって物価が上昇すると、地租の税収の割合は減少し、戦前日本の税収は酒とタバコに依存するようになった。
戦前の日本では、一般家庭において普通に脱税が行われていた。特に、家庭でのどぶろく製造が一般的であり、これは酒税の回避を意味していた。明治31年には税収増加を目的に家庭での酒造が禁止されたが、それにより家庭では密造酒が広く行われるようになった。これに対抗するため、東北地方では税務署の密造取締部隊が設けられた。農村地域では、地域全体がグルになって密造酒を製造し、必要に応じて税務署員との間で抵抗が展開された。
同時に、戦前の税制においてはタバコも重要な財源であり、明治9年にはタバコ税が導入された。しかし、脱税が横行し、タバコの課税は効果を上げなかったため、明治29年にはタバコの専売制が導入され、葉タバコの買取によって脱税の防止が図られた。これにより、脱税を抑制しつつタバコ産業が保護され、日露戦争の戦費調達にも寄与した。
戦前の日本では、税金は商店街全体で一括して納付されていた。所得税は「賦課課税制度」に基づき、税務当局が税額を決定し、通知する形式で徴収されていた。また、戦前の日本では直接税の割合が非常に低く、主に酒税や砂糖税などの間接税が税収の大部分を占めていたため、大規模な脱税は少なかった。所得税は、地域ごとにまとめて納税の額が決められ、地域の世話人が業者間で分配して納めさせるという方式が取られていた。この方式は、江戸時代の年貢のシステムを踏襲しており、日本人にとって比較的受け入れやすいものであった。戦前の財閥は莫大な富を築いており、企業の法人税は格安で、平時は5%程度、戦時でも最高20%程度であった。
戦前の財閥が大きかった理由の一つは、持ち株会社の仕組みによる節税策であった。持ち株会社とは、実際の事業を行わず、グループ企業の株を持つだけの会社で、財閥の中心的存在であった。これらの会社は、法人税が低率だったため、企業の利益を配当として出すことが税金面で有利であった。明治38年に法人税が導入されたものの、配当に対する課税はなく、法人税も初期は2.5%と非常に低かった。財閥はこの制度を利用し、多くの企業を持ち株会社の下に組織化し、莫大な配当金を得る仕組みを確立した。この持ち株会社は非公開であり、経営権は財閥内に留まり、外部の投資家は関与できなかった。また、財閥は政治との癒着も深く、選挙資金などの形で政界と結びついていた。これにより、財閥は政府からの保護を受けつつ、税制上の優遇を活用して経済的な力を拡大した。
戦時中、日本は「遊興飲食税」と呼ばれる税を導入し、これは芸者などを呼んで行う遊興活動に課税するものであった。最初は大正8年に金沢市で地方税として導入され、その後全国的に広まり、昭和14年に国税となった。当初は芸妓の花代に20%、飲食代に10%の税が課されていたが、税率は次第に上昇し、昭和16年には100%、昭和18年には200%、そして昭和19年には300%に跳ね上がった。この税率は、戦時下の「贅沢は敵だ」という国策に沿ったもので、芸妓が休業しているにもかかわらず、高い税金が課された。これにより、昭和18年の国の租税収入の約9%がこの税から得られた。また、理髪関連の特別行為税も課され、パーマなどに30%から始まり、最終的には50%まで税率が引き上げられた。さらに、戦争の激化とともに犬の強制供出が行われ、その毛皮や肉が軍需物資として利用された。
第 7章 戦後のドサクサ脱税
戦前に日本経済を支配していた財閥は、敗戦後にGHQの占領政策の下で大きな打撃を受けた。GHQは財閥解体を推進し、1945年11月に三井、三菱、安田、住友の四大財閥を含む14財閥の家族の資産を凍結し、あらゆる財産の処分を禁止した。これには生活費の引き出しも政府の許可が必要であった。14財閥の合計資産は約16億円で、その中心は有価証券であった。
GHQは財閥家の所有する株を市場で強制的に売却させ、得られた代金は1946年に課された一度きりの財産税によってほとんど徴収された。この財産税の最高税率は90%で、財閥の多くがこの税率で課税された。また、財閥家は元のグループ企業の役員に就任することが禁止され、持ち株会社も禁じられた。
この政策により、財閥家の資産の大半が失われ、GHQの持ち株会社禁止は、占領終了後も続いたが、1997年に解禁された。この時期の日本では、財閥だけでなく、他の大資産家にも同様の財産税が課され、大きな負担となった。
「マルサ」の起源は戦前にさかのぼる。昭和23年(1948年)に発足したマルサは、当初、終戦直後の激しいインフレと税収不足に対処するため、闇業者や密造酒の摘発を主な目的としていた。戦前の日本では、酒税が国税収入の重要な部分を占めており、価格が高騰していたため密造酒が盛んに行われていた。マルサは、脱税摘発を通じて税収を上げると同時に、農村を含む広範な地域での密造活動を取り締まった。
戦後のマルサは、脱税情報の収集に多くの「タレこみ」を頼りにしていたが、昭和29年(1954年)には「第三者通報制度」が廃止され、より民主的な情報収集方法へと移行した。これに伴い、マルサの対象も闇取引者から正規の経済活動における脱税者へとシフトしていった。
田中角栄は、会計と税法に精通していた。彼は自己の政治資金を形成するために、節税策を巧妙に利用した。現金を受け取り、現金で保管することで、税務当局に把握されずに税金がかからない状態を維持していた。また、田中角栄は、脱税摘発ニュースで言及される「幽霊会社」や「ペーパーカンパニー」を使った節税手法を駆使していたが、摘発されることはなかった。彼は、資産を実体のない会社に移転させることで、税金を逃れていた。さらに、死後も彼の相続税対策は完璧であり、巨大な資産に対して異常に低い相続税を支払っただけであった。田中角栄の遺産の大部分は彼のファミリー企業が所有しており、その評価額を抑えることで相続税も低く抑えられていた。
西武グループの中核企業であったコクドは、戦前の財閥持ち株会社のような仕組みで運営されていましたが、実業も行っていた点で異なりました。非上場であったため、決算書は公表されておらず、コクドの財務状況は不明瞭でした。堤義明氏は西武グループを率いており、コクドは莫大な利益を上げながらも税金はほとんど支払っていなかったとされます。会計関係者の間では、コクドが税金を払わない会社として有名でした。堤氏によると、コクドが税金を支払わなかったのは、利益を全て事業拡大に投資していたためとされていますが、会計の常識からは疑問が残ります。調査により、コクドが利益を帳消しにするために支払利子を操作していたことが明らかになりました。利益が多い年には支払利子が増え、利益を相殺していたのです。2006年、堤氏が逮捕され、コクドは解散し、西武グループは解体されました。
第 8章 巧妙化する現代の脱税
現代において、脱税の手法が巧妙化・多様化し、特に海外を活用した税金逃れが激増していた。一つの手法は、住所地を海外に設定し、日本国内で生じた所得にのみ所得税が課せられることを利用するものである。この方法は合法的な節税とされるが、住民票を海外に移すことで日本の住民税を逃れるような行為も見られた。さらに、海外のタックスヘイブンを利用して、法人税を節約する企業も増えている。これらの企業はタックスヘイブンに本社を置き、子会社を通じて各国の利益をそこに集中させ、グループ全体の税負担を低く保つ手法を取っている。また、竹中平蔵氏の例では、住民税を逃れるためにアメリカに住民票を移し、住民税の納税を回避していた疑惑がある。彼は所得税は日本で申告していたが、住民税についてはアメリカで納税していたと主張していた。しかし、納税証明書を提出しなかったため、その主張には疑問が残る。この問題は解決されずに終わった。
武富士一族が行った伝説的な節税スキームは、オランダに会社を設立し、その会社を通して所有していた武富士の株をオランダから香港に居住している息子に譲渡する形式を取った。これにより、日本の贈与税を回避した。オランダの会社は形式上はオランダに存在し、実質的には武富士一族のものであったが、香港に居住している息子に譲渡したため、日本の贈与税が課せられなかった。この贈与による株式の時価は、推定2600億円以上であったが、贈与税は一切かからなかった。国税当局は香港の住民票が課税逃れのためだと主張し、追徴課税を試みたが、最高裁で敗訴し、税金を返還することとなった。さらに、このケースは、平成15年(2003年)の税制改正の直前に行われたため、新しい制度が施行される前に節税が完了していた。この事件は、海外資産を海外居住者に譲渡することで贈与税を逃れる法の抜け穴を利用したものであり、後に税法が改正されたことで、このような節税手法がより難しくなった。
前章で田中角栄が税金を巧みに逃れた方法が紹介されたが、その後の政治家が税金をきちんと支払うようになったかというと、そうではなかった。田中の時代よりも政治家の税金はさらに緩くなり、簡単に逃れられるようになった。政治家の職業は他のどの職業よりも税金が緩いと見られ、彼らの実質的な収入に対しては十分の一しか税金が課されていなかった。政治家は多額の献金を受けるが、これらは「政治団体」を通じて行われ、政治家個人の所得ではなくなっている。政治団体は法人格を持ち、政治家本人が運営しているものの、法人として扱われるため、税金が課せられない。この政治団体が税金逃れの道具として利用され、その会計は国税当局の監視から外れている。政治団体は非営利団体とされ、法人税が課されないため、法人税の申告や税務調査も行われない。結果として、政治団体の監査は形式ばかりで、国税のような厳しい追及が存在しないため、政治資金の使途は簡単に隠されることができるのである。
令和5年の年末に自民党の裏金問題が発覚した。これは、派閥パーティーで各議員に割り振られたパーティー券のノルマを超えた売上からのキックバックが、収支報告書に記載されずに「裏金化」されていたもので、税務申告もされていなかった。これにより脱税の疑惑が生じたが、裏金議員たちが税務調査されることはなかった。国税当局は政治家に対して非常に弱く、政治家が税金を払わなくて済む要因となっている。国税は理論上は首相を含む政治家に対して税務調査を行う権利を持っているが、政治家への税務調査はほとんど行われず、国税が政治家の税務に自発的に斬り込むことはほぼあり得ない。政治家への税務調査が行われるケースは、政治的な動きによるものであり、国税が積極的に行ったわけではない。政治団体を通じた相続税逃れも一因となっており、政治家の財産が無税で世襲されるため、世襲議員が増えている。
令和6年3月期の連結決算で日本企業史上最高となる5兆円を超える利益を計上したトヨタ自動車が、実は日本の税金をほとんど払っていなかった。平成20年から5年間、法人税を支払っておらず、この期間にはリーマンショックと大震災の影響があったが、トヨタはその間も最高収益を更新するほど儲かっていた。トヨタが法人税を払わなかった理由には、「外国子会社からの受取配当金減税」と「試験開発費減税」がある。「外国子会社からの受取配当金減税」は外国の子会社からの配当金95%を課税対象外とするもので、外国で安い税金を支払った後、それを日本で所得から控除する方式が取られていた。また、「試験開発費減税」は、製造業の大企業が試験開発費の10%分の税金削減を受けられる制度である。これらの減税策により、トヨタは法人税を支払わずに済んでいた。
令和6年3月期に史上最高収益を更新したトヨタ自動車は、日本での法人税は払っているが、消費税の還付を受けており、差し引きすると、税金をほとんど払っていない状態である。消費税の還付金とは、輸出されるものにかかる税金を製造段階で支払った消費税の還付を意味し、トヨタはこれを大きく利用している。トヨタの下請け企業は価格に消費税を転嫁できず、トヨタは下請けに対する支払い削減により最高収益を上げている。結果として、トヨタは日本国にほとんど税金を払っていない状況が続いている。これは、日本の現代社会を象徴する事象であり、日本の衰退の一因でもある。
あとがき
歴史を脱税の観点から俯瞰した場合、力を持つ者や裕福な者はしばしば税を逃れたがっていることが明らかである。例として、古代エジプトや古代ローマ、ヨーロッパの王国、中国の歴代国家などが挙げられる。これらの国々は、有力者の脱税が庶民に負担を強いる形でしわ寄せが行き、結果として社会の崩壊につながることも多かった。現代日本に目を向けると、力を持つ者たちから適正に税金が徴収されていない現実があり、日本の大企業や政治家たちからの税金が少ないことが問題視されている。この不公平な税制が、日本の衰退の一因となっていると考えられる。この事実を本書で明らかにし、多くの読者が感じている現代日本の衰退の理由として、税金の問題を指摘していく。
Share this content:
コメントを残す