読んだ本のタイトル
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あらすじ・内容
いきなり余命4ヶ月 告知をされた森永卓郎先生に 急きょ書き下ろしていただいた一冊。 今なにをすればいいのか、 モノは?お金や資産整理は? 仕事は?人間関係は? といったことをご執筆いただきました。
感想
中身はともかく、物凄く短い本だった。
電子書籍で読んだからどのくらいの厚さかはわからない。
でも、2時間は経たないで全て読めた。
あとがきの森永さんの近影の写真を見るに、物凄く痩せている。
健康的な痩せ方ではなく、不健康そうな痩せ方に見える。
ラジオで聴いてる声はいつもと変わらないから大丈夫そうだと思ってたが、この写真を見るに、、
いや、わからない。
もしかすると、もしかするのかもしれない。
だけど、いつ死んでもおかしくない森永さんは精力的に本を出している。
“書いてはいけない”を出した後、テレビの出演が無くなったと書いてあるが、、
その激痩せを映すのもどうなんだろうか?
その辺りもあるんじゃないだろうか?
WEBの記事とかは、ふっくらした時の写真を使ってたりと、アップする側が気を使ってる感じがする。
まぁ、本人に聞かずに勝手に忖度してるって感じもあるが。
マスターキートンの元テロリストの遺体を映した件とか、本人は良いが、家族とかも考えたら、、
そう考えたら動けなくなりそうだ。
そして、最後の写真。
タバコを咥えている。
タバコは止めないのは、ある意味この人、根性あるわ。
本の中身は、いつ亡くなってもいいように身辺整理をしている森永さんがやった事が書いてあった。
研究室にあった何千冊とあった本を整理して、要らないと思う物を捨て。
これ、普通に断捨離だな。
ただ、そうしている理由は義母の家の片付による経験談だという所が感慨深い。
さらに介護。
実の父親の介護は奥さんが1人で苦労したらしい。
夫とはいえ、他人の父親を面倒見させられるって、、
その時の支払いは父親の資産から支払わなければあとの相続で苦労したらしい。
自身の資産は何千万と減り、反比例に父親の資産がキープされて、そこから計算された遺産相続の税金を支払わされたというのは本気でショックだったと思う。
そうならないためにも親の資産を消費させてからの方が、、
俺、聞き出す自信が無いわ。
本はほぼ電子化してるから捨てる本は現在、本棚にある物だけだな。
でも、図鑑とか捨てられない。
たまに仕事の関係で調べたりするから。
その他のは、ほぼ手にしないから捨てても良いのかもしれない。
後は農業する時間がどう頑張っても作れない。
今の仕事と相性が悪い。
残念。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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その他ノンフィクション
備忘録
序章 私が身辺整理を進める理由
筆者はがんの余命宣告を受けた後、すぐに身辺整理を始めた。身辺整理とは、自身の所有物や財産、関係性を整理し、残すものと手放すものを仕分ける行為であり、いわゆる終活である。筆者は自身の死後、家族が苦しむことのないように、特に「相続地獄」を経験した過去から、きちんと準備を整えようと決意していた。
筆者は2023年11月にステージIVのがんで余命宣告を受けたが、その後も精力的に仕事を続け、身辺整理も順調に進めていた。しかし、身辺整理は想像以上に困難な作業であり、予期せぬ問題に直面しながらも知恵を使い乗り越えていった。がんの告知を受けた際、筆者は冷静に受け止めていたが、家族は大いに動揺していた。
筆者は医師からのがん診断に納得できず、セカンドオピニオンやサードオピニオンを求めたが、結局同じ診断が下された。そして膵臓がんの治療を受けることになり、抗がん剤治療を開始したが、その副作用は想像以上に強く、筆者の体調は急激に悪化した。治療後、筆者は極度の衰弱状態に陥り、自分が死を目前にしていると感じたという。
この経験から、筆者は生に対する執着が薄く、ただ「どうせ人はいつか死ぬものだ」と考えていたが、家族のために整理を進めることの重要性を再認識していた。そして、誰もがいつ死ぬかわからないため、早いうちに身辺整理を始めることを勧めていた。
筆者は膵臓がんステージIVの告知を受けた後、リスナーに報告し、多くの励ましや治療法に関する情報を受け取った。その中から信頼できるものを選び、一か八か「気つけ薬」を試した結果、驚くべき効果を発揮し、意識が回復した。続けて入院し、体力を回復させた筆者は、教授としての職務を果たすために半年は生きたいという強い願いを持つようになった。
また、別の検査で膵臓がんの可能性が否定され、「原発不明がんの終末期」という診断を受けた。治療方法が限られる中、筆者は高額な免疫治療に取り組んでいたが、治療費を気にすることなく、残された時間を全力で生きようとしていた。
筆者は体重が減少しつつも執筆やラジオ出演を続け、限られた時間で多くの本を執筆することを目指していた。「死」を意識しつつも前向きに生きる姿勢を持ち、自分がやるべきことを明確にしながら行動していた。最後に、読者に対して「死」を意識することが今を生きる原動力になると伝え、本書が悔いのない人生を送るためのヒントになることを願っていた。
一章 モノは捨てる
筆者は2024年1月以降、活力を取り戻し、身辺整理に積極的に取り組んでいた。まずは、研究室にあった数千冊の本を整理することから始め、学生に譲ることで2割程度を減らし、残りは遺品整理業者に依頼して処分した。研究室の整理は比較的スムーズに進んだが、義母の遺品整理では、大量の生活用品の分別や処分に多額の費用と時間がかかった。
また、筆者は物を処分するための費用を抑える方法として「最初から物を持たない」ことが重要だと感じていた。日常生活においても、必要以上に物を持たず、使わなくなった物はどんどん捨てることが大切であると考えていた。
さらに、筆者は20台ほど所有していたパソコンの整理にも着手し、不要なものはリサイクル業者に無償で引き取ってもらった。データの消去作業も行い、残した数台のパソコンは家族に託すことに決めた。
筆者は、衣類や靴、鞄などを積極的に処分していたが、その際に分別ルールを守る必要があった。各地域で分別システムが異なるため、自分の住む地域のルールを把握することが重要であった。筆者の住む地域では、リサイクル家電を除けば清掃工場に持ち込むことで多くのものが処分できたが、分別の必要は最低限守らなければならなかった。
筆者はもともとファッションに関心がなく、衣類や靴への執着も少ないため、処分するのが容易だった。しかし、家全体を整理する場合、大型家具や電化製品、衣服、食器、布団などを全て廃棄する必要があり、その手間は非常に大きい。そのため、日常的に少しずつ断捨離を進めておくことが重要だと感じていた。
第二章 コレクターのケジメ
筆者はコレクターとして60年にわたり、様々なコレクションを収集してきた。特にミニカーを集め始めたのは、小学校時代に海外生活を送っていた頃であった。孤独な環境で差別を受けていたが、ミニカー収集に夢中になったことで心の支えを得ていた。帰国後もミニカーへの情熱は続き、最終的には多くのジャンルにわたる膨大なコレクションを築いた。
後に、埼玉県所沢市に自身のコレクションを展示する「B宝館」を開設し、その展示物は12万点を超える規模となった。コレクションは、特に普段の生活で使用される「B級」とされる物品に価値を見出し、美しさを見つけるという独自の視点から集められた。
「B宝館」は当初は赤字経営であったが、次第に来館者が増え、現在では安定した経営を続けている。筆者は、自身の死後に誰がこのコレクションを引き継ぐかが課題であったが、次男がその役割を引き受けることとなり、コレクションの継承が決まった。
筆者は生活費を抑えるために、都市と地方の中間に住む「トカイナカ」ライフスタイルを実践し、物価の安い環境での生活の重要性を強調していた。この生活スタイルは、コストを抑えながら豊かな生活を送るための選択肢であり、コレクション活動や生活全般にわたり一貫した価値観を持ち続けていた。
第三章 資産整理
筆者は父親の死後、資産整理を経験し、その過程で相続の大変さを痛感した。特に相続手続きの厳しさや、相続税の負担が予想以上に大きかったことが「相続地獄」と表現されている。父親は2006年に脳出血で倒れ、半身不随となり、施設に入所後、2011年に他界した。母親は2000年に急死しており、両親の相続整理が一度に押し寄せた形であった。
筆者は父親が生前に資産整理をしていなかったことを悔やんでいた。特に、父親が「自分もいつ死ぬかわからない」と考え、計画的に資産を整理していれば、相続税の負担が大幅に軽減されていたはずだと述べている。
また、相続手続きは法律で10カ月以内に完了させなければならず、その短期間で膨大な手続きをこなすのは非常に難しかった。筆者はテレビやラジオに出演する経済アナリストとしての立場もあり、相続税の申告に対して大きなプレッシャーを感じていた。
最終的に、筆者は父親の資産を弟と平等に分けたが、父の介護費用を引き合いに出して争うことは避けた。家族間の争いを避けるための選択であり、母親の教訓を生かしたものであった。
筆者は、父親の死後に資産を整理する過程で、相続手続きの難しさに直面した。父親が多くの預金口座や資産を持っていると考え、まず貸金庫を確認したが、そこには重要な資産関連の書類はほとんどなく、当初の期待を裏切られた。次に、高田馬場の実家で郵送物を確認し、金融機関からの通知をもとに父の口座を特定していったが、情報開示には多くの手続きや戸籍謄本が必要で、膨大な時間を費やすことになった。
さらに、父が東京の文京区に戸籍を置いていた時期に空襲で役所が焼失しており、戸籍が存在しないことが問題となった。証明書を取得するのに時間がかかり、父の資産を把握するまでに約6カ月を要した。最終的に数千万円の預金が確認できたものの、少額の通帳もあり、すべての資産が見つかったかは不明であった。
この経験をもとに、筆者は自分自身の資産を整理することの重要性を認識し、リストを作成した。しかし、預金口座の一本化は非常に困難で、特に印鑑や暗証番号の管理が厄介であった。また、金融機関のシステムが変化し、手続きには予約が必要になり、時間がかかるようになっていた。
資産整理において重要なのは、金融機関名や資産内容だけでなく、通帳の保管場所や印鑑、暗証番号をセットとして管理し、早めに行動を開始することであった。
筆者は、株式市場のバブル崩壊が近いと予測し、新NISAや株式投資から撤退することを最優先に考えていた。過去の例を挙げ、株価の大幅な下落と円高の進行を指摘し、投資資産の価値が著しく減少すると予想していたため、投資から手を引くことが老後の生活を守るために最も重要な生前整理であると強調した。
筆者は2024年7月に株主優待の株を除き、すべての株式と外貨資産を売却し、大きな利益を得たが、これはあくまで偶然であり、バブル崩壊を見越しての決断ではなかった。筆者は投資をギャンブルと見なし、中高年以降は特に投資に手を出すべきでないと警告している。
さらに、投資詐欺や株式依存症の危険性に触れ、人々が陶酔的熱狂に陥る理由やバブルの不可避性についても言及している。筆者は、金は生きるための手段であり、貯蓄と幸せは比例しないと結論づけ、老後は年金と貯金で堅実に生活することが最善であると主張していた。
第四章 仕事の終活
筆者は自身の職歴を振り返り、仕事の終活を進める前にその過程を整理していた。日本専売公社に入社し、経済関連の調査研究に従事しながらも、民営化や社名変更、合併による転職を経験し、結果的に3度だけ会社員として転職していた。筆者は「いまやる、すぐにやる、好きなようにやる」という信条を貫き、自由に仕事を楽しんできたが、その過程では上司や組織との葛藤も多かった。
20代の頃に出会った経済企画庁の中名生計画官や、三和総合研究所の松本社長との関わりを通じて、筆者は自信を持って仕事に取り組み、失敗を恐れず行動することの重要性を学んでいた。また、経済アナリストとしてのキャリアを築く中で、組織内の不条理や権力者たちとの対立を経験し、銀行出身の上司に悩まされることもあったが、その中でも自身の自由を追求し続けた。
さらに、筆者は専売公社時代に資金管理の業務で「いたずら」を行い、組織の硬直した慣習に挑んだ経験を持ち、それが彼のキャリア形成に大きな影響を与えたと回想している。最終的に、彼は自身の職業人生を振り返り、制約の中でも最大限の自由を追い求めてきたことを強調し、特に「自由と自己責任」を理念に掲げて仕事に取り組んできたと結論付けていた。
筆者は、長年勤めた会社を辞める決断をした。25年間、家族を養うために耐えながら働いていたが、子供が成人したのを機に、自分の「自由」を追求することを選んだ。経済アナリストとしての活動は偶然始まったが、メディアへの露出が増え、その後、多くの連載や出演依頼が舞い込んだ。
筆者は、権力や既存のシステムに対して常に批判的な立場を貫き、自由な発言を守ってきた。特に経済評論家としての活動では、官僚や金融機関と対立することも多かったが、それでも「真実を伝える」という姿勢を崩さなかった。
また、筆者の父親から受けた強い正義感と、母親から受け継いだしぶとい精神が、現在の信念を形作っていると回想している。家族への影響も強く、二人の息子がそれぞれ異なる形で筆者の遺伝子を引き継ぎ、成功を収めている。
大学教授としての活動では、学生にクリエイティビティを発揮させることを目標にしており、プレゼンテーション能力の向上に注力していた。学生に自由に表現する場を提供し、その中で成長を促す教育方針を掲げていた。筆者は、仕事に関してやり残したことはないとしながらも、今の学生たちを見守り続けたいというモチベーションを持ち続けていた。
第五章 人間関係を片付ける
筆者は、身辺整理において人間関係が最重要課題であると考えた。しかし、自身には親密な関係を持つ友人が一人もおらず、仲間を作ることも避けてきた理由を述べている。仲間を作ることで他人に巻き込まれたり、逆に巻き込んでしまうリスクを嫌い、一匹オオカミとして生きる道を選んできた。仲間がいなくても誰に対しても差別なく接し、自分の心を偽らずオープンでいることを信条としていた。
筆者は仕事に関してもシビアな姿勢を持っており、相談には料金を設定し、無料での対応を避けていた。この方針により、真に相談したい人だけと向き合うことができ、詐欺に巻き込まれるリスクを回避する一助にもなっていた。
プライベートでも、親しい友人はおらず、唯一趣味を共有していた漫画家のやくみつる氏との関係も、友人というより趣味を通じたつきあいであった。筆者は「親友を作ってはいけない」と強調し、自分自身の問題は自分で解決するべきだと考えていた。
結婚生活については、仕事人間であった筆者は家族との関係が希薄で、特に妻がワンオペ育児を強いられていた時期には不満が募っていた。筆者の父親の介護生活が始まると、妻の負担はさらに増し、離婚の危機に直面したこともあった。しかし、最終的には妻の生真面目さに救われ、父の介護を続けてくれたことに深い感謝を覚えた。
筆者自身が要介護認定を受けた今では、妻の助けを得て生活しており、その支えに感謝しながら、新たな夫婦生活を楽しんでいる。
筆者は妻との価値観の違いに気づいたことがあり、特に食事や金銭管理に関して強く感じていた。妻は肉を食べない一方、筆者は肉が好きであり、食事の面で折り合いをつけるために工夫していた。しかし、さらに大きな問題として、妻が金融リテラシーに乏しいことに気づき、将来のために妻に金融関連の事務作業を任せ始めた。これには妻の反発もあったが、筆者はこれが妻を助けるための方法だと考え、心を鬼にしていた。
また、筆者は自らの死後、妻が早く一人で生活できるように準備を進めることを決意したが、感情的に妻を冷たく扱うことは難しく、完全には実行できていなかった。妻だけは筆者を「キモイ」と言わなかった唯一の女性であり、その存在を冷たく扱うことに苦心していた。
一方、筆者ががんになったことをきっかけに、家族の絆が強まり、家族とともに桜を見に行くなど、新たな幸せを見出していた。病状が安定し、家族はそれぞれの日常に戻っていったが、それで良いと感じ、家族がすべきことを果たしてくれたと感謝していた。
筆者は常に一人で闘う姿勢を貫いてきたが、家族との時間や日常の一瞬一瞬がかけがえのないものだと実感していた。
第六章 好きなように自由にやる
筆者は自由な生き方を求めてきたが、会社勤めの時期は多くの制約があり、息子たちが成人するまで耐えた。その後、シンクタンクを辞め、経済アナリストとして独立したことで、少しずつ自由を得ていったが、メディアで発言する際には自制していた。しかし、65歳で年金を受給するようになってから、完全に自由を感じることができ、がんの告知を受けたことでさらに自由な立場を得たと感じていた。
余命宣告という「最強のカード」を手に入れたことで、誰からも脅かされることなく「言いたいこと、書きたいこと」を自由に発信できるようになったという。筆者は国民が真実を知る権利があり、その判断に役立つ情報を提供することが使命だと感じていた。これまでのメディアでの経験から、筆者は限界を感じていたが、がんによりさらなる自由を得たとして、まだ果たすべき役割が残っていると感じていた。
また、筆者は趣味として歌や俳句、写真、童話作家としても活動しており、それらも自由を謳歌する一環であった。特に歌手や俳句、童話作家としての挑戦には強い情熱を持っており、これからもそれらの活動を続けたいという意欲を見せていた。
最終的に、筆者は誰もが真実を知る権利があるとし、それがなければ正しい判断も覚悟もできないと強調していた。
第七章 人は死んだらどうなるのか
筆者は、自身の死生観について、死後の世界や神仏の存在を否定し、死んだらすべてが消えると考えていた。18歳の時、笠原一男教授の授業を受け、日本の宗教が時代の混乱期に誕生し、救済を求める人々を騙す形で信仰が広がったと知り、この考えに強い共感を覚えた。筆者はその授業を通じて、「死後の世界はなく、人は死んだら無に帰る」という悟りを得たと感じた。
そのため、筆者は葬儀や仏壇、墓といった宗教的な儀式を無意味だとし、自分が死んだ後は葬儀も墓も不要で、遺骨はゴミと一緒に捨ててもよいと考えていた。筆者は「元の木阿弥」となってすべてが終わるため、死を恐れることもなく、死後の手続きにこだわる必要もないと主張した。
また、妻の宗教的な考えとは異なり、仏壇の処分についても、筆者は粗大ごみとして処分すればよいと提案したが、最終的には妻の意見に従って供養を行った。筆者にとって重要なのは、生きている間、周囲に迷惑をかけずに淡々と生活し、最期を迎えることであった。
あとがき 遺言
筆者は身辺整理を通して、人生において最も重要なものはお金では買えない「教養」であると感じた。教養とは、自由に生きるための知恵や技術であり、日常生活を豊かにするものである。自然の中で過ごす楽しさや、周囲とのコミュニケーション能力も教養の一部であり、ストレスのない生活や脳の健康維持にもつながると述べている。
筆者は2018年から農業を始め、試行錯誤を経て成功を収めた経験から、農作業が人生の哲学に通じるものであると考えていた。特に「自己責任で物事を決める」という姿勢が、恐れるものがない生き方につながると述べた。
また、金銭についても触れ、筆者は高額な医療費のために金が必要であるものの、無理に金を増やそうとすれば詐欺に遭うリスクが高まると警告した。資本主義が限界に近づいているとし、株価の暴落や社会の変化を予測した。
最後に、筆者は死生観に触れ、「今を生きること」が最も大切だと述べた。理想の最期として、沖縄のビーチで静かに煙草を吸いながら人生を終えることを夢見ており、その実現が可能だと感じた。
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