どんな本?
「偽典・演義 ~とある策士の三國志~」は、日本の社畜サラリーマンが突然古代中国に転生する物語。
転生先は三国志きっての策士である李儒。
彼は成り上がり者の大将軍・何進の部下に就活し、黄巾の乱が勃発する中国全土で自分の出世のチャンスを迎える。
この時に、後に暴君と呼ばれる董卓が現れ、物語は妄想炸裂な展開を向かえる。
このシリーズは、三国志の歴史的背景をユニークな視点から描いており、李儒の活躍や周囲のキャラクターたちのドラマが楽しめる。
読んだ本のタイトル
偽典・演義~とある策士の三國志~ 1
著者:仏ょも 氏
イラスト:流刑地アンドロメダ 氏
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あらすじ・内容
「この李儒(りじゅ)。これより閣下の御為に微力を尽くします!」
偽典・演義 ~とある策士の三國志~ ①
日本の社畜サラリーマンからいきなり古代の中国へ
転生した相手は三国志きっての策士・李儒
まずは成り上がり者のボス・何進(かしん)に就活し
うまく取り入っていたら中国全土で黄巾(こうきん)の乱、勃発!
世間の混乱は自分の出世の大チャンス
何進と李儒は混乱に乗じてのし上がろうとする
だがそこに、後の暴れん坊将軍・董卓(とうたく)が現れた…
妄想炸裂、自由自在、スーパー三国志スタート!
第2回アース・スターノベル大賞奨励賞受賞作!
プロローグ
光和三年(西暦一八〇年)春、洛陽にて。弘農出身の男が何進の面接を受ける場面である。この男は若くして「李家の神童」と呼ばれ、名家閥や宦官閥に属さずに独自の道を歩み、学問所での成績も優秀であった。彼は何進の力を借りて自身の安全と出世を図ろうと考え、何進もこの有能な男を自派に引き入れようとしていた。
第一章:主人公正式に仕官する
何進は圧迫面接を通じて男の志望動機や背景を探る。男は名家閥や宦官閥に属さず、独自の道を志すと主張し、何進に仕えることで自身の安全を確保し、出世を目指すと述べる。何進はこの回答に満足し、彼を採用することに決める。男は自らの力で何進の期待に応えようと誓う。
第二章:黄巾前夜
光和六年(西暦一八三年)十一月、何進に仕える李儒(主人公)は身長百八十センチの長身に成長し、何進の策略として名家との折衝を避けるための高い役職に就いている。彼は黄巾の乱を利用して何進の権力を強化する策を提案し、何進もこれを受け入れる。李儒は黄巾の乱を権力の拡大と名家や宦官の制約に利用しようと考える。
第三章:黄巾の乱
中平元年(西暦一八四年)二月、何進が大将軍に任命され、李儒の策略により名家閥に恩を売ることで宦官との戦いを有利に進める。乱の鎮圧のために各地に将軍を派遣し、乱を利用して何進の権力を強化する計画を進める。この策略により、多くの英傑が李儒の計画に乗り、乱は計画通りに進行する。
第四章:黄巾の乱の終わりと涼州の乱の始まり
中平二年(西暦一八五年)四月、洛陽の宮廷では黄巾の乱が鎮圧された後の戦後処理が進行中である。何進はこの状況を利用して政治的立場を固めるため、宦官と名家が一時的に手を組む。李儒は何進の側で独自の力を持ち、政治的な策略を練り、何進の支持を受けて活動する。
第五章:涼州の乱
西暦186年5月、涼州での乱が始まり、李儒と董卓がこれに対処する。洛陽の宦官や名家が誤解しており、董卓は皇甫嵩の位置を守り続けると信じ込んでいる。李儒と董卓は洛陽の政治的な策略を処理する方法について議論し、前線での戦略や後方からの支援の必要性を確認する。
第六章:涼州の乱の終わりと張純の乱
中平四年(西暦187年)五月、涼州の乱を鎮圧後、官軍は長安に帰還する。その最中に張純が河北で蜂起する情報が入る。李儒は烏桓を懐柔し、張純との離間を図る提案を行い、現実的な策を進める。張温は洛陽への帰還を決定し、李儒は後方支援として弘農に留まり、兵糧支援と文官業務に専念する。
第七章:張純の乱の陰で
中平四年(西暦187年)八月、弘農郡で李儒が張純の乱の背後にある政治的な意図を分析する。彼は公孫瓚が張純に勝利した戦いについて考察し、その命令が名家閥によるものと推測する。李儒の分析は将来の戦略に役立てられるべき重要な教訓として評価され、彼の戦略的価値を提供することが強調される。
第八章:西園三軍
中平五年(西暦188年)二月、何進と荀攸は宦官や名家が自前の軍を持つことを認めざるを得ない状況に直面し、帝に対して直轄軍の設立を提案する。何進は全国から兵を集め、直轄軍「西園軍」を組織する。この軍の設立が後の漢帝国を震撼させる契機となることは、当時の誰も予想していなかった。
感想
本書は、日本の社畜サラリーマンが気がつけば古代中国、具体的には三国志の時代に転生してしまったという物語である。
転生した主人公は三国時代の著名な策士、李儒として新たな人生を送ることになる。
新しい人生の場では、何進という人物が主人公の上司として登場する。
物語の開始部では、何進が高官としての立場から主人公を試す場面から始まる。
主人公は何進の部下として働き始め、黄巾の乱という大きな反乱を迎える。
何進と李儒はこの乱をチャンスと捉え、乱を鎮圧して名を上げようと計画を立てる。
しかし、この乱を通じて、様々な敵対者やライバルたちとの複雑な人間関係が絡み合う。
物語の中で、主人公は司馬懿という後に大きな力を持つことになる人物を弟子に取る。
また、劉備や孫堅といった後の三国志の英雄たちも登場し、彼らとの交流や影響も描かれる。
ただし、物語は男性キャラクター中心に進行し、女性キャラクターの出番はほとんどない。
全体として、この物語は主人公が現代日本の知識と三国時代の知識を駆使して、さまざまな政治的謀略や戦いを乗り越えていく過程を描いている。
主人公は何度も困難に直面しながらも、その度に自身の知識と策略で問題を解決し、次第に信頼と地位を築いていく。
結末では、主人公は自身が立てた計画により何進とともに力を強め、漢の政治において重要な役割を果たすようになる。
しかし、歴史の流れを変えることに成功しつつも、常に新たな問題が持ち上がることで、物語は次なるステージへと続いていくことが示唆されている。
読者は、三国志という歴史的背景の中で、ある現代人がどのように生き抜いていくかを追いながら、古代中国の政治や文化についても学ぶことができる。
この物語は、歴史とファンタジーが融合した独特の魅力を持ち、三国志を知る者にも新たな解釈を提供してくれるだろう。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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同シリーズ同シリーズ
その他フィクション
備忘録
プロローグ
光和三年(西暦一八〇年)・春 洛陽
地元の弘農から出仕のため洛陽に上洛した男が、洛陽の高官である何進に品定めされている場面である。
何進は「噂の神童」に対し、物理的な圧力をかける面接を行っている。
就職の面接に来たこの男は、何進からの疑いの視線を受けつつも、冷静に対処している。
何進は名家出身であるこの男を間者と疑うが、その証拠は見つからなかったため、直接確認することにした。
この男は、35歳の誕生日に後頭部に痛みを感じ、気がついたら古代中国の5歳児になっていた。
彼はこの時代で生き抜くために、親の権力を使って洛陽の学問所で学び、知識を蓄えた。彼は清流派や濁流派の派閥に属さず、自分の力で生き抜くことを決意した。
彼は将来の勝ち馬に乗るために学び、鍛え、知識を使って実家の荘園を栄えさせた。
その結果、「李家の神童」と呼ばれるようになった。そして、彼の努力の結果、若輩ながらも何進の前に立つことができた。
何進が転生した男の度胸と武術の腕を評価し、さらに学問所での成績も完璧であることを認めた。しかし、なぜこの男が何進に仕えようとするのか、その志望動機を確認した。
縁故採用が主流のこの時代において、縁も所縁もない人間が仕官する場合には裏があると見なされるのが一般的である。そのため何進はこの男を疑っていた。
男は、勝ち馬に乗って立身出世するために仕官を希望していると答えた。
名家では格式や格調を重んじるため、話の内容がわかりにくくなることが多いが、何進はそのような無駄を省いた簡潔な回答を求めたため、男は率直に答えることにした。
これは、突如として三國志の世界に転生した男が様々な経験を経て、後に「天下人の軍師」と称されるまでの一代記である。
一 主人公正式に仕官する
洛陽の河南尹執務室で、圧迫面接の第二段階として志望動機の説明が行われている。
志望者は名家の出であるが、自分の家は四世三公の袁家や四世太尉の楊家、皇太后の外戚である董家には及ばないと述べる。
名家閥に所属することが、自分の能力や実績を正しく評価されないリスクを説明し、むしろ功績を奪われたり、逆恨みを買ったりする可能性が高いと指摘する。
さらに、宦官閥に属するリスクについても触れ、彼らとの間に伝手がないことから、名家閥や宦官閥に所属するつもりはないことを説明する。
その上で、何進に仕える理由を述べる。
彼の後ろ盾で自分の安全を確保しつつ、立身出世を図ることが目的であると明かす。
何進は志望者の正直な回答に満足し、彼を囲うことで得られる利益について尋ねる。
志望者は、名家との交渉や資料作成、名家の者たちとの橋渡しが可能であると答える。
また、名家閥の形成や将来的な勢力拡大に貢献できることを説明する。
何進はその説明に納得し、志望者を受け入れる姿勢を示す。
何進は、自らの将来を見据え、暴力だけでは限界があることを理解し、名家や宦官との妥協が必要であることを認識していた。
自前の名家閥があれば、自らが高位に登りつめるための組織力を強化できると考え、目の前の若者の実力を見込んで彼を配下に加えることを決意した。
若者は、何進の後ろ盾を得ることで裏切ることなく、組織力を強化する役割を果たすと考えていた。
何進はこの若者を評価し、彼を採用することにした。
若者もその決定を喜び、自らの力を証明することを誓った。
こうして、何進は神童と呼ばれる若者を配下に加えることになった。
彼の決断がどのような影響を与えるかは、まだ未知数である。
二 黄巾前夜
光和六年(西暦一八三年)十一月、洛陽の河南尹執務室にて。
何進に仕える李儒は、この三年間で成長し、身長百八十センチの長身とバランスの取れた筋肉を持つようになった。
李儒は将作左校令・弘農丞という高い役職に就いており、これは何進が名家との折衝を避けるための策であった。
李儒は何進に黄巾の乱の計画を説明し、馬元義を捕らえた後、反乱を誘発させて鎮圧することで何進の権力を強化する策を提案した。
何進はこの提案に同意し、李儒と共に反乱の準備を進めた。
黄巾の乱は、多くの貧民の反乱が中原全域に飛び火し、洛陽や地方で大規模な暴動が発生することを予測していた。
李儒はこの乱を利用して、名家や宦官の連中を処罰し、何進の権力を強化する計画を立てた。
乱の責任は地方のトップや彼らを推挙した人間に問われることが多く、宦官や名家の連中は情報の隠蔽に動くが、李儒と何進はこれを防ぐために行動した。
李儒は名家や宦官の関与を見抜き、反乱を未然に防ぐことで何進の地位を確立する策を実行した。
李儒は地方軍閥の発生を防ぐどころか、逆にそれを利用して何進の勢力を拡大するために動いた。
何進は李儒の提案を受け入れ、黄巾の乱を利用して大将軍の地位を狙うこととなった。
こうして、李儒は何進の配下として名家や宦官を操り、漢を衰退させる大乱である黄巾の乱の幕を開けることとなった。
三 黄巾の乱
中平元年(西暦一八四年)二月、洛陽の大将軍府にて。李儒は、何進が大将軍に任命されたことを祝福する。
何進は、馬元義の捕獲と中常侍の封諝・徐奉の処刑を経て、多くの政敵を粛清し、大将軍に任じられたことで有頂天になっていたが、李儒の献策によって現実に引き戻された。
李儒は、まず党錮の禁を解禁し、名家閥に恩を売ることで宦官との戦いを有利に進める策を提案した。
次に、各将軍に明確な指示を出すことが肝心であるとし、乱の鎮圧に向けた具体的な手順を説明した。
李儒は、冀州鉅鹿方面には盧植を、豫州潁川には皇甫嵩と朱儁を、それぞれ賊の討伐に当たらせることを提案し、南陽については潁川の軍勢を増強して対応させる策を示した。
また、司隷に関しては名家連中にも功績を分け与えるよう進言した。
何進は李儒の献策を受け入れ、宦官や名家に先手を譲り、功績を独占しないことで彼らの反発を避ける策を採用した。
李儒は、何進の泥沼のような権力闘争における見通しの良さを認めつつ、戦略や戦に関するアドバイスを続けた。
李儒と何進は、黄巾の乱を利用して権力を強化する策を練り、この乱が発生することを見越して動いていた。
彼らの策によって、漢を揺るがす黄巾の乱は計画通りに進行し、多くの英傑たちが彼らの策に乗ることになる。
中平元年(西暦一八四年)六月、洛陽の大将軍府でのこと。
李儒は、名家や宦官が推挙した将軍たちが黄巾賊との戦いで敗北したため、何進が正式に乱の鎮圧を任されることになった。
その後、官軍は連続する戦闘で疲弊した賊を順調に撃退していたが、冀州を担当していた盧植が罷免されるという事態が発生した。
盧植は、皇帝が派遣した監察官に付け届けを拒否したことで、讒言を受けて罷免された。
この結果、数万の兵が足止めされることになり、何進は憤慨していた。
李儒も推挙した責任を感じ、謝罪したが、何進は盧植が戦に負けたわけではないため責任を問わなかった。
後任には董卓が任命されたが、董卓が率いる軍勢は盧植の軍勢とは性質が異なり、勝利は困難であった。
何進は董卓の失敗を見越しており、李儒に今後の対策を求めた。
李儒は、各地での戦略を見直し、軍の再編成を提案したが、結局、董卓は敗北し、九千の損害を出した。
この事態に対処するため、李儒は忙しく書類を処理し、何進の呼び出しを受けることになった。
洛陽の大将軍府でのある日、何進は李儒を呼び出した。
何進にとっては正式な儀礼が面倒であるため、李儒に対してはそれを省略することを許可している。
部屋には何進と敗戦後の董卓がいた。董卓は普段の自信満々な態度は見せず、少し委縮していた。
董卓は辺境で鍛えられた武官としての雰囲気を持ち、馬上でも弓を引けるほどの体格をしていたが、現状では李儒には敵わない状態だった。
何進は李儒と董卓を見ているが、特に咎めることはなかった。
李儒は事務を早く終えたいという意図から、何進の態度を気にせず董卓に竹簡を手渡した。
李儒は何進によって大将軍府に呼び出され、董卓との面談が行われた。
その場には、敗戦後の董卓がおり、何進は李儒と董卓のやり取りを黙認していた。
董卓には長ったらしい前置きが一切なく、直接的な対応に戸惑いを隠せない様子だった。
李儒は何進の懐刀として知られ、その才能と効率的な仕事ぶりから、何進の出世に大きく貢献していると評価されている。
董卓が洛陽における李儒の影響力の大きさを認識し、その場の流れに従うしかなかった。
李儒は董卓に対しても率直かつ迅速な対応を求め、仕事を効率的に進めようとしていた。
この会話から、李儒がどれほど洛陽で力を持っているかが明らかになる。
李儒は董卓に河東での待機を命じた。これは羌族が宦官暗殺に利用されそうな状況を受け、董卓の介入を防ぐための措置である。
董卓は当初、命令の理由が分からず戸惑ったが、李儒から羌族と他の異民族の動きについて説明を受け、状況を理解する。
李儒は、董卓に対し、皇甫嵩の補佐をすることを提案し、涼州軍閥が宦官暗殺を計画していることを示唆した。
また、皇甫嵩が現在の任地を来月には終え、その後涼州に赴く予定であることも明かされた。
この説明により、董卓は涼州軍閥との対峙が自身の次なる任務であることを受け入れ、李儒の計画を支持した。
李儒は董卓に来月中に黄巾の反乱が終わると予測しており、その理由は食糧不足による黄巾の絶体絶命の状態にあるからである。
黄巾が食糧を確保しやすくなる収穫時期までに戦いを終わらせなければ、彼らが再び力を得る可能性があると説明する。
さらに、李儒は黄巾の首領である張角が既に死亡している可能性が高いことを董卓に伝え、これが黄巾の士気に大きな打撃を与えると述べる。
そして、戦が早期に終結することの重要性を強調し、それにより黄巾が反乱の勢力を回復する前に勝利を確定させる計画を説明する。
この話を聞いた董卓は、李儒の戦略的な思考と前向きな行動に感心し、その提案に同意する。
中平元年(西暦184年)八月下旬、冀州広宗で、黄巾の卜己軍を打ち破った皇甫嵩率いる軍勢が到着した。
李儒は大将軍府から派遣された軍監として皇甫嵩の軍に合流し、丁寧に挨拶を交わす。
李儒は、前任と異なり、皇甫嵩に過度な贅沢を強いることなく、協力的に行動を進めることを提案する。
これにより、皇甫嵩からは感謝され、宦官や不正を働く者たちへの防壁としての役割も果たす。
李儒は皇甫嵩に対して、冀州での戦いを来月中に終わらせること、およびそのための具体的な策を提案する。
また、敵の首領である張角が既に死亡している可能性が高いとの情報を提供し、これが事実ならば賊徒の士気が下がることを説明する。
この情報を基に、皇甫嵩は士気の高揚を図り、迅速な戦闘終結を目指す。
官軍が「張角既に死す」と宣言した数日後、張角は実際には生存していたが、病で重篤に陥っており、公の場に現れることができず、自らの生存を証明できなかった。
これにより、信者たちの士気は大きく低下し、黄巾党の戦闘意欲は失われた。
広宗で籠城していた黄巾は皇甫嵩によって壊滅させられ、張角の遺体が発見され公開されることで、黄巾の勢力はさらに衰退した。
同じく南陽で黄巾討伐に成功した朱儁は、曹操と孫堅の活躍もあり、彼らの名声を高めることにもつながった。
中平元年(西暦一八四年)十月、皇甫嵩から張角の死亡の報、朱儁から南陽解放の報を受けた朝廷は黄巾の乱の終息を宣言した。
しかし、乱を引き起こした根本的な原因は解消されておらず、この乱は漢の統治に対する綻びと、民衆や地方領主の中央への不満と不信を増幅させた。
地方軍閥や賊の残党、漢の衰えを見た異民族が未来にどのような影響を与えるかは未知数である。
漢の長い停滞期が終わり、これから激動の時代が始まる。
四 黄巾の乱の終わりと涼州の乱の始まり
中平二年(西暦一八五年)四月、洛陽の宮廷内では、河北や中原を席巻した黄巾の乱が鎮圧されてから半年が経過し、戦後処理も終わりつつあった。
宮中の奥深くにある軍議の間では、涼州からの書状により発覚した非常事態への対策を練るための会合が行われており、その場には重要人物が三人集まっていた。
宦官代表の張譲は憤りを隠しながらも、韓遂を激しく非難していた。一方、名家の代表である袁隗も同様に自分たちの権力が及ばない者への嫌悪感を持っていた。
政治的なポーズの中で、実際には皇甫嵩を涼州に送り、失脚させる計画を立てていた。
宦官と名家は対何進という形で一時的に手を組んでおり、何進はこの状況を利用して、自らの政治的立場を固めようとしていた。
この中で、李儒は何進の側にあり、官僚集団である名家の協力なしにも軍事業務を行える力を持っていた。
何進は皇甫嵩を大将軍府で補佐させることを計画していたが、袁隗と張譲はこれに反対し、皇甫嵩を前線に送ることを強く求めていた。
洛陽の大将軍府での一幕。何進が皇甫嵩の出撃に関する書類の確認を行っており、李儒からの書簡を受け取る。
李儒は、動きが早すぎると疑われるため、準備を遅らせることを提案している。
何進はこの提案に同意し、問題が発生したと告げるが、実際には皇甫嵩に関する問題はなく、書簡自体にも問題はない。
しかし、張譲と袁隗が洛陽の政治で問題を引き起こしており、名家が官位を売買する制度を作ろうとしていることが何進の新たな懸念事項となっている。
洛陽の大将軍府で、何進と李儒が売官の問題について話し合っている。
何進は売官の概念に対して批判的で、この行為が漢の財政を改善するための策として提案されていることに疑問を抱いている。
李儒は、名家と宦官が自らの派閥を拡大するために官位を切り売りすることで、派閥間での権力と影響を拡大しようとしていると指摘する。
さらに、売官が報奨としての側面も持つと説明し、官位を売買することが特権階級の間で一種のステータスとなっている現状を示している。
何進は、李儒にも官位を「買ってやる」と冗談めかして提案し、官位売買を通じて洛陽の政治に影響を与える方策を練る。
この策略を通じて、名家や宦官の計画に穴を突き、自らの政治的立場を強化しようとしている。
また、この動きが洛陽の複雑な政治状況にどのように作用するかを検討している。
西暦185年春、漢の売官制度が施行された。この制度に対しては広く批判が集まっていたが、何進が二つの官位を購入したことで、「成り上がり」と酷評される事態となる。
しかし、何進がその一つを李儒に与えたことが、軍関係者や若手の名家出身者からは高く評価された。
李儒は推薦や後ろ盾がなく、成果だけで評価されて九卿に抜擢された。これが「唯才是挙」の先駆けとなる出来事であった。
五 涼州の乱
西暦186年5月、京兆尹・長安で李儒と董卓が会話を交わしている。
董卓が皇甫嵩の失脚の後始末を終えたことを報告し、さらに新たな面倒事の発生を示唆する。
これは洛陽から送られてくる軍使が実際には対抗派閥からの罠であり、これに対処するための賄賂や忠誠表明が必要であることを説明している。
洛陽の宦官や名家は、軍勢が前に出れば反乱軍は降伏すると誤解しているため、董卓が皇甫嵩の位置を守り続けていると信じ込んでいる。
また、董卓は今後の洛陽からのさらなる指示や援軍派遣に備えており、その中で張温が派遣される予定であることが示される。
張温の派遣理由は「董閣下の戦果が思わしくない」とされているが、実際には董卓は待機命令のみで活動していた。
会話の中で、董卓と李儒は洛陽の宦官や名家による政治的な策略をどのように処理するかについて議論し、現場での戦略や後方からの支援の必要性を認識している。
董卓は洛陽の連中が期待するような迅速な反乱の鎮圧を実現することはできないと考え、李儒によるさらなる指示や策略を求めている。
全体的に、この文書は洛陽の政治的腐敗と前線での軍指揮官の現実的な戦略とのギャップを描いており、李儒と董卓がどのようにこれを乗り越えるかが語られている。
また、洛陽からの不合理な要求と前線の軍指揮官の実務的な対応との対比が際立っている。
西暦186年9月、長安で孫堅が不機嫌である状況が描かれている。
孫堅と別部司馬は、反乱の鎮圧のため長安に来ていたが、指揮官である張温が積極的に兵を動かさないため、孫堅は極度の不満を抱いている。
張温は敵が自ら降伏することを望んでおり、これに孫堅は反対している。
孫堅は、反乱軍が一旦帰還すれば再び漢に反旗を翻すだろうと考え、即時の戦闘を主張している。
一方、張温は敵が補給を狙う可能性や、長安での待機の戦略的意義を説明しており、この戦略が結局は戦が終わらないと孫堅には見える。
孫堅は、書類仕事に対しても強い不満を持っており、政を学ぶことの重要性を理解しつつも、その作業の多さに圧倒されている。
李儒は、孫堅に長沙の太守になることを前提に政を学ぶよう命じており、孫堅はこれを無理な要求と感じているが、孫家のためにとの思いで学ぶことを受け入れている。
結局、孫堅は書類仕事から逃れるために前線で戦いたいと強く願っているが、現実は李儒や自身の家臣たちによってその動きが制限されており、張温はこれを孫堅の逃避行動とみなしている可能性がある。
西暦186年9月、長安にいる張温は李儒から提供された竹簡に記された情報に苦悩している。
その情報には、張純と烏桓が手を組んで蜂起すると記されており、更に元泰山太守の張挙も挙兵する予定だという。
この驚くべき情報を確認するうちに、張温は何故何進がこのような情報をもっていても事前に対処しないのか疑問を抱く。
彼の疑問に対し、李儒は何進がまずは彼らに従う者たちを炙り出すことを最優先にしていると説明する。
張温は、これが何進の戦略であり、漢に潜む不穏分子を一掃することを目的にしていると理解する。
また、何進はこの情報を利用して、将来的に張温に貸しを作ることも計画している。
張温はこの戦略が自己の地位を利用して官軍との関係を改善し、宮廷内の政治工作を有利に進める狙いがあることを悟る。
張温は、何進が洛陽での権力を安定させるために自分を利用していることを受け入れ、自分自身が勅命で西涼の乱を鎮める命令を受けているために、ただちに行動に移すことはできないと考える。
最終的に、張温は孫堅や陶謙といった軍内の主戦派の意見を抑えながら、戦争の準備を整える。
羌族や涼州軍閥との戦いが近づいており、彼らは官軍を打ち破る機会を求めている。
張温はこの情報を踏まえ、戦いに備えるための指示を諸将に下すことに決める。
西暦186年10月中旬、長安の城門前に官軍と現地諸侯軍の五万の兵が集められていた。
彼らの前には車騎将軍張温が現れ、董卓、李儒、孫堅といった将帥が並んでいた。
張温は出陣前の訓示を行い、「待ちに待った時が来た」と兵士たちを高揚させた。
彼は、官軍が積極的に動かなかったのは敵を追い詰めるためであり、すでに勝利は確定していると力強く宣言した。
張温の演説に兵士たちは勇気づけられ、「勝てる」と確信し、戦闘への不安が消えた。
彼は漢の偉大さと官軍の精強さを訴え、全軍に出撃を命じた。
この訓示は長安だけでなく涼州にも伝わり、戦闘準備が整ったことが確認された。しかし、この一連の行動が策の一部であることを知っている者は少ない。
中でも表情を変えない李儒はその真意を理解しているようであった。
涼州漢陽にて、辺章と韓遂が官軍の動きについて話し合っていた。
辺章は、彼らが自分たちを乱の主導者と見なしていることに憤りを感じていたが、韓遂は冷静に対応していた。
韓遂は、張温が動かなければ戦線が長引き、漢の経済に影響を与えることを理解しており、官軍の動きを好機と捉えていた。
また、董卓からの連絡に従い、必要に応じて退くことで官軍を引きつける策を採ることにしていた。
辺章は、敵の策略を破ることに自信を見せていたが、韓遂はその状況に適応しようとしていた。
彼らは罠があることを知りながらも、戦闘に備える準備を進めていた。
美陽にて、董卓は張温率いる官軍の遅延に腹を立てていた。
董卓と李儒は既に着陣しており、地元の利点と軍力を生かして準備を整えていたが、張温の本隊は未だ到着しておらず、これにより董卓の不満が募っていた。
この遅れは、張温が演説後に兵を動かしたにも関わらず、実際の進軍が準備不足で遅れていたためである。
また、官軍の出陣の準備には、天文官や占い師による諸々の手続きが必要であり、これがさらに進軍を遅らせる要因となっていた。
董卓が美陽に先着し、李儒も予定通り到着していたが、張温の部隊は実際はまだ長安から動けていなかった。
董卓は、李儒から依頼された計画に従い、戦闘の準備を進めていたが、敵が想定外の行動を取る可能性に対しても準備を整えていた。
戦後、董卓は配下に対し、戦の恐怖よりも李儒の冷徹な目が最も恐ろしかったと述べたという。
美陽に着陣した羌・涼州連合軍の将帥たちは、敵陣の前に設置された穴や土壁を見て、自分たちが官軍の罠にはまったことを自覚していた。
官軍の準備が十分すぎるため、彼らは戦う前から敗北を確信していた。
騎兵対策として設けられたこれらの防御は、連合軍が攻撃するには大きな障害となり、さらに敵からの脅威として焼き討ちの恐れもあったため、連合軍の騎馬隊には大きな危険が及んでいた。
羌・涼州連合軍の中で、戦場での退却を考える声が上がり始めた。
しかし、韓遂はその状況を見極め、羌族や涼州軍閥に撤退を命じることとなった。
夜襲によって敵陣から放たれる火の塊は、彼らの撤退を急がせた。
この戦は、董卓と李儒による計画的な作戦であり、敵勢力の飼葉や兵糧を焼き尽くすことに成功し、連合軍は官軍の激しい追撃により完全に崩壊した。
この美陽での戦いは、董卓と李儒の武名を高めることに繋がり、彼らの計略によって敵が戦略的に完全に打ち破られた。
戦後、生き残った羌族の者たちは、この戦いを「流星が我らの陣を燃やしたのだ」と表現し、その記憶を苦々しく語り継ぐこととなった。
美陽における李儒と董卓の会議で、敵軍の総数と自軍の現状が話し合われた。
敵軍は六万にも及ぶが、李儒と董卓が指揮する官軍は三万と数では劣るものの、十分な準備と罠が設置されていたため、自信を持っていた。
李儒は敵が前に進めば焼かれると認識しており、そのために無策で攻めてくることは考えにくいと見ていた。
董卓はその分析に納得していたが、李儒はさらに夜襲を提案し、その方法として投石器を使った独特な戦術を説明した。
投石器による攻撃は通常の攻城戦で使用されるものだが、李儒はそれを変則的に使い、敵の兵糧と特に飼葉を狙う計画を立てていた。
この戦術には、油を染み込ませた縄や藁を使って炎を飛ばすことが含まれており、敵の飼葉を燃やすことで騎兵の戦力を大きく削ぐことが目指されていた。
董卓は李儒の非常に計算された戦術に驚きつつも、その冷酷さと効果の高さを理解し、戦闘の準備を進めた。
この戦術により、官軍は夜襲を行い、羌族や涼州軍閥の飼葉を狙って大打撃を与えた。
戦後、董卓は涼州軍閥を徹底的に追撃し、多くの敵兵と指揮官を討ち取る軍功を挙げた。
この一連の行動により、董卓は以前に受けていた批判を払拭し、その武名を高めることに成功した。
おまけ
美陽の戦後、孫堅の率いる軍勢が特に顕著な活躍を見せた。
その結果、張温と李儒によって推挙され、孫堅は長沙郡の太守に任じられた。
一方で、戦が終わった後も税に関する書類作業が残っており、これを蔑ろにするわけにはいかないとの意見が強調されている。
しかし、孫堅は書類仕事に対する不満を李儒にぶつけているが、周囲からは李儒への敬称を使うよう注意されている。
六 涼州の乱の終わりと張純の乱
中平四年(西暦187年)五月、涼州の乱を鎮圧後の官軍は、武威郡を奪還して一時的に追撃を終了し、長安へ帰還していた。
長安では論功行賞が行われ、その最中に張純が河北で蜂起したとの情報が入った。
これに対し、張温と李儒は将軍府執務室で対策を練っていた。
張温は冷静に報を受け止めたが、李儒は張純が公孫瓚に敗れたことに困惑していた。
張純の軍勢が敗れた理由として、烏桓の騎馬民族が含まれていたにも関わらず、三千の騎兵に敗れた事実が理解しがたいと考えていた。
張純は敗れた後、長城を越えて逃亡した。これにより、官軍にとって予期せぬ問題が発生し、烏桓との離間を図る策が必要とされた。
李儒は烏桓を懐柔し、張純との離間を図る提案を行った。
彼の提案は、現実的でない長城越えの追撃を避け、内部から敵を割くことに焦点を当てていた。
最終的に、張温は洛陽への帰還を決定し、その間に烏桓との交渉を進める方針を立てた。
李儒は後方支援として弘農に留まり、現地での兵糧支援と文官業務に専念することになった。
この決定は、彼らが現場での即戦力を維持し、政治的な策略を駆使して状況を管理するためのものだった。
七 張純の乱の陰で
中平四年(西暦187年)八月、弘農郡にて、李儒が事件の背後にいる政治的な意図を語っている。
彼は公孫瓚が張純に勝利した戦いについて、その命令が袁隗や袁逢によるものと推測している。
李儒の分析によると、この命令は張温の立場を弱体化させるためのものであり、名家閥が自前の軍を持っていない状況を改善しようとする動きの一環だった。
公孫瓚を使って自派閥に引き入れ、武功を立てる機会を提供することが狙いだった。
李儒は、張純の失敗が戦術的な誤算ではなく、組織としての構造的な問題によるものだと分析している。
異民族との連携の失敗、異文化間の認識の違い、指揮系統の不一致などが彼らの敗北の主要因であったとしている。
さらに、李儒は、戦いの本質を理解し、数と兵の運用の効率が将帥の真の試金石であると語り、彼の分析は将来の戦略に役立てられるべき重要な教訓として、大将軍府での学びの材料にされている。
この議論を通じて、李儒はただの書類仕事を行っているわけではなく、彼の分析と戦略が将来の軍事行動において重要な役割を果たすことを示している。
彼の努力は、彼が単に事務作業をしているのではなく、具体的な戦略的価値を提供していることを強調するものである。
中平四年(西暦187年)十一月、漢帝国は黄巾の乱、涼州の乱、そして張純の乱という激動の時代に突入している。
主な登場人物として、李儒が弘農での生活を送りつつ、洛陽や長安の政治状況を詳細に説明している。
洛陽では文官たちが年末の準備に忙殺されており、張温は河北で張純の乱に対処中、董卓は長安に帰還途中である。
一方、孫堅は長沙郡の太守として熱い涙を流しながら新たな職務に就任している。
李儒は、弘農での官務や兵糧の手配を行いながら、悠々自適な日々を過ごしており、自身の立場を「漢帝国の直轄領である弘農郡の全権を握る代官」と表現している。
彼は現在、部下も上司もおらず、文官たちが精を出している洛陽から離れて、のんびりとした時間を楽しんでいる。
この物語では、李儒が政治的な洞察と洛陽の状況を織り交ぜながら、自らの優位性と弘農での自由な生活を語っており、それに満足している様子が描かれている。
彼は自分が予想した通りに弘農太守に任命される可能性を予測しているが、実際には彼を避ける形で他の名家閥や宦官閥の人間が派遣されていない状況も説明している。
八 西園三軍
中平五年(西暦188年)二月、李儒は洛陽の大将軍府執務室におり、年末年始の多忙を経て、荀攸に捕らえられ、何進の命令により執務室に連行された。
李儒は九卿でありながら、大将軍府のナンバー2の立場にある。
問題の発端は、国家公認の占い師による占い結果であり、その内容が宦官と名家連中によって流布された。
この占いの結果に基づいて、許諒殿と伍宕殿が新たな軍の創設を主張している。
何進と荀攸はこの提案に困惑し、その結論に疑問を持っている。
宦官と名家連中は、何進の掌握する軍部の権力を分割しようとしており、その動きは彼らが軍事力による権威の補強を求めていることから明らかである。
しかし、これは彼らの私兵設立につながる恐れがあり、その設立が帝の承認と私財で行われる場合、李儒たちはそれを阻止する手立てがない。
最終的に、何進と荀攸は、宦官や名家が自前の軍を持つことを認めざるを得ない状況にあり、軍の新設を承認することと、追加の官位を買う提案がなされる。
これにより、帝の直属の配下としての軍勢が確立される計画が進んでいる。
荀攸と何進は、現状を受け入れつつ、可能な限りの対策を講じることに集中している。
中平五年三月、何進は帝に対して直轄軍の設立を提案し、帝はこの提案を受け入れて何進に全国から兵を集めるよう勅命を下した。
何進は司隷、豫州、冀州、兗州、荊州などから兵を集めると共に、大将軍府の人間を朝廷に出向させ、直轄軍の設立を積極的に支援した。
数ヶ月後、無上将軍劉宏が率いる皇帝直轄軍「西園軍」が正式に組織された。
この西園軍の設立が、後に漢帝国を震撼させる契機となるとは、帝も宦官も何進も予想していなかった。
幕間一 高祖の風
中平元年十一月、洛陽に帰還する官軍と共に、地元の名士に推挙された義勇軍も存在した。
このとき何進は功績ある者に報奨を与えると宣言し、李儒はこれを厳格にチェックしていた。
中には鄒靖の指揮下で功を挙げた義勇軍もおり、その中の一人が涿郡涿県の筵売りであり、劉氏の遠縁にあたる劉備であった。彼は盧植の弟子であり、後の蜀漢の皇帝となる。
何進は劉備の功績を認め、彼に報奨を与えることを決めた。劉備の扱いには慎重さが求められたため、何進は李儒に対して彼の処理を迅速に行うよう指示した。
中平元年十一月、洛陽にはさまざまな官軍と共に、様々な義勇軍が帰還していた。
これらの義勇軍は、地元の名士に推挙されたり、自発的に組織されたものだった。
何進はこの時、功績ある者全てに報酬を与えると宣言していたが、この報酬配分のチェックは李儒が行っていた。
中でも、劉備という男が率いる義勇軍が注目された。
劉備は涿郡の筵売りであり、劉氏の遠縁であるが、鄒靖の指揮のもとで功を挙げていた。何進は劉備に報酬を与えることを決め、李儒にその処理を迅速に行うよう指示した。
劉備の扱いには注意が必要であったが、その背景には彼が持つ属尽コミュニティとの関連もあった。
幕間二 何進と李儒
光和五年の某日、河南尹の執務室で何進は若い腹心、李儒と共に職務をこなしていた。
何進は以前は自身で全てを管理しており、非常に忙しかったが、最近は李儒が代わりに活動し、報告書のチェックなどを行う管理職としての役割を果たしていた。
ある日、何進は李儒から提出された報告書を読み、最後の「面白い内容」に目を通す。内容を確認した何進は驚き、真偽を問う。
李儒はその情報が確かであると答え、何進はそれを受け入れ、李儒に詳細な説明を求める。
この場面では、李儒が何進の信頼を得ていること、そして何進が彼の意見や報告を真剣に受け止めている様子が描かれている。
李儒は何進の管理下で重要な位置を占め、河南尹の職務を効率的にこなすことで、彼の立場をさらに固めている。
また、李儒は何進からの厚い信頼を背景に、通常では許されないような直言も許されている。
このエピソードは、李儒が単なる若造ではなく、重要な政治的役割を担う神童であることを何進が認識する瞬間でもある。
李家の神童と司馬家の鬼才
中平四年の十二月、弘農の弘農丞である李儒の下で、特別な扱いを受けている司馬懿は、資料室で資料を探索していた。
この時、彼は李儒が差配していることを認める鄭泰と会話を交わす。
司馬懿は李儒の功績について理解しようとしており、その過程で資料室に彼の功績についての資料がないことに困惑していた。
鄭泰は、李儒が自己の功績を資料に残すことを好まないため、詳細が記載されていないと説明する。
李儒は、目立つことを嫌い、「悠々自適な隠居生活」を求めていると言う。
しかし、司馬懿との対話を通じて、李儒の非凡さやその異常な行動が、彼の周囲からの評価や認識にどれほど影響しているかが浮かび上がる。
また、鄭泰は、李儒が弘農の開墾を進め、その土地の生産量を大幅に増加させた経緯を説明するが、司馬懿にはそれが単なる日常の一部として捉えられている。
最後に、李儒に関する噂が事実よりも過小評価されているという現象について説明がなされ、司馬懿はこの情報を受け入れる。
司馬懿は李儒の真の能力や成果を理解しようとするが、それがどれほど困難であるかを理解し始める。
この一連のやり取りから、李儒が如何に異常な存在であるか、そしてその異常さが彼の周囲の人々にどのような影響を与えているかが明らかになる。
袁紹と曹操
漢帝国全土を揺るがす一連の乱から黄巾の乱が始まり、涼州の乱、張純の乱と続いたが、これらは収束に向かっていた。
洛陽では乱の鎮圧を祝して、市民から名家、宦官までが宴を楽しんでいた。
この平穏は、元々戦乱から遠い洛陽の市民にとって特に対岸の火事のようなものであり、乱の鎮圧は彼らにとって非常に喜ばしいことだった。
中平五年の冬、曹騰の屋敷には曹操と袁紹が会話していた。
袁紹は曹操に、新たに軍が設立されるという情報を伝える。
この軍の校尉には数名が予定されているとのことで、宦官の蹇碩が筆頭になる予定であることは曹操も知っていたが、袁紹にはその情報が漏れていなかった。
曹操は袁紹を煽てつつ、彼らがどれだけの情報を掴んでいるかを探っていた。
曹操と袁紹は幼い頃からの付き合いがあり、表面上は友人関係を保っているが、互いに相手を利用する計画を持っており、袁紹は曹操を格下と見なし、曹操は袁家を競争相手として警戒している。この様子から、彼らの間の複雑な関係性が窺える。
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