小説「偽典・演義~とある策士の三國志~ 2 何進伝.2」感想・ネタバレ

小説「偽典・演義~とある策士の三國志~ 2 何進伝.2」感想・ネタバレ

どんな本?

「偽典・演義 ~とある策士の三國志~」は、日本の社畜サラリーマンが突然古代中国に転生する物語。

転生先は三国志きっての策士である李儒。

彼は成り上がり者の大将軍・何進の部下に就活し、黄巾の乱が勃発する中国全土で自分の出世のチャンスを迎える。

この時に、後に暴君と呼ばれる董卓が現れ、物語は妄想炸裂な展開を向かえる。

このシリーズは、三国志の歴史的背景をユニークな視点から描いており、李儒の活躍や周囲のキャラクターたちのドラマが楽しめる。

読んだ本のタイトル

偽典・演義~とある策士の三國志~ 2
著者:仏ょも 氏
イラスト:流刑地アンドロメダ  氏

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あらすじ・内容

「黙って殺される阿呆がどこにいるってんだ?」


突然の霊帝崩御!

跡目をめぐって大将軍何進は反対派を粛正。

しかし霊帝の皇后だった妹の何后は

弟・何苗とともに宦官を擁護しようとする。

何進は何后を説得するため

危険承知で宮中に参内するが…

大将軍のスーパー・ウルトラ・バイオレンス、炸裂!!


第2回アース・スターノベル大賞奨励賞受賞作!

偽典・演義~とある策士の三國志~ 2

第九章:西園軍発足 中平五年(188年)10月、洛陽宮中・平楽観で西園軍の閲兵式が行われ、皇帝劉宏が演説を行う。この西園軍の設立はスケジュール遅れや財政問題などで難航し、官僚間の信用も低下している。宦官たちは軍の維持費に無知で、調整が必要な状況である。拷問のような式典の後、李儒は何進から呼び出され、何進が宦官と名家による軍事介入の問題を批判する場面が描かれる。

第十章:洛外でのこと 中平五年(188年)、洛陽の大将軍府で、何進が任命した尉が督郵を襲った事件が報告される。この尉は地元民からの支持を受けており、督郵を襲った動機が議論される。何進は加害者に賞金を懸けることを決定し、その行為を公表する。一方、宦官たちは何進の動向を注視しており、洛陽では宦官と名家閥の対立が続いている。

第十一章:西園軍のその後 中平六年(189年)三月、洛陽の大将軍府では西園軍の校尉数名が不正を行ったために問題となり、何進はこれによる国家の威信の失墜に直面する。何進自身は経済的な理由から軍の維持を嫌悪しているが、新たな後任選びが難航している。荀攸は李儒が使える人物であると認識しつつ、曹操に関する情報を提供し、何進は曹操を支援することを決定する。

第十二章:皇帝崩御 中平六年(189年)、皇帝劉宏が崩御し、後継者問題が深刻化する。何進は皇帝が重篤であると公表し、皇帝の長子弁を仮の太子として立てようと提案するが、宦官たちはこれを偽勅として扱い、政治の混乱が加速する。何進は宦官に対抗するために動き、その結果、何進の影響力が拡大する。

第十三章:江東改め江南の虎 皇帝劉宏の崩御後、宦官勢力が弱体化し、何進と袁隗はこのチャンスを利用し、宦官支持派を排除する動きを見せる。地方での問題が起こり、孫堅は南郡からの報告書状を読み、劉表が土豪たちを謀殺したことに疑問を持ち、対策を協議する。

第十四章:若き英傑の酒宴 中平六年(189年)七月下旬、洛陽での葬儀後、袁紹と曹操が盃を交わしている。袁紹は何進に対する不満を表明し、曹操は現状を諭しながら、名家閥の内部の確執を利用して何進に対抗する可能性を示唆する。

第十五章:洛陽の泥の中で 中平六年(189年)八月、何進の腹心である李儒が洛陽を離れる。これにより、宦官の張譲は何進が袁紹の暴走を利用しようとしていると感じ、宦官と名家閥が互いに疲弊する様子を見守る状態が続く。何進は袁紹の策を黙認し、宦官を抹殺するつもりであると確信する。

感想

本作は、中国三国時代を背景に、李儒の視点から大将軍何進の激動の生涯を描いた作品である。
何進は自身の立場を利用し、宦官や敵対勢力との駆け引きを巧みに操りながら、漢帝国での権力争いにも巻き込まれる。
彼の妹、何后は宦官を擁護しようとするが、何進はこれを阻止すべく奮闘する。
そこにボンボン袁紹が、宦官の暴虐に鬱憤が溜まった禁軍兵達を煽動して虐殺を行い、宦官と何進を殺ししまう第二巻。

あぁ、、魅力的な何進が、、

物語は何進の強烈な個性と戦略が際立っており、政敵を粛清しつつも、時には敵対する宦官たちと協力する場面もある。
この複雑な人間関係の中で何進は独自の正義を貫き、多大なリスクを背負いつつも、終始一貫して自己の信念に基づいて行動していた。
それをボンボン袁紹の暴走が潰してしまう。
歴史通りだが、、

また、何進の生涯を通じて、歴史の裏で動く「小さな人々」の影響力も描かれている。
たとえば、彼の妹何后や部下の李儒など、表舞台には立たないが歴史の影で重要な役割を果たす人物たちが多数登場し、エピソードを創造してくれた。
これにより、歴史の大きな流れだけでなく、個々の人物の選択がいかに歴史を動かすかを感じ取ることができた。

何進が大将軍としての地位を固めつつも、彼の政敵や宦官たちとの間での策略戦が続く中、袁紹との関係や董卓の登場など、物語はさらに深い謀略に満ちた展開を見せる。
この複雑な人間模様が三国志の魅力でもある。

全体として、この作品は三国時代の権力闘争を背景に、何進の野心と策略、そして彼を取り巻く人々の生き様を鮮明に描き出していた。
その過程で見せる人間ドラマは、史実とは異なる可能性を提示しながらも、何進のキャラクターが織り成す物語には深い魅力があった。

読後感としては、歴史に埋もれた「もう一つのIF」を垣間見ることができ、非常に興味深く読ませてもらった。

余は満足じゃ!←何様?

最後までお読み頂きありがとうございます。

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偽典・演義~とある策士の三國志~ 3 反董卓連合
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偽典・演義~とある策士の三國志~ 4 反董卓連合

その他フィクション

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フィクション(novel)あいうえお順

備忘録

九  西園軍発足

中平五年(西暦188年)10月、洛陽宮中・平楽観にて、秋口に入り、文官たちは繁忙期を迎えている。
その一方で、他の部署は仕事を溜め込むことが普通とされ、追加の付け届けをもらおうとする姿勢も見られる。
また、宮中では皇帝劉宏による西園軍の閲兵式が行われており、皇帝が得意げに演説している。
この西園軍の設立は多くの問題を抱え、スケジュールが遅れたり、財政問題や官職の問題でグダグダな状態が続いている。
特に宦官たちは軍の維持費に関して無知で、予算不足による軍規模の縮小など、さまざまな調整が必要とされた。
その結果、西園軍は信用を失い、名家や宦官の間での信用も低下している。
さらに閲兵式は、宦官と名家の意向で時期が変更され、実際には演説が繰り返されるだけで内容に進展がない状況が続いている。

拷問のような式典が終わった翌日の夜、何進から呼び出された李儒は、上司と同僚がローマから来た葡萄酒を飲む様子を目にした。
何進はかなり酔っているようだったが、まだ会話が成立しているため、深刻な酔いではないと判断される。
何進との会話の中で、宦官と名家による軍事介入の問題が議論され、何進は第一の直轄軍の補強を要求する。
さらに、荀攸が事実を正確に報告する監督役として軍に派遣されるべきだと提案される。
この議論から、何進が宦官や名家を強く批判し、彼らに対する憤りが感じられる。
同時に、李儒は何進の肝臓の強さを認めつつ、彼が宦官や名家に対してどのように報復するかを計画している様子が描かれている。

一〇  洛外でのこと

中平五年(西暦188年)のある日、洛陽の大将軍府で、郡が派遣した督郵が襲われた事件が報告される。
督郵は公式に漢帝国から派遣された役人であるため、この事件は大問題として扱われる。
犯人は何進が任命した正式な尉であり、任命責任が問われている。

何進は事件について議論し、加害者が逃亡したため捕縛は困難であると述べられる。
加害者は郡の住民からの支持を受けやすい背景も持ち、地方では属尽(皇族に連なる人物)と見なされており、これが彼らに対する庶民の対応を難しくしている。

何進とその部下たちは、この属尽がなぜ督郵を襲ったのかを疑問に思い、報告書を基に事情を把握しようとする。
属尽は督郵が自分を無視したことに腹を立て、その行動に出たとされる。何進はこの説明に納得がいかない様子を見せる。

最終的には、何進は加害者に賞金を懸け、その行為を広く告知することで再就職を困難にする策を採ることを決定する。
そして、加害者が督郵殺害の罪で賞金首となる。

洛陽から正式に賞金首にされた「二人の大男と小柄な男を連れたやたらと耳が大きな属尽」に関する手配書が漢全土に広がる前、関係者たちはその手配書を見て混乱していた。
彼らは、督郵を木に吊るして殴打した後に死亡させたという罪で指名されているが、実際にはその場で死んでいない可能性もある。
小柄な男は、無視されたことへの反応として起きた暴力を嘆き、自分たちの行動を反省している。
しかし、他の二人は、挨拶を無視されたことへの怒りを表している。

問題をどう処理するかについて議論する中で、彼らは官憲が来た場合にどう対応するかについても検討し、即座に逃げることを決定する。

しかし、彼らが逃げる計画を立てている間に、彼らの主君である「やたらと耳が大きな男」はすでにその場から姿を消していた。

弥天安定王と名乗った張純が漢に反旗を翻し、烏桓の丘力居、黄巾の残党、役人の腐敗を憂う者らと挙兵し、幽州、青州、冀州などで乱を引き起こしていた。
この張純の乱を平定するために最初に派遣されたのは車騎将軍張温であったが、彼は洛陽の連中によって途中で任を解かれた。
その後、孟益が中郎将として乱の鎮圧にあたったが、公孫瓚と共に何度も勝利を収めるも完全な平定には至らず、洛陽の役人から批判されて任を解かれた。
孟益らは乱に参加していた者たちの大半を長城の北へ押しやることに成功していたが、洛陽の役人たちはこれを考慮せず、孟益を左遷させた。
公孫瓚は洛陽の役人の非難を無視し、引き続き烏桓との戦いを続ける状況にあった。

中平六年(西暦一八九年)一月、幽州広陽郡で公孫瓚が洛陽から派遣された人物と面会し、故意に不機嫌な態度を取ったが、相手はそれを咎めずに理解を示した。
このやり取りを通じて公孫瓚は、相手が単なる皇族としての威を振るうだけでなく、実際の状況を理解している人物であると評価し、その価値観を受け入れることに成功した。
公孫瓚は洛陽の役人たちと異なり、戦場での実際の困難と皇族の威だけでは問題が解決しないことを理解しており、現場の実情に基づいた行動を優先していた。
この出来事は、洛陽の文官が支配する中央政府と異なり、地方の武官が直面する現実的な問題への対処が優先されるべきであるという公孫瓚の見解を示している。

一一  西園軍のその後

中平六年(西暦一八九年)三月、洛陽の大将軍府では、西園軍とその指揮官、西園八校尉についての問題が顕在化していた。
下軍校尉の鮑鴻、佐軍校尉の馮芳、左校尉の夏牟が不正を行ったために断罪され、助軍校尉の趙融が拷問にかけられている状況である。
この状況は、何進大将軍にとっても政敵の失脚と同時に国家の威信の失墜を意味していた。
何進はこの問題に責任はないものの、国家公認の軍の失態が国家の威信に関わるため、痛みとも痒みとも言える状況にあった。
何進自身、経済的観点から軍勢の維持費を嫌悪しており、現在の事態には何とも言えない複雑な感情を抱いている。
西園軍の四人の校尉が空席となっており、新たな後任を決めるのが難航している理由は、中抜きが罪になるという現実が明らかになり、責任逃れに利用されるような役職に就く者がいないためである。
このグダグダな状態が、何進にとっては相対的に自身の評価を高める結果となっているが、それに対しても複雑な心境である。

荀攸の視点から見ると、李儒が通常の「使える人物はいないとは言わない」姿勢から一転して「使いたくない」と言明したことは、極めて異例のことであった。この意見に何進も驚いている様子を見せた。
李儒は洛陽の常識を超えた行動を取りがちで、この場合も西園八校尉が無力化した背景には、彼の「帝の財の横領は罪」という行動があった。
その結果、今までの常識が罪とされ、袁紹や曹操を含む多くの人々が何をどうしていいかわからなくなり、自身の考えで動けなくなってしまったのだ。

今回も李儒の判断で、敵と認定された袁紹は動きを完全に封じられた。
李儒のこのような行動は、彼がどれだけ計算高く行動しているかを示している。
さらに、李儒は他人に対しても尊敬を払い、官位や実績が自分より上である荀攸にも適切に敬意を表している。
このような姿勢から、荀攸は李儒に対して「敵」と見られない限り安全だと感じているが、もし「無能」と判断された場合の未来は予測がつかない。

問われたことに答える中で、荀攸は曹操についての情報を提供する。
曹操は曹騰の孫であり、洛陽の北部尉として名を広めた人物である。また、曹操は法に則って蹇碩の叔父を殴り殺し、その名を高めた。
曹操は、黄巾の乱で武功を挙げた後、東郡太守に任命されたが、病を理由に赴任を拒否し、隠棲した後に西園八校尉となった。
曹操は名家からも評判が悪くなく、宦官や軍部とのつながりも持つが、現在は基盤が弱く、強化には何進の後ろ盾が必要である。

李儒は荀攸の意見に基づき、曹操の様々な繋がりを有効活用すべきであると考えていることを理解した。
しかし、李儒は曹操が表と裏を使い分ける人物であることを警戒しており、この時代の社会的抑圧の影響を考慮している。
さらに、彼は曹操が特に物理的な強さを持っているわけではなく、むしろ哲学的な力を持っているのではないかと推測している。

何進は、荀攸が提供した情報を元に、曹操を支援することで彼の立場を強化することができると見ているが、李儒は曹操の過去の行動や評判に基づくリスクを強く意識している。
特に、曹操の過去の行動により名家の間での評判が悪いことが、彼を支援する際の大きな障害であると考えている。
また、李儒は曹操が自分の名前を不当に利用するリスクにも懸念を抱いており、その点でも警戒している。

この議論の中で、何進と荀攸は曹操をどの程度支持するかについて慎重な姿勢を見せており、彼の行動の過去と現在を慎重に評価している。
李儒は、曹操が将来的に問題を起こす可能性があると考えており、その点で何進や荀攸とは意見が異なっているようだ。
最終的に、彼らは曹操を密かに監視し、その動向を注意深く観察することに同意している。

何進は、李儒から皇帝の近い崩御という衝撃的な情報を受け取り、その真偽を問うている。
李儒は、宮中の典医から得た情報を基に、皇帝の病状が悪化していると説明しており、何進と荀攸はこれに驚いている。
何進は当初、この情報の重要性を認識しておらず、李儒の話し方にも困惑している。

李儒はさらに、皇帝の崩御後の政治的混乱を防ぐための対策を提案しており、何進はその提案に徐々に納得していく。
特に、帝位継承問題に介入し、政治的安定を図る必要性について深刻に考え始めている。
何進と荀攸は、皇帝の病気と政治的なリスクを真剣に受け止め、その情報がどのように帝国の未来に影響を与えるかを検討している。

李儒は、皇帝劉宏の近い崩御を見据え、政治的な動きを検討している。
彼は、皇帝がもはや形骸化した存在に過ぎないと考え、宦官たちが皇帝の遺勅を捏造することを前提に策略を練る。
彼の計画は、弁を太子として立てることで、将来的に宦官や名家の力を削ぎ、新たな権力構造を築くことにある。
李儒は、弁が即位を認められる状況を作り出すために、宦官の発言の信憑性を落とすことを目指す。

荀攸とともに、李儒は皇帝の病状を公にし、太子を立てることを進言する計画を立てている。
また、彼らは西園八校尉の処置についても議論し、光禄勲がその管理を担うべきだと結論づける。
このプランにより、彼らは皇帝の後継としての権威を確立し、帝国の未来を掌握しようとする。

一二  皇帝崩御

霊帝こと劉宏が崩御した後、帝国内で後継者問題が深刻化した。
霊帝の政治的失敗や宦官の重用、売官などにより国は乱れ、帝の死を悼む者は少なかった。
霊帝が直接後継者を指名しなかったため、権力争いが激化する。
何進は、帝が重篤であると公表し、帝の長子弁を仮の太子として立てることを提案するが、霊帝はこれを却下し、蹇碩に劉協を支持させる勅命を発布したと発表された。
しかし、この勅命は宦官間で偽勅とされ、政治の混乱が加速した。

何進と袁隗は独自に政治を行うことを宣言し、一時的に帝を政治の場から排除。
これにより何進の影響力が拡大し、宦官たちは何進に対抗するために動いたが、その計画は李儒によって露見し、計画者は処刑された。
董重とその一族も何進によって排除され、劉協の後ろ盾は失われた。

最終的に、霊帝の母親である董太后が追放され死亡したことで、劉弁の即位がほぼ確定し、何進に反対できる勢力はほとんど残らなかった。

何進が敵を前にして興奮し、戦勝を喜んでいる様子が描かれている。
彼は敵が自爆に近い形で敗れ去ったことを愉快に思っているが、その背景には彼の計画と手配があったことが示唆されている。
一方で、何進の部下である李儒は、まだ完全に敵が死亡していない可能性を懸念し、何進に現実に引き戻すよう助言している。
李儒は、何進が興奮することなく、まだ潜在的な脅威に対して注意を払うべきだと考えており、食事や酒に毒が入っていないかなど、細心の注意を払うよう勧めている。

さらに、何進と李儒は、宦官の影響力を削ぐ計画について話し合っている。
李儒は、宦官が権力を持ちすぎないよう、適当な人物を配置して管理する方法を提案しており、この戦略には王允が関与する可能性がある。
王允は宦官に対して批判的であるが、帝を支持しており、彼が宦官を適切に管理する役割を果たすと見られている。
この策略は、宦官の力を適切に制御し、何進の権力を確固たるものにすることを目的としている。

一三  江東改め江南の虎

皇帝劉宏の崩御が発生した。
この出来事は国家にとって大事であるべきだったが、劉宏が洛陽で宦官に依存して政を行っていたことや、彼の死後に生じた後継者問題などにより、宦官の力が衰えてしまった。
これにより、宦官勢力が弱体化し、何進と袁隗がこのチャンスを利用し、洛陽や地方から宦官支持派を排除する動きを見せた。
これにより、宦官やその支持派が権力から排除され、漢帝国の再興が期待されたが、それは容易なことではなかった。
清流派と称する者たちもまた、自己の腐敗を自覚していないという問題があり、彼らの台頭が地方でさまざまな問題を引き起こすこととなる。

中平六年(西暦一八九年)七月上旬、荊州・長沙郡において、孫堅は南郡からの報告書状を読み、内容に驚愕する。
報告によれば、新たに荊州刺史に任じられた劉表が宜城で土豪たちを謀殺し、南郡の襄陽を州都にすることを宣言したという。
この情報に対し、孫堅とその部下黄蓋は信憑性を確認しつつも、劉表の行動に疑問を持つ。
劉表の策略により、彼が支配する地域では短期的な混乱後に統治が容易になると考えられるが、これが長期的に見て漢帝国や地方の安定にとって最善かは不明である。
孫堅と黄蓋は今後の対策を協議し、孫堅が洛陽に赴くことを決断する。
彼らは劉表の策略が持つ潜在的な影響について深く考え、孫堅が洛陽へ向かう準備を始める。

一四  若き英傑の酒宴

中平六年(西暦一八九年)七月下旬、洛陽での先帝の葬儀が一段落した夜、名家閥と宦官閥の旗頭とされる二人の青年が邸宅の一室で盃を交わしていた。
袁家の袁紹は情熱的に恨み言を吐きながら飲み、彼に対面する曹操は大宦官曹騰の孫であり、太尉となった父を持つ人物である。
袁紹と曹操は同じ学問所で学んだことがあり、普段は派閥を超えて交流している。
お互いに利害関係を計算しながら接しており、最近の話題は主に力を持つ大将軍とその配下についてであった。

中平六年(西暦一八九年)七月下旬、洛陽の夜、曹操と袁紹は邸宅で盃を交わしていた。
二人は名家閥と宦官閥の代表でありながら、学問所での同級生という共通点があり、利害が一致する形で交流を持っていた。
この日の主な話題は、大将軍である何進とその配下についてである。
曹操は袁紹の愚痴に対し、現状を諭し、名家閥の内部の序列や確執を利用して何進に対抗する可能性を示唆している。
また、袁紹は何進に対する不満を強く表現しており、名家としてのプライドと外戚に対する敵意を露わにしていた。

曹操が何進のもとへ火急の用事で駆けつけたという。
袁紹との酒宴が終わった直後の出来事である。
どれほどの計画であっても、一度露見してしまえばその意味を成さないため、曹操は急ぎの対応を求めたのである。

一五  洛陽の泥の中で

荀攸から日報を受け取っていた何進は、曹操からの急な訪問について考えていた。
荀攸は、この訪問が袁家と関係があるのではないかと推測している。
何進と荀攸は、曹操が持ち込むであろう情報を具体的に把握しておらず、予測に頼るしかなかった。
この情報不足が、交渉において彼らを不利にさせる可能性があった。
しかし、荀攸と何進は、曹操が速やかに行動したために情報が伝わったと考えていた。
そして、何進は曹操の動機を冷静に評価する余裕があった。
この対応が何進としては自然であった。

李儒の視点から語られる。
袁紹と曹操が密談し、袁紹が董卓らを呼び出すことを宣言したことを曹操が大将軍府に報告する。
李儒は曹操の迅速な行動を評価し、何進も李儒が曹操を非難する意図はないと確認する。
しかし、李儒は何進と荀攸から誤解されがちで、時に彼らには過剰な警戒をされることに苛立ちを感じている。

一方で、何進は曹操が報告した情報を受けて、曹操を無実として扱う決定を下す。
李儒は、警戒すべき多くの劉氏を観察しているが、彼自身も何進や荀攸との誤解を解き、無実の意図を説明する。
李儒は、何進や荀攸に自分が容易に曹操を排除できることを示すことで、彼らの間の信頼を確保しようと努める。

この話の流れで、李儒は自分が状況を操ることができる強い自信を持っており、自分の権限と能力を適切に活用することを計画している。
全体的に李儒は、自分の立場を利用して何進の信頼を深め、自分の隠居生活への夢を守ることに焦点を当てている。

中平六年の八月、何進の腹心である李儒が何進の命令により洛陽を離れた。
この行動は公然とされ、洛陽にいる者たちに広く知られていた。
この報を受けて、名指しで処刑宣言を受けた十常侍の張譲は特に強く反応した。
彼は、何進が袁紹の暴走を利用しようとしていると感じた。

張譲は、袁紹の行動が宦官閥の勢力減退を利用する名家閥の動きと見えることに悩んでいた。
しかし、袁紹の行動は何進による計画の一環であるとの確信も持っていた。
洛陽では一般的には宦官閥と名家閥が互いに疲弊するのを待つ様子見の状態が続いていた。

一方で、袁紹の動きに対する袁家からの具体的な行動はなく、彼らは何進の次の動きを待っていた。
彼らにとって袁紹を犠牲にして問題が解決するならそれで良いと考えていたが、一族全体が巻き込まれる事態は避けたいとしていた。

最終的に何進は袁紹の策を黙認し、これにより張譲は何進が宦官を抹殺するつもりであると確信した。
何進は曹操に対して、宦官連中に袁紹の計画が進行するタイミングで安全な場所へ避難するよう指示していた。

この状況の中で、張譲は自身が極めて厳しい立場にあることを理解し、慎重に行動を選んでいた。
彼は何進の計画によって自らの立場が危うくなることを認識しながらも、どのように対処するか決定的な方法を見出せずにいた。

中平六年八月、洛陽で何進の命令により、その腹心である李儒が洛陽を離れた。
この事実は広く公知されていた。
これに反応したのは、宦官の張譲で、彼は何進が袁紹の行動を利用しようとしていると確信していた。

何后である彼女は、張譲ら宦官たちと会見し、彼らに何進に対する取り成しを約束した。
何后は南陽の肉屋の家に生まれ、郭勝と何進によって霊帝に差し出され、美貌を武器に後宮で生き延びてきた。
後宮での彼女の生活は困難で、生き延びるためにさまざまな手を尽くし、最終的に霊帝の目を引いて皇后になった。

彼女は王美人が息子を産んだことで自分の子の立場が脅かされると感じ、宦官の助けを借りて王美人を毒殺した。
これが霊帝の不興を買い、彼女はますます孤立した。
しかしながら、何進の出世により彼女の地位は一時的に保たれた。

何進が十常侍の力を否定していたが、何后にとって宦官は自分を守る盾であった。
彼女は兄の何進が亡くなる可能性を考慮し、彼以外の力もつけるべきだと考え、宦官を利用し続けることを決意した。
何后は異父兄の何苗と連絡を取り、彼を使って何進に影響を与える計画を練っていた。

何進は後ろ盾も経済基盤もない中、天性の嗅覚と政治的センス、謀略の才能をもって洛陽で権勢を誇っている。
周囲は李儒が何進を支えていると見ているが、実際は何進自身の力で大将軍に登り詰めた。
何進の出自は食肉加工業者であるが、これは洛陽内で彼を見下した人々にとって油断を誘う策として逆に有効であった。

問題は何進の家族関係にある。妹の何后は、宦官を利用して後宮での権力を手中に収め、その出自が彼女にとっては武器となっている。
しかし、弟の何苗は見識や能力がなく、飾りとしての存在でしかない。
何苗が宦官の一部を擁護するようになり、何進の一門が割れていることが外部に露呈しているのが現状である。

この家族関係が何進にとって弱点となりうるが、彼自身の強固な権力と軍事力がなければ、何后も何苗も屍となっていたかもしれない。

彼らには何進の意志を理解し、それに忖度することが最善の行動であるが、その理解が不足していることが問題である。

何進は張譲の助命嘆願を破棄しながら、何苗と何后の行動を非難する。
何苗は血のつながりがなく、能力が伴わないにも関わらず、自身の立場を過大評価している。
何后と何苗は張譲を利用しようと考えているが、何進はこれに反対し、宦官全体を抹殺する意図はないと強調している。ただし、有力な宦官を排除する計画は持っている。

荀攸は何進の方針に同意しつつも、何苗の暴走や、李儒と董卓の動向に懸念を示している。
李儒の行動は宮廷の既存勢力に衝撃を与え、何進が参内して何后を説得する際の危険性を議論している。
何進は十分に準備して参内することを計画しており、兵を連れて行くことで宦官からの横槍を防ぐ意向だ。

この計画は何進の威厳と宦官の影響力削減に賭けたものであり、何后や劉弁に対しても宦官の排除を促すための行動である。
荀攸と何進は、宦官の勢力削減に向けて慎重に動いているが、その結果がどうなるかはまだ未知数である。

何進が宦官を信用せず、直接何后に上奏する意向を宣言し、その計画が洛陽の多くの勢力に好意的に受け入れられた。
一方、宦官たちは反発したが、彼らの意見は重要視されなかった。
多くの名家は何進の計画に反論せず、何后も何進が護衛を連れて来ることに異を唱えなかった。これは、何進が張譲らの宦官たちからの暗殺を防ぐためであった。
荀攸の戦略として、何進の布告は成功し、彼の参内が進むにつれて、宦官たちは自分たちの立場が危うくなることを恐れ、散々な行動を見せ始めた。
この動向は何進の権力の確立と宦官の影響力の低下を示している。

何進が何后と会談するために、何后の居る後宮に禁軍を連れて参内した。
この会談は、外戚としての役割で行われ、格式的なものではなく家族としての意味合いが強かった。
宦官は入室を禁止されており、万全の警護体制が敷かれていた。
会談の目的は、何后を説得し、張譲ら宦官の排除を図ることにあったが、何苗が予期せず参加し、彼の誤解と思い込みが説得を困難にした。
何苗は何進が名家に操られていると確信し、何進と何后に対して宦官を排除するのではなく、利用するべきだと主張した。
しかし、何進の計画は何苗の介入により複雑化し、最終的には何進の目的を達成することはできなかった。
結局のところ、何進と何后の意見の相違は解消されず、宦官排除の策は頓挫した。

武装した兵による宮中侵犯は、漢という国において重大な犯罪とされる。
何進と荀攸は宦官やその関連者が脅威と判断し、その防御に備えていた。しかし、袁紹が宮中に侵入するという行動は想定外であった。
袁紹は西園軍の中軍校尉として、制度上禁軍の指揮権を持ち、加えて虎賁中郎将として皇帝直属の部隊も指揮できる立場にあったため、法的にはその行動が正当化される余地があった。
袁紹の行動は、何進が自ら兵を率いて宮中に入ったことから、「何進の動きを監視する」という口実が与えられ、宦官排除の名のもとに進行された。
その結果、袁紹の軍勢は最初の六百人から急速に拡大し、最終的には宮中の女官や宦官を惨殺し、名家閥としての地位を確保しようとする袁紹の野望が明らかとなった。

張譲ら十常侍は、何進の参内に合わせて彼を暗殺する多様な計画を立てていたが、毒殺の失敗後、実力行使を視野に入れていた。
しかし、計画が進む中、意外な展開が発生する。
袁紹が兵を率いて宮中に乱入し、宦官狩りを開始したため、張譲らは逃走を余儀なくされた。
逃走中も袁紹の行動を理解し、戦略的に対処しようと試みたが、何進や宦官としての自分たちの命運は脆弱であり、生き残りを優先せざるを得なかった。最終的に彼らは抜け道で何進と遭遇し、計画外の混乱に陥る。
張譲らの疑問や計画の失敗を反芻しながら、彼らは自身の不運と何進の策略を疑問視するが、その場は何進の圧倒的な実力によって支配されていた。

十常侍は、そのほとんどが死亡し、張譲と趙忠のみが避難した状況である。
宦官も趙忠と共に避難した少数を除き全滅し、女官たちは拐かされ、後宮の財はほぼ失われた。
現場には平民出身の大将軍何進と、名家袁家の袁紹のみが残っており、この騒乱は「嘉徳殿の乱」として後世に記されることになる。

袁紹は何進を囲むために自ら集めた兵約五十人と他の名家からの三百人を率いていたが、これらの兵士は実戦経験が乏しく、実質的に何進に対する脅威とはならなかった。
加えて、袁紹を監視する目的で同行していた禁軍百人は、何進を攻撃する意図も守る意図もなかった。
このため、戦闘においては何進が圧倒的な不利に立たされているように見えたが、実際には何進の方が戦場経験が豊富で、数の上で劣る彼でも十分に対処可能であった。
李儒がいれば禁軍は袁紹ではなく彼を支持していただろうが、その場合も袁紹は排除されていたはずである。
何進自身はこの状況を最悪のシナリオよりはましだと捉えており、自身の体力が限られていることを認識しつつ、可能な限り多くの敵を道連れにすることを考えていた。

何進が袁紹とその周囲の兵たちを攻撃する場面である。
袁紹は自分が集めた兵たちが次々と何進によって殺されることに驚愕し、自らの危機を前にしても、周囲の兵たちは何進の攻撃に適切に対応できずにいた。
袁紹は何進と何苗に挑発され、自分の立場と身分を考えずに怒りを露わにするが、その態度が逆に何進たちの攻撃を招く原因となる。
一方、袁紹の兵たちは、何進が投げる武器が尽きるのを待って攻撃する戦略を取るが、その間にも多くの兵が死傷する。
この状況では、袁紹の兵たちは彼を守るために自らの安全を最優先とし、袁紹自身も彼らの陰に隠れる選択をする。
この戦場での戦いは、袁紹と何進の間の直接的な対決ではなく、戦略と心理戦において何進が優位に立っていることを示している。

何進は袁紹を殺さない理由として、袁家を完全に滅ぼすためには袁紹が無傷である必要があるとしている。
何進の計画は、袁紹が無傷で生き延び、そのことが袁家内での問題を引き起こし、結果的に袁家を弱体化させることにあった。
また、何進は自身が袁紹の手によって殺されることも覚悟の上で、その死をもって袁家を追い込む計画を立てている。
一方、袁紹は何進に対して防御的な態度をとりながらも、自分の身を守るために兵士の陰に隠れ、何進が自分を超える武の持ち主であることを認めざるを得なくなっている。
この一連の出来事は、何進の策略によるもので、袁紹とその配下の兵士たちは何進の攻撃によって混乱し、袁紹自身も戦の厳しさと恐怖を痛感することになる。

何進は、腹が狙われやすい体型をしているため、その対策として腹に詰め物をする案が提案された。
しかし、何進はそれが不自然に見えると考え、さらに動きを妨げる可能性もあると懸念した。
この懸念は、李儒によって「痩せればいい」という直接的な意見で解決された。
その結果、何進は自衛のための武術を仕込まれ、無駄な腹の肉を落とす訓練を積んだ。
数年後、何進は見た目ほどの腹の肉がなくなり、その隙間に詰め物を入れることが可能になった。
また、痩せたことにより腰痛も和らいだが、外見の変化を誤魔化すためにゆとりのある服や手足の甲の間に詰め物を入れていた。

何進は鎧や詰め物の下に血が流れていると誤解される戦術で敵を惑わせ、その不自然さに疑問を持った者も正解にたどり着くことができなかった。
袁紹らの兵士は何進の不死身とも思われる抵抗に恐れを抱き、戦意を失いつつあった。
その一方で、何進は李儒の戦術によって身体的な変化を遂げており、彼の外見は一般的な見解と異なる健康体だったことが敵には予想外だった。
この戦略的な利点を活用しながら、何進は敵に圧倒的な恐怖を植え付けていた。
敵の多数が存在しても、何進の個々の士気と戦術が彼らを上回っていたため、戦闘では数に依存するだけが全てではないことを証明している。

何進が嘉徳殿で死亡した時、場には百五十人を超える死体と百人を超える重傷者がいた。
袁紹が無傷である一方で、彼に誘われた名家の者たちは多くが死亡または負傷していた。
何進の死体を踏みつけながら、袁紹は自らの行為を正当化し、漢が正しく再興すると宣言したが、周囲の兵士たちはそれを苦々しく見ていた。
西暦189年、何進は46歳で亡くなり、その死によって漢の再興の可能性は潰え、戦国乱世が始まったと評されている。

何進が暗殺された後、袁紹は何進を張譲に毒殺されたと公表し、それに対する報復として行動したと主張した。
しかし、袁紹の行動には多くの疑問があり、実際には何進と張譲を殺害し、宮中を荒らしたのは袁紹の兵だった。
後宮で働いていた多くの女官も被害を受け、その家族は袁紹や禁軍に対する怒りを露にした。
荀攸は禁軍を調査し、多くの証拠を集めたが、最終的には何后の沈黙と劉弁及び劉協の行方不明に配慮して、袁家に対する軍事行動を控えた。
この膠着状態は淳于瓊が洛外から帰還するまで続き、洛陽の人々はこの家族間の争いの行方を静かに見守っていた。

孫堅が洛陽に到着した際、洛陽は既に緊張状態にあった。
袁紹は謹慎中であるにも関わらず、曹操の屋敷で酒を飲んでいた。
洛陽は袁家と荀家の間での緊張が高まっており、曹操は袁紹を大将軍府に送ることができず、また袁紹を差し出すことで緊張が騒乱に発展する可能性を懸念していた。
そのため、曹操は袁紹を迎え入れざるを得なくなった。
袁紹は自身が袁家のために何進と張譲を殺害したと主張しており、袁術のせいで不当な扱いを受けていると考えていたが、袁家の上層部の多くは袁紹の殺害に賛成していた。
袁紹は完全に孤立しており、曹操は袁紹に洛陽から離れることを勧め、袁紹が受け入れた。

曹家から袁紹が帰宅した後、すぐに大将軍府へ駆け込んだ若者がいたが、その人物が誰であるかは明らかではない。

丁原と呂布

中平六年(西暦一八九年)四月、幷州太原郡晋陽県の刺史執務室で、刺史の丁原は洛陽からの使者が持ってきた書状を前に困惑していた。
書状の解読が苦手な丁原は、主簿の青年に解読を任せていた。
この青年は武勇と読み書き算術ができることから、若くして主簿に任じられていた。
書状の内容は「さっさと上洛せよ」とのことであったが、書状の中には不必要に多い修飾語が含まれていたため、読解は困難を極めていた。

幽州や涼州と同様に騎馬民族との戦いに明け暮れる幷州では、文官が不足しており、特に信頼できる人物しか主簿には任じられない。
そのため、この地での財政管理は非常に重要な役割を担っていた。
書状の差出人が何進ではなく袁紹であることから、丁原は書状に書かれている命令に従う意向はなかった。

最終的に、丁原は書状を何進に送ることにし、「袁家の小倅が何かしているぞ」と付け加えるよう指示した。
この書状が何進の手に渡れば、政敵である袁隗を追い詰める材料となる可能性が高かった。
青年主簿、呂布奉先はこの時期、文書の解読に頭を悩ませつつも、後に天下にその武勇を示すことになる。

司馬懿と徐庶  出会う

中平五年(西暦一八八年)八月、弘農郡の宮城で、司馬懿仲達と徐庶元直が初めて会った。
司馬懿は名門司馬家の子であり、九歳にして落ち着いた態度を見せる。対照的に、徐庶は潁川郡の寒門出身の十三歳で、司馬懿の付き人兼弟弟子として過度に謙虚な態度を取っていた。
徐庶の父はかつて黄巾の乱で官軍に参加し、戦傷が原因で亡くなっており、徐庶の家庭は経済的に困窮していたが、母は徐庶が文武両道を学ぶことを選んだ。

この背景には、皇帝劉宏が西園軍の結成を進め、光禄勲李儒が名家以外からも人材を募るという方針を打ち出したことがあった。
そのため、徐庶は名家との繋がりがないながらも、能力だけで評価され李儒の弟子となることができた。
徐庶は弘農での仕事を通じて、実務経験を積む前に学ぶことになり、司馬懿の付き人としても働くことになった。

帰宅後、徐庶の母は息子が光禄勲の直弟子となり、さらに名門司馬家の付き人となったことを知り、感動のあまり倒れてしまうが、それは苦痛ではなく喜びのあまりであった。
この出来事を通じて、徐庶は自身と母親のためにさらに努力することを決意する。

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こも

いつクビになるかビクビクと怯えている会社員(営業)。 自身が無能だと自覚しおり、最近の不安定な情勢でウツ状態になりました。

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