小説「偽典・演義 3 ~とある策士の三國志 ~ 第二章 反董卓連合」感想・ネタバレ

小説「偽典・演義 3 ~とある策士の三國志 ~ 第二章 反董卓連合」感想・ネタバレ

どんな本?

「偽典・演義 ~とある策士の三國志~」は、日 本の社畜サラリーマンが突然古代中国に転生する物語。

転生先は三国志きっての策士である李儒。

彼は成り上がり者の大将軍・何進の部下に就活し、黄巾の乱が勃発する中国全土で自分の出世のチャンスを迎える。

この時に、後に暴君と呼ばれる董卓が現れ、物語は妄想炸裂な展開を向かえる。

このシリーズは、三国志の歴史的背景をユニークな視点から描いており、李儒の活躍や周囲のキャラクターたちのドラマが楽しめる。

読んだ本のタイトル

偽典・演義~とある策士の三國志~ 3
著者:仏ょも 氏
イラスト:流刑地アンドロメダ  氏

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あらすじ・内容

何進が謀殺された宮中では、
その跡目争いが繰り広げられる。
李儒はいち早く霊帝の息子、
劉協と劉弁を手中に入れ、
事件の弾劾裁判を開いた。
董卓を担ぎ上げ、関係者を次々と粛清。
その血なまぐさい結末とは…!?

「俺たちの戦いはこれからだ!」
ついに李儒が、本領を発揮する!!
第2回アース・スターノベル大賞奨励賞受賞作!

偽典・演義 3 ~とある策士の三國志 ~

一六 洛外でのこと

中平六年、洛陽郊外にて、李儒は何進の死に激怒し、復讐の準備を進めた。彼は涼州勢と合流し、劉弁と劉協の一団を保護したが、張譲は不在であった。李儒は袁紹の暴走に怒り、洛陽へ戻る決意をした。数日後、洛陽で粛清が始まることを予見していた。

一七 洛中でのこと

洛陽大将軍府で、孫堅と曹操は李儒の帰還を待ち、その間に袁紹の暴走が明らかになった。淳于瓊が西園軍を率いて洛陽に戻り、禁軍を殲滅する計画が実行された。李儒の指示に従い、粛清が進行し、袁紹とその支持者への対策が議論された。

一八 弾劾裁判

李儒は会議で袁紹の逃亡に対する責任を袁隗に追及し、袁家の討伐を主張した。趙忠が水銀中毒で死亡し、李儒は新帝劉弁の療養のために弘農へ下ることを決意した。袁紹とその支持者の粛清が進行し、袁隗は責任を問われることとなった。

一九 人事のこと

李儒は孫堅に南郡都督と三郡の太守職を命じ、曹操を大鴻臚に、董卓を大将軍に任命した。これにより、董卓の権力基盤が強化され、李儒の策が進行した。荀攸は李儒の計画に疑問を抱きつつも、董卓の任命を受け入れることとなった。

二〇 反董卓連合の足音

初平元年、袁隗と名家の粛清が行われ、反董卓連合が結成された。董卓は反董卓連合の動きを警戒しつつも、李儒の策に従っていた。呂布が名家の粛清に参加し、荀攸は反董卓連合の形成を予測していた。李儒の計画は漢の再興を目指して進行していた。

弘農でのこと

李儒は何進からの任務を果たし、董卓と合流して洛陽へ戻った。弘農の人々は不満を抱いていたが、李儒の弟子である司馬懿と徐庶は、紙の制作に従事しつつ詩の制作にも取り組んでいた。この出来事は後に英雄となる若者たちの一幕であった。

高祖の風

青州で袁紹が反董卓連合を結成しようとしている頃、劉備と簡雍は戦場で死んだふりをして逃れた。劉備は幽州の公孫瓚のもとで働くことを決め、義兄弟の関羽と張飛と合流した。簡雍は劉備の決断に懸念を抱きつつも、彼の説得を諦めた。

その頃の孫家

長沙郡では孫策が父孫堅の代理として執務を行っていた。孫策は周瑜の助けを得て業務をこなし、江南の現実を見て書簡処理の重要性を理解した。孫堅が帰還後、零陵、武陵、桂陽の統治を任され、荊州刺史の劉表と対立する南郡都督となった。

弟子たちの考察

先帝の死後、洛陽の権力構造は変化した。袁紹の暴走により、名家閥は追い詰められ、董卓、王允、楊彪が権力を握った。反董卓連合が結成されたが、その行動は愚行と映り、司馬懿と徐庶は李儒の計画が漢を揺るがすものと確信していた。

感想

この本は、李儒の冷徹な策謀と、その計画が次々と実行される様子が印象的であった。
彼の指示に従う董卓や、その背後で動く名家たちの動きが緻密に描かれていた。
特に、袁紹の反董卓連合がどのように結成され、どのように進軍していくかが緊張感を持って描かれている点が非常に面白い。

何進の死後の権力闘争と、その背後に潜む李儒の陰謀を描いていた。
李儒が董卓を利用して権力を握り、宦官たちを巧妙に粛清する様子が非常に生々しく描かれていた。
李儒が宦官に水銀を飲ませて殺すシーンでは、その冷酷さが際立っていた。
また、劉弁が愚鈍と言われていた原因が水銀中毒であったことが明らかになる部分も驚きであった。

荊州の孫堅や無職の曹操が新たな役職に就くシーンも興味深い。
孫堅は南部の郡長として抜擢され、曹操も役職を与えられる。
彼らが新たな役職でどのように活躍するかが期待される一方で、袁紹が反董卓連合を結成し、洛陽へ兵を進める展開も緊張感を高めていた。

この物語は、歴代の漢皇帝に早死にが多い理由として、宦官たちによる水銀中毒説を取り入れている点が新鮮であった。
また、欲にまみれた宦官や名家たちの心理描写が非常に滑稽であり、彼らの自己顕示欲がいかに肥大しているかがよくわかった。

主人公の李儒がワーカホリックのように働き、三国志のアノ英雄たちに書類という武器を手にパワハラをかます姿も見どころであった。
彼の策謀がどのように展開し、どのような結末を迎えるのか、最後まで目が離せない作品であった。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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備忘録

一六  洛外でのこと

中平六年(西暦189年)9月、洛陽郊外にて。
何進の死により苦労が水の泡になったことに怒りを覚える李儒が、董卓率いる涼州勢を迎える準備をしていた。
李儒が何進に仕官したのは、彼が最強の勝馬と確信していたからである。

最初は曹操や袁紹に仕官を考えたが、彼らの下積み期間が長く無駄な苦労が多いと判断したため、何進に全てを賭けた。
何進は名家や宦官に蔑まれ、孤立していたが、その潜在力を見抜いた李儒は、彼の下で仕事を続けた。

しかし、何進が死んだことで、李儒は怒りに満ちていた。この怒りは、策を潰した者たちと自分の愚かさへの怒りであった。
彼は復讐の対象として張譲を選び、彼らを痛めつけることを決意した。

董卓ら周囲の人々は、李儒の怒りに戸惑いながらも、彼の指示に従っていた。

弘農で董卓と合流し洛陽へ急ぐ中、洛陽から逃げ出してきた一団を発見した李儒は、それが張譲により連れ出された劉弁と劉協のいる一団だと判断し、即席で収容の準備を整えた。
李儒の配下である李厳が率いる禁軍が一団を迎え入れたが、その中に張譲どころか宦官は一人も居なかった。
状況を把握するため、李儒は李厳から洛陽での出来事を聞いた。

袁紹が暴走し宮中に武装侵犯したことが明らかになった。
李儒は、袁紹が何進が殺された後に宮中へ武装侵犯した史実と重ね合わせ、その行為が完全なる犯罪行為であることを認識していた。
李儒は禁軍の指揮権を持つ袁紹を野放しにした失敗を痛感した。

李厳から伝えられた何進の遺言で、李儒は何進の孫の面倒を見ることを決意した。
何進の孫は何晏であり、李儒は彼を弘農で育てることにした。
董卓に対しては、李儒の指揮下に入るよう命じ、董卓はこれを受け入れた。

李儒は、淳于瓊に対して禁軍を拘束するよう命じ、李厳には劉弁と劉協に事情を伝えるよう指示した。
董卓には涼州勢の指揮権を与え、皇帝と皇弟を守る近衛兵とするよう指示した。

李儒は袁紹の行動に怒りを覚えつつ、洛陽に戻り策を練ることを決意した。
数日後、洛陽には粛清の嵐が吹き荒れることになる。

李儒は、劉弁と劉協がいる一団を収容する準備を整えたが、張譲は見当たらなかった。
董卓が急いで天幕から出ようとするのを止め、今後の予定を説明した。
洛陽で袁紹が暴走し、何進や張譲が死亡している可能性が高い状況で、李儒は董卓に洛陽へ入城し、宮中に入る計画を伝えた。

李儒は自身が光禄勲として禁軍を統べる資格を持つため、董卓とその配下を近衛兵として任命できると説明した。
そして、袁紹が使った理屈を利用し、自分が禁軍を裁いた後に董卓に自分を裁かせる計画を立てた。
これにより袁隗や袁紹の逃げ道を断つ狙いがあることを説明した。

董卓はこの計画に納得し、李儒の指示に従うことを了承した。
李儒は淳于瓊に禁軍を拘束するよう命じ、李厳には劉弁と劉協に事情を説明させた。
董卓の配下にも、近衛兵としての役割を徹底するよう指示を出した。

李儒は、自身の罷免と袁隗や袁紹の処刑を通じて計画を実行することを決意し、董卓もその計画に全面的に協力することを約束した。
董卓は、この計画が自身の将来にどのような影響を与えるかを理解しながらも、李儒の指示に従うことを選んだ。
後に董卓は、洛陽での政治闘争に苦しむことになるが、それはまだ先の話である。

李儒は劉弁と劉協に挨拶し、袁紹の件について謝罪した。
劉弁は李儒の謝罪を受け入れたが、劉協は納得せずに抗議した。
李儒は自分が不在だったとはいえ、袁紹の行動の責任を負うと述べ、罷免と謹慎処分を提案した。
これにより、袁隗や袁紹を逃げ道なく追い詰める計画であることを説明した。

劉弁と劉協は李儒の提案に同意し、袁紹やその一族を処罰することを決めた。
さらに李儒は、劉弁が毒に冒されていることを告げ、治療を提案した。
劉弁は最初は驚いたが、最終的に李儒に治療を任せることにした。

李儒は劉弁の療養に付き添うことを大義名分に、袁隗たちの連座を避けることに成功した。
劉弁の治療に全力を尽くしつつ、李儒はこれからの行動を決意した。
彼は何進を殺した袁紹に対する復讐を誓い、外道としての新たな一歩を踏み出したのである。

一七  洛中でのこと

洛陽大将軍府で孫堅は曹操と再会した。孫堅は先帝の葬儀に参加するために上洛し、何進の死についての説明を求めるため大将軍府を訪れた。
そこで出迎えたのが曹操であった。曹操は現在の洛陽の状況を説明し、大将軍府が動けない理由は劉弁と劉協の安否確認と、李儒の帰還を待っているからだと述べた。

孫堅はこれに納得し、大人しく待つことにした。その間、大将軍府の幹部たちは李儒が権力を欲していないことを知っており、李儒の判断を待っていた。

そして二日後、淳于瓊が洛陽に帰還し、洛陽を揺るがす事態が訪れた。曹操と孫堅は、この情報を元に自分たちの行動を考え始めた。
袁紹が引き起こした事件は、多くの英雄たちを巻き込みながら次の段階へと進んでいくこととなる。

西園軍の旗を掲げて入城した淳于瓊は、宮城ではなく大将軍府を訪れた。
周囲は一瞬緊張したが、李儒の書簡を持って荀攸へ報告に来たことが分かり、安心した。
李儒は劉弁と劉協を洛外で確保し、禁軍を捕えよと命じていた。

荀攸は劉弁と劉協が宮中から抜け道を使って逃れていたことに驚いたが、洛陽でその予想をしていた者はおらず、誰も荀攸を責めることはできなかった。
曹操も同様に、宮中に匿われていると考えていたため、抜け道を使った逃亡は想定外であった。

袁紹が抜け道を発見できなかった理由は多々あり、彼の注意力の欠如、興奮状態、抜け道の隠蔽、死体の多さ、友人の負傷などが重なった結果であった。
これにより、李儒が幼い皇帝とその弟を確保することに成功し、袁隗らは頭を抱えることとなった。

荀攸は李儒が劉弁と劉協を洛外で確保したことを確認し、禁軍の捕縛に協力することを決定。
淳于瓊と協力して宮中を囲み、西園軍が禁軍を捕えるという作戦を立てた。
淳于瓊もこの方針に同意し、準備を進めることとなった。

荀攸は李儒の精神状態を気にしていたが、淳于瓊は李儒が「ただで死ねると思うな」と呟いていたことを伝えた。
これは明らかに袁紹とその支持者に向けられたものであり、荀攸はこれから起こるであろう惨事を想像し、袁家の近くにいる身内を避難させる決意を固めた。

李儒の命令を受けた淳于瓊が率いる西園軍は、宮中に踏み込み禁軍を殲滅した。
李儒の命令は捕縛ではなく滅ぼすことであり、禁軍は圧倒的な戦力差で一方的に殺された。
西園軍の兵は名家出身者で、実戦経験豊富で訓練された精鋭だったが、禁軍には実戦経験のない者が多く、練度や指揮官の差が大きかった。

淳于瓊が率いる西園軍は、禁軍を完全に殲滅し、宮中の秩序を回復した。
李儒と荀攸の指導の下、大将軍府は迅速に対応し、禁軍を排除するための準備を整えた。
曹操と孫堅はその手際の良さに感心し、大将軍府の組織力を再確認した。

荀攸は淳于瓊に宮中の不穏分子を排除させ、李儒の指示に従って行動を進めた。
袁家への対応については、皇帝の帰還を待ち、慎重に進める方針であった。
曹操と孫堅は、袁家が皇帝の前に現れるかどうかを懸念しつつも、袁隗が交渉の余地を求めるだろうと予想した。

最終的に、袁家がどのような対応をするかに注目が集まり、李儒と大将軍府の動向が重要な鍵となった。
袁紹が逃亡する可能性もあり、曹操はその状況に備え、情報を集めていた。

西園軍による宮中の粛清後、洛陽は表面的に落ち着きを取り戻したが、各勢力の策謀は続いていた。
袁家は助命を求め、李儒に責任を転嫁しようとしていた。
対して大将軍府や軍部は組織の自浄や諸侯の対応に追われていたため、動きが鈍かった。
そんな中、李儒は洛陽から弘農に下がると宣言し、荀攸を驚かせた。

李儒の狙いは、何進の策を実行し、袁家と宦官を滅ぼすことであった。彼の辞任がその鍵となり、劉弁や董卓の許可を得ていた。
また、劉弁の療養のために弘農に下がることも理由であった。
荀攸は李儒の提案に疑問を抱くが、劉弁の病状を聞かされて納得せざるを得なかった。

李儒は劉弁が水銀中毒に侵されていると説明し、荀攸を驚愕させた。
彼の策略により、洛陽の情勢はさらに複雑化していくこととなる。

李儒は荀攸に対して、水銀中毒による劉弁の療養のために洛陽を離れる意図を説明していた。
荀攸は当初驚きつつも李儒の提案に理解を示したが、同時に劉弁の療養中も引き続き李儒に書簡を送る必要性を指摘した。
このことで、李儒は隠居を諦めざるを得なくなった。

李儒は劉弁の療養を理由に洛陽を離れたいと考えたが、荀攸の引き継ぎに関する指摘によって、その計画は頓挫した。
李儒は結局、現職のまま職務を続けることとなり、荀攸の思惑通りに事態が進んだ。

李儒が役職を返上できないことに失望している中、荀攸は大将軍府での作業に集中していた。
一方、董卓の元には袁紹が訪れ、董卓を責め立てた。
董卓は袁紹を相手にせず、背後にいる袁隗の策略に警戒した。
袁隗は袁紹を利用して粛清対象を増やそうとしていると考えたのである。

洛陽内部での袁紹の評価は二極化していた。宦官たちは彼に対して複雑な感情を抱き、名家や軍部は敵視していた。
特に何進の死によって、彼に対する怒りは強かった。
大将軍府の内部でも、何進の部下と単なる所属者で反応は異なったが、基本的には袁紹に対して否定的であった。

荀攸は漢の再興を目指しており、袁紹の行動に怒りを感じていたが、法を破るほどではなかった。
李儒もまた、何進の死によって計画が狂ったことに怒りを覚えていた。

最終的に、袁紹の動きが袁隗の策であると誤認され、諸勢力は警戒を強めた。
袁紹は謹慎を命じられながらも、自由に動き回っていた。

大将軍府で孫堅は曹操に袁紹の動きの意図を尋ねた。
曹操は、袁紹が被害を拡大させることで粛清を躊躇させる策略を取っていると答えた。
しかし、なぜ大将軍府がそれを黙って見過ごしているのかはわからなかった。
孫堅は、大将軍府が新年の式典や諸将の迎え入れの準備に忙しいため、粛清を保留している可能性を示唆した。

曹操はこの考えを考察し、袁家の関係者を全て粛清すれば、朝廷の文官が大量に失われ、各種行事の執り行いが難しくなることを理解した。
新年の宴や新帝の即位に影響を与えることを避けるため、大将軍府が一時的に動かずにいることも説明がつくと考えた。

孫堅の仮説によれば、袁家は新帝即位に絡めて恩赦を引き出すことを狙っている可能性が高い。
これにより、地方にいる袁家の関係者も洛陽に呼び込むことができる。
もし交渉が決裂すれば、地方の人間まで巻き込んだ大粛清が起こる可能性があると曹操は考えた。

しかし、曹操と孫堅が導き出した答えは正解ではなかった。
数日後、曹操は更なる驚きを経験することになる。

李儒は袁紹を「天才一家に生まれた馬鹿のボンボン」と評価している。
袁家は絶大な権力を持つ名家であり、袁紹も優れた教育を受けたが、能力を活かせなかった。
袁隗が過剰に愛情を注ぎ過ぎたため、袁紹は自分が袁家の正統な世継ぎと勘違いして育った。
そのため、袁術に従うことを拒否し、何進の下に送られた際も、自分が軍部を掌握するべきだと誤解し、何進と張譲を殺害した。
結果として袁家内部で袁紹への不満が増え、彼の行動は大将軍府の制裁を受けることになった。

袁紹は洛陽から逃亡し、曹操がその逃亡を幇助したことが判明。
曹操はその責任に苦しみ、職務を休まざるを得ない状態に陥った。
一方、袁隗は若い男に頭を下げ、袁紹の失態に対する責任を問われる立場に追い込まれていた。
かつて政治の化生と称された袁隗も、今やその権勢を失ってしまった。

一八  弾劾裁判

一一月上旬、洛陽で流血事件の後片付けが済み、何進が呼び寄せた諸侯への対応も一段落した。
ある日、宮城内の臨時協議場に、現在の洛陽(漢帝国)を動かす要人たちが集まり、今後の方策を議論することとなった。

集まったのは、九卿の李儒、軍部の王允、大将軍府の荀攸、宦官の趙忠、文官の袁隗である。
この会合では、特に先日発生した「袁紹の逃亡」事件が議題とされていた。
李儒が会議の冒頭で袁隗に対し、「袁紹を逃がしたこと」に関して責任を追及する発言をすると、袁隗は深く頭を下げるしかなかった。
王允や趙忠も、袁隗を責め立て、袁紹および袁家の討伐を強く主張した。

荀攸は、討伐軍を編成する前に、袁紹を逃がした協力者の特定が必要であると提案した。
趙忠や王允もこれに同意し、罪状の明確化と協力者の排除を進めるべきとした。
しかし、李儒が袁隗に「なぜ袁紹を自由にさせていたのか」と質問すると、袁隗は困惑した表情を見せた。
袁隗は、袁紹を自由にさせたのは、袁家を守るためであったが、それを正直に話すことはできなかった。

袁紹が逃亡した際の状況について、袁隗は「大将軍府の意向を受けた者たちが関与しているのではないか」と疑っていたが、その疑念を表に出すことはできなかった。
李儒は冷静に質問を繰り返し、袁隗はその威圧感に恐怖を覚えた。

協議の場では、李儒の落ち着いた態度がかえって威圧感を強め、参加者たちに恐怖を与えた。

結果として、袁隗は李儒の質問に答えるしかなく、袁家の運命は不透明なままであった。

李儒が会議で発言し、袁隗が震える様子を見て、彼の立場を考える。
袁隗は、問題を起こした甥を役職に就かせたが、その甥が暴走し、社長を殺害し、逃亡した形である。
袁隗にとって、この事態は非常に困難なものであり、胃が痛む思いであるが、それは彼らの教育の結果であり、李儒は容赦しない。

李儒は袁隗に対して質問をし、他の出席者もこれに賛同する。
荀攸、趙忠、王允はそれぞれ同意し、袁隗は沈黙する。
李儒は新帝の即位に際しての人事について提案し、荀攸が即座に同意するが、趙忠や王允は驚く。
李儒は軍を興すために組織を整える必要があると述べ、王允も理解する。

李儒は三公と大将軍の人事を提案し、司空に楊彪、司徒に王允、太尉に曹嵩を推す。
趙忠は曹嵩の選任に喜ぶが、李儒は冷静に理由を説明し、全員が納得する。
大将軍には董卓が推され、李儒の計画が進む。

次に、袁家の処罰について議論が始まる。
袁紹とその妻子、袁隗と袁逢の家族が処刑され、他の親族には恩赦が出される。
趙忠はこの処罰が軽すぎると反対するが、李儒は法に基づく判断を強調し、趙忠を黙らせる。

最後に、袁隗に引き継ぎ業務を行うよう指示し、引き継ぎを怠れば恩赦の範囲が狭まることを告げる。
袁隗が引き継ぎを確約し、会議は終わりに近づく。
李儒は次の段階、弾劾裁判を行う準備を整える。

李儒が会議の次の議題を紹介し、荀攸が驚きの表情を見せる一方、趙忠・王允・袁隗は戸惑っていた。
李儒は陛下と劉協、太后が趙忠に褒美を与えると発表し、趙忠は驚きながらも喜んでいた。袁隗や王允も羨ましさを感じた。

李儒が呼びかけると、何太后が登場し、全員が頭を下げた。
何太后は「非公式だから楽にしろ」と告げ、李儒はあっさりと頭を上げて話を進めた。
趙忠は焦りながらも冷静さを取り戻し、何后が与える褒美を受け取るために跪いた。

何后は趙忠に盃を渡し、その中には銀色の液体と赤い物が入っていた。
それは不老長寿の霊薬である水銀と辰砂の混合物だった。
趙忠は絶句し、王允と袁隗が驚きの声を上げた。
荀攸と李儒は距離を取り、荀攸は李儒の冷酷さに恐怖を感じていた。

李儒が趙忠の死を知り、その詳細を確認した。趙忠は不老不死の霊薬を飲み、水銀中毒で死亡した。
李儒は何太后に、趙忠の死を毒によるものと公にするのではなく、霊薬の力に耐えられなかったと記録するよう提案した。

何太后は当初宦官全員を処刑したいと思っていたが、李儒は名家の処刑を先行させ、その後に宦官を処罰するべきだと説得した。
また、彼女が弘農へ行くのを拒む理由として、劉弁が一人で毒と戦う必要があると説明した。
李儒は劉弁と共に弘農へ行くことを決定し、そこで療養させることにした。

李儒は新しい役職を増やされ、負担が増えた。数日前、李儒は孫堅、曹操、董卓に新たな役職を告げ、彼らは驚愕しつつもその役割を受け入れた。
孫堅は南郡都督、曹操は大鴻臚、董卓は大将軍となったが、それぞれがその重責に驚いていた。

一九  人事のこと

11月、洛陽の大将軍府にて、李儒が孫堅、曹操、董卓に会い、謝罪と共にそれぞれに対する新しい任務を告げた。
孫堅には長沙の政に関する書簡が渡され、さらに南郡都督として武陵、零陵、桂陽の三郡も治めることが命じられた。
孫堅はその重責に驚愕し、曹操と董卓は彼の負担を心中で哀れんだ。
李儒の冷徹な計画とその執行に対して、同僚の荀攸は恐怖を感じていた。
李儒の行動を抑制できる者がいない現状が明らかになり、皆がその影響を受けることになった。

李儒は孫堅に南郡都督と三郡の太守職を追加で命じた。
孫堅はこの突然の出世に戸惑い、自分には功績もないと疑問を呈するが、李儒は「これから功績を立てる」と説明する。
現在の荊州は劉表の政策により治安が悪化しており、特に長江流域が酷い状況である。
李儒は劉表が異民族をまともに扱えないと判断し、武力に定評のある孫堅を適任とした。
劉表もこれを承認し、孫堅に江陵を拠点とするよう求めた。
孫堅はこの人事に嵌められたことを理解し、今後の職責に対する覚悟を決めた。

李儒は、孫堅と曹操に次いで董卓に新たな役職を告げた。
董卓は警戒するが、李儒はそのまま進める。
李儒は董卓を大将軍に任命することを発表し、三人は驚愕した。
董卓は自分の立場に不安を感じるが、李儒はその必要性を説明する。
李儒の計画により、董卓は新帝の信頼を得て大将軍に就任することが決まる。
董卓は渋々ながらも受け入れることを決意する。
李儒の策は着実に進行し、政略と謀略の果てに多くの人々を地獄に陥れることになる。

李儒は、孫堅、曹操、董卓の三人が新たな役職を受け入れたことを幸いとし、迅速に処理を進めるため執務室に向かった。彼らが心変わりする前に、計画を実行する必要があるからである。

荀攸は李儒の計画に疑問を持ち、董卓の大将軍就任について質問した。李儒は荀攸の懸念を理解しつつも、董卓の任命には政治的な意図があると説明した。荀攸の疑問を晴らすため、李儒は個別に大将軍府の幹部と面談を行い、彼らの意見を聞くことにした。

さらに、李儒は袁術を恩赦の対象にし、袁紹との対立を煽ることで袁家の勢力を削ぐ計画を進めていた。荀攸はこの策に疑問を持つが、李儒は新帝劉弁の意向としてそれを押し進めることを強調した。

数日間にわたり、李儒は大将軍府の関係者と個別面談を行い、彼らの意見を収集した。この過程で、関係者たちは緊張し、胃痛を覚えることになった。

二〇  反董卓連合の足音

初平元年(西暦190年)1月下旬、新帝即位後の新年行事が滞りなく終わった後、袁隗をはじめとする袁家の関係者と名家の人々が、大将軍董卓によって粛清された。
本来ならもっと多くの人が処刑されるところだったが、司空楊彪の恩赦の求めにより罪一等を減じられ、司徒王允の布告により、名家の恨みは新帝ではなく董卓に向けられた。

董卓は粛清された名家の財産を没収し、残された女たちを売り払うなどして、家を断絶させた。
また、名家を支援していた商人からも財を徴収し、反発した者たちは全財産を失った。
これにより、多くの名家の人々が洛陽を脱出し、地方に悲惨な状況を訴えた。

しかし、粛清の原因を作ったのは袁紹とその支持者たちであり、董卓の行為は法に則ったものである。
名家の誇りと董卓への不満から、彼らは「董卓が帝を脅している」と思い込み、その悪評は広まっていった。
結果、帝を武力で脅し、勅を操る董卓への不満が高まった。

新帝が即位した初平元年、漢にはまだ多くの火種が残っていた。

初平元年(190年)2月、洛陽の大将軍府で、幷州刺史の丁原が董卓に洛陽周辺の軍部動向を報告していた。
董卓は大将軍としての威厳を保ちながらも、丁原には気楽に接するよう促した。
董卓は李儒の助力に頼りつつ、彼の機嫌を損ねないよう注意を払っていた。

丁原は洛陽の名家が董卓を悪く言い、地方での反発を懸念していたが、董卓はすでにそれを織り込み済みであり、特に問題視していなかった。
董卓は自分の後ろ盾が新帝であることを強調し、名家を敵として排除する意志を明確にした。

丁原は董卓の計画を理解し、兵の再編成について協力することを約束した。
董卓は丁原の兵を名家の粛清に参加させる意図を示し、丁原もこれに感謝した。

董卓のこの配慮が後に彼らを追い詰める結果になることは、まだ誰も予想していなかった。

二月下旬、洛陽では呂布率いる幷州勢が名家の粛清を行っていた。
彼らは建物を破壊し、財産を奪い、抵抗する者を殺し、最後には火を放つという荒々しい行動を繰り返していた。
呂布は日頃から名家への怒りを募らせており、粛清を楽しんでいた。

しかし、呂布の粛清は過剰であり、実際には粛清対象ではない家も攻撃してしまっていた。
呂布の部下たちは無秩序に暴れまわり、その結果、無実の家が破壊されてしまった。

その時、大将軍府から派遣された張遼が呂布を制止しに来た。
張遼は呂布に、彼が攻撃している家は粛清対象ではなく、恩赦を交渉中の家であることを伝えた。
呂布は自分の行動が誤りであったことに気づき、後悔と混乱の中で冷や汗を流していた。

丁原の配下が粛清先を誤る事件から数日後、大将軍董卓と丁原は詰問の使者を迎えていた。
若い使者に対して頭を下げる二人には不満はなく、失態に対して恐縮していた。
使者は、呉家が恩赦予定の家でありながら襲撃されたことを伝え、特に橋瑁が騒いでいると指摘した。

李儒は、今回の事件が名家の陰謀であると説明し、丁原に対して二つの選択肢を提示した。
一つは実行者を処刑すること、もう一つは自身が責任を取って辞職し処罰を受けることだった。
丁原は後者を選び、自分の息子を董卓に託すことを決意した。

数日後、丁原は処刑され、その息子は董卓の養子となった。
息子は罵られることもあったが反論することはなかった。

李儒はこの結果を見て、指揮系統の一本化が必要だったと理解し、橋瑁の動向を注視することにした。

三月初め、新帝劉弁は洛陽を離れ弘農へと移ることを宣言した。それに伴い、李儒や旧西園軍も洛陽を離れた。洛陽には劉協が統治を続け、楊彪と王允が政を回していた。董卓は軍を預かり、名家の粛清や軍の再編成に忙殺されていた。

三月下旬、荀攸が反董卓連合の動きを報告した。橋瑁の呼びかけに応じたのは孔伷、劉岱、張邈、張超、袁遺らであった。呂布は失態を犯したことを反省し、董卓の養子として書類仕事を手伝っていた。

荀攸の予測通り、反董卓連合は反何進連合の勢力をそのままシフトさせたものであった。袁紹や袁術も加わり、連合は約十五万から二十万の兵を集めたが、董卓はこの勢力を恐れていなかった。反董卓連合の結成自体が、漢の再興を図る李儒の策によるものであった。

李儒は数年前から董卓や孫堅、丁原を懐柔し、涼州、幷州、幽州の兵を味方に付けていた。董卓と荀攸は李儒の智謀と性格に恐れを抱いたが、李儒の策が反董卓連合の形成を促し、漢の再興への道筋を整えていた。

読切り
弘農でのこと

七月に李儒は何進から弘農での任務を授かったが、任務を終えるとすぐに董卓と合流し洛陽へ帰還した。
この件で最も被害を受けたのは董卓であったが、弘農の人々も不満を抱いていた。特に不満を持ったのは司馬懿という十歳の少年であった。

司馬懿は、李儒の弟子として与えられた紙の制作の仕事に取り組んでいた。
彼と十四歳の徐庶は、李儒の指示で紙を作る作業を続けていた。
李儒は曖昧な知識で紙の作り方を教えたが、二人はそれに従って作業を進めていた。

司馬懿は李儒から「情緒的な感性を磨くように」と宿題を出され、詩の制作にも取り組んでいた。
彼は自信を持って詩を完成させたが、その詩は「名月や。おぉ名月や。名月や」という内容であった。

李儒は司馬懿の詩を評価しづらく、頭を抱えたが、偶然その詩を耳にした大宦官の孫は驚愕した。
この詩は後に様々な場所で影響を与えることとなった。

この出来事は、後に英雄と呼ばれる俊英たちの若き日の一幕であった。

高祖の風

初平元年、青州での混乱の中、袁紹が反董卓連合を結成しようとしている頃、劉備と簡雍は戦場で死んだふりをして敵から逃れていた。
劉備は、関羽や張飛と離れ、簡雍と共に死体に紛れて隠れていたのだ。
戦が終わり、周囲が静かになったところで、二人は立ち上がり会話を始めた。

簡雍は劉備に対し、これ以上の無計画な行動は危険であると説得し、定職に就くことを提案した。
特に、劉備の母親のことを思えば、犯罪者として追われる生活を続けるのは良くないと訴えた。
劉備も一時的に考え込むが、結局は「幽州の兄ぃ」こと公孫瓚のもとで働くことを決めた。

簡雍は劉備の決断に懸念を抱きながらも、劉備が義兄弟の関羽と張飛と合流するのを見届けた。
劉備の楽観的な行動に対し、簡雍は深い溜め息をつきながらも、彼の説得を諦めた。

この後、幽州で何が起こるかは未知数である。

その頃の孫家

初平元年、長沙郡の執務室では、郡太守の孫堅が洛陽に赴いている間、長子の孫策が彼の代理として執務を行っていた。
弱冠十四歳の孫策は書類仕事を苦手としていたが、親友の周瑜の助けを得て何とか業務をこなしていた。

孫策は父孫堅から「留守を任せたぞ」と言われたことと、周瑜の支えによって、膨大な書簡の処理を続けることができた。
周瑜は孫策を外に出し、現実の状況を見せることで、彼のモチベーションを維持させたのである。
孫策は遠乗りを通じて、江南の地が水害や飢饉に苦しんでいる現実を目の当たりにし、それが書簡処理の重要性を理解させた。

孫策は父が帰ってくれば仕事が減り、自分も楽になると信じて頑張っていた。
しかし、現実は厳しく、孫堅が帰ってきたときには零陵、武陵、桂陽の統治も押し付けられ、さらに荊州刺史の劉表と対立する南郡都督の役職まで任じられてしまう。
孫策が目を輝かせて語った「父上が帰ってきたら遠乗りをする」という希望は、叶わぬものとなりそうである。

弟子たちの考察

先帝の死から一年が経過した洛陽では、権力構造が大きく変わっていた。
まず、大将軍何進が死亡し、次いで宦官の趙忠も毒殺された。
残った宦官たちも排除され、権力は名家閥に移るかと思われたが、袁紹が宮中を侵犯したことで名家閥も追い詰められた。
袁紹の行動は帝室と名家閥に対する裏切りであり、結果として洛陽では新たに董卓、王允、楊彪が権力を握ることとなった。

董卓は洛陽の慣習を無視して罪人となった名家を粛清し、これに反発した名家が反董卓連合を結成した。
この連合は名家の逆恨みから生まれたものであり、袁紹を首魁としていたが、彼の行動に義も理もなく、反董卓連合の行動は愚行としか映らなかった。

司馬懿と徐庶はこの状況を理解しており、反董卓連合が敗北することを確信していた。
彼らにとって重要なのは、李儒が戻ってくることであった。
李儒は反董卓連合を利用して大きな計画を進めており、司馬懿はその計画が漢を揺るがすものであることを感じ取っていた。

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こも

いつクビになるかビクビクと怯えている会社員(営業)。 自身が無能だと自覚しおり、最近の不安定な情勢でウツ状態になりました。

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