小説「偽典・演義~とある策士の三國志~ 4」第二章 反董卓連合.2 感想・ネタバレ

小説「偽典・演義~とある策士の三國志~ 4」第二章 反董卓連合.2 感想・ネタバレ

どんな本?

「偽典・演義 ~とある策士の三國志~」は、日 本の社畜サラリーマンが突然古代中国に転生する物語。

転生先は三国志きっての策士である李儒。

彼は成り上がり者の大将軍・何進の部下に就活し、黄巾の乱が勃発する中国全土で自分の出世のチャンスを迎える。

この時に、後に暴君と呼ばれる董卓が現れ、物語は妄想炸裂な展開を向かえる。

このシリーズは、三国志の歴史的背景をユニークな視点から描いており、李儒の活躍や周囲のキャラクターたちのドラマが楽しめる。

読んだ本のタイトル

偽典・演義~とある策士の三國志~ 4
著者:仏ょも 氏
イラスト:流刑地アンドロメダ  氏

gifbanner?sid=3589474&pid=889458714 小説「偽典・演義~とある策士の三國志~ 4」第二章 反董卓連合.2 感想・ネタバレBookliveで購入gifbanner?sid=3589474&pid=889059394 小説「偽典・演義~とある策士の三國志~ 4」第二章 反董卓連合.2 感想・ネタバレBOOK☆WALKERで購入gifbanner?sid=3589474&pid=890540720 小説「偽典・演義~とある策士の三國志~ 4」第二章 反董卓連合.2 感想・ネタバレ

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あらすじ・内容

「おのれ董卓! ふざけた真似を!」

曹操、孫堅、袁紹……
次々に反董卓連合に集う面々。
一方董卓は軍勢を集め、
さらに洛陽から長安への遷都を強行する。
そして都を猛火が襲った!

各地で繰り広げられる戦いの行方は!?

偽典・演義~とある策士の三國志~ 4

第二十一章 曹操への策

初平元年(西暦190年)四月、反董卓連合が結成された。各地の諸侯が集まり、董卓打倒を掲げたが、まとまりはなかった。袁紹と袁術の確執がその象徴であり、連合は自己中心的であった。李儒はこの状況を利用し、策を練っていた。董卓は曹操に「洛陽から脱出し、連合に加わる」という任務を命じた。これにより、内部の敵を見つけやすくし、曹操を利用する計画であった。曹操は反董卓連合に参加するため、兵を集め始めた。

第二十二章 人外の呂布

十月、南陽方面で呂布が敵軍に突撃し、その圧倒的な戦闘力で敵を次々と倒していた。彼は幼少期から賊を倒して生活しており、養父の丁原に目をかけられていた。呂布は養父を失ったことに深く後悔し、その怒りを戦場で爆発させていた。南陽の戦場では、「人外の呂布」と称されるほどの恐怖を与え、敵軍を混乱させた。袁術は呂布に対処するため、孫堅を召喚することを決定した。

第二十三章 反董卓軍の迷走

十一月、洛陽の大将軍府にて、董卓は戦況報告を確認していた。河内の華雄、酸棗の徐栄、南陽の牛輔がそれぞれ膠着状態を作り出していることを知り、安堵と失望を感じた。荀攸は、牛輔の報告に虚偽が含まれている可能性を指摘したが、董卓は見逃そうとしていた。一方、南陽の孫堅は袁術からの援軍要請に応じることを決め、二万の軍を率いて出陣した。反董卓連合は内部での不信感が高まり、瓦解の危機に瀕していた。

第二十四章 洛陽の大火

初平二年(西暦191年)六月、洛陽に到達した反董卓連合は、荒廃した洛陽を見て怒りを露わにした。曹操は先発隊を提案し、袁紹も了承した。洛陽では夜に大規模な火災が発生し、連合軍は消火活動に追われた。この火災により連合軍の評判は大きく損なわれ、内部の疑心暗鬼が広がった。劉弁はこの状況を見て怒りを募らせ、連合軍の領主たちに土地を治めさせる策を認めた。董卓の策略により、連合軍は分断され、瓦解への道を進んでいた。

寧我負人、毋人負我

五月下旬、曹操と陳宮は兗州の陳留郡に到着し、豪商呂伯奢からの支援を受けることに成功した。曹操は反董卓連合に参加しつつも、董卓の策を理解し、洛陽を脱出する計画を立てた。連合軍内での不信感と内紛が進行し、袁術と袁紹の対立が激化していた。曹操は兗州で地盤を築き、連合軍からの離脱を決意した。董卓の策略により、反董卓連合は内部から崩壊しつつあった。

劉弁と李儒

弘農にて、皇帝劉弁は李儒から将来の進路について相談を受けた。李儒は劉弁に、皇帝として漢を再興する道と、皇帝の座を退く道を提示した。劉弁は苦難の道を進む覚悟を問われ、慎重に考えることを決意した。劉弁は李儒の助言を受け、漢の再興に向けて歩み始めた。一方、董卓は名家からの財貨を確認し、南方と北方の防衛を強化する計画を立てていた。

幽州に吹く風

初平二年(西暦191年)八月、幽州北平で、公孫瓚は劉備からの書簡を受け取り、不快な表情を浮かべた。劉備は公孫瓚に世話になりたいと書いていたが、公孫瓚にとって彼は「悪ガキ」であった。劉備は督郵殺害の罪を隠すために公孫瓚の元で功績を立てようとしていた。公孫瓚は劉備を利用しつつ、彼の行動次第で処遇を決めるつもりであった。

蜘蛛の糸

初平二年(西暦191年)七月、弘農郡の太傅執務室で、司馬懿は師である太傅から「蜘蛛の糸」の話を聞いた。これは反董卓連合を絡め取る策略であった。李儒の策は、長安の楊彪と王允、反董卓連合の袁術を利用し、彼らの勢力を一掃する計画であった。司馬懿はこの策略の全貌を理解し、師の恐ろしさを再認識した。彼は李儒の指示に従い、計画の実行を進める決意を固めた。

感想

第四巻では、反董卓連合と董卓軍の戦いが中心に描かれる。
曹操、孫堅、袁紹らが集う反董卓連合が董卓を倒すために立ち上がる一方で、董卓は軍勢を集め、洛陽から長安への遷都を強行する。
連合軍は次々に集まるが、内部の対立や策略により一枚岩にはならない。
特に袁紹と袁術の確執が目立つ中、董卓の策士李儒はその動きを利用しようとする。

曹操は董卓からの命令で、一度董卓を暗殺しようと試みるが失敗したとして、そのまま埋伏の毒として反董卓連合に加わる。

孫堅は最初反董卓連合に参加しないと決めるが、襄陽を占領するために反董卓連合に加わり、戦場の後方で大きな役割を果たす。
一方で、李儒から押し付けられた書類仕事に忙殺され盛大にストレスを抱えた呂布は圧倒的な戦闘力を見せ、連合軍に大きな打撃を与えるが、その暴走により軍内での立場を危うくする。

最終的に、反董卓連合は洛陽に到達するが、洛陽は既に荒廃しており、董卓は長安に遷都していた。
連合軍は洛陽で火災に見舞われ、その混乱の中で内部崩壊が進む。
曹操は連合軍の解散を見越して、早急に行動を開始し、兗州に地盤を築く決意をする。

第四巻は、歴史的な背景をもとにした壮大な物語であった。
反董卓連合の結成とその崩壊、曹操や孫堅、呂布といったキャラクターたちの活躍が描かれていた。
特に印象に残ったのは、李儒に精神的に追い詰められた呂布の圧倒的な戦闘力とその暴走であった。
彼の戦いぶりは目を見張るものであり、その一方でその理由に笑った。

反董卓連合が洛陽に到達した後の混乱や火災、そして最終的に内部崩壊する様子は、戦乱の時代の厳しさと不安定さを強く感じさせ。
また、李儒の用意周到かつ巧妙な策略と行動が光っており、彼の知略に感心しながらも腹黒と畏れられる落差が面白かった。

この本は、三国志の歴史を深く知ることでさらに楽しめる作品であり、また、登場人物たちの心理や行動が丁寧に描かれているため、歴史に興味がない人でも楽しめる内容だと思われる。

あとがきの作者の考察や解説も興味深く、物語の理解を深める助けとなった。
全体として、歴史の大きな流れと人々の細かな行動が織り交ざった壮大な物語であり、非常に満足度の高い一冊であった。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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備忘録

二一  曹操への策

初平元年(西暦一九〇年)四月、橋瑁が袁紹を擁立し、虚偽の勅命を利用して董卓討伐を呼びかけた結果、各地の諸侯が反董卓連合を結成した。連合に参加した者たちは、董卓打倒を目的としつつも、自身が傷つかないことを前提にしており、集団としてのまとまりはなかった。特に袁紹と袁術の確執がその象徴であった。

袁紹は地方で自由に動ける状態となり、影響力を拡大して袁家の当主を自称。これに対抗するため、袁術は汝南で自身が当主であることを布告したが、この行動が袁家の家督争いを喧伝する結果となった。さらに袁術は袁紹の行動を大々的に非難することで連合を瓦解させるチャンスを逃し、結果的に連合に参加してしまった。これにより反董卓連合は規模を拡大し、袁家は滅亡への道を進むこととなった。

この情報を得た李儒とその弟子は、反董卓連合の規模拡大に対して余裕を見せながらも、その動きを利用しようとしていた。

初平元年(西暦一九〇年)四月、洛陽では反董卓連合の声が高まる中、一般市民は平穏に暮らしていた。名家や宦官が消え、治安が向上し、賄賂を求める役人も消えたことで洛陽は活性化していた。そんな中、大将軍董卓に呼び出された曹操は、反董卓連合の盟主袁紹の虚言が原因で疑われる立場に立たされていた。

董卓は曹操に対して「貴公に策を遂行してもらいたい」と告げ、その内容は「董卓を暗殺しようとして失敗し、洛陽から落ち延びること」であった。曹操は襲い来る頭痛に頭を悩ませながらも、この策を受け入れるしかなかった。

曹操が董卓に命じられたのは「埋伏の毒」となることであった。これにより曹操が敵陣営に加わることで董卓側には以下の三つの利点があった。まず、洛陽内部での袁紹支持者を見つけやすくなること。次に、曹操を頼る宦官閥の残党を特定できること。そして、曹操が疑われる無駄な時間を削減できることである。

曹操はこの策を受け入れることで、董卓が勝てば戻るし、袁紹が勝てばそのまま生き延びることができるという利益を得た。また、兵を募り袁紹に合流するよう命じられたが、資金は父から返金された大金で賄うことができた。さらに、董卓から紹介された商人の協力も得られるようになった。

曹操がもし本気で董卓を打倒しようとした場合、董卓はむしろ歓迎する姿勢を示した。董卓は、反董卓連合の軍勢がまともな戦闘経験を持たないことを指摘し、自分たちの実戦経験豊富な軍勢に勝てるはずがないと豪語した。これを聞いた曹操は、反董卓連合の勝利が絶望的であることを確信した。

反董卓連合の結成と参加を呼び掛ける使者が増え、漢全土に派遣された。その中には南郡都督・孫堅の下にも届けられた。五月、孫堅の執務室にて、息子の孫策が反董卓連合に参加しないという噂について質問するが、孫堅は参加しないと断言した。

孫策は董卓が洛陽で乱暴狼藉を働いていると主張するが、孫堅はそれが虚偽であることを説明した。董卓は洛陽で政治的な調整に忙しく、村祭りを襲う余裕はなかった。また、名家や富豪への財産没収も罪人に対する当然の処置であると説明した。

孫堅は、橋瑁の捏造情報を信じ込んでしまった息子を見て、彼を教育する必要があると感じた。さらに、袁紹の宮中侵犯の罪についても息子に教え、反董卓連合が大義を持たないことを理解させた。

孫堅は、董卓の策略が反董卓連合を瓦解させるものであり、自分が連合に参加すれば使い潰されるだけだと考えていた。最終的に、孫堅は体調不良を理由に連合への参加を拒否し、孫策の訴えは退けられた。

初平元年(西暦190年)七月、曹操は無事に故郷へ帰還し、反董卓連合に参加するために兵を集めた。董卓暗殺未遂の後、指名手配された曹操は洛陽から脱出するも、中牟県で捕らえられたが、陳宮の助けで解放され、兗州の陳留に到着した。豪商呂伯奢の支援を得て、さらに衛茲の協力で五千の兵を集め、反董卓連合に参加した。

曹操は連合のナンバー2に任命され、連合は総勢二十万の大軍を集めた。一方、董卓は幷州と涼州の軍勢を掌握し、官軍を再編成して十万の軍勢を用意していた。彼は全戦域の状況確認や物資の補給、人員配備などの書類仕事に追われ、激務に苦しんでいた。

董卓の執務室は彼の戦場であり、無限に湧き出る書類と戦う日々を送っていた。彼は戦場に行きたくても、自分の仕事を疎かにできない状況にあった。そんな彼の元に、曹操からの悲鳴が書かれた書簡が届いた後、どこかの腹黒から使者という名の刺客が送り込まれた。

洛陽、大将軍府執務室で董卓と使者の再会が描かれている。董卓はかつての威厳ある将軍の姿を失い、疲弊している。使者の淳于瓊も同様に疲れており、互いに苦労を労い合う形となる。淳于瓊は遷都の命令を伝えるために来ており、董卓はその非常識な命令に驚愕する。董卓は一度は動揺するが、最終的には酒宴を開き、酒を飲みながら泣き、心の整理をつける。宴会に参加した者たちは、この命令を発案した者に対して強い怒りを覚えることとなる。

六月、弘農にて、洛陽での計画が明かされる直前の話である。司馬懿(11歳)と徐庶(15歳)が、噂話を大声でしている。これは劉弁(14歳)に伝えたい情報があるためであった。劉弁は思考は明晰だが、毒の影響で言葉に表現するのが難しい状況にあった。彼は二人の態度から、何か重要なことを伝えようとしていると察する。

司馬懿と徐庶は、劉弁に逆賊の最新情報を伝える。逆賊たちは20万の軍を集め、洛陽を包囲している。大将軍董卓の軍は10万で、数で劣ることがわかる。司馬懿は、兵法において攻め手は守備側の三倍の兵を必要とすることを述べ、すぐに洛陽が陥落することはないと説明する。しかし、逆賊が皇帝の威信を傷つける可能性や、陵墓を荒らす危険性があると伝える。

劉弁は、司馬懿の言葉に絶望し、対処法を尋ねる。司馬懿は、自分には策がないが、師である腹黒外道に相談することを勧める。劉弁はこれに同意し、策を求めることにした。司馬懿は11歳にして、師の教えを体現し、見事に状況を操作するのであった。

洛陽大将軍府において、董卓の策を承認した翌日、荀攸は淳于瓊から詳細な話を聞いていた。董卓が提案した策は、長安への遷都であった。この策を知った荀攸は、董卓の計画の巧妙さと自分が見落としていたことに悔しさを感じた。

董卓の上奏内容は、洛陽が守りづらい地であること、倍の敵が包囲していること、内部に敵が潜む可能性があることを指摘し、一時的に洛陽を放棄して長安に遷都するというものであった。荀攸も、この策の合理性を認めざるを得なかった。

洛陽を放棄することで、敵に一定の成果を与え、連合軍の解散を促すことができる。さらに、洛陽や陵墓の財を回収し、連合軍に経済的打撃を与えることができる。この策により、連合軍は内部分裂し、最終的に瓦解する可能性が高まる。

大将軍府内では、武官たちの間で遷都に対する賛成意見が多い。荀攸も、この策に反対する余地がないと感じた。劉弁が発令した正式な勅命であり、反対することは無礼である。

この策を実行するためには、連合軍に気付かれないように行動する必要がある。董卓は、部下に対して多大な苦労を強いることを理解し、涙を流しながら詫びを入れた。董卓は部下からの評価が高い将軍であった。

二二  人外の呂布

十月、兗州陳留郡・酸棗にて、曹操は洛陽の動きに悩んでいた。洛陽での情報規制が厳しくなり、河内や南陽も同様である。洛陽からの連絡が途絶えたことで、安全な場所がわからなくなり、行動に慎重にならざるを得なかった。

曹操は幕僚の陳宮に洛陽の状況について尋ねるが、陳宮も詳細は知らなかった。洛陽では情報規制が強化され、外部への情報流出が困難になっていた。この状況から、董卓側が次の段階に進んでいることが予想される。

反董卓連合は、連合軍の脆弱さから一つの統率が取れておらず、各地で散発的な戦闘が続いている。曹操は、董卓軍の動きに注目し、何が次に起こるかを予測する必要があると考えていた。

曹操は、陳宮に董卓の策を立てた人物、李儒について尋ねる。李儒の噂から、曹操を生け捕りにして何かを企てているのではないかと推測する。陳宮は、書類仕事をさせる可能性を示唆するが、曹操はそれを否定し、さらに深い理由を探る必要があると感じた。

最終的に、曹操は情報収集のために洛陽の状況を知る必要があると判断し、徐栄に捕らえられる案も考えるが、陳宮の助言で思いとどまる。後日、陳宮の助言が曹操を救ったことが明らかになり、曹操は陳宮に深い感謝を抱くこととなる。

十月、南陽方面にて、呂布は敵軍に突撃し、その圧倒的な戦闘力で敵を次々と打ち倒していた。彼は幼少期から健康で、賊を倒して生活していた。賊を倒すことが自分の仕事であり、その収入で食料を得ていた。武を鍛え、読み書き算術を学んだことで、養父の丁原に目をかけられた。

呂布は洛陽での失敗により、養父を失ったことに深く後悔していた。養父の笑顔が今も夢に出てくるが、満足に眠ることもできない。彼は敵対勢力を憎み、その怒りを戦場で爆発させていた。

南陽の戦場では、呂布の圧倒的な戦闘力が敵味方問わず恐怖を与え、「人外の呂布」と称されるようになった。彼の猛攻により、南陽の戦場は混乱し、多くの敵が逃げ惑うこととなった。

荊州・南陽にて、袁術は呂布の猛攻に対して部下に対処を命じるが、誰も応じる者はいなかった。呂布の圧倒的な戦闘力に加え、彼の動きを利用する牛輔の戦術が南陽の連合軍を圧倒していた。

連合軍は呂布の恐怖による悪循環に陥り、士気が低下し続けていた。袁術の配下の張勲は、「孫堅を呼び出そう」と提案し、袁術もその意見を考慮した。孫堅が呂布に勝つことは難しいが、足止めする間に他の敵を片付ける作戦を立てたのである。

袁術はこの提案を受け入れ、孫堅を召喚することを決定した。呂布の存在が連合軍に大きな脅威となっているため、袁術は追い詰められていたのである。

同時刻、潁川では、豫州刺史・孔伷を撃破し、その拠点を自軍の本拠地とした牛輔らが、呂布の過剰な暴走に頭を抱えていた。呂布は牛輔と張遼に謝罪するが、戦場での過度な暴力に対する反省が求められていた。

牛輔らの本来の目的は南陽方面の連合軍を滅ぼすことではなく、膠着状態を作り出すことであった。しかし呂布の活躍により、状況は予想以上に進展してしまい、連合軍が動かなくなる恐れが出てきた。

牛輔、呂布、張遼の三人は、洛陽に戻って書類仕事を命じられることを恐れていた。彼らは過去に書類地獄を経験しており、その辛さを知っていたからである。呂布は、自分だけが地獄に送られることを避けようとするが、現実は厳しく、徐栄も曹操を捕らえることに失敗していた。

牛輔らは、孫堅が来るまで時間を稼ぐために、戦力が拮抗しているように見せかけることを決意した。この結果、南陽方面は完全に膠着状態となった。

同時刻、曹操は陳宮から「消耗した兵を集めるために一度酸棗から離れてはどうか」と提案され、徐栄の狙いが不明であるため、一度距離を置くことを考えた。陳宮は、主君を危機から遠ざけることに成功し、まさに軍師の鑑であった。

二三  反董卓軍の迷走

十一月、洛陽の大将軍府にて、董卓は遷都関連の混乱や各地からの戦況報告に対応していたが、書類仕事は純軍事的な内容に専念できるようになり、多少楽になっていた。各地の戦況報告を確認した董卓は、河内の華雄、酸棗の徐栄、南陽の牛輔がそれぞれ膠着状態を作り出していることを知り、安堵と失望の入り混じった溜息をついた。

荀攸は、特に南陽の状況に不自然さを感じ、牛輔の報告に虚偽が含まれている可能性を指摘した。董卓もその問題を認識していたが、牛輔の立場を理解して見逃そうとしていた。荀攸はさらに、酸棗で曹操を捕らえられなかった徐栄を呼び戻すことを提案したが、董卓はこれを拒否し、代わりに李傕と郭汜に任せることを提案した。

荀攸は一瞬眉を顰めたが、最終的に董卓の判断を受け入れた。年明けにかけて李傕と郭汜が洛陽での任務を遂行することになり、洛陽に殺戮の炎が吹き荒れることが確定した。

十一月、荊州長沙郡の孫堅のもとに、南陽で戦う袁術から援軍の要請が届いた。孫堅は半年前にも同様の要請を断っていたが、今回は応じることに決めた。使者の韓胤は驚き、戸惑ったが、孫堅は「漢の外敵を誅する機会を逃さない」と説明した。

韓胤はさらに兵糧の提供を求めると、孫堅は全ての兵糧を袁術側で負担するなら二万の兵を出すと返答した。韓胤は一度袁術に諮る必要があるとし、孫堅もこれを了承した。

会談後、孫策は父親の決断に疑問を抱いたが、孫堅は息子に戦略的な意図を説明した。兵糧負担の軽減や家臣の不満解消、そして反董卓の名目で出陣することが有益であると示したのである。

初平二年二月、孫堅は二万の軍を率いて出陣し、反董卓連合の諸侯が待ち望んでいた変化が訪れようとしていた。

初平二年(西暦191年)三月上旬、洛陽・大将軍府では孫堅が北上した報を受け、董卓と荀攸が会議を行った。孫堅の狙いは襄陽であり、劉表の地盤を削りつつ、袁術と劉表の仲違いを狙っていると予想された。董卓は調停の必要性を否定し、劉表を倒す策を立てた。

董卓は反董卓連合に参加した者たちの官位・役職を剝奪し、その家族を働かせることで恩赦を与えるという策略を実行した。しかし、説得に失敗した場合は処罰するという無慈悲な方法を取った。結果、洛陽では名家の財が徴収され、名家の住む区画は荒らされることとなった。

董卓は名家の不正行為に激怒し、名家を滅ぼすべき敵と認識した。荀攸も名家の必要性を否定し、国家再建のために洛陽の膿を出し切る決意を固めた。その結果、洛陽では名家の断末魔と怨嗟の声が止むことはなかった。

四月、反董卓連合本陣に南陽方面から使者が訪れ、孫堅が襄陽を占領したとの報告があった。袁紹らは驚きと怒りで反応し、孫堅の行動を非難したが、曹操は冷静に状況を見極めようとした。曹操は孫堅の行動が董卓の命令によるものである可能性を考慮し、劉表の処遇に注目した。

袁紹は袁術を敵視し、内部の裏切り者を討つべきだと主張したが、曹操はこれを諫め、董卓を討つことに集中すべきだと説得した。結果として、袁紹は董卓への恨みを思い出し、内紛を避けることとなった。

その後、華雄が撤退したとの報告が入り、連合軍は動揺したが、曹操は冷静に地図を見つめ、華雄の動きが攻撃ではなく配置換えであると推察した。しかし、実際には華雄が完全に撤退しており、曹操も内心では驚きと不安を隠せなかった。

時は少し遡り、荊州南郡の江陵にて、孫堅は袁術の使者である韓胤と再会した。兵糧の負担についての確約を得ると、すぐさま北上を開始した。韓胤は「返事を持ってくるまで待ってくれ」と頼んだが、孫堅は「袁術が兵糧を渋るとは思っていなかった」と言い訳し、韓胤は文句を言えなかった。

孫策らは孫堅の判断に驚いたが、袁術が即断したため、孫堅の判断は正しかった。孫堅は昨年一一月に韓胤が長沙を訪れた後、兵を集め長江を渡り江陵に兵を進駐させていた。孫策らは兵糧の無駄を危惧したが、孫堅には勝算があり、自前で兵糧を用意して動く予定もあったため問題はなかった。

今回、袁術に兵糧を用意させることに成功し、素早い行動が可能となった。孫堅は韓胤に対して「兵糧の補給は襄陽でさせて欲しい」と伝え、承諾を得た。これにより片道分の兵糧だけを用意して北上できる状況を作り出した。

四月上旬、孫堅は襄陽に到着し、補給を受ける予定であったが、連合軍を激震させた事件がその襄陽で発生した。

同年四月、襄陽にて。孫堅が襄陽に到着し、劉表が兵糧の準備をして歓迎するために城門を開けた瞬間、孫堅軍は侵攻し、劉表以下の主だった諸将を捕らえ、襄陽全域を確保した。兵士たちは反抗する前に武装解除され、劉表らは呆然と捕らえられた。

孫堅は劉表に対して「自分は帝に忠を尽くす者であり、反董卓連合こそが逆賊だ」と主張し、劉表は反論できずに口を塞がれた。蒯越が劉表の処遇を尋ねると、孫堅は劉表を江夏に護送し、帝の認可を得るまで待つと答えた。蒯越はその説明に納得し、孫堅は襄陽を制圧しつつも文官たちの信頼を得ることに成功した。

荊州南陽にて、孫堅が襄陽を落としたという報が諸将に衝撃を与えた。袁術は孫堅を説得した韓胤を責めようとしたが、彼はすでに孫堅に殺されていた。激怒する袁術の下に、さらに董卓軍が潁川から撤退したという報告が届いた。予想外の展開に思考が停止し、袁術は決断を下せず、南陽に常駐する連合軍も動けなかった。この結果、袁術は洛陽へ一番乗りする栄誉を逃し、孫堅に対する憎しみを深めた。

華雄の撤退を確認した河内方面の連合軍は、調査隊を送り撤退の事実を確認した。空城計を疑う声もあったが、袁紹は構わず陣の跡地へ進行し、その胆力を褒め讃えられた。諸侯も勢いを取り戻し、五月には行軍速度を上げて進軍を続けた。十万を超える大軍の行軍は「無人の荒野を往くが如し」と称され、連合軍は徐々に洛陽に迫っていた。

五月、洛陽に近づく連合軍は、袁紹が華雄撤退を嘲笑う一方で、曹操は華雄の撤退理由を考えていた。彼らは兵糧問題を理由と推測し、董卓軍が兵力を再編している可能性を感じ取った。曹操は連合軍が董卓の罠に嵌る可能性を示唆し、袁術軍との合流を提案した。袁紹は、最初は不機嫌だったが、曹操の説得により袁術軍を待つことに同意した。袁紹は自身の勝利を確信し、高笑いしていたが、曹操は董卓と連絡を取り合う必要性を感じていた。

二四  洛陽の大火

初平二年(西暦191年)六月、洛陽付近。袁紹率いる連合軍が南陽軍と合流し、15万を超える大軍となり進軍を開始した。しかし、洛陽の状況を知ると連合軍の表情は怒りに変わった。洛陽は荒廃し、宮城や名家の区域は廃墟同然であった。董卓の情報統制により連合軍はこの状況を知らなかった。

曹操は洛陽の状況を確認するための先発隊を提案し、袁紹も了承した。先発隊は敵に遭遇せず洛陽に到達し、現状を報告した。曹操は、董卓が洛陽からの遷都を狙っていたと推測し、今後の行動を決める必要があると袁紹に提言した。袁紹は洛陽に入ることを決定し、連合軍は洛陽に進駐した。

しかし、洛陽では夜に大規模な火災が発生し、連合軍は消火活動に追われた。この火災の情報は長安に避難していた洛陽の民に伝わり、連合軍に対する評価が下がった。連合軍による洛陽の焼き討ちは各地に知れ渡り、連合軍の評判を大きく損なうこととなった。

初平二年(西暦191年)六月、司隷弘農。若い皇帝劉弁は洛陽が連合軍に焼かれた報告を受け激怒し、筆を机に叩きつけた。側近の司馬懿は冷静に劉弁を諫め、劉弁もそれに従った。劉弁は袁紹に対する憎しみを抱いていたが、今は抑えるよう太傅に教えられていた。司馬懿は劉弁に、軽率に発言すると諸侯が勝手に行動する可能性があると指摘した。

劉弁は反乱を起こした連合軍を即座に討つべきと考えていたが、董卓と王允は人材不足のため統治に支障が出ると反対した。腹黒の策として、連合軍に土地を治めさせ、その失敗を理由に後で処罰する計画が提案された。この策により、連合軍の領主たちは自身の領地を健全化させる責任を負うこととなり、劉弁はそれを認めた。

この間、董卓は洛陽を空城計で連合軍に焼かせ、その後追撃せず、劉弁も袁紹を即座に討つのを我慢していた。劉弁は心の中で袁紹への憎しみを募らせつつ、将来的に彼らを処罰する計画を温めていた。

劉弁は、大量の書簡に取り組む師である李儒の働きぶりを見て、司馬懿に疑問を尋ねた。李儒は「悠々自適な隠居生活をしたい」と言っているが、その割に忙しそうに見える。司馬懿は以前、李儒にそのことを尋ねたところ、「年金生活は六〇を越えてから」と答えられたことを話した。さらに「免職されたら休む」とも言っていたため、劉弁は免職を避けることを約束した。この会話に、司馬懿は満足げに頷いていた。

西暦191年7月、洛陽はかつて漢帝国の都であったが、劉弁と劉協の長安避難、董卓の名家の壊滅と住民の移動により、人口が激減した。反董卓連合が洛陽を制圧したが、董卓は何も失わず、逆賊の汚名と費用だけが諸侯に残った。入洛当初は高揚感があったが、度重なる火災や疑心暗鬼で剣呑な空気が広がった。

諸侯の間で火災の下手人としてお互いを疑う空気が広がり、拷問で自白させた名前が諸侯の配下だったため、内部分裂が進んだ。袁術が援助を打ち切り、自身の派閥への参加を促す動きが始まり、袁紹も同様の宣言をしたことで諸侯の厭戦気分が高まった。諸侯は援助停止により帰還を考え始め、反董卓連合は内部崩壊の危機に瀕していた。

曹操は連合軍内の宴会後、陳宮に火災や事件が董卓の策であるかを問う。陳宮は最初の火災が董卓の策であり、それ以降は内部の混乱によるものであると答える。曹操は、董卓が離間計を用いて連合を分断し、遷都を成功させたと見抜く。袁紹を逃がして連合を強大化させ、その後潰す計画だったと推察する。

曹操は洛陽を死地と判断し、早急に脱出する必要があると結論づける。董卓軍が攻撃しない理由を理解し、連合が再結成する可能性が低いと認識する。曹操は連合軍解散を見越して行動を開始し、兗州の陳留に赴き、地盤を築くことを決意する。連合から抜けることで諸侯の感謝を受け、連合解散の引き金となった。

曹操は、袁紹の逃亡を手助けしたことで糾弾される恐れがあるが、董卓に下った後は裁かれることはないだろうと楽観視している。しかし、実際には袁紹の逃亡幇助、董卓暗殺計画、連合への参加などの容疑が掛けられており、董卓に降った場合には無期懲役が確定していることを知らない。なお、劉協は陳留王である。

『反董卓連合が洛陽で解散した』という情報は瞬く間に漢全土に広まった。連合軍の主張は以下の通りである:

1. 董卓は洛陽を捨てて逃げ出したため、連合軍の勝利である。
2. 洛陽は董卓により荒らされ、連合軍が入った時点で廃墟であった。
3. 董卓は長安を都としたが、それは連合軍に追われてのことだ。

この主張により、連合に参加しなかった地方領主たちは好意的に迎え入れられた。しかし、一定以上の情報を持つ者や知識人はこの情報に踊らされることなく、董卓の権勢が増したことや、連合軍が董卓討伐に失敗したことを冷笑した。さらに連合解散直後に諸侯間で仲間割れが発生した。

この仲間割れの発端は、連合の発起人であった橋瑁が「連合に参加するきっかけとなった檄文の勅命を偽造した」との疑惑をかけられたことである。橋瑁は処刑され、諸侯の間には怒りと不満が広がった。連合軍は多くの負の感情を抱えたまま解散し、逆賊とされた諸侯は頭を抱えることとなった。

この状況を見て嘲笑するのは、連合と無関係な知識人や董卓軍、そして独自の動きで一人勝ちした南郡都督の孫堅であった。

『反董卓連合が洛陽で解散した』ことにより、連合軍は完全に瓦解した。連合に参加したことで逆賊とされた諸侯たちは、互いに争いながらその汚名を晴らそうとしていた。彼らは自分以外の諸侯を悪者にして逆賊認定を解こうとしているのである。

名家にとって最も重要なのは「名」である。自分の代で逆賊に認定されてしまえば、先祖代々守ってきた「名」に泥を塗ることになるため、必死でその汚名を雪ごうとしている。しかし、その手段は「俺は騙された」という自己保身的なものであった。

孫堅にとっては、連合に参加した者を無条件で逆賊として討伐できる状況が生まれ、大義名分には困らない。また、士大夫層が彼のいる荊州に身を寄せようとしており、文官や武官の補充が期待できる。

さらに、劉表が江夏に向かう途中で討たれたため、荊州刺史の地位を狙う者がいなくなり、孫堅は内政に専念できる時間を得た。しかし、南陽に戻った袁術は戦費の補充を目論み、襄陽に侵攻する余裕はない。孫堅が警戒すべきは、劉表の息子劉琦を主君に仰ぐ黄祖ら劉表配下の諸将である。

黄祖らが掲げる劉琦は漢にとって逆賊であり、刺史の権限を持たないため、孫堅が彼らを阿呆と断じるのも当然である。孫堅は江夏を攻める権限を持たず、多くの河川に囲まれた地を攻めるための準備も必要であるため、積極的に攻め入るつもりはない。しかし、逆賊討伐の声がかかる可能性を考え、態勢を整えている最中である。

その時、孫堅のもとに一人の客人が訪れた。「殿、例の御人が来ましたぞ」「そうか、やはり来たか」という状況である。

八月、荊州南郡の江陵にて、孫堅の元に交趾太守の士燮が訪れた。士燮は孫堅の前で自身を小者と見せかけようとするが、孫堅は彼を警戒し続けた。孫堅は士燮が交州で朱符を苛政に追い込む策略を練っていることを見抜いていたため、彼の要望に応じることを拒否した。士燮は自身の策略が見破られていることに気付き、焦るが、孫堅は彼を逆賊として捕縛し処刑することを決定する。

士燮は生き延びるための主張を試みるが、孫堅は聞く耳を持たず、士燮を処刑するよう命じた。士燮の死後、交州では彼の弟や息子たちが後継者争いを繰り広げ、その混乱を孫堅が利用することになる。

士燮は享年五四歳で、歴史書には交趾太守として記されているのみである。彼の死後、交州もまた漢全土を巻き込む戦乱の渦中に巻き込まれることとなる。

寧我負人、毋人負我

五月下旬、曹操と陳宮は兗州の陳留郡に無事到着した。陳宮はかつて中牟県の県令であり、曹操を助けるためにその職を捨てていた。彼の決断の背景には、派閥の関係や自分の将来のために曹操を救う必要があったという事情があった。

漢の中心地である司隷は、洛陽を含む重要な地域であり、そこでは宦官と密接な関係にある濁流派が勢力を持っていた。陳宮もその一員であり、曹操を逃がす命令に逆らうことはできなかった。曹操が捕縛された場合、陳宮はその責任を負わされる危険があった。

曹操を逃がしたことで、陳宮は軍部からの叱責や処罰を免れない状況に陥った。彼にとっては曹操を助ける以外に生き残る道はなかった。陳宮は自分の選択に後悔しつつも、曹操と共に兗州へ向かう決意を固めたのである。

曹操は司隷から脱出し、陳宮と共に兗州の陳留郡に到達すると、まず豪商呂伯奢と接触を図った。呂伯奢は当初、曹操を洛陽に売り払おうと考えていたが、曹操が見せた大将軍府発行の手形により考えを改めた。この手形は董卓から与えられたものであり、官軍の備蓄物資を使用する許可が記載されていた。

手形の存在により、呂伯奢は反董卓連合に参加する諸侯に対して取引を行えるようになり、曹操を支援することを決意した。曹操は呂伯奢からの支援を受けることで金銭と人脈を得ようと考えた。

その夜、呂伯奢は曹操に屋敷を夜半に抜け出すよう指示し、逃走を手助けするための下人も用意した。曹操は下人たちを討ち取り、屋敷から逃げ出すことに成功。後日、陳宮は曹操の行動の詳細を聞き、早めに情報を伝えてほしいと内心で呟いた。

劉弁と李儒

弘農は現在、先帝劉宏の喪に服している皇帝劉弁やその側近、いわゆる太傅派が滞在している地である。反董卓連合に参加している諸将は、董卓を追撃するために弘農へ兵を進めることを考えたが、それを実行しなかった。その理由は、弘農にいる劉弁が先帝の喪に服しているためである。劉弁を皇帝として認めない者たちであっても、先帝の嫡子が喪に服している事実を無視することは不敬とされるため、攻撃を避けたのである。

さらに、劉弁が喪に服すことを発表したのは反董卓連合の結成前であり、戦況に関係なく攻撃することはできなかった。結果として、反董卓連合の諸将は弘農に手を出さず、荒れ果てた洛陽でいがみ合うこととなった。その一方で、弘農では一人の若者が今後の将来を左右する大きな決断を迫られていた。

初平二年七月下旬、司隷弘農郡にて、皇帝劉弁は太傅李儒から将来の進路について相談を受けた。李儒は、劉弁が皇帝として漢を再興する道と、皇帝の座を退き隠遁する道の二つを提示した。

劉弁が漢を再興するには、多くの困難が伴う。彼の母何太后の出自や、名家の抵抗などが大きな障害となるため、茨の道を歩む覚悟が必要である。一方で、劉弁が皇帝の座を退く場合、彼には政治的な力がなくなる。

李儒は劉弁に決断を求めた。皇帝として苦難の道を進むのか、誰かに皇帝の座を譲るのか。劉弁は、この重要な選択に対して真剣に考えることを決意した。

董卓軍の事情

初平二年(西暦一九一年)三月下旬、洛陽にて、董卓は李傕と郭汜が名家から回収した財貨を確認していた。これにより董卓は名家の横領の実態を知り、彼らに対する憎しみを募らせた。彼は南方の孫堅と北方の公孫瓚に予算を増やすことを決定し、漢の防衛を強化する意向を示した。

董卓の独り言に対し、李傕と郭汜は荀攸や名家への配慮を求めたが、董卓は気にせず続けた。そんな中、突然司馬懿が現れ、董卓たちは驚愕した。司馬懿は師である李儒からの指示書と罪人の受け取りを伝え、李傕と郭汜に準備を命じた。

董卓と荀攸は、司馬懿の前で茶を飲みながら待つこととなった。董卓軍の荒くれ者たちが司馬懿を恐れる理由は、彼の師である李儒の影響力とその厳格さによるものである。

幽州に吹く風

初平二年(西暦一九一年)八月、幽州北平で、公孫瓚は劉備からの書簡を受け取り、不快な表情を浮かべた。劉備は公孫瓚に世話になりたいと書いていたが、公孫瓚にとって彼は「悪ガキ」であり、属尽として無駄な気位を持つ人物であった。

劉備はかつて闘犬に嵌まり、働かずにギャンブル三昧の日々を過ごし、母親に負担をかけていた。また、叔父の貯蓄を食い潰して生活し、盧植の元に無理やり連れて来られた。公孫瓚は劉備を弟分のように扱っていたが、その素行に失望し、深く関わらないようにしていた。

劉備が幽州に来た理由は、督郵殺害の罪をうやむやにするためであり、公孫瓚の元で功績を立てることで罪を隠そうとしていた。公孫瓚は劉備を利用することを考えており、劉備がどのような行動を取るか次第で、彼を捕らえるかどうかを決めるつもりであった。

公孫瓚は、劉備の行動に応じて利用価値を見出す可能性があると考えており、単に殺すのではなく、利用してから判断する意向であった。

蜘蛛の糸

初平二年(西暦一九一年)七月、弘農郡の太傅執務室で、司馬懿は師である太傅から「蜘蛛の糸」の話を聞いた。反董卓連合を絡め取るための策略についてである。

この話は、罪を犯した盗賊が地獄で苦しむ中、蜘蛛の糸を見つけて逃れようとする寓話であるが、糸を自分だけのものとしようとしたために、最終的に糸を切られて再び地獄に落ちるという内容である。

太傅の策は、この話を基に反董卓連合の諸侯を絡め取るものであった。糸を垂らす相手は長安にいる楊彪と王允、そして反董卓連合の袁術であった。これにより、彼らに集まる勢力を利用して反董卓連合を瓦解させ、内部の敵対勢力を一掃する狙いがあった。

王允には新興勢力の取り纏めを命じ、袁術には諸侯との争いを仕掛けさせる。こうして集まった勢力を一気に掃討する計画である。司馬懿はこの策略の全貌を理解し、師の恐ろしさを再認識した。

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こも

いつクビになるかビクビクと怯えている会社員(営業)。 自身が無能だと自覚しおり、最近の不安定な情勢でウツ状態になりました。

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