どんな本?
垣根涼介氏の小説『武田の金、毛利の銀』は、戦国時代の経済戦略を主題にした歴史冒険小説である。
この物語は、織田信長が明智光秀を呼び出し、武田氏の湯之奥金山と毛利氏の石見銀山の財力を調査する任務を課すところから始まった。
信長は、敵対する大名の財力を把握するため、光秀に敵地へ潜入させ、金銀の産出量を示す台帳を確認するよう命じた。
光秀は危険な任務を遂行するために盟友の新九郎、愚息と行動を共にし、その道中で数々の試練に直面することになった。
この作品は、戦国時代の経済と軍事の関係を深く描写し、読者に新しい視点をもたらす内容である。
歴史や冒険を好む者にとって、特に興味深く楽しめる小説だと思われる。
読んだ本のタイトル
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あらすじ・内容
乱世の沙汰も銭次第
上洛した織田信長に呼び出された明智光秀は、とある任務を下される。数の信奉者である信長は、敵対する大名の武力を把握する必要があった。中でも武田と毛利の資金源である湯之奥金山と石見銀山の見定めは不可欠である。ただし、そのためには敵地の中枢に潜り込み、金銀の産出量を示した台帳を確認しなくてはならない。見つかれば命の保証はない危険な道中である。光秀は盟友の新九郎と愚息を伴って隠密裏に甲州へ向う。駿河湾の港・田子の浦にたどり着いた三人は、そこで土屋長安と名乗る奇天烈な男に出会い――。
『光秀の定理』『信長の原理』に連なる、直木賞受賞第一作!
感想
食わず嫌いってダメだな。
小説と知らずに購入して積んでいた本。
最初の信長の考察は面白いと思ったが、明智光秀が密偵のマネゴト?と胡散臭そうに思い本を閉じてしまった。
それでも最近になって、SNSで面白いと書いてあるので読むのを再開すると、明智光秀の幼馴染の2人(オリジナルキャラ?)がなかなかに良い味を出しており。
武人としての戦いをする新九郎。
元倭寇で僧侶になってる愚息。
さらに武田領で合流した武田家家臣の土屋が加わって珍道中をさらに面白くしてくれた。
大村大次郎さんの本によると、武田家は織田家との経済格差に苦心していたらしい。
武田家の本拠地である甲斐武田領は、農地が貧弱で水害も多く、武田信玄は領内の土木事業に多くの時間と資源を費やさざるを得なかった。
武田信玄は農地整備や河川工事を行い、領内経済の改善を図ったが、その一方で、戦費を賄うために重税を課し、領民に厳しい負担を強いていた。
そんな状態でこの本では織田家から明智光秀が金山を調べようとしていた。
海上交易を行う上で大事な金をどのくらい生産しているのかを探っていた。
さらに、港湾への整備を行っており。
武田信玄がどれだけ海上貿易による経済的な発展を渇望していたのか判る気がして来た。
だが、金は貿易の貨幣としては銀より弱かったらしい。
希少すぎたらしい。
一方、その銀を産出していた石見を領地にした毛利は海上貿易が盛んで、経済的に発展して行った。
大村大次郎さんの本には毛利家については詳しく書いてないのでその辺りは不明。
それでも、元大友家の領地だった事を利用して潜伏するのは楽しめた。
でも、武田家とは違い、毛利家は海上貿易を盛んに行うことが出来、南蛮貿易の中心地になっていたらしい。
それなら鉄砲、大砲などを輸入できたのに、何で毛利は織田家より領地拡張を行わなかったのは不思議であった。
それでもこの本では、武田を攻めた後で毛利に攻め入ろうとしていることが窺えるし。
その毛利家、下級武士だったけど今の世襲議員にその系譜が多いかも?
最後までお読み頂きありがとうございます。
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参考になりそうな本
お金の流れで見る戦国時代 歴戦の武将も、そろばんには勝てない
その他フィクション
備忘録
第一章 策謀
永禄十二年(一五六九年)、信長は三十六歳であった。前年に岐阜城から上洛し、四万五千の軍勢で京を制圧し、足利義昭を室町幕府の十五代将軍に据えた。これにより世間の信長への評価が一変したが、信長自身はそのような評価に無関心であり、政略と戦略の策定に集中していた。
その頃、甲斐の武田信玄は駿河を侵攻し、駿府を制圧した。信玄は長年海上交易を求めており、その目的のために港を手に入れようとしていた。信長は、信玄が単なる領土拡張ではなく交易による国の発展を目指していることを見抜いていた。
毛利元就は西国で勢力を広げ、石見国の銀山を手中に収め、南蛮や唐と盛んに交易を行っていた。信長は武田や毛利と戦っても織田家が優位であると考えたが、両面作戦の煩雑さも認識していた。彼は数と財力の重要性を重視し、軍事費が長期戦を支える要であると理解していた。
織田家は津島湊や大津、草津、堺などの港と商都を支配下に置き、安定した収入を得ていた。信長は、交易の重要性を理解する者として木下藤吉郎を重用し、次の一手を計画していた。
長雨がようやく上がり、藍色の空が広がっていた。新九郎は愚息と十年にわたる共同生活を続けており、その日、愚息は市中に出かけると告げた。愚息はかつて倭寇であり、得度をせずに独自の信仰を貫いていたため、葬儀や托鉢を拒み、日々の生活費を辻博打で稼いでいた。
新九郎は愚息に付き合い、三条通りへ向かい、愚息が賭博を始める様子を見守った。愚息は巧妙な手口で人々を引き込み、四つの椀から二つに減らす手法で勝利を重ねた。やがて足軽たちが愚息に怒りを覚え、乱闘が始まったが、愚息は冷静に対応し、足軽たちを圧倒した。
その後、足軽たちは新九郎にも襲いかかったが、新九郎は素早く応戦し、彼らを退けた。彼は生き残った者たちに死者を引き取らせ、去らせた。空には夏の兆しを告げる入道雲が湧き立っていた。新九郎は、自らの剣技を磨き続け、自由な生活を楽しんでいることに満足していた。
明智十兵衛光秀は、信長からの急な呼び出しを受けて洛北の瓜生山麓へ急いだ。信長は、市中で起きた乱闘事件に激怒しており、その原因が新九郎と愚息であることに気づいていた。信長は光秀に二人を連れてくるよう命じ、彼らの行動に対する処断を決めるつもりであった。
光秀は二人の助命を懇願しながら、彼らが信長の元に行くことを渋るのではないかと不安を抱いていた。愚息と新九郎は浮世のしがらみを拒み、独立した生き方を貫いており、信長の前で敬称を使うことにも抵抗があった。光秀は、自分が信長に仕える理由やその恩義を説明するも、二人は彼の姿勢を批判し続けた。
最終的に光秀は、二人に対し本心からの懇願を行い、自らの命をもって事態を収める覚悟を伝えた。その真摯な態度に心を動かされた新九郎と愚息は、条件付きで信長の元に同行することを決意した。ただし、彼らは敬称を使わずに対面することを条件とし、浮世の縛りから解放された自らの立場を貫く意向を示した。光秀はこの経験を通じて、正直な本音こそが人を動かす力であることを深く悟った。
柴田勝家は、信長から命じられ、明智光秀とその友人である愚息、新九郎を叱責する役を引き受けた。信長の意図は、彼らに責任を取らせるための形だけの叱責に過ぎず、勝家はその真意を理解していた。愚息と新九郎は、市中での事件に関する信長や勝家の問いに冷静に応じ、自らの行動に正当性を主張した。
信長は、彼らが市中の禁令を破ったことに触れつつも、その罰を回避するための条件として、武田と毛利の領地での調査を命じた。その任務の目的は、両家の金や銀の産出量と交易の状況を把握することで、織田家が今後の戦略を立てるためであった。
愚息と新九郎はこの依頼を受け入れ、光秀も同行することを決めた。信長は、彼らが危険な任務に挑むことを理解しつつ、成功すれば大きな報酬を約束し、失敗した場合は捨て駒として扱う覚悟を示した。勝家はその冷酷な判断に驚きながらも、信長の現実主義的な姿勢を再認識した。
十日後、光秀、愚息、新九郎の三人は夏の伊勢路を進んでいた。新九郎は任務への不満を漏らしつつも、愚息は金銭的な利得に加え、武田と毛利の金銀に対する個人的な興味からこの依頼を受けた理由を説明した。愚息の目的には、肥前松浦党の商業活動に有益な情報をもたらし、故郷への貢献も含まれていた。
光秀は愚息の考えに感銘を受けながらも、南蛮船の輸送力には対抗しにくいのではないかと疑問を呈した。これに対し愚息は、南蛮人には理解できない侘び寂びのある陶磁器を扱うことで、日本国内での高値取引を可能にする考えを語った。また、愚息は信長の「武門の戦いは銭で決まる」という考えに共感し、銭による自由を確保することが彼らの目的であると強調した。
桑名に着いた三人は、かつて自由都市として栄えたこの港が信長の支配下で変貌しつつある様子を確認した。愚息は信長が人々の暮らしから「楽」を奪うことへの不満を表明し、信長の苛烈な政策に疑念を抱く光秀の心情と重なった。三人は今井宗久が手配した船に乗り、伊勢湾を南下し、駿河へ向かうため黒潮に乗った。
第二章 武田の金
新九郎、光秀、愚息の三人は田子の浦に到着した。広大な港の風景に一時的な感嘆を見せたものの、愚息は湾内の水深の均等さに注目した。田子の浦は深く掘り込まれた港であり、武田家が支配後すぐに整備を始めたことがわかった。新九郎は愚息の港湾知識に感心したが、光秀はその効率性に驚きつつ、武田信玄の迅速な判断を評価した。
三人は甲斐の湯之奥金山を目指すため、法華信徒の参詣者に扮して港に上陸した。町並みを歩く中、彼らは遊女たちから「十兵衛」と呼ばれる若者が遊女屋に通っているのを目撃した。遊女たちは彼に対し親しげに声をかけ、彼が袖の下を多く受け取っていることを示唆した。光秀は自分と同じ名前の放蕩者の行動に不快感を抱き、「十兵衛」の通り名を持つことへの嫌悪感を表明した。
三人はこの出来事に呆れつつも、湯之奥金山への旅を続けるために町を後にした。
光秀、新九郎、愚息の三人は、宿泊先の大きな船宿に入り、松ヶ島の地侍として宿帳に偽名を記した。三人は二階の客間の手前の部屋を借り、今後の旅程を確認し、身延山への道を甲駿往還経由で進むことに決めた。その後、夜も更けた頃、隣室から放蕩者の十兵衛と思しき人物の声や、房事の音が漏れ聞こえてきた。
愚息は不快感を示し、文句を言おうとしたが、新九郎が代わりに対応することにした。新九郎は相手に丁寧に苦情を伝えたが、十兵衛は意外にも素直に謝罪し、酒を持参して平伏した。彼の軽薄な態度に光秀と愚息は呆れながらも、押し付けられた酒を受け取るしかなかった。
その後、三人は彼の正体を疑い、武田家との関わりを考えたが、確証は得られなかった。新九郎の話では、部屋にいたのは二人の女だけで、娼家の娘は連れ出されていなかったと分かった。最後に愚息が疲れを見せ、三人は再び就寝することにした。
光秀、新九郎、愚息の三人は宿を出て、昨夜の放蕩者である土屋十兵衛に再会した。光秀は礼儀正しく彼に瓶子を返し、新九郎たちは彼の奇妙な言動に疑念を抱きながらも、富士川の船渡しを待つため茶屋に入った。茶屋で再び土屋に遭遇した三人は、彼が武田信玄の家臣であることを知った。
土屋は、田子の浦の普請を手掛けた人物であることを明かし、甲府への報告のために向かう途中であると説明した。彼の傍若無人な態度と、二人の女性を郎党として連れていることに三人は驚いたが、彼の有能さと武田家での立場を理解し、さらなる詮索を避けた。
船頭から修理完了の報告を受け、川渡しに向かう途中、土屋は新九郎に昨夜の騒ぎを謝罪した。新九郎が娼家の娘について尋ねると、土屋は「気に入らなかった」とだけ答え、これ以上の理由は語らなかった。三人は土屋の不可解な人物像に困惑しながらも、次の目的地へと進むことにした。
光秀、新九郎、愚息の三人は、土屋十兵衛とその郎党二人と共に富士川を渡り、興津宿を経て駿河山中の身延道へ進んだ。彼らは土屋の奇妙な振る舞いや、女性を郎党として連れている点に困惑しながらも、距離を置きたいと考えたが、道中での再会を避けられなかった。
途中で川を渡る際、土屋は郎党の女性を背負いながら慎重に進み、その親切な一面を見せた。さらに、山道で落とした扇子を新九郎が拾い、返したことで、土屋たちから感謝を受けた。彼の振る舞いには親切さと配慮が見られ、光秀たちはその複雑な人物像に戸惑った。
その後、土屋の助言に従い、光秀たちは山中の宿坊に泊まることを決めた。宿泊場所を見つけることで、対岸にある湯之奥金山の全容を調べるという任務を効率的に進める計画が整った。光秀は宿坊への宿泊を機転を利かせて決定し、土屋と礼を交わした後、彼らは急ぎ足で次の目的地へと向かった。
光秀、新九郎、愚息の三人は急ぎ足で久遠寺に到着し、宿坊に荷物を置くとすぐに山へ登った。山頂の思親閣から湯之奥金山を観察し、採掘場や湯治場の位置を確認した。しかし、彼らの行動を土屋十兵衛に見抜かれていた。土屋は密かに彼らを追い、対面を果たした。
土屋は自分が武田家の家臣であり、湯之奥金山の監督を任されていることを明かし、三人を問い詰めた。光秀たちは自分たちが織田家の命を受け、金山の調査に来たことを認めざるを得なくなった。土屋は彼らを捕らえようとはせず、むしろ情けをかけて見逃す意向を示したが、その代わりに光秀に真実を明かすよう求めた。
最終的に、光秀は土屋の粘り強い問いかけに屈し、織田家が武田以外にも毛利家の金山に注目していることを明かした。土屋はその情報を興味深く受け止め、三人を無事に見逃すことを決めた。彼らはこの奇妙な出会いを経て、無事にその場を切り抜けることができた。
光秀、新九郎、愚息の三人は湯之奥金山の情報収集を進める中で、武田家の家臣である土屋十兵衛との出会いが大きな転機となった。土屋は武田家への忠誠心よりも、自身の興味を優先する性格を見せ、光秀たちに対して石見銀山への同行を提案した。土屋は、これまでの知識と経験を活かし、湯之奥金山の採れ高についても情報を提供すると約束した。
光秀は土屋の申し出に戸惑ったが、新九郎と愚息から急かされ、最終的に土屋を石見銀山に同行させる決断を下した。この選択は、織田家への背信行為となる可能性があったが、土屋の専門知識がもたらす利益を見越しての決断であった。光秀は土屋に対し、同行の条件として湯之奥金山の採れ高を明かすよう求め、その場で協力を取り付けた。
新九郎たち一行は興津の宿で待機し、土屋の郎党である楓と梢が同行していた。土屋は、新九郎たちが再び湯之奥金山に近づくのを避けるため、目付役として二人をつけた上で興津へ向かわせ、自身は甲府に戻り、信玄への報告を行うこととした。
光秀と愚息は興津周辺の古戦場を訪れる一方、新九郎は宿に残り、楓と梢に見守られながら鍛錬を行った。新九郎は稽古の中で無我の境地に入り、二人から感謝と敬意を受け、自身が内面的に満たされた生活を送っていることを実感した。
楓は新九郎の稽古姿を見て、彼が「夢中になるものを持ち、世の束縛から自由になれる」と称賛し、自分たちにはそのような充実感がないことを示唆した。三人は屋内に戻る際、梢が「我が殿のことをよろしく」と頭を下げ、感謝を表した。
約束から五日後の夜、ついに土屋が甲斐から興津に戻り、一行は再会を迎えた。
光秀たち一行は、土屋からの指示で田子の浦から船に乗り、興津の沖で土屋を迎え入れた。土屋は湯之奥金山の採掘量に関する詳細な情報を光秀たちに提供する約束を果たした。永禄9年から11年までの3年間の台帳に基づき、金の総産出量が年平均約5貫(約18.8キログラム)であることが明らかになった。
土屋は、採掘された金の分配についても説明し、金山衆が20%、穴山氏が50%、そして残りの40%が武田家に納められると述べた。さらに、愚息と新九郎は、金と米の相場を考慮し、武田家の年間の収入に対する金の寄与度を算出したが、その量は全体の0.8%に過ぎないと推測した。
彼らは湯之奥金山の産出量が田子の浦の交易には不十分であり、武田家全体の金山が経済的に有益とは言えない可能性を示唆した。土屋の言葉からも、武田家の金山より石見銀山がはるかに価値が高いことが再確認された。最後に、新九郎は、これらの推測はすべて信長が判断するべきことであり、自分たちは湯之奥金山の情報を持ち帰るだけで十分であると結論づけた。
第三章 毛利の銀
織田信長の外交使者、明智光秀の訪問を受け、毛利家の対応が描かれた。光秀の一行は、石見銀山を観察する目的もあったと推測され、これに対し、毛利家は緊張を強めた。毛利隆景は、信長の意図を見抜きつつも、外交的な関係維持のため、光秀の要求を受け入れた。
毛利元就は、光秀たちを酒宴で引き留め、その間に石見銀山の警備強化を図るよう隆景に命じた。隆景は、予備兵を密かに銀山に送り出し、同時に筑前の戦場へ急ぎ戻った。こうして毛利家は、織田家との関係を保ちながら、石見銀山の防衛に成功する戦略を講じた。
明智光秀の一行は、毛利家の重臣・天野隆重による手厚いもてなしを受け、酒宴が続く中で大いに疲弊していた。天野は城内を案内する名目で一行の行動を制限し、城郭の重要な部分には近づけさせなかった。新九郎の機転により、一行は祇園社へ参拝することで一時的に天野から離れることができた。
その後、天野は一行を温泉津への旅路に送り出す準備を整え、詳細な道中の案内を提供した。彼は別れ際に「道中で妙な好奇心を起こさぬよう」と忠告し、一行の安全を気遣った。また、自身の戦場での経験を語り、戦場を離れた今の邂逅を大切にしている様子を見せた。
光秀たちは天野の誠実さに感謝しつつ、内心では密命を果たすための苦悩を抱えたまま、石見銀山への旅を再開した。別れ際、天野は長い間手を振り続け、一行を見送った。
新九郎たちの一行は、険しい峠道や複数の関所を越えながら、銀山街道を通って進んでいった。道中では、愚息や土屋との会話を通じて互いの考えや性格が垣間見え、徐々に理解を深めた。毛利兵たちは一行を厳重に監視し、警戒心を隠さずに行動を制約していた。
石見銀山の周辺に到達すると、その町の繁栄ぶりに新九郎たちは驚愕した。商家や宿屋、娼家が立ち並び、賑やかな通りが続いていた。この山間の町が、想像を超える規模と活気を持っていることに皆が感銘を受けた。一方で、町の構造は通常とは逆で、裕福な者が下部に、貧しい者が山の上に住んでいる様子も印象的であった。
仙ノ山から採掘された銀の管理は、毛利家によって厳格に行われており、銀山街道を進む途中には新しい役所が設けられていたことが確認された。新九郎は、その役所が銀の管理拠点であることを直感した。
旅の終盤、一行は温泉津へと続く道を進んでいき、険しい降露坂も克服した。ようやく北海が視界に広がり、西陽が水平線に沈む景色を目にしながら、目的地への到達が近いことを実感した。
光秀たちは温泉津に到着し、この港町の活気と繁栄を確認した。温泉津は鎌倉末期からの重要な港町であり、天然の良港と温泉地として栄え続けていた。町には女郎屋や宿泊施設、商家が立ち並び、銭の流れが盛んであった。
一行は町内を巡り、港に停泊する船を調査したが、目的の今井宗久の船はまだ到着していなかった。町の探索後、宿を取って情報交換を行い、石見銀山の銀子管理所についての推測を確認し合った。銀子管理所は武家屋敷の中にある陣所と考え、そこに目をつけていた。
翌日、光秀たちは温泉津の港と周辺地域をさらに調査し、毛利家の別の積み出し港である沖泊にも訪れた。調査の結果、港の積み出し能力にはまだ余力があることを確認した。
土屋が女郎屋から得た情報によれば、毛利の歩哨が沿岸から大幅に減少しているという。特に鞆ケ浦にはまったく歩哨がいないことが判明し、この情報が一行の次の計画に大きな影響を与えた。毛利が筑前に出兵しているため、沿岸部の警備が手薄になっていると推測された。
これにより、旧銀山街道を使った潜入計画が有力となり、一行はこの案を採用することに決定した。翌日、今井家の船が温泉津に入港し、光秀の指示通り米を銀に換える取引を行った。温泉津では米一石が銀十二匁で取引されており、これは畿内の相場よりも高い利益率を示していた。
この交易の利益に加え、石見銀山の豊富な採掘量と地の利もあり、温泉津が繁栄する理由が明確であると確認された。光秀たちはこの情報を元に、さらなる計画の準備を整えた。
新九郎たちは温泉津を出発し、未明の暗い海を進んだ。鞆ケ浦に向かう途中、断崖が続く海岸を探索しながら進み、夜明けまでに隠れる場所を見つけるため準備を進めた。途中、愚息が船頭に協力を求められたが、彼は船員同士の息が合った作業が重要であるとして断った。
彼らは岬の岩陰で船を隠すことに成功した。松の枝を利用し、無人の舟を吊り上げて隠したため、満潮時でも舟が波にさらわれる心配はないと船頭が保証した。この準備が整うと、商船は再び北東へと進み始めた。
光秀たちは対馬海流に乗り、次の目的地である宇龍に向けて航行を続けた。愚息と船頭は風向きと海流について確認し、順調に進めば日暮れまでには宇龍に到着できる見込みであることを確認した。彼らは風と海流を活用して、予定通りの航海を続ける準備を整えた。
新九郎たちは宇龍の港に到着し、毛利家の守備兵との初接触を意図的に目立たせるため、土屋が先に町の女郎屋へと向かった。その後、光秀たち三人は飯屋で情報を集め、石見銀山や温泉津への行商人が多いことを知った。土屋が戻ると、毛利家の役人が翌日訪れることを予想し、初回の挨拶を済ませればそれ以上の干渉はないと判断した。
翌朝、光秀たちは毛利の役人に丁寧に応対し、滞在期間についても計画通りの日程を伝えた。その後、彼らは町人に変装するための準備を整え、各自の容貌を変えた。特に土屋はかつての猿楽師としての技術を活かし、見事な変装を披露した。
深夜、四人は小舟に乗り、宇龍の港を離れた。彼らは杵築大社への参拝者を装い、海上を進み、半島を回り込んで南の砂浜に到着した。杵築大社の神領内に上陸することで、毛利家の監視を避ける狙いがあった。夜明け前まで歩き続けた彼らは、出雲郡から神門郡に入る頃には、すっかり明るくなった。
多伎小川で渡し舟を使って対岸に渡った後、毛利家の関所で無事に通過した。光秀たちは杵築大社からの帰り道として温泉津への旅を装い、兵士たちの警戒を和らげることに成功した。こうして彼らは計画通りに行動を進め、目的地へと歩みを進めていった。
新九郎たちは石見の地に入り、休憩を取りながらもほぼ途切れなく歩き続けた。途中で波根湖に立ち寄り、昼食を取りながら仁万の集落への距離を確認した。光秀は道中の食料として握り飯を用意し、四人は再び歩き始めた。北海沿いの景観に感慨を覚えつつも、土屋だけは一言も発せずに同行した。
夕暮れ前に仁万に到着すると、小舟を隠した岬を目指して集落を通り抜けた。岬への道は見つからなかったが、土屋が森を先導し、巧みに鉈を使いながら進んだ。途中、彼は蝮に関する話で愚息をからかいつつ、慎重に道を切り開いた。
岬に到着した四人は、松の幹に吊り下げた舟が無事であることを確認した。舟を琴ヶ浜に隠す案も検討されたが、崖から直接舟に飛び移ることで時間と労力を節約できると判断した。愚息が最初に舟に飛び移り、他の三人も続いたが、土屋は着地に失敗し腰を痛めてしまった。
その後、四人は再び森を抜けて峠に戻り、夜露に濡れながらも休息を取った。夜が明ける前に再び出発したが、土屋の腰痛が悪化していた。彼は銀山への強い執着心を示し、途中で離脱することを拒んだ。新九郎たちは交代で土屋を支えながら進むことを決め、彼を連れて行くことにした。
夜明けに近づく頃、彼らは旧銀山街道の跡を発見した。土屋は腰の痛みを押しながらも、巧みに道を見つけ出し、四人は銀山街道を進む準備を整えた。険しい道中での試練にもかかわらず、彼らは目的地を目指して着実に前進していた。
光秀たちは、廃れた旧銀山街道を通って要害山の近くまで辿り着いた。道はぬかるみ、滑りやすく、進むのに困難を極めたが、彼らは迷わぬよう半袈裟を目印にして進んだ。土屋の腰の負傷を考慮しつつ、新九郎が先導役を務め、慎重に道を進んだ。
途中、道は二手に分かれ、彼らは楼門に通じる右手の道を選んだ。楼門には数名の毛利兵が常駐していることが確認され、そこから町への潜入は難しいと判断した。そのため、町人街と武家屋敷を区切る山門の様子を新九郎と愚息が探り、夜の侵入が最適だと結論づけた。
さらに、彼らは高台に登り、銀山の町並みを見渡した。寺の裏手からの侵入経路が最も有望であると判断し、夜間にそこから潜入することを決定した。四人の意見は一致し、計画が固まった。
一行は巨岩の陰で休憩し、糒を食べながら今後の行動を確認した。昼食後は夕方まで仮眠を取り、体力を温存することにした。その後、夜の状況を見定めて行動を開始する予定であった。
新九郎たちは二度目の眠りから覚め、銀山町を見下ろすと住民たちは寝静まり、町は暗闇に包まれていた。四人は静かに山を下り、町人街と武家屋敷を区切る山門へと向かった。慎重に進んだ彼らは、寺の裏手まで足音を立てずに到達した。そこからさらに塀を越えて陣所に侵入し、銀山の記録を調査する計画を実行した。
陣所の建物内で新九郎たちは三年分の台帳を手分けして集計し、毛利家の銀山の産出量を確認した。しかし、より長期間の記録を求める光秀の望みに対し、土屋は三年分で妥協するよう説得した。集計を終えた四人は元の状態に戻して建物を退出し、藪の中に身を隠した。
その後、塀を越えての脱出に挑んだが、土屋の腰痛により堀に落ち、水音を立てたことで警戒された。愚息と新九郎は囮となって毛利兵を引き付け、光秀と土屋が旧道を通って森へ戻る手助けを試みた。
囮作戦の途中で楼門を突破した新九郎と愚息は、温泉津への新道に見せかけて森に潜り込み、追跡を振り切った。楼門付近の警備が強化される中、二人は光秀と土屋との合流を目指して旧道を進んだ。
途中で新九郎は愚息と再会し、要害山の三叉路で他の二人を待つことにした。追跡の危険性を感じつつも、四人の再合流を確信し、次の行動を決めるために森の中での短い待機を選んだ。
新九郎と愚息が先に行った後、光秀と土屋は藪の中で待機していた。町内では半鐘が鳴り響き、益田率いる毛利家の武士たちが陣所の状況を確認したが、内部が荒らされていないことを確認し、侵入者をただの泥棒と見なしていた。これにより、光秀たちは織田家との関与を疑われることなく安堵した。
二人は陣所から離れ、武家屋敷の裏手を通って森へ進むことを決断した。山門は閉じられており、往来もなかったため、土屋の不安を押し切って光秀は自ら敵を倒す決意を示した。二人は暗い森の中を進み、旧道の三叉路で新九郎と愚息と無事に再会した。
四人は旧道を進む途中、毛利家の追手の存在を察知した。新九郎と愚息は追手を迎え撃つ準備を整え、奇襲によって敵を無力化することに成功した。戦闘後、彼らは無言で先を急ぎ、土屋の提案で目印を利用して追手をさらに惑わせた。
山道の進行が厳しくなる中、新九郎は土屋を背負うことを提案しつつ、進行を続けた。いくつかの峠を越えながらも、追手の気配は薄れ、希望が見えてきた。最後の峠を越えた時点で、旧道の尾根沿いの道が続き、山陰道への到達が近いことを確認した。光秀たちは追いつかれないよう願いながら、目標に向かって進み続けた。
新九郎たちは尾根沿いの道を進む中、ついに後方から追手の灯りが見えた。彼らは布切れに惑わされて遅れていたが、道が単純になると追い上げを開始した。光秀は愚息に土屋を連れて先に進むよう指示し、自分と新九郎で時間を稼ぐことを決めた。
光秀と新九郎は木々から蔦を集め、罠を仕掛けた。その罠により、追手は急斜面から谷底に落ち、戦闘不能に陥った。二人はさらに下山道に新たな罠を設置し、毛利兵の進行を遅らせる策を取った。
罠が効果を発揮し、毛利兵が転倒した声を聞いた二人は山陰道への道を急いだ。山陰道に出ると琴ヶ浜が見え、そこに愚息と土屋も合流した。四人は船のある岬へ向かいながら、追い風が航海を助けることを確認し、無事に出雲まで到着する希望を抱いた。
後方から再び毛利兵の松明が見えたが、彼らは新九郎たちの進路を見誤り、鞆ケ浦方面へ進んでいた。このことにより、新九郎たちは無事に逃亡できる見通しが立ち、安心して進むことができた。
第四章 乖離
新九郎たちは宇龍を出発して三日後、小浜に上陸し、鯖街道を経て保坂の集落に到着した。そこで、土屋は京へ向かう朽木街道を選び、新九郎たちに同行することを決めた。信長の反応を知りたいという理由からであったが、信長への報告については、彼がその情報を武田家には伝えないと約束した。
土屋は信長が武田と毛利に特別な関心を寄せている理由について話した。信長は、戦を決するのは最終的に金と銀であると考えており、それゆえ武田の金と毛利の銀に注目しているとの見解を示した。また、信長は上杉景虎や後北条を大きな脅威とは見なしておらず、彼らが京に進出する可能性は低いと分析した。
さらに土屋は、武田家と毛利家がそれぞれ独自の勢力拡大を図る一方で、天下の制覇には興味を持っていないと述べた。だが、信長が足利将軍家に取って代わるような動きを見せれば、武田も毛利も敵対する可能性が高いと推測した。
最後に、光秀も土屋の意見に同意し、武田と毛利の金銀の報告が信長の次の行動に影響を与えることを示唆した。土屋は信長の反応を見届けた後、それを新九郎たちに教えるよう頼み、会話は終了した。
四日後の早朝、光秀は鞍馬口で愚息と新九郎を迎え、信長との面会前に打ち合わせを行った。彼らは、武田家の金山や毛利家の銀山についての情報収集を終え、その内容をどのように信長に報告するか確認していた。光秀たちは、金山で出会った久兵衛という山師に協力を依頼し、その報酬として金子二十枚を支払うことにした。
妙覚寺での信長との面会では、光秀が武田の金と毛利の銀の採掘量を報告した。武田家の金山の年間採掘量は最大で百二十五貫、毛利の銀山の年間採掘量は千五百貫から千八百貫に増加していると説明した。また、石見銀山の町の活気が堺に匹敵するほどであると述べた。信長はこの報告に満足し、さらに銀山の警備状況についても詳しく質問した。
光秀は、石見銀山に再侵入することは困難であると伝えたが、信長は依然として銀山に強い関心を示した。また、久兵衛との関係を維持することで、将来も銀山の情報を得られる可能性があると愚息が提案し、信長もその意見に同意した。
最後に、温泉津と田子の浦の交易状況や金銀の換算率についても報告した。信長は、石見銀山での銀の安定した相場を評価し、田子の浦の不安定な金相場との違いを指摘した。その後、信長は光秀たちの働きを称え、愚息と新九郎に金子十枚ずつを褒美として授けた。
明智光秀とその仲間が妙覚寺を出た後、信長は丹羽長秀を呼び寄せ、茶室で密談を交わした。長秀は信長に仕えた経歴や自身の無欲な性格について内省しつつ、信長の質問に答え、光秀の働きぶりを評価した。彼は光秀が甲斐と石見での情報収集を見事にこなしたと述べ、その優れた手腕を称賛した。
信長は、光秀が連れてきた山師「久兵衛」に疑念を抱いていた。久兵衛が石見銀山に留まらず京まで来た理由を問う信長の姿勢には、光秀の報告内容を疑う意図が含まれていた。さらに、久兵衛が実は武田家の家臣であり、普請奉行を務めた「土屋十兵衛長安」である可能性が示唆された。
信長は既に甲斐の情報を入手しており、久兵衛の素性が判明するのも時間の問題であると予測していた。もし久兵衛が土屋であれば、光秀の行動に対する信長の評価は変わらないままだと述べ、彼の信頼が揺るがないことを明かした。信長はまた、光秀が将来的に織田家を誤魔化す可能性についても警戒を示しつつ、有能である限り彼を重用する方針を示した。
信長は、この山師の行方によって光秀への対応を最終的に決定する考えを伝え、慎重に事態を見守ることを命じた。長秀は、この一連のやり取りから信長の冷徹な判断力と、配下の者たちを使いこなす巧妙な手腕を再確認した。
新九郎たちは、洛中から戻り、瓜生の寺で土屋と再会した。土屋は信長への報告に無関心な様子を見せつつも、光秀から信長の反応についての詳細を聞き、武田家の金山に関する信長の知識に驚愕した。彼は信玄への忠誠を語りつつも、自分自身の取り立てを当然のことと考えていた。
土屋は武田家の金と毛利家の銀の違いについて詳しく解説し、金の不安定な価値が戦費としての活用を難しくすることを指摘した。これにより、信長が武田家を先に攻撃する可能性が高いと推測した。彼は戦が長期化すれば、武田家は織田家に敗れる運命にあると述べた。
土屋はその後、比叡山を越え、琵琶湖を経由して甲斐へ戻る決意を示し、信長の戦略に基づく見解を新九郎たちに伝えた。光秀は土屋が武田家を見限ることはないだろうと考え、彼の予言通り、土屋は信玄と共に最後まで武田家に仕え続けた。
その後の歴史において、武田家は滅亡し、土屋は徳川家康に仕えることとなった。彼は「大久保長安」として多くの要職を歴任し、特に金山や銀山の管理でその才能を発揮した。しかし、彼の死後、家康は大久保家の断絶を決定し、長安の遺産は没収され、息子たちは切腹を命じられた。長安の波乱に満ちた生涯は、武士から立身した者の典型例として後世に語り継がれた。
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