簡単な感想
遂に大砲が出てきた。
しかも、幕末に活躍していたアームストロング砲みたいなやつが、、
でも、迫撃砲は凄い。
どんな本?
戦国小町苦労譚は、夾竹桃氏によるライトノベル。
農業高校で学ぶ歴史好きな女子高生が戦国の時代へとタイムスリップし、織田信長の元で仕えるという展開が特徴。
元々は「小説家になろう」での連載がスタートし、後にアース・スターノベルから書籍としても登場。
その上、コミックアース・スターでも漫画の連載されている。
このシリーズは発行部数が200万部を突破している。
この作品は、主人公の静子が現代の知識や技術を用いて戦国時代の農業や内政を改革し、信長の天下統一を助けるという物語。
静子は信長の相談役として様々な問題に対処し、信長の家臣や他のタイムスリップ者と共に信長の無茶ブリに応える。
この物語には、歴史の事実や知識が散りばめられており、読者は戦国の時代の世界観を楽しむことができる。
2016年に小説家になろうで、パクリ騒動があったらしいが、、、
利用規約違反、引用の問題だったらしい。
読んだ本のタイトル
戦国小町苦労譚 11 黎明、安土時代の幕開け
著者:#夾竹桃 氏
イラスト:#平沢下戸 氏
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あらすじ・内容
時は1575年、信長が安土へ移ろうとする過渡期の1月。静子はチョコレートケーキ作りに励んでいた。「親」として迎える初めての正月だったが、彼女に寛ぐ暇などあるはずもなく——本願寺の挙動に気を配りつつ、東国征伐と花火大会の準備を進める傍ら、いよいよカメラは実用段階に。日ノ本初の写真撮影に挑むが・・・・・・
日ノ本一、目が離せない戦国ライトノベル、最新11巻‼
戦国小町苦労譚 十一、 黎明、安土時代の幕開け
感想
武田が北条と共に徳川に攻め寄せて来た。
それを迎撃する徳川、織田連合軍。
それに随伴する静子だが、、
信長の密命で、指揮官の信忠に敗北を味あわせろと言われているが、、
初手の迫撃砲で武田、北条連合軍を壊滅させてしまった。
その追撃に浮き足立つ織田、徳川連合軍達。
でも、そんな彼等の頭上に台風が直撃してくる。
それでピンチになる信忠。
それを救援する慶次と可長。
結果的に助かったが反省点は満載。
そして技術では問題点は多いが、写真が完成する。
コレにより文化遺産を写真に残す事が可能に。
人物も、、
最初のモデルは信長ではなく濃姫!
ヴィットマンも高齢で衰えて来ている・・・
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備忘録
天正二年東国征伐
千五百七十五年二月下旬
信長の安土移転と岐阜城の引継ぎ
天正二年、信長が岐阜城で新年を迎えるのは最後となった。安土城の落成までの仮御殿も完成し、移転準備が順調に進んでいた。移転予定日は新年十五日頃に設定され、岐阜城には信忠が入り、新たな領主として治めることとなった。
静子の静かな正月
例年、元日には静子の配下も実家へ帰省し、屋敷は閑散とする。今年は四六と器が加わり、昨年より賑やかではあったが、それでも静寂が支配していた。静子は老境に差し掛かったヴィットマンとバルティを撫でながら、彼らとの別れが近づいていることを実感していた。純血の後継者が途絶え、彼らの一族は今いるファミリーが最後となる。
老いる仲間との別れ
ヴィットマンに続き、カイザーやケーニッヒの姿も老いを感じさせた。アーデルハイトやルッツの精悍な顔つきも和らぎ、飼い主としての責任を静子は改めて噛みしめた。かつて友人が愛犬との別れを語っていたことを思い出し、その悲しみが他人事ではないと実感した。静子は彼らのために最期まで安らかに過ごせる環境を整えようと決意した。
岐阜城の混雑と信長の訪問
正月二日目以降、岐阜城では信長の転出を前に挨拶の列が途切れず、近侍たちは忙殺されていた。静子は混雑を避けて控えていたが、信長が自ら静子邸を訪れた。静子は信長の訪問を受け、彼の要望に応じて「けえき」を準備することとなった。
戦国時代のチョコレートケーキ
信長の甘党ぶりを考慮し、静子はチョコレートケーキを作ることにした。しかし、メレンゲを作るには冷蔵技術がなく、極寒の氷室で長可が泡立てる必要があった。苦労の末に完成したガトーショコラは濃厚な味わいで、信長をはじめ濃姫や市も絶賛した。しかし、最後の一切れを巡って波乱が起こり、長可が再び氷室送りになる結末を迎えた。
信長の新たな環境と静子の影響
信長は安土に移り、表向きは落ち着いたが、静子への無茶ぶりは変わらなかった。食の制限を受けることを惜しむ信長の姿に、静子は苦笑しつつも新たな環境での彼の適応を見守ることになった。
本願寺の苦境と頼廉の決断
一方、本願寺は追い詰められ、軍議の場で下間頼廉が降伏と講和を模索する姿勢を示した。しかし、教如をはじめとする抗戦派は徹底抗戦を主張し、内部対立が激化した。頼廉は本願寺の生き残りを図るため、静子との会談を決定し、情報を得ようと画策した。
静子の立場と決断
朝廷を通じて信長へ会談の打診が届き、静子は否応なく巻き込まれることとなった。頼廉の狙いが講和であると察した静子は、彼の策略に乗るのを避けるため、新たな選択肢を提示する必要があると考えた。
信長の安土移転と静子の昇進
二月下旬、信長は正三位・右近衛大将に任じられ、朝廷内でさらに昇進することが噂された。同時に仁比売が従三位、静子も従三位を授かったが、官職は与えられなかった。これは朝廷が信長と静子を両天秤にかけ、双方から利益を引き出そうとしている意図が透けて見えた。
美濃の仕置きを担う静子
信長の命により、美濃の仕置きを信忠が引き継いだが、信忠は静子に補佐を命じた。静子は領主としての仕事をこなしながら、尾張と美濃の統治にも関わることになった。
愛知用水と木曽三川の治水計画
特に、愛知用水の整備と木曽三川の治水工事が重要課題であった。愛知用水は農業、工業、商業に活用される大規模事業であり、治水工事は洪水被害を防ぎ、尾張と伊勢を繋ぐ陸路を確立する目的があった。治水技術の未熟さと領主間の対立で遅れていたが、信長の支配下にある今、推進が可能となった。
織田家の兄弟間の確執
静子は治水や経済政策に集中していたが、信長の直系兄弟の確執にも巻き込まれることとなった。兄弟間の権力争いは避けられず、静子はその火種を鎮めるために奔走することとなった。
千五百七十五年四月下旬
伊勢開発を巡る信孝と信雄の対立
北伊勢を治める信孝と、南伊勢を治める信雄の対立が激化した。美濃・尾張・北伊勢を繋ぐ経済圏の開発が進む中、信雄が突如として計画への参加を主張した。信孝はこれを強く非難したが、信雄は「伊勢全土に影響を与える事業であり、自分が外されるのは認められない」と主張し、譲らなかった。
信忠が両者を説得しようとしたが、互いに相手を排除しない限り妥協しないと固執したため、信長の裁定を仰ぐこととなった。信長は信孝には協力を求めるよう諭し、信雄には相応の出資を求めることで決着させた。結果、北伊勢は人員を提供し、南伊勢は資金を拠出する形となったが、信孝と信雄の確執が解消されることはなかった。
信雄の評価と信孝の不満
信雄は道理を弁えぬ「うつけもの」と評される一方で、信孝は実績を積み上げつつあった。しかし、戦国の世の序列においては、信孝は常に信雄の後塵を拝していた。信孝は北伊勢の繁栄を通じて信雄との差を明確にし、自らの地位を向上させようとしたが、その策は完全には実を結ばなかった。
尾張米の拡大と農業改革
三月、信長の命により尾張全域で尾張米の栽培が拡大された。作付け規模の拡大に伴い、田植え機の改良が進み、人力田植え機と畜力田植え機の二系統が確立された。これにより、作業効率が従来の七倍から十倍に向上した。
農機具は織田家と契約した村に無料で貸し出され、適切な運用が求められた。今回の拡大は二度目であり、前回の経験を活かして混乱を最小限に抑えつつ進行した。将来的には尾張を超えて、中部地方全域や近江、越前へと展開する計画が立てられていた。
信雄の無責任な態度
四月下旬、美濃・尾張・伊勢包括経済圏の会合が開かれたが、信雄は領地の問題を理由に欠席し、名代を立てた。参加者の間では信雄の無責任な態度に不満が募った。
信孝は信雄が志摩国の開発に関与できなかったことを恨んでいると指摘した。志摩国では静子と九鬼嘉隆の協力により養殖業が発展し、伊勢神宮の庇護者も志摩国へ移された。信雄はこれを逆恨みし、今回の会合を軽視したと見られた。
伊勢の特色の欠如と静子の提案
静子は伊勢が独自の特色を持たなければ美濃に取って代わられると警鐘を鳴らした。尾張には「尾張様式」と呼ばれる特産品があり、美濃は物流拠点としての役割を持つが、伊勢にはそれがなかった。
静子は「伊勢には日当たりの良い斜面が多いため、橘や柑子の栽培が適している」と提案した。橘は日本書紀や古事記にも記され、不老不死の象徴とされる果実である。この案に信孝は可能性を見出し、持ち帰って検討することとなった。
信雄の名代の苦境
会合の決定により、南伊勢は資金を負担することが確定した。信雄の名代は、不利な条件を持ち帰らねばならず、主君の怒りを買うのは確実だった。信孝はこれを愉快げに見ていたが、静子は兄弟間の確執が今後も問題を引き起こすことを予感し、事業の専任担当者を選出することを決めた。
織田対上杉の相撲大会
静子が休息を取っていたところ、武道場から賑やかな声が聞こえてきた。覗いてみると、織田勢と上杉勢が相撲の勝ち抜き戦を行っていた。勝者側が敗者側の食事代を負担するという賭けが盛り上がりを見せていた。
静子はさらに盛り上げるため、賞品として自身の管理する酒蔵の酒を提供すると宣言した。この酒は信長や朝廷に献上されるほどの上質なものであり、参加者の熱意を一層高めた。
酒の試飲と団体戦の再燃
選ばれた代表者たちが酒蔵を視察し、試飲を行った。景勝や兼続はその味わいに感嘆し、賞品の価値を実感した。静子が「勝ち星の多い方にこの鍵を託す」と宣言すると、参加者の士気はさらに高まった。
新たな組み合わせで団体戦が始まり、観客も熱狂した。静子は武道場を後にしながら、「怪我人が出る前に医者を手配しよう」と呟き、彩の元へ向かった。
千五百七十五年五月中旬
相撲大会の結果と宴会の混乱
尾張勢と越後勢に分かれて行われた相撲大会は、僅差で越後勢の勝利に終わったとされた。しかし、試合後に勝敗に関係なく宴会が始まり、参加者全員が泥酔したため、正確な結果は定かでなかった。消費しきれなかった酒は勝者の権利として越後勢に引き渡され、それぞれが故郷へ送るなどして楽しんだ。
静子は空になった酒蔵を確認し、その規模の大きさに改めて驚いた。酒蔵内は隅々まで清掃されており、越後勢が感謝の意を込めて掃除したと推測された。静子は鍵を返却されると、新たな酒の搬入を命じた。
越後勢への対応を巡る意見の相違
執務室に戻ると、彩が「いくら同盟を結んだとはいえ、越後勢に自由を与えすぎではないか」と疑問を呈した。景勝たちは人質の立場であり、あまりにも厚遇するのは問題ではないかという意見であった。
静子は、人質生活は想像以上に精神的負担が大きく、適度な自由を与えることが重要だと説いた。上杉家では家督問題が未解決であり、景勝たちとの関係を良好に保つことが有益だと考えていた。
しかし、彩は兼続が慶次とともに二日間消息を絶った事件を指摘し、外交問題にもなりかねなかったと警鐘を鳴らした。静子もこの件には頭を抱え、「夜遊び禁止」という処分を下したものの、全体としては現状維持の方針を続けることとした。
滝川と丹羽の急な訪問
小姓が訪れ、滝川一益と丹羽長秀が来訪したと報告した。先触れのない訪問に静子は警戒したが、すぐに応接室へ向かった。
滝川は信長から東国征伐への参陣を命じられ、準備に取り掛かる旨を伝えた。静子はこれに対し、滝川軍の参戦を心強く思うと応じた。東国征伐軍の編制では、信忠を筆頭に静子と滝川が両翼を支える形となっていた。
次に丹羽が、安土城の普請について相談を持ちかけた。落雷による山火事で檜材の製材所が焼失し、必要な資材の確保が困難になったため、静子が管理する田上山の檜材を提供してほしいという内容であった。静子は備蓄を確認し、適切な材木の供給を約束した。
京の花火大会と政争の話題
要件を終えた三人は、京の噂話に移った。昨年信長が中止した納涼御前花火大会が今年こそ開催されるとの話題が出た。信長は特に力を入れて準備を進めており、前例のない盛大な催しとなる予定であった。
また、公家の一派が妨害を企てたとの情報もあり、それが信長の知るところとなった以上、関係者が無事では済まないだろうという見解が交わされた。滝川と丹羽は、信長の怒りを買った者たちの処遇について推測しながら、京の権力争いの行方に関心を寄せた。
光秀の来訪と四国問題
談笑していると、小姓が光秀の来訪を告げた。光秀は「四国の件で火急の相談がある」と伝えていたが、静子は先客がいるため待つよう命じた。滝川と丹羽は光秀を快く思っておらず、顔を顰めた。
滝川と丹羽は自分たちの訪問も急なものであったため、静子の対応を理解し、辞去を申し出た。静子はこれに感謝し、光秀を迎え入れた。
光秀は四国統一の期限が迫る中、長宗我部家内で無理が重なり、お家騒動に発展しかけていると報告した。統一を焦るあまり身内の反発を招き、このままでは領地の維持すら危ういという。
静子は三年の期限を定めたのは長宗我部側の希望であったことを確認しつつ、計画の見直しを提案した。具体的には、四国統一の延期と並行して阿波の港を整備し、軍港を視野に入れた開発を進める案を提示した。これにより、四国の経済基盤を強化し、安定した統治を可能にする狙いであった。
信長への報告と承認
静子はこの計画を信長に報告するため、光秀と長宗我部家の池を伴い、安土へ向かった。信長は静子の説明を聞き、計画の合理性を認めた。
信長は「四国統一を急ぐよりも、戦略的な要塞化を優先するのが得策」と判断し、統一の延期を正式に許可した。加えて、伊予国への進出を控えること、しかし敵勢力が四国外へ出ることは許さないという条件を付けた。
静子はこの裁可を受け、四国開発の具体的な計画を光秀と池に委ね、連絡網の維持を指示した。これにより、四国の安定化に向けた新たな一歩が踏み出された。
尾張への帰還と農業技術の進展
信長との会談を終えた静子は、尾張へ戻り、執務に取り掛かった。農業分野では大きな問題はなかったが、人力による作業効率の向上には限界が見え始めていた。
そのため、新たにスターリングエンジンを搭載した耕運機の実用試験が始まることとなった。これが成功すれば、田植え機や将来的にはコンバインの開発も視野に入ると期待された。
機械化への抵抗感を持つ者もいたが、静子は「便利さを理解させれば受け入れられる」と考え、強引にでも普及させる覚悟を決めていた。
各方面への挨拶回り
五月に入り、静子は各方面への挨拶回りを開始した。まず安土で信長の機嫌を伺い、軍資金や贈答品を献上した。これらの品は信長の手に渡ることで、政治的な影響力を持つ武器となった。
安土での用事を済ませた後、静子は京へ向かった。
京屋敷への到着と村井貞勝との会談
静子は京に到着すると、まず自らの屋敷へ落ち着いた。訪問の先触れを出し、最初に京都所司代の村井貞勝と会談の約束を取り付けた。村井は信長の名代として京の行政全般を取り仕切り、朝廷との橋渡しを担う重要な人物であった。
会談では、互いの近況を語りつつ、特に鴨川の治水工事について話し合った。静子が派遣した黒鍬衆の働きに村井は感謝を述べた。京の治安維持や経済活性化にも静子の滞在が影響を与えており、軍属たちの存在が街を引き締め、商業の活況をもたらしていた。
一刻ほどの会談を終えると、静子は村井に尾張への来訪を誘い、村井もそれを楽しみにすると応じた。村井は静子を「王佐の才を持つ人物」と評し、彼女の才覚を惜しみつつも、天下統一を支える役割を果たす存在として認識していた。
京屋敷での来客対応と近衛前久とのすれ違い
静子の京屋敷には、公家や武家、さらには仏門の者までが訪れ、彼女との縁を求める者で溢れた。天下人信長の懐刀であり、穏やかな人格者としても名高い静子に接近しようと、多くの者が謁見を願い出た。
次に静子は後見人であり義父でもある近衛前久に会うため、先触れを出した。しかし、前久は堺に出向いており、会談の機会を得ることは叶わなかった。静子は直筆の文と贈り物を預け、屋敷を後にした。
後に前久がこのすれ違いを知ると、「判断を仰ぐ前に勝手に断るな」と家宰を窘めたという。
千利休との会談と長谷川信春の紹介
静子が京での交渉に疲れを覚えていたところ、小姓が千利休の来訪を告げた。利休は友人として長谷川信春を伴っており、静子に紹介した。
信春は後に「等伯」と号し、狩野派に匹敵する一派を築く絵師である。しかし、この時点ではまだ無名の存在であった。利休は、静子の管理する美術品を信春に見せ、研鑽の機会を得させたいと考えていた。
静子は彼の才能を認めつつも、「優遇するには相応の実績を示すべき」とし、狩野永徳の屛風を示して「これに匹敵する作品を描くこと」を条件とした。信春は即答を避け、時間を求めた。静子はこれを了承し、後日返答を待つこととした。
オルガンティノとの交渉と真珠取引の提案
次に静子は、イエズス会のオルガンティノ、フロイス、ロレンソと会談した。オルガンティノは真珠の取引について話を持ちかけ、日本産の養殖真珠が欧州市場で好評を得ていることを伝えた。しかし、問題点として「色が純白すぎる」と指摘し、価格交渉の余地を求めた。
静子はこれを見越し、二つの提案を提示した。一つは価格を下げた通常取引、もう一つは価格を据え置いた上での独占販売契約である。独占契約を選べば、イエズス会が日本の真珠の唯一の供給元となり、貿易上の大きな優位性を得ることができる。
オルガンティノはこの提案に興味を示しつつも、最終判断を保留した。静子は交渉が成立する可能性は高いと見込み、取引の具体的な条件を詰める準備に入った。
徳川家康への挨拶と東国征伐の兆し
静子は京での用事を終え、尾張へ戻った後、徳川家康への挨拶のため遠江へ向かった。今回の訪問は、信忠の名代としての公式な挨拶であり、同盟関係の再確認が目的であった。
浜松城で家康と謁見し、尾張・美濃奉行就任の報告を終えると、表向きは世間話を交わしながら、東国の情勢について探る形となった。信長は明言していないものの、東国征伐の準備が進んでいることは明白であった。
会談を終えた静子は数日滞在した後、尾張へ帰還した。帰路の案内人は本多忠勝が務めることになったが、彼の叔父である本多忠真も同行することとなった。
千五百七十五年九月中旬
信長の進軍と東国の動向
信長は尾張の情勢が落ち着いたのを見計らい、ついに行動を開始した。表向きは朝廷の命による戦乱鎮圧という名目であったが、実際には毛利の播磨侵攻を阻止することが目的であった。信長は大阪へ佐久間、丹波へ光秀、播磨へ秀吉を派遣し、それぞれの方面軍を指揮させた。進軍は朝廷の綸旨が届けられるや否や開始され、事前に周到な準備が整えられていたことが明白であった。この迅速な動きにより、毛利側の対応は遅れを余儀なくされた。
東国では北条が武田と手を組むべく動き、上杉家内の北条派も勢いづきつつあった。静子は情報収集を担う真田昌幸から報告を受け、信忠に敗北を学ばせるという東国征伐の秘められた目的を伝えていた。昌幸はその意図を理解し、撤退を主眼に据えた報告を上げるようになった。
武田家の苦境と信忠の用意周到な策
武田家は風前の灯火の状態であった。信玄の西上作戦により食料備蓄が尽きかけ、領民たちは飢えに苦しんでいた。しかし、勝頼は軍備を優先し、民の生活を顧みなかったため、各地で一揆が発生する事態となっていた。
さらに信忠の策によって、織田軍の撤退時に武田領内へ食料や物資をばら撒く計画が立てられていた。北条や上杉の反乱分子がこれを回収しようとすれば、飢えた領民の激しい抵抗に遭い、混乱が生じることが目に見えていた。この策略により、敵軍の追撃を阻止しつつ、北条と上杉の立場をも揺るがす狙いがあった。
信忠は着実に才覚を発揮し、美濃・尾張を掌握するまでに成長していた。配下の意見を取り入れつつも流されることはなく、堅実な政務運営を行っていた。静子はその才を認めつつも、信忠に背中を預けられる部下がまだ育っていない点を危惧していた。
御前花火大会の開催と雑賀衆の動向
七月が過ぎ、八月に入ると、京では信長肝煎りの御前花火大会の噂で持ちきりとなった。帝のご臨席も決まり、天下に信長の権威を示す一大イベントとなった。信長は敵対勢力である本願寺や毛利家、雑賀衆すらも招待し、織田家の余裕を誇示した。
この挑発に最も早く反応したのは雑賀衆であった。彼らは経済的に困窮しており、商材を手に京へと向かった。その背景には、信長が四国に築いた港の影響があった。村上水軍を利用するよりも、安価で整備の行き届いた土佐の港を経由する方が経済的だったため、雑賀衆は瀬戸内交易の主導権を失いつつあった。
信長は港湾都市の利益を再投資し、貿易拠点の強化を優先した。その結果、全国から商人が集まり、花火大会の開催を契機に商機が生まれた。静子は商人を通じて情報収集を行い、間者たちにも様々な商品を提供させ、地方の情報を集めさせた。
御前花火大会の成功
信長の花火大会は大成功を収めた。夜空に連続して打ち上げられる花火は、京の人々を魅了した。帝や公家たちも華やかな光景を楽しみ、信長の威信はさらに高まった。この一夜で、織田家の火薬資源が潤沢であることが示され、敵対勢力を震え上がらせる結果となった。
花火大会の成功により、信長は帝から京での花火大会開催の勅許を得た。一方、本願寺は「これほどの火薬を浪費できるのなら、当面戦は起こらない」と安堵していた。
信忠の米買い上げと上杉謙信の上洛
秋が深まると、信忠は尾張・美濃の余剰米を高値で買い上げる通達を出した。その結果、膨大な量の米が彼のもとに集まり、敵国の間者はその意図を測りかねていた。
そんな中、上杉謙信が五千の兵を率いて上洛した。表向きは能登支配の報告と帝への挨拶であったが、周囲の諸勢力は不穏な動きを警戒した。しかし、謙信は織田軍と合流し、帝へ挨拶を済ませた後、信長と前久と会談を行った。
秋の味覚祭りと信長の来訪
静子は秋の味覚祭りを準備していたが、信長と信忠、前久、謙信の四人が突如として静子邸へ押しかけてきた。信長は「自分が不自由を強いられている間に、美味いものを独占するとは」と不満を述べ、祭りに参加を宣言した。信忠も静子の養子に会うことを望み、宴席の準備を指示した。
予定外の来客に驚きつつも、静子は信長らを迎え入れた。家康も遅れて到着し、静子邸は歴史に名を刻む人物たちが一堂に会する場となった。
宴席からの離脱
予定していた気軽な宴席が、格式ある儀礼の場へと変わり、慶次と長可は興を削がれていた。彼らは逃げ場を求めていたが、才蔵から静子の配慮により「離れで飲み食いするように」と告げられた。静子は彼らが堅苦しい場に馴染まないことを理解し、あえて自由にさせたのである。
慶次と長可は才蔵の言葉に感謝しつつ、人目を避けて離れへ向かった。静子は信長や家康をもてなしつつ、この場の重要性を理解しながら、宴席を取り仕切ることとなった。
異例の長期開催となった秋の味覚祭り
秋の味覚祭りは通常二日程度で終了するものの、今回は信長の発案により、同盟関係にある諸家との親睦を深める名目で異例の長期開催となった。秋をテーマにした豪華な料理が連日振る舞われ、尾張の豊かさを示す機会となった。突発的に拡大した宴にもかかわらず、酒も料理も尽きることはなく、他国の国人たちはその潤沢さに戦慄していた。
しかし、信長の滞在が一週間近くに及ぶと、安土を預かる堀から帰還を促す書状が何度も届くようになった。最初は無視していた信長も、文面に焦燥が滲むにつれ、重い腰を上げざるを得なくなった。信長の帰還とともに祭りは幕を閉じ、前久と謙信もそれぞれの領国へ戻った。当初の主賓であった家康も、静子が用意した大量の土産を抱えて三河へ帰還した。
信忠と四六の接見
信忠は美濃への帰還を控え、静子の養子となった四六と器との接見を望んだ。公式の場を避け、静子邸の奥まった一室で当事者のみの対面となった。「母は違えど共に父上の子、我らは兄弟である」と信忠が笑いかけると、四六は「最早静子様を親と仰いでいる。家臣の子女として取り計らってほしい」と返した。
その言葉に信忠は驚きを隠せなかった。四六は年齢に見合わぬ冷静な受け答えをし、血縁に頼らず自身の立場を明確に理解していた。その振る舞いから、彼が子供であることを許されなかった過去が透けて見えた。しかし、信忠は四六の本来の人となりを知りたく、一計を案じた。「静子の態度を見よ、主家の嫡子に対する敬意なぞ何処吹く風よ」と指し示すと、静子は袖で口元を隠しながら大あくびをしていた。「畏まった態度を嫌がったのは誰だったかな?」と静子が呆れたように返すと、信忠は「いや、静子は今のままが良い」と笑って認めた。
四六の進学と信忠の提案
信忠は四六に対し、「静子の学校へ通わせるべきだ」と主張した。「学友を得て良い刺激を受ければ、こ奴は傑物になるやもしれぬ」と断言し、四六もそれを受け入れた。信忠はさらに、「将来、俺に仕えぬか?」と直接勧誘した。
信忠は「もし父上の子のままであれば、後継の地位を巡る争いが避けられなかった。しかし、今の関係ならば兄弟として手を取り合える」と説いた。四六は戸惑いながらも、信忠の言葉に感銘を受け、「母の顔に泥を塗らぬよう、奮起いたします」と深々と頭を下げた。信忠は満足げに微笑み、「出自に関係なく才ある者を登用するのが織田の方針である」と語った。
静子は「随分と思い切った登用だね」と言葉を挟んだが、信忠は「静子自身が示してきた道ではないか」と返した。「才能を見出し、導けば一廉の人物となる」と信忠は確信を持ち、将来の人材育成を視野に入れていた。
本願寺との緊張の高まり
その頃、本願寺の重鎮である下間頼廉が安土を訪れた後、消息を絶った。この事件により、本願寺は信長が頼廉を暗殺したのではないかと疑った。しかし、信長は「暗殺するなら安土ではなく、本願寺の本拠地で行う」と断言し、暗殺の可能性を否定した。同時に、信長は領内に動員をかけて頼廉の捜索を命じ、本願寺信者にも協力を申し出た。
一方で、本願寺内では強硬派の教如が勢力を増していた。頼廉は穏健派の筆頭であり、彼を失ったことで融和路線は後退し、織田家との徹底抗戦を主張する者たちが台頭した。しかし、教如の主張は本願寺内で賛同を得られず、状況は膠着状態となった。
静子は軍議の場で「本願寺が戦を仕掛けるとしても、それは今ではない」と断言した。「教如は軽率だが、この状況で強硬策を取れば身内に消されかねない」と述べ、軍議の参加者もこれに同意した。
東国征伐の号令と武田軍の動き
その後、東国では武田軍が徳川領の高天神城に攻め込み、万を超える兵で包囲を開始した。家康は信長へ救援を要請し、信長は信忠を総大将に据えた東国征伐軍を即日派遣した。織田軍は迅速に出陣し、高天神城を包囲する武田軍へ奇襲を仕掛けた。武田軍は不意を突かれ、包囲を解いて撤退した。
信忠は家康と軍議を開き、武田軍が北条と手を結んだ可能性が高いことを指摘した。「死に体の武田が動けたのは北条の支援があったからだ」と分析し、慎重に事態を見極める必要性を説いた。家康も同意し、戦略を練ることとなった。
東国征伐の戦略
軍議の結果、徳川軍が先陣を務め、織田軍が遊撃隊として後方支援を行うことが決定した。長可は遊撃隊の指揮を志願し、「敵の横っ面を思い切り殴りつけてやる」と意気込んだ。静子は「深入りすると包囲される。遊撃隊が本隊以上の戦果を挙げるのは避けるべき」と釘を刺したが、長可は「分かっている」と笑って応じた。
静子は「東国征伐の成否は上杉家の動向にかかっている」と述べた。武田と北条が手を結んでも、上杉が動かなければ織田軍の優位は揺るがない。しかし、もし上杉が反旗を翻せば、東国征伐は失敗に終わる可能性があった。「最悪の場合、三つの勢力と敵対することになれば、その時点で信忠を撤退させることを最優先とする」と静子は宣言し、軍議を終えた。
戦局の不透明さ
静子は「上杉が動くかどうかが鍵になる」と考えていた。武田・北条連合軍の動きに加え、上杉家の親北条派がどのように出るかが不明であった。信忠は「俺は父上や静子の背を追う童ではない」と自らの成長を誇示したが、静子は「彼が急激に才を開花させたことで、信長の目論見である敗北を学ばせる計画が破綻する可能性がある」と危機感を抱いていた。
そして、織田軍と徳川軍が武田・北条連合軍と対峙する中、戦局は誰にも予測できない展開へと突き進んでいった。
真田昌幸の降伏勧告と勝頼の決意
高天神城を挟み、織田・徳川連合軍と武田・北条連合軍が睨み合う中、夜が明けた。東の空が白み始めた薄明の中、僧形の人物が単騎で武田本陣へと訪れた。軍使として通されたのは真田昌幸であった。彼はかつて武田家に仕えていたが、現在は織田方に与している裏切者と見なされていた。
昌幸は勝頼に降伏を勧め、徳川家康からの追撃を行わないとの書状を差し出した。しかし、勝頼は「東国に織田と武田は並び立たぬ」として、これを断固拒否した。昌幸は無念の思いを抱えつつ敵陣を後にし、朝陽が天に昇る頃、両軍は動き始めた。
迫撃砲の投入と北条軍の混乱
戦端が開かれる直前、突如として高天神城から轟音が響いた。砲撃は北条軍の後方に炸裂し、鉄片が降り注いだ。敵陣上空で炸裂した砲弾は鉄の嵐となり、北条軍の兵士たちを次々と薙ぎ倒した。
織田軍が新型銃を装備していることは敵も承知していたが、今回の攻撃はそれを遥かに凌駕する射程を持っていた。ただ一撃で数十、あるいは百人に迫る死傷者を出したことは、武田・北条軍にとって悪夢そのものであった。
高天神城の三の丸では、静子軍の技術者たちが砲撃の調整を進めていた。使用されたのは足満が開発した「カニ眼鏡」と呼ばれる測距儀を用いた迫撃砲であった。しかし、砲の耐久性には問題があり、第一射の時点で開閉機構に歪みが生じていた。
砲撃は一定の成果を上げたものの、迫撃砲の機構が限界を迎えたため、攻撃は中止された。戦況を覆す決定打となるはずの「起死回生の砲弾」は使用されずに済んだが、それでも戦場は一方的な状況となった。
武田・北条軍の敗走と勝頼の誤算
戦局は瞬く間に決し、敗走する武田・北条軍を織田・徳川連合軍は追撃しなかった。戦は開始からわずか二時間で終結し、圧倒的な勝利に終わった。
勝頼は北条との同盟を取り付けたことで攻勢に出たが、結果としては手痛い敗北を喫した。勝頼の選択自体は合理的であり、相手が徳川軍のみであれば戦果を挙げる可能性はあった。しかし、織田軍の迅速な援軍と、想定外の兵器投入により計画は崩れ去った。
静子は「武田勝頼は武将としては優秀だが、国人としては未熟であった」と評した。いくさにおいては鬼神の如き働きを見せるものの、為政者としての才覚には欠けていたと指摘した。
東国征伐の課題と信忠の成長
勝頼の敗北を受け、織田軍の中ではさらなる進軍の機運が高まった。武田軍が壊滅状態に陥った今、甲斐へ攻め込むことが議論された。軍議では慎重論がほとんど出ず、強硬論が主流となった。
信忠は軍の進軍を指揮し、東国征伐を継続する方針を固めた。しかし、信忠軍の編成は経験の浅い者ばかりが集められ、武功を挙げたい家臣たちの思惑が強く反映されていた。静子はこの状況に不安を覚え、「戦意が高揚しすぎている軍は統制を失いやすい」と懸念した。
一方、信忠は各地で食料を配りながら進軍し、民心を得る策をとった。この政策は昌幸の進言によるものであり、信忠もこれを積極的に採用した。しかし、軍の若年層は次第に増長し、統制を維持することが難しくなっていた。
嵐の襲来と信忠軍の危機
その頃、静子は天候の変化に気付き、台風の接近を予測した。信忠は進軍を続け、高遠城の手前で陣を張ったが、家康は城に籠る選択を取った。この決断が後の戦局に大きな影響を及ぼすこととなる。
夜が更けると、風雨が激しさを増し、嵐は未曾有の暴風雨となった。櫓は倒壊し、兵士たちは寒さに震えながら耐えていた。静子は安全な倉庫に部隊を避難させ、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
信忠軍への救援と長可・慶次の独断行動
夜が明けると、嵐は去り、周囲の被害が明らかになった。静子は信忠の陣の状況を確認しようとしたが、長可と慶次が既に兵を率いて動き出していた。二人は独断で信忠の陣へと向かい、武田軍が攻勢に出る前に先手を打つつもりであった。
本来ならば無断で兵を動かすことは処罰の対象であったが、静子は「事後承諾で許されると信じての行動だろう」と考え、咎めることはしなかった。長可と慶次は、自らの判断で戦場に向かい、新たな戦局を開くこととなった。
千五百七十五年十月中旬
足満の兵器開発と迫撃砲の問題点
尾張に留まった足満は、技術街にある兵器廠に詰め、前線から届いた迫撃砲の運用データと破損状況の図を確認していた。彼が開発した迫撃砲は、野砲と迫撃砲の利点を併せ持つものとして設計されたが、実戦での運用により多くの問題が明らかとなった。
そもそも迫撃砲とは高角射撃に特化し、軽量かつシンプルな構造が特徴である。一方で、野砲やカノン砲は長距離射撃と高い精度を求めるため、大型で複雑な機構を備えていた。足満は、過渡期の技術水準であれば両者の中間的な兵器が有効と考えたが、工作精度の問題が浮き彫りとなった。
特に、砲身後部の閉鎖機構である隔螺式閉鎖機が問題となった。ネジ構造で砲尾を密閉する仕組みであったが、可動部が多く故障しやすかった。実戦では、ハンドルを外して手動でネジを回すことで運用を続けたものの、発射間隔の延長を余儀なくされた。さらに、砲身素材の強度不足により、砲撃の衝撃と熱で歪みが生じ、ついには砲身に亀裂が発生した。
このため、砲弾が残っているにもかかわらず砲撃を中止せざるを得なかった。足満は「いくさにおける数の原理を覆す兵器は未だ完成には遠い」と嘆きつつも、静子が「起死回生の砲弾」を使わずに済んだことを僥倖と考え、技術者たちの元へと向かった。
白燐弾と静子の撤退策
足満が最後に目を向けたのは、静子に託したのと同型の砲弾が収められた木箱であった。木箱には「白燐弾」と記されている。白燐弾は煙幕を発生させる兵器であったが、足満が用意したものは焼夷効果を持ち、燃焼中の白燐が炎の粒子となって降り注ぎ、敵を阻害するだけでなく重篤な火傷を与える仕様となっていた。
この兵器は、撤退時の攪乱に極めて有効であったが、風向き次第では味方にも被害を及ぼすため、運用の難しい武器でもあった。静子は「起死回生の砲弾」を使用しなかったが、それは結果的に良い判断であったと言える。
信忠の壊滅的な被害と勝頼の躊躇
一方、信忠は武田領へ攻め込んだが、季節外れの台風に直撃され、本陣が壊滅的な損害を受けていた。配下の将兵は散り散りとなり、信忠の側には最低限の護衛しか残らなかった。血気にはやり平野部に陣を張った結果、大自然の猛威に晒されることとなったのである。
信忠は「勝ちいくさの時ほど、僅かな失策が軍全体の崩壊に繋がる」と静子が語っていた言葉を思い返し、己の慢心を痛感していた。
一方の武田軍では、勝頼が葛藤していた。物見からの報告により、信忠の本陣が台風によって壊滅したことを知ったが、追撃を決断できずにいた。豪雨で大地が泥濘化し、武田の騎馬隊の機動力が損なわれていたことに加え、静子軍の存在が大きな脅威となっていた。
高天神城の戦いでは、静子軍が上空から砲弾を投下し、北条軍を壊滅させた。勝頼はこの「何が飛び出すか分からない軍」に対する恐怖を拭い去れず、追撃を見送ることを選択した。
勝頼の本来の目的は織田を打倒することではなく、武田家の態勢を立て直す時間稼ぎであった。しかし、北条との共闘を選んだことで状況は悪化し、高天神城での大敗を招いた。さらに、織田家の次期当主である信忠を討ち取る絶好の機会を目前にしながらも、逆襲を恐れて動けないという苦境に立たされていた。
北条軍の暴走と長可・慶次の迎撃
勝頼が撤退する一方で、北条軍は違った動きを見せた。壊滅的な損害を受けながらも、一矢報いるために信忠の本陣跡へと襲撃を企てた。しかし、既に長可と慶次が信忠軍の立て直しを進めており、準備万端で待ち伏せしていた。
長可軍は、敵軍の接近を確認すると、一斉射撃を浴びせた。射撃後、火縄銃を放棄し、新式銃兵を残して突撃を開始した。長可のモーニングスターが騎馬の脚を砕き、敵兵を次々と討ち取っていった。
慶次もまた、北条軍の槍部隊を背後から奇襲し、圧倒的な武力を見せつけた。銃撃を受けて混乱した北条軍は、長可軍の猛攻により隊列を崩され、統率を失った。敵将は狙撃され、騎兵は壊滅状態に陥った。
敵の逃走が始まると、長可軍は徹底した追撃を行い、次々と敵兵を切り伏せていった。鉄砲を持たぬ敵軍は、圧倒的な火力と武力の前に一方的な敗北を喫した。
信忠の撤退と静子軍への合流
戦場が鎮まると、長可と慶次は信忠を護衛し、静子軍の中継地へと撤退した。信忠は撤退途中の村々で戦利品を分け与え、織田軍への協力を促した。これにより、武田軍や北条軍の追撃を遅らせる狙いがあった。
幸いにも追撃を受けることなく、信忠軍は静子の元へと到達した。信忠は家康と合流し、敗戦を詫びたが、家康は「戦功を挙げたのだから良し」と励ました。家康は信忠がこの敗北を糧に成長することを期待しつつ、「いずれ天下を争う強敵になる」と感じていた。
長可と慶次の処分
長可と慶次は、独断専行で軍を動かした罪により譴責処分を受けた。彼らは軍規違反者として記録され、俸給の減額と自由裁量権の制限を科された。しかし、信忠の命を救ったという事実は変わらず、信忠個人からの覚えは目出度いものとなった。
静子は「今後、独断専行は許されない」と厳命し、関係者全員に箝口令を敷いた。長可と慶次は粛々と処分を受け入れ、尾張へ戻るまで謹慎を続けた。
信忠の密かな想い
信忠が武田征伐に異様な熱意を持っていた理由は、武田信玄の娘・松姫の存在であった。かつて婚約していた松
千五百七十五年十一月中旬
信長の裁定と静子の蟄居
信長は謁見の間にて、東国征伐の敗戦について静子を厳しく咎めることはなかった。静子は敗戦の責を問われると覚悟していたが、信長は「奇妙を死地より無事に連れ戻し、損害を抑えたことを以て賞罰相殺とする」と裁定を下した。
信長は「優勢でありながら詰め切れず、嵐によって軍を乱した。つまりは機が熟しておらぬということよ」と信忠の失策を指摘し、敗戦の責は信忠にあるとした。ただし、静子にも対外的な処罰が必要であるため、蟄居を命じた。しかし、これは実質的には公務からの解放を意味し、野心家にとっては懲罰であっても静子にとっては休息の機会であった。
蟄居とはいえ、静子の領地経営は継続され、芸事保護の任務も続行することが許されていた。唯一の制限は、自領を出る際には信長の許可を得る必要があることのみであり、静子はこれを「尾張謹慎」と受け止めた。
信忠の処罰と反省
静子は信忠の小姓から呼び出され、彼の屋敷へと向かった。信忠と対面すると、彼の左目の下から頬にかけて青あざができており、信長から殴打された痕が残っていた。信忠は「これは俺が負うべき失敗の烙印よ」と述べ、傷の手当てを拒んだ。
彼は、配下の反発を恐れた結果、危険な判断を下した己の未熟さを認めていた。そして、「総大将として、最終決断を下した以上、全ての責任は自分にある」と潔く認め、敗戦を糧として次へ進む決意を固めていた。
信忠は敗北の教訓を得て、感情に流されることなく再起のための策を練り始めた。「徳川に牙を剥いた武田には既に報復を行ったが、織田に対する北条の振る舞いにはまだ制裁が必要だ」と述べ、親北条派への対処を静子に任せることを提案した。
次なる東国征伐の計画
信忠は「丈夫な矢だと思って藁に縋った事を後悔させてやろう」と決意を語り、次の東国征伐に向けた準備を進める意思を示した。静子は「初手で上杉謙信に出陣を要請し、越後の親北条派を誘き出す」と提案した。
親北条派は既に高天神城の戦いで動くに動けなかったが、敗戦の結果、彼らの勢いは増していた。そこで、意図的に隙を見せて蜂起を誘発し、上杉軍を伏せて包囲する作戦を立案した。
信忠はその戦略に感心しつつ、「静子も底意地が悪くなったな」と苦笑した。静子は「私は味方の犠牲を減らす手を探しているだけです」と返し、敵対する者たちに対して情けをかけるつもりはなかった。
静子の領地経営と水利問題
静子は自領に戻り、溜まった書類の処理に取り組んだ。中でも水利問題は深刻であった。人口増加により農地が拡張され、水の供給が追い付かなくなっていた。信長の政策により当初は公平な水利が確保されていたが、現状では需給のバランスが崩れ、争いの火種となっていた。
静子は「この農地に水を回せば、下流域が不足する」と頭を抱え、大規模な水利調整の必要性を痛感した。しかし、長期的な解決策である愛知用水の開発は未だ目途が立たず、現実的な手段として調整池の建設を検討した。
イエズス会の分裂と宗教政策
京の間者からの報告により、イエズス会が分裂していることが明らかとなった。日本教区の責任者であるカブラルは、オルガンティノの華美な服装や商業活動を批判し、信仰の本質を逸脱していると非難していた。
対するオルガンティノは「日ノ本では身なりが粗末では尊敬を得られず、布教のためには資金が必要である」と反論し、多くの現場の宣教師たちの支持を得ていた。この対立は、布教方針の違いだけでなく、日ノ本における宗教の在り方を巡る根本的な問題を含んでいた。
カブラルの方針では、日本の伝統的な宗教を排斥し、キリスト教を唯一の正統な信仰として広めようとしていた。しかし、日ノ本の民は各宗派の教義に詳しく、一方的な布教に対して反発する傾向があった。
信長は宗教と政治を切り離す姿勢を明確にしており、もしイエズス会が信徒を利用して権力を持とうとすれば、伴天連追放令が出される可能性もあった。静子は「長崎での前例を考えれば、追放令は時間の問題だろう」と推測し、今後の動向を慎重に見守ることとした。
寒鰤の流通計画
上杉謙信から「鰤起こし」への協力が得られるとの報告が届いた。寒鰤は日本海を回遊する魚であり、冬場に脂が乗ることから極めて美味とされていた。静子は以前より、寒鰤を尾張まで輸送する計画を立てており、これにより実現の目途が立った。
しかし、遠距離輸送の課題として、鮮度保持が大きな問題であった。静子は活け締めを徹底し、エラと内臓を取り除くことで腐敗を防ぎ、さらに保冷用の氷を確保することで長距離輸送を可能にしようと考えた。
この計画の発端は、信長が寒鰤の美味に興味を示し、「是が非でも味わいたい」と静子に命じたことにあった。静子は「食事に拘らなかった信長が恋しい」と呟きつつ、もはや後戻りできない状況を受け入れるしかなかった。
京への道中と法隆寺訪問の目的
十一月中旬、静子は東国征伐の戦後処理を終え、軍を率いて京へ向かった。蟄居中であったが、芸事保護の名目で外出が許可され、法隆寺へ赴くこととなった。京を経由したのは、金堂壁画を閲覧する機会を得るために尽力した義父・近衛前久への挨拶を兼ねていた。
金堂壁画は七世紀末に描かれた仏教絵画であり、史実では戦後の火災で多くが失われた。静子は、まだ保存状態の良いうちに写真を撮影し、後世に記録を残すことを目指していた。写真技術の実用試験としても重要な機会であり、東国征伐以上に静子は高揚していた。
信長から命じられた芸事保護の役目は、今や静子にとってライフワークとなっていた。歴史をこよなく愛する彼女にとって、国宝級の文化財を直接観察し、記録できる機会を手放すつもりはなかった。信長も静子の執念には苦笑するしかなく、彼女が芸事保護や刀剣蒐集に関しては異常なまでの情熱を持つことを理解していた。
大和遠征の準備と同行者たち
今回の遠征は大規模なものとなった。長可、才蔵、慶次の三人を筆頭に、静子軍の精鋭五千が従軍した。彼らの役目は、主君である静子と撮影技師、撮影機材一式を守ることであった。さらに、義父・前久と顔合わせをするため、四六や器、教育係の森可成も同行した。
新たに雇い入れたユダヤ人の虎太郎、弥一、瑠璃、紅葉の四名も紹介のために随行した。彼らは各分野に秀でた才能を持ち、前久との交流は将来的な利益につながると判断された。加えて、彼らは普段仕事に没頭し休みを取らないため、物見遊山としての意味合いもあった。
静子は蟄居中とはいえ、信長から朱印状を受け取っていた。この朱印状には、「静子の大和行きに最大限の便宜を図り、万が一にも不埒者が現れた場合は武力で鎮圧せよ」という命令が記されていた。そのため、道中の国人たちは急ぎ準備を整え、街道の補修や山狩りを行い、静子一行を万全の態勢で迎えた。
京への到着と近衛前久との会談
安土で一泊した後、静子は京へと向かった。京では前久の迎えを受け、近衛家の屋敷へと招かれた。前久は衣冠姿で静子を出迎え、家人たちは緊張した面持ちで静子を迎えた。
近衛家は、静子の助力によって荘園経営を立て直し、貴族社会の頂点へと返り咲いていた。家人たちは、静子の機嫌を損ねれば自らの立場が危うくなると考え、過度に慎重な態度を取った。
前久は静子を離れへと案内し、煎茶と軽食を用意した。武家の食事とは異なる雅な京の懐石料理を前にし、静子は文化の違いを改めて実感した。
前久は静子の大和行きについて尋ね、「カメラ」の実用試験であることを知ると驚きを見せた。静子は、「カメラ」によって一瞬を写し取り、文化財の記録が飛躍的に向上すると説明した。前久は、応仁の乱によって失われた京の文化財を惜しみつつも、「カメラ」の可能性に期待を寄せた。
その夜、近衛邸では盛大な宴が開かれ、公家たちが入れ替わり静子に挨拶を交わした。静子は多くの人物との交流に辟易しながらも、笑顔で応対した。
法隆寺での撮影と技術の挑戦
京を発った静子一行は、法隆寺へ向かい、交渉役を担っていた足満と合流した。法隆寺側と交渉の末、撮影は僧侶の修行を妨げない時間帯に限定され、撮影機材への不用意な接触を禁じる条件で合意した。
撮影は五重塔の外観から開始された。撮影には、カメラを三脚に固定し、ピントを合わせ、暗室で乾板をセットするなど、煩雑な手順が必要であった。一枚の写真を撮るのに数分を要したが、それでも湿板時代に比べれば大きな進歩であった。
最初の写真が現像されると、そこには鮮明に写し出された五重塔があった。静子は感動し、すぐに法隆寺の僧侶たちに写真を見せた。彼らも、その精密さに驚嘆した。
撮影は順調に進んだが、ゼンマイ式のシャッターが故障したり、遮光板の差し込み忘れが発生したりと、機材の問題も浮上した。さらに、現像用の薬剤の品質劣化により、定着が不十分で写真が真っ黒になることもあった。それでも、金堂の壁画、五重塔の全景、金剛力士像などの貴重な写真を収めることに成功した。
新たな視点と写真技術の進化
撮影の終盤、ユダヤ人の弥一が撮影の許可を求めた。彼は投影図のような立体的な構図を意識し、技術者とは異なる視点から写真を撮影した。静子はその発想を面白いと感じ、異なる角度からの撮影を試みた。
十日間にわたる撮影の末、乾板のストックが尽きたため、静子は撮影の終了を宣言した。撮影機材を梱包し、法隆寺の高僧たちに数枚の写真を寄贈した。僧侶たちは写真の精度に驚き、これを悪鬼の業とは見なさず、正しく評価した。
ただし、戦国の世では人の姿を写真に収めることを忌避する文化が根強かった。静子は「人の撮影が難しいなら、まずは動物から始めればよい」と考えた。
研究と失敗の価値
静子は撮影技術の発展を振り返り、「失敗を恐れずに挑戦し続けることが大切だ」と語った。虎太郎はその考えに感銘を受け、「研究の裾野を広げ、環境を整えることが技術の発展につながる」と同意した。
静子は、「百年、二百年先を見据えた基礎研究が重要である」と述べ、短期的な成功ではなく、長期的な発展を目指す方針を示した。虎太郎はその考えに共鳴し、「現状に満足して歩みを止めれば、そこから腐り始める」と静子の言葉を噛み締めた。
こうして静子の「カメラ」実用試験は、多くの試行錯誤を経ながらも成功を収め、歴史の記録に新たな一歩を刻んだのであった。
法隆寺での撮影終了と写真の寄贈
法隆寺での写真撮影は、消耗品の枯渇をもって終了した。静子は、協力してくれた僧侶たちに感謝を述べ、撮影した写真を額装して寄贈した。額縁は黒檀の無垢材を使用し、透明度の高い板ガラスをはめ込んだ特注品であった。写真は外気に触れると変色・退色するため、額に収めて保存するよう進言した。
技術者たちは機材の解体と梱包を進め、静子は撤収準備の様子を見守っていた。そこへ虎太郎が近づき、ゼンマイ式シャッターの故障原因について静子に尋ねた。
ゼンマイ技術と機械式時計への展望
静子は、ゼンマイ式シャッターの小型化が原因で破損したことを説明した。大きな部品なら誤差を許容できるが、小型化は精密さを要求される。ゼンマイは燃料不要の小型動力装置として様々な用途に活用できるため、今後の発展を見据えて研究を続ける必要があった。
虎太郎は、静子が注力している機械式時計について言及し、静子は「ゼンマイは一定の時間を計る機能を持つ」と説明した。今回の故障は鋼の薄板が巻き上げる力に耐えられなかったためであり、材料や厚みを変えて再挑戦する考えであった。
静子は、研究とは知識や経験を整理し、未来へ継承する技術であると考えていた。祖父の農業研究を通じて基礎研究の重要性を学び、それを戦国時代に適用しようとしていた。
研究手法の確立と戦国時代の課題
戦国時代には科学的研究の枠組みが存在しなかったため、静子は現代の研究論文の形式を基に、新たな研究方法を確立した。観察、推論、仮説、実験、考察という手順を整理し、研究成果を体系的に記録することを求めた。しかし、高等教育を受けていない職人たちには理解が難しく、静子は直接指導しながら徐々に浸透させていった。
次に直面した問題は、失敗の隠蔽であった。戦国時代では失敗が命取りになることが多く、研究者たちは失敗を記録することを避けた。静子は、失敗こそが重要な学びであり、原因を探ることで研究が前進すると説いたが、意識改革には時間がかかると考えた。
虎太郎は「科学」という言葉について問い、静子は「体系的に分類された学問」として説明した。虎太郎は静子の知識の広さに驚きつつも、彼女が話した内容の出所を探ることをやめた。
人物写真への抵抗と虎太郎の申し出
虎太郎は、これほど精細な写真が撮影できるのに、なぜ人物写真を撮らないのかと尋ねた。静子は、日本では「人型のものには魂が宿る」と考えられており、写真が魂を奪うと信じられているため、人々が忌避していると説明した。しかし、その理論には矛盾があると指摘し、実例を作れば偏見を払拭できると考えた。
虎太郎は自ら人柱になることを申し出た。静子は、それを受け入れ、尾張に戻りカメラの修理が完了した後に撮影を行うことを決めた。虎太郎は「最初に写真に写った人物」として歴史に名を刻めることを喜び、かつて自分を破門した教会の者たちへの意趣返しになると考えていた。
京へ戻る途中の信長からの命令
法隆寺を発ち、京へ向かう道中、信長の命を受けた池田恒興から早馬が届いた。指名されたのは静子ではなく長可であり、京に到着後、恒興の屋敷へ向かうよう命じられた。
恒興は、堺の豪商が外国人に土地を譲渡した件について、信長が制裁を望んでいると告げた。長可は、外国人が土地を所有することが国家の脅威となると即座に理解し、信長の意向を察した。「一罰百戒」のため、売国奴の末路を示す必要があった。
信長は事前に再三警告を発したが、豪商は応じなかったため、交渉は打ち切られた。長可は「上様の命は承知した。しかし今から堺へ向かうには準備が必要であり、翌朝出発する」と恒興に伝えた。恒興は「武力を用いて見せしめにせよ」と告げ、長可は堺の制圧を決意した。
長可の強硬策と静子の制約
静子は長可に「武力を用いずに堺を懲らしめるように」と命じた。長可は、力尽くの手段を禁じられたことに困惑したが、静子の意図を理解し、搦め手を使うことにした。これにより、後に堺衆は長可の策略によって大きな損害を被ることとなった。
一方、静子は京に残していた撮影機材を取り出し、京の街並みを写真に収めることにした。曇天のため撮影には三十秒を要し、動いている人物は写らなかった。これにより、無人の京の街並みが写真として記録された。
最初の人物写真とみつおの依頼
尾張へ戻った後、静子は虎太郎の写真を撮る準備を進めていた。しかし、そこへみつおが現れ、「自分の家族写真を撮ってほしい」と依頼した。彼の妻である鶴姫や娘の葵も撮影に前向きであり、静子は「虎太郎の前にみつお一家を撮ることで、外国人が最初の被写体になるのを避ける」と判断した。
みつおは娘の葵がいかに愛らしいかを熱心に語った。静子はそれを聞き流しつつ、撮影計画を立てていたが、そこへ不意に女性の声が響いた。「おやおや、静子は日ノ本一となる機会で妾を呼ばぬとは、随分と薄情になったものよな」。
貴人らしい優雅な口調に、静子は振り向くことができなかった。
千五百七十五年十二月中旬
濃姫の写真撮影の申し出
静子が背後を振り返ると、そこには微笑む濃姫の姿があった。彼女はわざとらしく顔を伏せ、悲しげな声で「殿のために自身の姿を写真に残したい」と訴えた。茶番に付き合わされる形となった静子は、最初に予定していたみつお一家や虎太郎よりも先に濃姫の撮影を行うことを決めた。濃姫は上機嫌で撮影場所へ向かい、みつおもこれを了承した。
世界初の人物写真の撮影
撮影は、遠景に雪山、近景に薄紅色の山茶花を配した構図で行われた。みつおが即席のレフ板を持ち、陰影に気を配ることで、美しい写真が完成した。この写真は現像され、絵師の手で色を施され、額装して信長へ送られた。続いて和装姿の虎太郎が撮影され、最後にみつお一家の写真が撮られた。
静子は、撮影に使用した乾板の処理について濃姫に尋ねた。濃姫は「信長に贈ったものと対になる一枚があれば十分」と述べ、残りは静子が保管することになった。こうして、世界初の人物写真に用いられた機材は、後世にその存在だけが伝えられることとなった。
信長の写真撮影へのこだわり
尾張での騒動から半月後、安土では写真にまつわる新たな問題が生じていた。信長は、自らの愛猫・虎次郎を撮影せずに野良猫の写真が先に撮られたことに激怒し、「静子を呼べ」と命じた。明智光秀や細川藤孝、近衛前久もそれぞれ愛猫と共に撮影を希望し、競うように名乗りを上げた。
結局、静子が安土に呼び戻され、各々の写真が撮影された。信長は「愛猫と写った日ノ本初の国人」となり、光秀は「同武将」、藤孝は「同文化人」、前久は「同関白」となった。皆が満足げに写真を持ち帰る様子を見た静子は、「男は幾つになっても一番が好きなのだな」と微笑ましく思った。
長可の堺への進軍と豪商への圧力
一方、長可は堺へ向かう道中でも乱暴な振る舞いを続け、酔漢を半殺しにし、夜盗を討ち、違法な関所を焼き払った。その動向は早くも堺の商人たちに知れ渡り、標的とされた豪商は戦々恐々としていた。
長可は「商人風の旅人を捕らえて堺の商人たちに自身の目的を広めよ」と命じた。これにより、豪商には多くの苦情が寄せられ、ついには長可のもとへ使者を送ることとなった。しかし、長可は一切譲歩せず、最終的に豪商自身が降伏を決意した。
豪商の屈服と長可の策略
豪商は頭を剃り落とし、僧侶のような姿で長可のもとを訪れ、土地取引を無かったことにする証文を差し出した。長可はこれを受け取り、「身代を譲る必要はない、これからも商売を続けよ」と告げた。豪商は、商人としての信用を失ったまま商売を続けることを強いられ、絶望に打ちひしがれた。
この成功の裏には、長可の周到な策略があった。彼は豪商の味方となっていた他の商人たちの家族を調べ、彼らに圧力をかけた。その結果、商人たちは疑心暗鬼に陥り、次々に豪商を見限った。孤立した豪商は、最終的に自ら屈服するしかなかった。
長可の帰還と京での騒動
長可は堺での任務を果たし、京へ戻った。道中でも野盗を討ち、治安を維持する名目で暴れ回った。京に到着すると、長可は早速遊びに繰り出そうとしたが、治安維持を担当する者たちから出頭を命じられた。
しかし、長可はこれを無視し、結果として警ら隊が静子のもとへ相談に訪れることとなった。長可は静子に捕まり、京屋敷へと連行され、数時間にわたり厳しく叱責された。才蔵が真顔で槍を首に添え、「静子様の言いつけを理解しないのなら、首を落としても構わない」と脅したことで、長可は完全に沈黙した。
長谷川信春の作品評価
その後、静子は長谷川信春と会見し、彼が提出した屛風絵を評価した。彼の作品は極彩色を多用し、既存の屛風絵の枠を大きく超えたものであった。静子は「これは屛風絵の域を超えている」と指摘し、再度課題を出すことを決めた。
信春はこれに感謝し、今後の制作に全力を尽くすと誓った。静子は彼を励ますため、彼とその家族へ金子を渡し、次回の作品に期待を寄せた。
尾張への帰還と戦国時代の経済事情
静子は京での滞在を終え、尾張へ戻ることを決めた。西国では戦況が悪化し、秀吉も苦境に立たされていた。静子は織田家の各重臣が新領地の運営に苦労していることを知り、彼らに産業振興の助言を行っていた。
柴田には加賀の温泉や漆器、金箔工芸などの活用を伝え、明智光秀には丹波の特産品である栗や黒豆の販路拡大を助言した。一方、秀吉の領地は産業基盤が弱く、新たな産業の導入を模索していた。
静子は、自身が織田家の経済に深く関わる立場にあることを再認識し、これからの政治的駆け引きに巻き込まれることを予感していた。
みつお一家の平穏な日常
一方、戦国の世にありながら、みつおの家庭は穏やかであった。彼は現代知識を活かし、畜産業を発展させ、尾張の食糧事情を改善していた。
彼の妻・鶴姫と娘・葵との日常は幸福そのものであり、朝の挨拶から食事まで愛情に満ちていた。葵は一人で起きることを目標にしていたが、毎朝柴に起こされてしまうのが常であった。
柴は、鶴姫がかつて病弱であったことを思い出し、今の幸せな家庭を喜ばしく思っていた。朝食を囲む一家の様子を見ながら、柴は「この幸せが永久に続きますように」と心から願った。
書き下ろし番外編
技術は革新から低コスト化へ
尾張の農業改革と食糧増産
静子の指導により、尾張を中心とした一帯の農業生産は飛躍的に向上していた。米を始め、雑穀や野菜、山菜、茸類といった多様な作物が収穫され、休耕田を利用した水産業も発展した。ホンモロコや鯉の養殖が行われ、さらに鮭の放流にも成功し、安定的に食糧を確保できる仕組みが整っていた。豊かな食糧事情は人口増加を支え、常備軍の創設を可能にし、さらに技術者階層の育成へと繋がった。
技術革新と酒造業の発展
農業の発展に伴い、余剰の米を活用した酒造業も盛んになった。専門職人が研究を重ね、様々な銘柄の酒が生み出され、秋の収穫祭では蔵開きが行われた。人々の生活が安定する中で、静子は更なる改革を求め、効率化を推進していった。彼女は、最も人力を要する稲作の省力化を課題とし、その改善に乗り出した。
疎植栽培の成果と省力化の試み
収穫期が終わり、年貢の徴収と記録が済んだ頃、静子は研究者たちを集め、疎植栽培の成果を確認した。この技術では、稲の株間を広げることで苗の使用量を削減し、風通しを良くして病害を防ぐ効果が期待された。報告によれば、雑草の管理が課題であったものの、苗の必要数は十アールあたり平均で二十から十五に減少し、収量は通常作付けの六〜七割に達していた。
静子は結果に満足し、さらなる改良を指示した。草取りの手間が増えることを認識しつつも、全体的な労働負担の軽減を優先し、省力化を推し進める意向を示した。また、研究者たちに対し、過度な労働を避け、余裕を持って仕事に取り組むよう求めた。
労働環境の見直しと根性論の否定
静子は、根性論に基づいた労働の強要を戒め、効率的な作業環境の整備を訴えた。彼女は、新人が余裕を持って仕事に取り組めるのは、先人たちの努力による省力化の成果であり、それを無駄にすることは許されないと考えていた。また、怒鳴ることで問題を解決しようとする者に対し、それが自己満足に過ぎないことを指摘した。
この話の中で、静子は長可の昼寝の習慣についても触れた。彼は猫と共に昼寝をすることを日課としており、これを邪魔する者には容赦しないことで知られていた。静子は、長可のように休息を適切に取ることの重要性を強調し、研究者たちにも昼寝を取り入れることを提案した。
昼寝の重要性と会議の締め括り
昼寝が作業効率の向上に寄与することを説明する静子に対し、研究者たちは「まずは静子自身が昼寝をすべきではないか」と心の中で突っ込んでいた。しかし、それを口にする者はいなかった。静子の指示を受け、研究者たちは労働環境の改善を約束し、会議は終了した。
静子幼稚園
織田家の内政強化と静子の憂鬱
反織田連合の崩壊により、織田家を取り巻く状況は安定した。残る脅威は本願寺と毛利家のみであったが、両者ともに攻勢をかける余裕がなく、膠着状態が続いていた。この状況を利用し、信長は内政重視の政策へと転換し、静子も補佐役として関与することとなった。しかし、彼女の憂鬱の原因は別にあった。
茶々と初の世話
静子の元には、信長の妹・市の娘である茶々と初が預けられていた。市は濃姫とともに浅井家の菩提寺・徳勝寺へ旅立ち、幼い娘たちを連れて行くことが困難であったため、最も安全な場所として静子に託された。静子は敵地に隣接せず、警備が厳重な自邸が選ばれた理由を理解しつつも、幼児の世話は自分の役割ではないと内心で不満を抱いていた。
さらに、濃姫は快適な旅を求め、静子の兵站軍の兵士を多数同行させてしまった。戦時ではないとはいえ、貴重な人員を引き抜かれたことに静子は苦々しい表情を浮かべていた。
アップルパイの発案
空腹を訴える茶々と初を前に、静子は気を取り直し、お菓子作りを提案した。和りんごが手元にあったことから、彼女はアップルパイを作ることを思いついた。和りんごは酸味が強く生食には向かないが、加熱することで甘みが増し、アップルパイには最適であった。
茶々と初は新しい菓子に興味を示し、内緒にする約束を交わしたものの、母や叔母に秘密を守れる自信はない様子であった。静子は「全て食べてしまえば証拠は残らない」と冗談交じりに言い聞かせ、二人もそれに同意した。
調理と試食
調理の最中、茶々と初は静子に質問を浴びせながら、つまみ食いをしつつ楽しんでいた。そして、焼き上がったアップルパイを取り出すと、濃厚なりんごの香りとシナモンの芳香が広がり、カスタードの甘い匂いが食欲を刺激した。
茶々と初は熱々のアップルパイを口にし、その甘さに感激していた。静子も自ら味見をし、満足げに頷いた。かつて長可や才蔵が苦労して砕いた桂皮(シナモン)が、この一品で真価を発揮していた。
証拠隠滅の失敗
しかし、静子は大きな誤算をしていた。旅から戻った濃姫は、なぜか砂糖の在庫を正確に把握しており、通常の消費量を超えた減少を指摘した。これにより、静子はアップルパイ作りを白状せざるを得なくなった。そして、その罰として、彼女は新たな日ノ本初となるお菓子作りに奔走させられることとなった。
同シリーズ
戦国小町苦労譚 シリーズ
小説版

















漫画





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