簡単な感想
東国征伐は兵站を整えた織田家が圧倒的に有利。
それを信長、静子は尾張で指揮をする。
後ろに濃姫が・・・・
静子う~し~ろ~!!
どんな本?
戦国小町苦労譚は、夾竹桃氏によるライトノベル。
農業高校で学ぶ歴史好きな女子高生が戦国の時代へとタイムスリップし、織田信長の元で仕えるという展開が特徴。
元々は「小説家になろう」での連載がスタートし、後にアース・スターノベルから書籍としても登場。
その上、コミックアース・スターでも漫画の連載されている。
このシリーズは発行部数が200万部を突破している。
この作品は、主人公の静子が現代の知識や技術を用いて戦国時代の農業や内政を改革し、信長の天下統一を助けるという物語。
静子は信長の相談役として様々な問題に対処し、信長の家臣や他のタイムスリップ者と共に信長の無茶ブリに応える。
この物語には、歴史の事実や知識が散りばめられており、読者は戦国の時代の世界観を楽しむことができる。
2016年に小説家になろうで、パクリ騒動があったらしいが、、、
利用規約違反、引用の問題だったらしい。
読んだ本のタイトル
戦国小町苦労譚 十三、第二次東国征伐
著者:#夾竹桃 氏
イラスト:#平沢下戸 氏
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あらすじ・内容
1576年6月。ヴィットマンとバルティがこの世を去り、悲しみに暮れる静子。特別待遇として信長からしばしの休息を与えられるが、今や織田家重鎮となった彼女には課題が山積みであった。 葬儀を済ませ、戦線に戻った静子を待ち受けるのは、気球の実地試験に、用水路工事、神体山の社の建築、そして第二次東国征伐であった。今回いくさに導入される新兵器とは? 史実より圧倒的有利な状態で開戦の火蓋を切って落とす第二次東国征伐の展開やいかに!?
戦国小町苦労譚 十三、第二次東国征伐
感想
ヴィットマン達が逝き何とか立ち直った静子。
彼女が落ち込んでいても用水路工事で蒸気機関のショベルが動き、気球が飛び、無線が情報を運ぶ。
そんな織田家は第二次東国征伐の準備に入る。
武田、北条の内情を調べ、補給線を確保して、物資を集畜する。
外交では北条が懸命に和睦を結びたいと打診をするが無視される。
そして第二次東国征伐が始まり、可長がアームストロング砲(モドキ)で堅牢な山城、岩村城をアッサリと陥落させる。
あまりにも技術が進歩してしまい蹂躙戦になってしまってる。
未知の武器に蹂躙される相手が気の毒になってくる。
その後も破竹の勢いで進行して行く。
それを静子は尾張に居ながら電信で戦況を把握して物資を送る手配をしている。
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同シリーズ
戦国小町苦労譚 シリーズ
小説版
漫画
その他フィクション
備忘録
天正三年 哀惜の刻
千五百七十六年六月上旬 三
ヴィットマンとバルティの訃報が信長に伝わり、信長はその日の予定を全て中止し、自室に戻った。彼の異例の行動に周囲は動揺したが、濃姫だけはその場に現れ、信長を慰めた。濃姫は静子を支えようとしており、信長もその意図を理解し、協力することにした。
翌朝、静子はヴィットマンとバルティの喪に服するため、山の道を閉鎖した。静子の願いを尊重して山は神体山とされ、詔書が発布された。多くの名だたる職人や石工が協力を申し出たが、静子はそれを受け入れることにした。
その後、静子は朝廷や信長の支援を受けつつ、祭事を執り行った。地鎮祭には多くの名士が参列し、静子の努力を讃えた。祭事後の宴会も盛況であり、静子は華嶺行者の説教を受けて心の整理をし、ヴィットマンとバルティの思い出を胸に前に進む決意を固めた。
信長は静子の復帰を望み、彼女の万全の状態を待っていた。信長の勘は正しく、彼の攻勢が始まり、静子もそれに加わる準備を整えていた。これからの戦いに向けて、静子は新たな決意を持って前進することを決めた。
千五百七十六年八月中旬
神体山騒動が落ち着いた頃、静子に現場復帰要請が届いた。職場復帰前に多くの確認事項があり、静子は忙殺されていた。特に熱気球の有人飛行実験に関する決裁が問題であった。熱気球は戦略兵器として開発されたものであり、信長が乗りたがることが予想された。実験は安全性が確認されているが、静子は信長に乗船を諦めさせることができなかった。
信長は静子と共に気球のバスケットに乗り込み、成功裡に飛行実験を終えた。信長が安土へ戻った後、静子は愛知用水の進捗報告を受けた。愛知用水は知多半島への水供給を目的とした大規模な用水路であり、幹線水路の工事が完了したばかりであった。住民たちは喜び、工事に協力する意志を示した。
その後、静子は一連の仕事に取り組んでいたが、妙な騒動に巻き込まれた。荒縄で拘束された少女二人が静子の前に連れてこられ、彼女たちが持っていた文書が暗号かどうかの調査が求められた。静子は文書を確認し、それが十八禁同人誌であり、ガラスペンで書かれていることに気付いた。
ガラスペンは静子が技術を伝えたものであり、市場に流通していない試作品であった。少女たちは今浜の露天商から購入したと供述した。これにより、静子は秀吉が推進しているガラスペンの流通計画が危機に瀕していることを認識した。静子は二人を庇う手立てを考え、周囲の協力を求めることにした。
千五百七十六年九月上旬
静子はガラスペンを売った商人についての情報を整理し、商人が複数のガラスペンを持っていないか確認した。商人は鼻筋に黒子があり、手の甲に火傷の跡がある特徴的な人物であった。静子は商人の人相書きを作らせ、それを秀長に送り、工房や関係者を秘密裏に調査するよう依頼した。
また、静子は少女の才能を評価し、絵巻物形式の紀行文を執筆する仕事を提案した。彼女は京の公家向けに作品を提供し、その際に筆名を使用することを勧めた。さらに、ガラスペンが実用品として有望であることを説明し、筆記用具としての優位性を生かす計画を立てた。
同時に、静子は足満とみつおが手掛けるビールと焼き鳥の事業が成功していることを確認した。ビールと焼き鳥は労働者たちに好評であり、経済の活性化に寄与していた。静子は用水整備の進捗を確認し、インフラ整備が進むことで尾張全土が潤うことを期待していた。
静子は信長に愛知用水の成果を報告し、信長は知多半島を工業地帯として発展させる構想を持っていた。信長は東国征伐で北条を攻める計画を示し、静子は支城を攻略して小田原城を孤立させる戦略を提案した。信長は静子の戦略を評価し、静子が領地を富ませることの重要性を認識していた。
信長は静子に対して、彼が倒れた場合の対応を尋ねた。静子は全力を尽くして信長を守ると誓い、裏切り者を排除することを約束した。
千五百七十六年十月上旬
秋が深まり冬の訪れを感じる頃、各地から集まった米が税として集められていた。尾張、美濃、近江などの地域は軒並み豊作であり、五穀豊穣を祝う祭が盛大に催されていた。特に知多半島の住民たちは用水路の恩恵を受け、来年の豊作に期待して陽気になっていた。
静子は信長との茶室での会談で、大きないくさの準備をするよう指示されたと感じていた。その後、信長からの召集令状が届き、静子は準備を整えて安土へ向かった。安土到着後、持て余した時間を活用してアルコールストーブと飯盒の実地試験を行った。
静子は木酢液を加工してメタノールを生成し、携帯用コンロとして利用することを考えた。メタノールは燃料として非常に便利であり、陣中食の改善にも役立つと考えた。メタノールの使用には注意が必要だが、煙を出さずに調理できるため、敵に気づかれにくいという利点があった。
信長が予告なしに現れ、静子は驚いたが、信長との会話でティラピアの養殖や他の魚の養殖についても触れた。静子は魚の養殖を進め、食料の安定供給を目指していた。
信長の召集で主要な家臣団が安土に集結した。信長は家臣たちに向けて天下を取るための大号令を発し、静子はその進行役を務めることになった。信長の指示を受け、静子は家臣たちに対して布陣を伝えた。信長の言葉は家臣たちに大攻勢の開始を強く印象付け、皆の戦意を駆り立てた。静子は信長の言葉を代弁し、家臣たちにその意図を伝えた。
千五百七十六年十月中旬
静子は注目する家臣たちに対し、声の強弱を意識しながら言葉を発した。「東国征伐総大将、織田勘九郎様」と信忠を呼び、彼は自信を持って大将の席へと進んだ。信忠は静子に「次こそはその名を呼ばせてみせる」と呟き、静子は期待を込めて返答した。
静子は信忠を「奇妙」と呼んでいたが、これは信忠の希望であった。信忠は「織田家の次期当主に相応しい武功を挙げるまで、幼名で呼んでほしい」と静子に願い出た。信忠の真摯な願いを聞いた信長もこれを許可した。
続いて、滝川一益が信忠の補佐として東国征伐に、羽柴秀吉が西国の播磨征伐に任じられた。明智光秀も丹波征伐の総大将として留任し、新式銃部隊を効果的に運用していた。
神戸信孝は雑賀衆の残党を追撃し、石山本願寺から退去する人々を送り届ける役目を担った。静子は信孝に「雑賀の残党狩りは建前であり、真の狙いは反旗を翻す者への警告である」と説明した。
北条征伐の総大将に柴田勝家が任命され、佐々成政と前田利家がその補佐となった。佐久間信盛と林秀貞には東北の抑えを命じられたが、これは佐久間にとって左遷と感じられる任務であった。
主要な人事が伝えられた後、静子は軍議を終えて安土の別邸に戻り、次の行動について考えていた。静子は京に赴き、義父上と本願寺の始末について打ち合わせを行い、その後尾張に戻る予定であった。
帰宅後、長可が静子に対して後方支援の任務に不満をぶつけたが、静子は彼に説明した。静子軍は全軍で後方支援に回るわけではなく、個人の武勇を示せる戦場も用意されていた。慶次は上杉家への援軍として派遣され、長可は武田征伐に従事することとなった。
静子は長可に「君の軍規違反が問題視されている」と忠告しつつも、信長が彼の成果を認めているため、慎重に行動するよう促した。
千五百七十六年十月中旬 二
静子は信長から武田攻めの許可を受け、長可に手加減なしで暴れるよう指示した。長可は自信満々で了承したが、静子は内心で不安を抱えつつも黙認した。次に静子は高虎に西側の守りを任せ、要望を尋ねた。高虎は新しい道具の扱いに興奮し、問題なく使いこなせると答えた。
高虎に渡された装備は特別なもので、静子が三機を稼働させるのが精いっぱいであった。続いて、足満に佐渡島の征伐を依頼した。足満は快く承諾し、佐渡島の金鉱山を狙う任務に意欲を見せた。信長が金山の存在を知り、佐渡島の支配権を得るための策を練ったのだ。
真田昌幸は武田攻めに加わり、その後北条攻めに回ることとなった。真田は甲斐の産品を高値で買うという噂を流し、武田領内の物資を枯渇させる作戦を提案した。静子はこの作戦を称賛し、彼の提案を実行に移すことにした。
静子は後方支援の役割を果たしつつ、戦場での直接戦闘には出ない方針を示した。彼女は武具の製造や兵站の整備に注力し、情報収集やメンタルケアにも力を入れていた。
また、静子は金を使うことについて家臣たちに問いかけ、長可が率先して金を使うことに自信を示した。彼は部下たちに金を渡して消費を促し、広く金が行き渡るようにした。静子はこの方法を評価し、金を効率的に使うことの重要性を学んだ。
静子は京で近衛前久との打ち合わせを行い、その後景勝のもとを訪れた。景勝たち人質に選択肢を与え、各自の希望を確認した。景勝たちは決意を新たにし、静子の言葉に応じて行動を決めた。
最後に、静子は慶次に越後での戦いを任せ、作戦の指示書を手渡した。慶次はその指示書を受け取り、静子の思いを胸に秘めつつ、戦いに挑む決意を固めた。
千五百七十六年十二月下旬
信長が敵の一掃宣言を発して一ヶ月が経過したが、静子軍の兵士たちは連日飲み食いを続け、外部からは遊び呆けているように見えた。しかし、実際には戦の準備が着実に進められていた。特に甲斐の国へ派遣される兵士たちは、新しい装備や規則に慣れるための特別訓練を受けていた。
静子は兵士たちの訓練と並行して、大量の軍需物資を集積し、計画に従って分配していた。また、景勝たちに支給される派手な装飾の武具も用意された。
ある日、信忠から相談のため時間を取ってほしいとの書状が届き、静子は東国征伐に関する資料を揃えて準備を整えた。間諜の統括者である真田昌幸を呼び、武田と北条の動向について情報を収集した。穴山梅雪が徳川方と接触しているという情報を得たが、徳川家が彼を迎え入れる可能性は低いと判断した。
その後、信忠が静子を訪れ、二人は互いに軽口を叩き合いながら話を進めた。信忠は武田信玄の五女である松姫との関係や、北条征伐の総大将である柴田勝家への不安を打ち明けた。静子は信忠に対し、武功を立てるための助言を求められ、長可の助力を提案した。
最終的に、静子は信忠に対し、文治派と武断派の対立を見据えた将来の展望を語り、武功だけでなく政務能力でも功を示す必要があると助言した。
食へのこだわり
信長を宴席に招くことは大きな名誉であったが、それに伴う苦労も大きかった。信長は難しい性格で、珍味を食べ飽きているため、並大抵の料理では満足させることができなかった。
信長をもてなすため、静子は到着するとまず湯浴みをさせ、疲れを癒すようにしていた。その後は縁側で猫と戯れたり、角力を観戦したりしてくつろぐのが常であった。そして、信長は気分次第で一人で食事をするか、誰かを招いて会食することもあった。
信長が難しい性格であっても、礼儀を重んじるため、よほどの失態がない限り声を荒らげることはなかった。彼を機嫌良くするためには、最後に甘味を出すことが有効であったが、それも手抜きと侮られないよう注意が必要であった。
信長の食へのこだわりが強くなったのは、静子が彼に美味しいものを提供し続けた結果であった。お市も信長のために最善を尽くすことを求め、料理人を派遣して指導することを提案した。こうして、信長の宴席は静子の尽力により成功を収めていた。
花街の女
尾張の港湾都市に隣接する飛島遊郭は、高級歓楽街として名を馳せていた。衛生管理と治安の良さが評価されており、信長肝煎りの港湾都市に隣接しているため、厳しい監視下に置かれていた。しかし、自治がある程度許可されており、信長の法を守る範囲で自由に運営されていた。
慶次と兼続は頻繁に飛島遊郭を訪れ、海鮮を楽しみ、遊女たちへの土産を買い求めていた。彼らは遊郭に到着すると、慶次の二胡の演奏を楽しむのが常であった。慶次の奏でる物悲しい音色に、遊女たちはうっとりと聞き惚れ、兼続は遠くを見つめていた。
しかし、階下からの騒音が心地よい時間を遮った。遊女たちは騒ぎを解決するために階下へ向かったが、慶次と兼続は演奏を続け、喧騒を気にしない様子であった。慶次の演奏が終わると、遊女たちから明るい曲のリクエストがあり、慶次はそれに応じて演奏を始めた。既に階下の喧騒は収まり、夕暮れの空には慶次の演奏が響いていた。
力なき優しさは無責任でしかない
ある日、静子は四六と対面し、親ではなく領主として話を始めた。彼女は、為政者として情に動かされることなく行動するよう四六に説いた。情で動けば失敗を招き、最終的にそのツケを払うのは民であると警告したのである。四六はその言葉に羞恥を感じ、自分の至らなさを反省した。
静子は、四六が自分の力で助けようとしたことを評価し、感情だけで動くことを諫める意図を伝えた。彼女は四六が自分の力を自覚し、何ができるのかを見極めるよう促した。また、失敗から学び、正しく力を使うことが大切であると指導した。
静子は自らの経験をもとに、失敗を重ねてきた過去を振り返りながら、力を持つことの重要性を説いた。そして、四六には彼女の跡を継ぐかどうかは分からないが、周囲から後継者と見なされていることを説明し、責任感を持つように促した。
その後、静子は説教を終え、四六が今回の学びを活かすように伝えた。四六は感謝を述べ、静子の言葉を胸に刻んで部屋を退出した。
静子が隣室に声をかけると、慶次が現れた。静子は四六が相談したことを慶次が関与していると指摘し、彼が四六を静子に相談するように促したことを明かした。慶次は四六が行動できるように背中を押したと話し、静子はその意図に安心した。
二人は、将来について語り合い、慶次は泰平の世になったら世界を旅したいと夢を語った。静子もまた、泰平の世になったら諸国漫遊の旅をしたいと考えていた。慶次はその話を聞き、屈託なく笑った。静子もまた、彼の自由な生き方に共感し、未来への期待を胸に秘めていた。
少年よ、かれいを食らえ
華嶺行者はその特徴的な風貌で近隣では知られた存在であった。彼はある夜、山中を移動中に焚火を見つけ、その火を借りようと近づいた。すると、焚火を囲んでいた男たちは彼の姿を見て恐れ逃げ出した。その場には華嶺行者と、縛られていた少年の二人だけが残された。
少年は恐怖に打ち震えていたが、やがて自分の拘束が解かれていることに気づいた。彼は華嶺行者に命を救われたことを感謝し、自らを七助と名乗った。華嶺行者は、少年が置かれた状況について問うことなく、彼と話を始めた。
七助は自分の身の上話を語り始めた。彼は家族の跡目争いに敗れ、放浪の身となった。食うや食わずの生活を強いられていたが、盗みを働くことができず、山中で自ら命を絶とうとしたところを華嶺行者に出会ったのだ。
華嶺行者は七助に食事を提供し、彼を元気づけた。彼は自らの料理「かれい」を七助に振る舞い、その香りと味わいに七助は魅了された。七助はその体験を通じて、生きる意欲を取り戻した。
華嶺行者は、七助に自分の主君のもとで仕官しないかと誘い、七助はそれに応じることにした。二人はその夜、山を枕にして眠り、朝になれば共に下山し、新しい生活を始めることを決めた。華嶺行者の主君とはどのような人物かを思い描きながら、七助は眠りについたのである。
退屈しのぎ
封建社会から現代に至るまで、権力者に近しい人物、特に配偶者は大きな影響力を持つことがあった。豊臣政権下では、秀吉の正室であるねねがその例であり、時には秀吉を制御するほどの影響力を誇った。江戸時代になると、大奥という独自の社会が形成され、この傾向がさらに強まった。信長の正室である濃姫もまた、領地や軍勢を持たずとも絶大な影響力を持っていた。
濃姫は安土入り後、静子邸に逗留し、信忠が岐阜城に入城すると同時に彼女も岐阜城に移り住んだ。しかし、時折岐阜城を抜け出し、静子邸を訪れることを続けていた。周囲の反対にもかかわらず、信長は彼女の行動を自由にさせていた。濃姫の不在時に下剋上を企てる者もいたが、彼らは事故により命を落とし、秩序が保たれていた。
濃姫は、若者が野心を抱くべきであると考え、静子との会話でもその意見を示していた。静子と真田昌幸の手による監視網は、岐阜城から文書を持ち出そうとする間者を捕らえたが、その文書は静子邸の献立表であり、盗む必要のない公開文書であった。濃姫はこの出来事を愉快な遊びとして楽しんでいた。
濃姫は静子邸での時間を楽しみ、特に静子の果樹園で収穫されたマンゴスチンを喜んで味わっていた。静子は心の中で嘆息しつつも、彼女の喜ぶ様子を見て作り手としての喜びを感じていた。濃姫はその後も静子邸に居座り続け、静子との交流を楽しんだ。
忘れ去られた話
信長の妹であるお市は、娘たちである茶々、初、江と共に静子邸で生活していた。信長の正室である濃姫もかつて静子邸に滞在していたが、信忠の岐阜城入城に伴い岐阜城に移った。その後も折に触れて静子邸を訪れることがあった。濃姫が岐阜城へ移る際、弟の斎藤利治が信忠の側近として着任した。
お市たちは静子邸で快適に暮らしており、特に子供たちには様々な遊びが用意されていた。茶々と初は、静子邸内で遊びを探していたが、子供向けの遊具よりも大人向けの興味深いものに惹かれることが多かった。ある日、茶々は課題を終わらせたと嘯いたが、実際には適当に書き込んだだけであり、彩に見つからないように課題を終わらせる前に学習室を抜け出していた。
夕食に天ぷらが出ることを知った茶々は、初と共に屋敷内を散策していた。その途中で甘い香りに気づき、静子の私室近くの控え室に向かうと、ちゃぶ台の上に焼き菓子が置かれているのを見つけた。二人はその焼き菓子を手に取ろうとしたが、狩猟用の投網が突然落ちてきて動けなくなった。
そこに現れたのは彩であり、彼女はお市の指示で茶々に厳しいお灸を据えるよう命じられていた。お市は、茶々が淑女として成長し、他家に出ても恥ずかしくないように教育しようとしていたのである。彩は、茶々に勉学の重要性を説き、課題をやり直させるために彼女を引きずっていった。茶々は捨て台詞を吐きながらも、逆境に負けない強い心を育てていたようである。
北条家の失敗
東国の諸国は織田家に対して反抗の姿勢を保っていたが、実際に武装蜂起することはなく、信長に対抗するには尾張を抜かなければならないという現実があった。北条家の軍議では織田家に対抗する方策が見いだせず、誰もが織田家に刃を向けたことを後悔していた。北条氏政は織田との戦いを避ける選択肢を持たず、板部岡江雪斎は軍議が停滞する中で織田との敵対は得策でないと感じていた。
江雪斎は、信長との交渉が成立しないことを知りつつ、静子に仲介を頼んでいたが、静子からの返事は交渉の余地がないというものであった。彼が持ち帰った情報に基づく軍議は織田の勢力の前にほぼ絶望的であり、状況は厳しさを増していた。信長は北条家を攻め滅ぼす準備を整えており、その勝算に疑いを持たない様子であった。
江雪斎は、静子の落ち着き払った態度が一抹の不安をもたらし、織田との交渉が決裂したことで、北条家の未来を悲観せざるを得なかった。彼は状況を悪化させないために少しでも有利な条件での講和を目指し、交渉の道を模索することに努めたが、結果として北条家は窮地に立たされることになった。
天正四年 隔世の感
千五百七十七年一月下旬
1576年、信長が安土城で新年を迎え、織田家は勢力を拡大していた。武田家は衰退し、毛利や北条も織田に対抗する力を失いつつあった。この年、日ノ本の勢力図が大きく変わる激動の年と考える者が多かった。北条家は織田に対抗する策を見いだせず、内紛が続き、結論を出せない状況に陥っていた。
静子は信長の信任を得ており、政治や経済の手腕を発揮していた。彼女は安土城で新年を迎え、情勢の変化を見据えていた。織田家は東国征伐を計画し、武田や北条に対する作戦を進めていた。信忠は北条家の内紛を利用して、伊達家への調略を試みていた。
一方、西国では秀吉が戦果を挙げ、播磨・丹波の平定を進めていた。彼は港湾開発に着手し、神戸港の建設を進めていた。静子はこの計画を支持し、長期的な視野を持って進めていた。これにより、軍資金や兵站の維持が容易になり、織田の勢力はますます強化されていた。
信長の配下である静子は、政治的な調整を行いながら、武田や北条への圧力を強化していた。彼女は武田家の衰退を利用し、信長の命を受けて諸国の動向を監視していた。彼女の指示により、尾張における情報網が強化され、織田の支配が一層盤石となった。
こうして、織田家は日ノ本の支配を確立するべく、着実に勢力を拡大していた。静子は信長の信任を得て、政治と軍事の両面で活躍し、織田家の覇権確立に寄与していた。
千五百七十七年三月下旬
港湾開発を進める静子の努力により、ひと月以上が経過し、西国では小競り合いが続いていたが、大規模な合戦には発展していなかった。信長からの命令で、秀吉と光秀は侵攻速度を落とし、基盤を固めることに努めていた。
物流の拠点を整備するために、京から丹波、播磨へと補給路が延び、神戸港の開発も進行中であった。静子は尾張から西国に至る港湾都市開発を計画し、物流の制圧を目指していた。物流を掌握することで敵の動きを察知しやすくなり、織田家の勢力を拡大するための戦略が進められた。
静子は運送会社を設立し、物流を独占することで商業の流れを支配し、織田家の勢力をさらに強化した。彼女は戦闘よりも後方支援を重視し、物資の管理や予測を通じて戦局を有利に進めていた。
一方、長可は部隊の訓練を重ねつつ、体調管理にも配慮し、戦いに備えていた。彼の部隊は十分な訓練を経て、戦力を蓄え、戦場での活躍を目指していた。
三月下旬、信忠は配下の将を集め、第二次東国征伐の開始を宣言した。信忠は士気を高める演説を行い、織田軍の力を見せつけるべく出陣した。静子の助力により、長可率いる部隊も準備を整え、武田の本拠地である甲斐へと進軍を開始した。信忠軍は岐阜城から華々しく出陣し、織田家の勢力を拡大するための戦いが始まった。
時は信忠の出陣より一月ほど前であった。当時の武田家は崩壊の危機に瀕しており、木曾義昌が信長の調略に応じて武田から離反した。木曾は弟を人質として織田に差し出し、三月十五日に岐阜城へと到着した。信忠はこれを機に甲州征伐を開始し、三月十八日に先遣隊を派兵した。長可の率いる先遣隊は即座に出立し、三月二十二日には本隊が出陣した。
信忠軍は岩村城を攻略し、北回りで新府城を目指す計画であり、信忠は電信を用いて即座に戦況を把握し、指示を下していた。一方、木曾義昌は鳥居峠で武田軍に敗れ、木曾福島城に籠城した。信忠は日本住血吸虫の流行地を避ける進路を選び、慎重に行軍していた。
信長は信忠の出陣を受け、北条攻めの別動隊を含む東国征伐部隊に出撃命令を下した。織田家の迅速な動きは、効率化された農業と常備軍の存在によるものであった。織田家は信長の指導のもと、常備軍と混成部隊を組織し、即応性を高めていた。
静子は電信を活用して情報を集め、織田軍の進軍を支えていた。彼女の開発した技術は戦国時代において革命的であり、信長や信忠の軍事行動を支援する重要な役割を果たしていた。静子は自らの影響力を過小評価していたが、彼女の存在は織田家や京の上流階級において無視できないものであった。
信忠の進軍と共に、静子の影響力はますます広がり、彼女の活動は日本全体に影響を及ぼしていた。
千五百七十七年三月下旬 二
東国征伐の第一段階である甲州征伐は、森長可率いる先遣隊の快進撃によって始まった。長可は木曾福島城を救うために大砲を持ち出したが、間に合わないと判断し、岩村城の攻略に使用することに決めた。岩村城は難攻不落として知られていたが、織田軍の砲撃により僅か半日で陥落した。
長可は先遣隊を率いて木曾福島城を目指し、籠城している木曾義昌と合流する予定であった。一方、信忠が率いる本隊は岩村城を出発し、天竜川に沿って南下しつつ滝沢城を落とし、諏訪湖へ進む進路を取る計画であった。
信長はこの報告を受け、静子邸に訪れた。静子は電信による情報を基に、立体地図を用いて戦況を把握していた。信長は静子の進言を受け、兵站の重要性を再確認した。
静子は東国征伐に備え、兵士たちにレモンのはちみつ漬けを作り、はちみつレモンドリンクとして提供した。これが評判を呼び、信長もその味を試したがった。静子は炭酸水を加えたはちみつレモンソーダを考案し、信長をもてなすために厨房に向かったが、濃姫の存在を失念していた。
信忠が率いる本隊の進軍速度は予想を超えるものであり、長可が出発してからわずか4日遅れで本隊が追撃を開始した。しかし、長可が岩村城に大砲を残したため、再び差が開いた。本隊が岩村城に到着して戦後処理を進めている間に、長可率いる先遣隊は木曾福島城を目指して行軍していた。
木曾福島城に到達した先遣隊は、城主の木曾義昌と合流し、部隊を再編成した後、武田軍に急襲をかけた。木曾軍の案内を受けた長可軍の新式銃部隊と木曾軍の鉄砲隊や弓隊が、山々に配置され、一斉射撃を行った。これにより、武田軍は混乱に陥り、長可・木曾連合部隊に追撃され、奈良井川と田川に挟まれた桔梗ヶ原で陣を立て直した。
桔梗ヶ原での戦闘は織田方優勢で進み、武田軍は再び敗走した。長可は追撃を主張したが、織田長益は足場固めを主張し、意見が対立した。最終的に、長可は自らの判断で追撃を行い、深志城を目指した。
長可軍は擲弾筒を使用し、赤木城や小屋城を攻略し、深志城に到達した時には、武田軍は降伏し、周辺の城も武装解除に応じた。擲弾筒の威力に恐れをなした武田軍は、長可軍に抗戦することなく降伏した。
一方、西国では秀吉の播磨平定が進行していた。信長から足場固めを命じられた秀吉は、小寺政職から奪った姫路城を改築し、防衛機能よりも見た目の豪華さを優先して天守を増築していた。これは毛利征伐の前線拠点とする名目であったが、秀吉は光秀を意識していたと考えられる。秀吉は部下たちを激励し、播磨平定を急いでいた。
秀吉のこの動きは光秀も承知しており、互いに競い合いながら任地の平定を進めていた。秀吉が手に入れた黒田孝高(官兵衛)が竹中半兵衛に意見を述べ、飢えた兵士たちを食い扶持で取り込む策を提案した。半兵衛は官兵衛の策に感心し、秀吉の播磨征伐は半兵衛と官兵衛の影響を受け、進展していった。
このように、秀吉の播磨平定は順調に進み、彼は神戸港を起点として商業活動を活性化させた。神戸は元々寂れた村であったが、静子の開発により急成長を遂げ、商人たちが集まる港町へと変貌した。商業活動が活発になる中で、周囲には農地が広がり、港湾関係者や商人たちも増加した。
秀長は静子の投資に対する期待を述べ、官兵衛もその成長ぶりを認めた。官兵衛は、静子が農業や林業、水産業、流通など、多岐にわたる事業を手掛ける人材を抱えていることを聞き、彼女に会うことを楽しみにしていた。
書き下ろし番外編 胡散臭い大人たち
静子が足満に佐渡討伐を依頼する前の話である。佐渡島は新潟県西部の沖合に浮かぶ離島であり、かつては大規模な金銀鉱山として知られた相川鉱山が存在していた。戦国時代において、この鉱山はまだ未発見の状態であった。
信長は静子の提供した地図帳から相川鉱山の存在を知り、あらゆる手段を使って佐渡島の支配権を獲得した。朝廷の正史を書き換え、織田家が佐渡島を支配していたとする虚構を創り上げたのである。この根拠をもとに信長は本間氏に対して服従か死かの選択を迫った。
本間一族は困難な状況に追い込まれ、交誼のあった上杉謙信に助けを求めたが、上杉家も織田家に臣従していたため、支援は得られなかった。一方、信長は佐渡国攻略のために足満を呼び寄せた。
足満は不機嫌さを隠さずに信長に対して問いかけたが、信長は理不尽な要求を理解しつつも、足満に実行を求めた。信長は佐渡の金銀山を喉から手が出るほど欲しており、本間一族を歴史から抹殺する必要があると考えていた。
足満は静子の邪魔をしない限り殺戮には興味がないと述べつつも、信長の命令に従うことを了承した。信長は静子に累が及ばないように配慮し、彼ら自身が修羅道に堕ちる覚悟を決めた。
静子は本間一族を転封させる策を進めていたが、信長が佐渡を必要と断じた以上、彼らを排除する必要があると考えていた。最終的に信長と足満は、本間一族が静子の提案に応じることを期待しつつ、応じない場合は無慈悲な手段を取る覚悟を決めていた。
特別書き下ろし 現には結ばれど、我が恋ひ忘れめや
家康の家臣である本多忠勝は、いくさ場に出れば無傷で帰還するほどの武勇を誇る人物であった。彼は愛槍の蜻蛉切を手に、戦場で無類の働きを見せていた。しかし、彼には家康も頭を悩ませる問題が一つあった。それは、静子からの贈り物を受け取るたびに、奇妙な踊りを始めることであった。
忠勝の奇妙な踊りは、本多家の面々や家康にとっても諦めの境地に至っていた。康政と半蔵はこの現象を静子との付き合いの名残と見ていたが、忠勝の踊りは年々酷くなっていった。静子からの贈り物はお中元やお歳暮のようなものであり、忠勝だけでなく、康政や半蔵にも同様に贈られていた。だが、忠勝はそのたびに踊りを披露し、周囲を困惑させていた。
康政が忠勝に静子への思いを諦めるように促すと、忠勝は真面目な表情で応じた。彼は静子が織田家の重鎮であり、自分との結ばれることは運命的に叶わないと悟っていた。しかし、忠勝はそれでも静子への恋心を捨てなかった。「簡単だ。某の心が惚れることをやめぬだけだ」と忠勝は述べ、叶わぬ想いを抱えながらもその想いを捨てない覚悟を示した。
忠勝のこの姿勢に康政は笑みを浮かべたが、半蔵は場の空気を読み、心の中で彼の落ち着きを望んだに留めた。忠勝は叶わぬ恋心を抱えながらも、その想いを貫く決意を固めていた。
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