簡単な感想
織田家は戦略で圧倒。
佐渡は足満によって地獄になり。
西の毛利家を経済的に孤立化させて弱体化。
東は信忠が武田家を滅ぼし、慶次と四六が上杉家の跡目争いに首を突っ込む。
どんな本?
戦国小町苦労譚は、夾竹桃氏によるライトノベル。
農業高校で学ぶ歴史好きな女子高生が戦国の時代へとタイムスリップし、織田信長の元で仕えるという展開が特徴。
元々は「小説家になろう」での連載がスタートし、後にアース・スターノベルから書籍としても登場。
その上、コミックアース・スターでも漫画の連載されている。
このシリーズは発行部数が200万部を突破している。
この作品は、主人公の静子が現代の知識や技術を用いて戦国時代の農業や内政を改革し、信長の天下統一を助けるという物語。
静子は信長の相談役として様々な問題に対処し、信長の家臣や他のタイムスリップ者と共に信長の無茶ブリに応える。
この物語には、歴史の事実や知識が散りばめられており、読者は戦国の時代の世界観を楽しむことができる。
2016年に小説家になろうで、パクリ騒動があったらしいが、、、
利用規約違反、引用の問題だったらしい。
読んだ本のタイトル
戦国小町苦労譚 14 工業時代の夜明け
著者:#夾竹桃 氏
イラスト:#平沢下戸 氏
(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。
あらすじ・内容
真田昌幸率いる間者組織の諜報活動により、
着実に勝利を重ねていく第二次東国征伐。
足満は佐渡島で本間氏を瓦解させ、
信忠は、天目山で決死の果し合いを勝頼に申し込み、
景勝・慶次軍は、景虎軍と衝突する――
通信機や電球の開発・実用化が進み、
急速に工業時代の幕開けを迎える日ノ本。
一方、トンカツを夢見てソース作りに没頭する静子の敵は……濃姫!?
web版に大幅加筆を施し、読み応え抜群の14巻。
累計80万部突破の大人気シリーズ、コミカライズも大好評‼
戦国小町苦労譚 十四、工業時代の夜明け
感想
静子は戦略で圧倒して、戦う前に勝利を掴んでしまう。
毛利家を経済的に孤立化させて弱体化させ。
尾張に居ながらの第二次東国征伐の戦略を操作する。
そんな東国では、佐渡では足満が本間家を共倒れさせて地獄にし。
武田家攻略に出た信忠は武田勝頼と一騎打ちをして勝利を得て松姫を迎えに行く。
上杉では、北条派閥の景虎と静子の元に居た景勝が次期当主を決める決闘を行うが、、
そこに慶次と四六が、、、
そんな戦闘が東国で行われているが、
尾張では静子が電信で状況把握をしながら補給物資を戦場に送る指揮をとる。
電信に感心する信長は電信を過信して遠出をして帰って来たら、、
静子が激怒して待っていた。
明智光秀の領地で天然痘が流行してしまい、ワクチンを接種には信長の許可が絶対に必要だったが、信長が電信を過信して代理を立てずにいたのが仇となった。
このままでは天然痘が蔓延してしまうのを静子が、命令無視をしてワクチンを明智光秀の領地に送った。
その結果、静子は命令違反で最悪死罪、軽くしても年貢を1割加増されてしまう。
今回は年貢1割加増されるが、静子の年貢は莫大であるため加増の量も半端では無い。
それでも法令順守の精神を実践して、織田家の家臣団に法令遵守の精神を浸透させる。
そんな、派手さは無いけど緩みもしない話の進め方が凄い。
最後に、石山本願寺蜂起の報せ。
どうなってしまうのだろうか??
外伝は信忠が正室に滅んだ武田家の松姫にすると言う騒動が起こる。
色々な事情があり、本来は側室になる予定だった松姫だったが信忠の家臣団から妾にしろと言われた事による反発だったようだが、、、
信長を巻き込んで話が大きくなってしまい。
その解決に静子が一肌脱ぐ事になってしまう。
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同シリーズ
戦国小町苦労譚 シリーズ
小説版
漫画
その他フィクション
備忘録
天正四年 隔世の感
千五百七十七年四月上旬 一
三月下旬、残雪が溶け街道が回復した頃、足満は敦賀港にいた。彼は軍を率いて越後入りし佐渡島を目指すつもりであったが、越後の厳しい状況と静子の助言により計画を修正し、若狭国の敦賀に集結していた。悪天候による数日の足止めを経て、ようやく天候が回復し、足満たちは船団を組んで出航した。
佐渡島では本間氏が五つの氏族に分かれて争っていた。足満は沢根本間氏を巧みに寝返らせ、真野湾に上陸することに成功した。河原田本間氏などが迎撃しようとしたが、足満軍の圧倒的な火力に圧倒され、佐渡島は内戦状態に陥った。
足満は本間氏同士の戦いを煽り、最初に河原田本間を攻撃し、次に羽茂本間を攻めた。羽茂本間は抵抗したものの、城を落とされ、最終的に他の本間氏も次々と降伏を余儀なくされた。沢根本間は敵対する本間氏を次々と殲滅し、最終的に佐渡島の統一を果たしたが、多くの犠牲を払った。
足満は本土から織田家の代官を招き、佐渡島を後にした。一方、尾張港には竹中半兵衛と黒田官兵衛が到着し、その巨大な港湾設備に圧倒された。彼らは羽柴秀長の案内で尾張港を見学し、その後静子邸へと向かった。
静子邸での面会では、秀長が有馬温泉の開発支援を静子に求めた。静子は有馬温泉の開発に興味を持ちつつも、秀吉一門が抱える内部問題を懸念していた。半兵衛はその問題を理解し、官兵衛にも状況を説明した。
千五百七十七年四月上旬 二
秀吉の問題点は「静子に頼りすぎた」ということであった。織田家相談役となった静子は、多くの人々から相談を受けたが、特に秀吉からの問合せが多かった。秀吉は自身の領地運営に失敗した際、静子の助力を頼り、その経済対策が効果を発揮すると、自信を失い、重要な決断のたびに静子に意見を求めるようになった。織田家内では、秀吉が静子の操り人形だと揶揄された。
播磨平定で成果を挙げたことで、秀吉は見直されつつあったが、有馬温泉開発で再び静子の助力を求めることは、秀吉の評価を下げる恐れがあった。静子は神戸港の開発に関して根回しをしていたが、有馬温泉の案件は含まれていなかったため、突如として静子が絡むと秀吉の面子を潰す恐れがあった。
秀長は静子の懸念を理解していたが、有馬温泉開発の利を考え、名を捨て実を取る必要があると判断した。静子は長宗我部領に港湾都市を設ける計画や、堺を経由し神戸と結ぶ一大商圏の構想を説明し、これが毛利包囲網の一環であることを示唆した。
静子は「木を隠すなら森の中」という格言を引用し、有馬開発を大きな計画の一部に組み込むことを提案した。さらに、信長の支援を得て一万貫(約十億円)を即金で用意できると述べた。官兵衛はその規模に驚愕し、静子の協力を取り付けることで、有馬温泉開発が現実味を帯びた。
静子は信長が近くに滞在していることを明かし、すぐに相談できる状況であることを伝えた。この情報により、計画の具体化が一層現実的となった。
信長が静子邸に逗留していた理由の一つは、新たに用意された通信機の試験運用であった。静子の協力を得て、検証用の通信機を使用し、尾張と安土を通信で結び、どの程度の状況把握と指示が可能かを試していた。その結果は上々であり、信長は尾張で寛ぎながらも安土で政務を差配する状況を生み出した。この革新的な通信手段は、軍事、政治、経済に大きな影響を与える可能性があると確信した。
しかし、問題もあった。機材が高価であり、通信を制御する技術者が少なかったためである。信長はこれらの問題を楽観視し、技術の普及は時間の問題であると考えた。
信長は通信技術に魅了され、場所と時間を超越する力を実感した。その利便性に耽溺し、尾張で政務をこなすことに満足していた。通信の可能性に気付き、新たな戦略を練り始めた。
一方、信長は電信に夢中になり過ぎて食事を忘れ、空腹で腹痛を起こした。静子は信長の食事の世話をしながら、信長が秀吉の部下を「ハゲネズミ」と呼んでいることに気付き、その部下たちが静子邸で相談していることを知った。信長は秀吉の評価が下がることを危惧していたが、有馬温泉開発には意味があると判断し、静子に金を出すよう命じた。
静子は信長の命に従い、有馬温泉開発に必要な資金を提供することを約束した。秀長は静子から信長の許可を取り付けたことを知らされ、計画が進むことに満足した。
秀長は官兵衛と共に船上で静子の計画を振り返り、静子の資金力と信頼性に感心した。官兵衛は静子の真意を測りかねていたが、秀長は静子の計画が成功することを確信していた。
静子は岐阜の下呂温泉などの有名な温泉地を開発・整備し、その運営権を得ていた。下呂温泉は信長の命令で整備が行われ、静子が支援を行ったことで管理されていた。温泉地は治安が良好で、織田家の人々が利用していた。森可成も頻繁に温泉を利用し、彼の忠義と献身を評価され、温泉利用の御免状を与えられていた。
下呂温泉はアルカリ性単純泉であり、疲労回復に効果があった。静子は自作のリトマス試験紙を用いて泉質を判断していた。可成は温泉でリハビリを続け、肩の怪我が回復しつつあった。可成の小姓である七助は、静子の邸で学びながら彼に仕えていた。七助は謹厳実直であり、可成に可愛がられていた。
可成の次男、長可は暴力的な面がありながらも、静子の教育で知識を吸収し、角力による決闘制度を確立していた。可成は長可の行動に悩みつつも、温泉で心身を癒すことに努めた。
千五百七十七年四月上旬 三
武田領は未曾有の危機に直面していた。西から織田軍が攻め寄せ、南からは徳川軍が迫っていた。勝頼と領民の関係も悪化し、一部の領民が織田軍を引き入れる事態にまで至った。穴山信君が織田軍に寝返り、武田家の組織は崩壊した。
勝頼は妻の北条夫人と息子の信勝を岩殿山城に逃がそうとしたが、小山田信茂が織田家に寝返り、受け入れを拒否された。勝頼は妻子を逃がすことができず、共に自刃する覚悟を決めた。北条夫人は最期まで勝頼と共にいることを望み、勝頼もそれを受け入れた。
この時点で高遠城は既に落城しており、織田軍は新府城に迫っていた。勝頼は最後の抵抗を見せる決意を固めた。そこへ、華嶺行者という名の大柄な男が現れ、信忠からの一騎打ちの申し出を伝えた。勝頼はその申し出を受け入れ、一騎打ちの準備を始めた。
一方、織田軍は高遠城を迅速に攻略していた。信忠軍は爆薬を使って城門を破壊し、長可軍が擲弾筒を用いて防衛設備を破壊した結果、城は一日で落城した。
信忠は勝頼との一騎打ちを望み、勝頼の陣を訪れた。勝頼は配下の助命を嘆願し、信忠はこれを受け入れた。勝頼は信忠の配慮を受け、最期の準備を整えた。信忠もまた一騎打ちの準備を進め、翌日の決戦に備えた。
静子は、久しぶりに穏やかな執務に専念していた。これは信長が信忠と勝頼の一騎打ちの報せを受け、大急ぎで甲斐へと出発したためであった。信長は、物見遊山のつもりで東を目指し、信忠の侵攻ルートをたどって進んでいた。
一方、濃姫が静子のもとを訪れ、信長の東国遠征が物見遊山だと判断し愚痴を漏らした。濃姫はあえて留守にすることで容疑者を炙り出す作戦を立てていた。静子は、濃姫の情報収集能力に感心しつつも、その方法に疑問を抱いた。濃姫は、悪事を防ぐのではなく、罰を下すことで警告する方針を取っていた。
その後、お市も静子のもとを訪れ、濃姫に織田家内の問題を相談した。濃姫は問題を把握しており、対処することを約束した。静子は織田家相談役として、問題が解決されたことだけを知らされる立場にあった。
一方、静子は料理の準備に取り掛かり、アグー豚のトンカツを作ろうとしていた。彼女はトンカツソースを自作し、電熱調理器を使ってカツを揚げた。静子はトンカツ定食を楽しみにしていたが、濃姫に一口先に食べられてしまった。それでも、静子はトンカツを楽しみ、その味に感激した。
千五百七十七年四月上旬 四
天目山は現在の山梨県甲州市にあり、武田氏十三代当主の武田信満が自害して断絶した場所である。再興された武田家最後の当主である勝頼も、ここで決戦の場を選んだ。勝頼は天目山の広場で待ち受け、信忠が登ってくるのを見た。勝頼は赤備えを身に纏い、信忠は現代の装備を混ぜた軽装で現れた。二人は一騎打ちを始め、信忠は苦戦しながらも勝頼の両腕を切り落とし、最後に首を討ち取った。
武田勝頼の討ち死ににより、武田家は滅亡し、織田家が武家の頭領としての地位を確立した。信長は勝頼に従った忠臣たちを評価し、彼らの生活を安堵した。戦後処理では、徳川家康や穴山信君などが報われ、信忠は松姫との婚姻を許された。
信長は新府城で論功行賞を行い、家康には駿河国を与え、河尻秀隆に甲斐国を与えた。武田氏の滅亡により、信長は堺の商人たちから祝福されるが、心に空虚感を抱いていた。
一方で、穴山信君には『泥かぶれ』という病の対策を任せた。信長の裁定により、家康は富士山を見物するための案内を家臣に命じた。信忠と長可は戦の後の休息を楽しみながら、勝頼との一騎打ちや信勝の挑戦について話し合った。
また、『泥かぶれ』という寄生虫による病の根絶が課題となり、静子の計画に期待が寄せられた。
『泥かぶれ』撲滅の第一歩は病理解剖から始まった。金瘡医衆は樹脂製の手袋や前掛けを身にまとい、戦死者の腹を開いて肝臓を確認した。虫卵が詰まった門脈を見て、『泥かぶれ』の原因が日本住血吸虫であることが確定した。並行してミヤイリガイの回収や村人への聞き取り調査が行われ、研究が進んだ。
信長は川沿いを避けて富士山を目指し、家康に案内された場所から富士山を眺めた。絶景に感動した信長は技術者たちに写真を撮るよう命じた。家康は信長を接待し、徳川家の影響力を示す必要があった。徳川家は武田家の滅亡に伴い、利用価値が低下する恐れがあったため、家康は緊張感を持って行動していた。
一方、静子邸の主要部から離れた場所に住む虎太郎は、安息日に寝坊した後、城下町で寿司を食べた。寿司屋の主人が握った鯛やヒラメの寿司を堪能し、持ち帰り用の寿司を俥夫に渡して帰路についた。
尾張では多様な食文化が花開いており、寿司や蕎麦が人気を博していた。五郎と四郎は濃姫から「毎日食べても飽きない旨い蕎麦」を求められ、城下町で蕎麦の調査を行った。彼らは冷たい蕎麦や温かい蕎麦、薬味や具材を組み合わせた膳を用意し、濃姫に満足される料理を提供した。
濃姫は四郎と五郎の提案に満足し、手放しで絶賛した。彼らは厄介な仕事を成し遂げ、達成感に酔いしれた。しかし、濃姫が静子邸で聞いた話をしようとした際、二人は慌てて退散した。濃姫は少々悪戯が過ぎたと感じながら食事を再開した。
千五百七十七年四月中旬
信長は春にもかかわらず悪寒を覚えた。眼前の静子が微笑んでいたが、身に纏う空気は張りつめており、信長は緊張を感じていた。静子の怒りを露わにした姿を見たことがなかった信長は探りを入れたが、静子の返答に失言を悟った。
ことの発端は信長が電話に夢中になり、留守居役を不要と考えたことにある。信長が出立した後、堀は朱印を託されていないことに気付いた。そんな中、明智光秀の領内で天然痘の流行が報告された。天然痘は空気感染し、高い致死率を持つため、静子は対策を取っていた。静子とみつおは種痘を導入し、ワクチンの開発に成功していたが、その使用には信長の決裁が必要であった。
信長が不在であるため、堀は困惑し、静子に相談した。静子は独断でワクチンを運び、種痘を実施した。信長が戻った後、静子は罰を求めた。信長は苦悩しながらも、静子の行動が最善であったことを認め、静子に感謝しつつも罰を与えた。静子は年貢の一割増しを受け入れ、その追徴税は伝染病対策基金に充てられることとなった。
信長は法の修正を行い、伝染病対策機関に権限を委譲した。この出来事は法の重要性を認識させ、信長自身の不明を恥じる姿勢を示した。隣国の故事「泣いて馬謖を斬る」が語り継がれることとなった。
信長が甲州から戻り、安土城に入った後、彼の留守中に起こったことに対して処理が行われた。諸将には静子の処断が通達され、信長の傍系親族の一族が家取り潰しとなり、家系図からも抹消された。信長のために罪を被った静子と、私利私欲のために国家転覆を謀った逆賊との対比に諸将は襟を正した。
四月半ば、信忠が岐阜へ戻り、北条攻めの計画を見直すこととなった。信忠は「松を正室とする」と宣言し、信長と対立した。信忠の側近たちは静子に仲裁を求めたが、静子は蟄居中であることを理由に関与しなかった。
静子邸では、慶次に加勢に向かった四六がいなくなり、置き手紙だけが残されていた。静子は四六の覚悟を尊重し、見守ることを決意した。
その後、上杉景虎が親北条派として立場を表明し、景勝に「雌雄を決さん」と書状を送った。景勝は少ない兵力で景虎と戦わなければならなかった。静子は景勝たちの実力を信じていたが、四六の身を心配していた。
四六は己の成長と覚悟を示すため、慶次と共に越後行きに同行していた。彼は死を恐れ、静子の期待に応えられないことを悩んでいたが、慶次との対話で少し迷いが晴れた。
一行は野営地に着き、四六は自分の考えを慶次に話し、守りたいもののために命を賭す覚悟を持つことの重要性を理解した。慶次は四六に、生きて尾張に帰ろうと励ました。
千五百七十七年四月下旬 一
慶次は静子から借りた遠眼鏡で敵陣を眺めながら、景虎軍が勝利を確信している様子に驚いていた。広々とした平野部で、上杉景虎の軍勢と長尾景勝の軍勢が対峙していた。景虎が景勝に挑戦状を叩きつけたため、越中での決戦が実現したのである。
景勝軍は人数的に不利であったが、士気は高く、兵たちは動揺していなかった。景勝の作戦は、自らを囮とした短期決戦を前提としたもので、左右両翼の部隊が敵を防御に専念し、中央の部隊が精鋭で構成されていた。景虎軍は中央突破を試みたが、景勝軍の鉄砲隊による十字砲火に遭い、中央部隊の長槍と大盾によって防がれた。
戦況は混戦状態となり、景勝軍は巧みに後退しながら敵を誘い込み、包囲網を完成させた。景虎軍は有刺鉄線によって退路を断たれ、絶望的な状況に追い込まれた。景虎は慶次によって大将首を見つけられ、景勝軍の兵士に捕らえられた。
景虎は潔く切腹し、景勝がその介錯を務めた。景虎の首は丁寧に清められ、木箱に収められた。こうして上杉謙信の後継者を決める戦は景勝の勝利で幕を閉じた。
東国の情勢は目まぐるしく変化していた。戦国最強と謳われた武田家はわずか一月で滅び、上杉家で勃発したお家騒動もたちどころに鎮火した。これに対し運命共同体である北条は沈黙を保っていた。正確には手を打とうとしていたが、方針を決めあぐねている間に決着がついてしまったのだ。内情を知らない者からすれば、次に織田家が目指すのは北条であるのは明白であり、何ら動きを見せない北条に対する不信感を募らせていた。
中でも蘆名、伊達、最上の三家は焦っていた。北条家が音頭を取り、反織田として協力していたため、今のままでは遠からず織田の手が己に及ぶやも知れぬと恐怖していた。三家は明確に織田家に対して反旗を翻したわけではなく、単に勝ち馬となりそうな北条に味方していただけであった。北条に勝ち目がないとわかれば、織田家への寝返りを考えていた。
それは即ち、織田家への寝返りであった。しかし三家とも信長の苛烈な性格を把握しており、手土産なしに寝返りを打診しても到底受け入れてもらえないことを理解していた。各家は自分の生き残る術を模索していた。
静子は真田昌幸の北条に関する調査報告書に目を通しながら、反織田同盟の崩壊を予見していた。反織田同盟の要である武田、北条の片翼が失われた途端、利害のみによって成り立っていた同盟は崩壊した。同盟を脱した者たちはそれぞれが保身に走っており、この分では柴田が率いる小田原攻めでは北条だけを相手取れば良いと考えた。
信忠は東国征伐の総大将としての立場に誇りを持っていたが、信長との親子喧嘩に巻き込まれていた。信忠は松姫を伴い静子邸へと押しかけ、蟄居中であった静子も否応なしに巻き込まれた。信長は静観を保ち、静子に「馬鹿息子の頭を冷やしてくれ」と伝えた。静子は信忠と松姫を客人として遇することにした。
信忠は尾張から政務をこなしつつ、時ならぬ休日を満喫していた。静子は信忠に対し、上様に謝罪することを提案し、そのままでは北条攻めに参加できないと警告した。信忠は悄然と項垂れ、松姫を正室にする理由を静子に打ち明けた。信忠は、諸将から松姫を妾にするよう具申されたため、逆に正室にすることで暗躍を防ごうとしたのだ。
静子は信忠に素直に謝罪することを勧め、意地を張ることが無意味であると説得した。信忠は口惜し気に押し黙り、静子は己の胸を叩いて信忠に任せるよう請け合った。
千五百七十七年四月下旬 二
静子は信長との謁見を申し込み、信忠を再び東国征伐の総大将に戻すための努力をした。信長からの赦しが得られれば、信忠は北条攻めに参陣できるが、信忠が起こした騒動の影響を相殺するために手土産が必要であった。
信忠は静子から東国情勢について説明を受けた。織田家は奥州の三家(最上、伊達、蘆名)に調略を試みており、その中でも伊達氏が奥州を治めるのが望ましいと考えていた。伊達氏は最上家との関係が悪化しており、最上家に対して親伊達派を援助することで、最上家を再び支配下に置くことができると見込んでいた。
さらに静子は里見氏と佐竹氏を同時に攻め、北条の守りを丸裸にする作戦を説明した。これにより、北条の領土は織田家にとって脅威ではなくなると述べた。そして信忠がこの一連の指揮を執ることで、東国征伐の総大将としての地位を取り戻すことができると提案した。
信忠は静子の提案を受け入れ、信長に謝罪することを決意した。信忠は静子の説得を受けて、松姫を正室にするという発言を撤回し、信長に許しを請うことにした。これにより信忠は信長からの赦しを得ると同時に、織田家の継承問題も解決する見込みとなった。
松姫は静子邸での滞在中に、静子が信長に臆することなく意見を述べる様子に驚愕した。信長は静子の提案を受け入れ、信忠に対して命令を撤回するよう指示した。信忠は静子の助けを得て、信長に謝罪し、松姫を側室とすることを受け入れた。これにより、織田家の内紛は収束し、信忠は東国征伐の総大将としての地位を取り戻すことができた。
信忠が諸将の前で信長に謝罪し、正室騒動に関する発言を撤回した。これは織田家中に広まり、織田家を二分する争いが避けられたことで皆が安堵した。信忠は北条征伐の支援任務を与えられ、松姫は静子の管理下に置かれることとなった。これにより、信忠は東国征伐の総大将に戻る見込みが示された。
北条征伐の準備が進む中、甲斐で反乱が勃発した。長可が迅速に対処し、反乱を鎮圧した。反乱の首謀者や参加者は厳罰を受け、これにより織田家の統治が強化された。
静子は北条征伐に向けた準備を進めつつ、陸奥の三家からの使者の動きを確認していた。伊達家の動きが最も早く、これが予想通りに進んだことで静子は安堵した。
信忠は静子に対し、松姫の世話係として侍女を派遣するよう求めた。静子はこれを了承し、信忠と松姫が幸せになることを願った。
本多忠勝は正室を迎えるよう叔父の忠真から圧力を受けていたが、最終的に家康の命令により正室を迎えることとなった。忠勝は静子への慕情を断ち切れぬまでも、叶わぬ希望を捨てる決意をした。
尾張では鶏肉が最も一般的に食べられていた。豚肉も普及しつつあったが、牛肉は限られた人しか食べられなかった。鶏肉は庶民にも広く愛され、尾張で採卵産業が行われていたことが背景にあった。鶏は採卵用と食肉用に分かれており、それぞれの目的に合わせて育てられていた。
戦国時代、食肉用の鶏として烏骨鶏、尾張コーチン、薩摩鶏が飼育されていた。新しく開発された採卵用の品種として白豊輝があった。この品種は尾張の畜産を統括するみつおが地道な品種改良の末に生み出したもので、年平均100個もの卵を産む能力を持っていた。
静子は白熱電球の導入により白豊輝の産卵数をさらに増やすことを目指していた。鶏卵の供給体制が安定し、尾張コーチンは肉の品質向上に力を入れることができた。鶏卵や鶏肉の需要は拡大しており、他国でも養鶏産業を推進しようとしていた。
静子は昼食を取る際、養鶏産業の発展を実感し、家庭でも鶏料理が供されるようになった。五穀米に烏骨鶏の卵を使った茶碗蒸し、尾張コーチンの照り焼きなどが提供され、栄養価と味わいを両立させた献立が日常化していた。
また、税の横領問題にも対応し、専門家に任せて解決を図っていた。横領犯を取り締まるための専門部隊が設立され、厳しく対処していた。静子は多忙な日々を送りながらも、領地経営に全力を注いでいた。
ロックフェラーが予言したように、より明るい光が暗い闇を駆逐するのは自明であった。かつての灯りは鯨油ランプであり、仄暗かった。しかし、ペンシルバニア州で油田が発見され、状況が一変した。ロックフェラーは灯油の明るさを見て石油の未来を確信し、石油王への道を歩み始めた。
尾張でも同様の変化が起き、静子が信長の前で白熱電球を点けると、眩しい光が闇を駆逐した。信長は驚き、白熱電球の明るさと寿命に感嘆した。静子は、白熱電球の寿命が意図的に短く作られていることを説明し、経済の歪みを避けるための措置であると説明した。信長はこれを理解し、電球の普及を許可した。
白熱電球は徐々に普及し、特に静子の関係者や作家の詩と海に恩恵をもたらした。彼女たちは夜間に創作活動を行い、その明かりとして白熱電球を利用した。彼女たちの作品は貴族や武家の間で人気を博した。
信長は洋琴(ピアノ)にも興味を示し、静子が演奏するシューマンの『トロイメライ』に耳を傾けた。信長は洋琴の音楽に感銘を受け、静子はさらにラジオ体操の曲を演奏した。信長は洋琴の普及を願い、蓄音機の開発を依頼した。静子は蓄音機の開発に意欲的に取り組み、信長の肉声を後世に残すことを目指した。
静子は、蓄音機を作ることで歴史的事物の記録が可能になると考え、開発に取り組んだ。この思い付きから、彼女は自分がこの時代に生きた証を残せることに気付き、さらに意欲的に開発を進めた。
千五百七十七年五月下旬
東国征伐の二大目標の一つである北条征伐は、大きく延期されることが宣言された。元々、天候不順で遅延していたが、東北情勢もあり計画の見直しが必要となったのである。しかし、これは中止ではなく延期であり、北条側にとっては一息つける状況であったが、織田家にとっても有利に働いた。
静子は尾張の地で領地運営計画を確認していた。天然痘対策のための越権行為に対する懲罰として、一割加増の年貢を納めることになっていた。静子の私有財産と領地運営資金は明確に区別されており、巨額の私有財産を持つ静子は、一割加増分を自らの財布から賄うつもりであった。しかし、腹心たちはこれに反対し、尾張国全体で処理することを提案した。領民たちも静子の判断を支持していた。
静子は私財を投じて公共事業を広げ、尾張の経済を活発にした。五月になると、慶次や長可、才蔵、足満らが帰還した。彼らは長旅の疲れから泥のように眠り、翌日の昼過ぎに静子のもとに報告に訪れた。
北条征伐は延期となり、次回は夏になるだろうと静子は話した。慶次や長可は尾張の美味しい食事を楽しみにしており、静子はそれを用意していた。才蔵は北条征伐に備え、次回の戦いで静子の名に恥じぬよう奮闘すると誓った。
一方、足満は佐渡島攻略の功績を称えられ、相川金銀山の試掘が始まると報告された。彼は尾張の電化計画が遅々として進まないことに歯痒い思いを抱いていた。静子は彼の様子を見守りながら、これからの課題に取り組んでいた。
静子は越後行きから帰還した慶次、四六、景勝、兼続の四人を集めた。静子は彼らの帰還を祝し、景勝は静子の援助に感謝した。景勝と景虎の後継者争いで景勝が勝利したが、謙信が後継者を指名していなかったため、静子はその重要性を説いた。景勝は引き続き尾張での学びを希望し、静子もこれを了承した。
次に、静子は慶次と四六に対し、無断で旅に出たことについて尋ねた。慶次は処罰を覚悟していたが、四六は自らの成長のために死を感じ取りたかったと説明した。静子は彼の覚悟を認め、四六に外出禁止と文章の提出を命じ、慶次には半月の外出禁止と断酒を命じた。
その後、急報が届き、本願寺教如が挙兵し、寺に立て籠もったことが伝えられた。
静子は教如の反乱報告を冷静に受けた。教如は多くの僧兵と武具を持ち込んでおり、隠し通路を使って本願寺に入った可能性が高いと判断された。静子は顕如と下間頼廉を安全な場所に移送し、その命を守るよう指示した。彼らの保護は教如の大義を無くし、一向一揆を防ぐためであった。
静子は四六に課題として、顕如の存在を利用する利点を考えさせた。顕如の生存が本願寺門徒の厭戦気運を維持し、教如の大義を失わせることを示した。最終的に、顕如の保護が織田家の正当性を示し、教如の反乱を抑える最善策であると結論づけた。
正室騒動
静子は信忠が松姫を正室にすると宣言した理由を聞き、その背景にある陰謀を探ることにした。信忠が松姫の側室入りを妨げようとする者たちの狙いを調査し、怨恨ではなく利益目的であることを突き止めた。静子はその者たちの詳細な情報を収集し、信忠に報告した。
信忠の側室に自分の派閥から娘を送り込もうと画策している者たちは二人であり、織田家の連枝は関与していなかった。静子は信忠に対し、松姫を守るためには疑心暗鬼に陥らずに冷静に対処するよう諭した。
信忠は静子の助言を受け入れ、松姫を正室にする宣言を撤回し、信長に謝罪することを決意した。静子は信忠に対し、関係者に対する根回しや信長との橋渡しを引き受けることを約束した。信忠は少し時間をもらい、最適な対処法を考えることにした。
休日の過ごし方
浅井長政とその直臣である遠藤直経及び三田村左衛門は、体型の変化に悩んでいた。彼らは数年前に比べて筋肉と脂肪が増え、以前は痩せていたが、現在は格闘技者のような体型になっていた。特に射撃姿勢を維持するために体幹を重点的に鍛えた結果、体つきが変わったのである。
彼らは銃兵として接近戦を避けるため、甲冑を着る必要性を感じなくなっていたが、奇襲の際には命を守るために甲冑が必要であることも理解していた。三人は腹周りの脂肪を引き締めるべきかを議論したが、その最中に天ぷら蕎麦定食が運ばれてきた。
天ぷら蕎麦定食には大ぶりの海老の天ぷらが二尾乗り、炊き込みご飯と香の物が添えられていた。三人はその美味しさに抗えず、腹周りの問題を一旦忘れて食事を楽しんだ。彼らは以前よりも食べる量が増えていることに気づかず、大盛りの定食を残さず平らげたのである。
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