どんな本?
戦国小町苦労譚は、夾竹桃氏によるライトノベル。
農業高校で学ぶ歴史好きな女子高生が戦国の時代へとタイムスリップし、織田信長の元で仕えるという展開が特徴。
元々は「小説家になろう」での連載がスタートし、後にアース・スターノベルから書籍としても登場。
その上、コミックアース・スターでも漫画の連載されている。
このシリーズは発行部数が200万部を突破している。
この作品は、主人公の静子が現代の知識や技術を用いて戦国時代の農業や内政を改革し、信長の天下統一を助けるという物語。
静子は信長の相談役として様々な問題に対処し、信長の家臣や他のタイムスリップ者と共に信長の無茶ブリに応える。
この物語には、歴史の事実や知識が散りばめられており、読者は戦国の時代の世界観を楽しむことができる。
2016年に小説家になろうで、パクリ騒動があったらしいが、、、
利用規約違反、引用の問題だったらしい。
前巻からのあらすじ
武田家滅亡。
最後は信忠と勝頼の一騎打ちで決着を付けた。
そして信忠は長年文通していた松姫を迎えに行く。
その後、松姫の扱いで信忠が静子の家に避難、、
親子喧嘩勃発かと思ったら、静子が信忠を諭して事なきを得る。
さらに新領地で天然痘が流行し始めて静子が長年研究をしていたワクチンを法で絶対に必要な信長(連絡が取れなかった)の許可を得ずに使用。
法治の厳しさを知らしめるために静子は蟄居して罰を受ける。
それを信長が苦しみながら敢行する。
そして、上杉家では景勝と景虎の跡取り争いで決闘の合戦が行われる。
景勝の助っ人に前田慶次と静子の息子、四六が越後に向かう。
そして最後に和睦をしていた一向宗の本願寺が自身の拠点に籠城したと連絡が来る。
読んだ本のタイトル
#戦国小町苦労譚 15 本願寺炎上
著者:#夾竹桃 氏
イラスト:#平沢下戸 氏
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あらすじ・内容
1577年6月、和睦が進んでいた織田家と本願寺に突如亀裂が入る。
行方知れずだった教如が本願寺を占拠したのである。裏で手を引いている「何者か」の気配を感じつつも、静子は官軍として本願寺に向かう。
7日間という制約にもひるまぬ奇策とは?
一方伊達家からは人質として「藤次郎(後の政宗)」が差し出され、静子のもとへ! 電話と最新兵器で北条家の牙城にいよいよ迫る勢いの15巻、ついに発売!
戦国小町苦労譚 十五 本願寺炎上
感想
石山本願寺の本拠地で挙兵の知らせあり。
朝廷が仲裁に入り和睦を進めて来たのに、それを蹴飛ばしての挙兵。
その知らせを聞いた天皇は激怒するも、朝廷には本願寺を討伐するだけの兵力が無い。
そんな朝廷の意図を汲んで関白の近衛家の娘、静子が出陣をする事になった。
そして静子は本願寺を囲み、信仰を崩すために気球で空爆を行い寺院を少しづつ燃やして仏罰が降っていると錯覚させ。
さらに本願寺の頭領が自身に矢玉は当たらないと豪語してる時に、火縄銃の狙撃で手を撃ち抜いて仏罰が下ったと信徒達を混乱させ。
本願寺はもう終わりだと心を折られた僧兵達は外に出よて逃げようと門を開けたら、大砲が撃ち込まれてで静子の軍が本願寺の城に突入。
石山本願寺は陥落。
本願寺戦はほぼ問題無く終わったが、、
静子の義理の弟が物凄く懐いて静子の側から離れないので辟易する。
そして、静子が本拠地に帰ると今度は伊達家から人質が来ることが決まる。
後々に独眼竜政宗と呼ばれるお子様だった。
彼は年齢の近い四六と仲良くなり、静子に母親の影を追う。
目が悪くなって悪相となったせいで母親にネグレクトされたトラウマが疼くらしい。
それを四六と共に居ることで少し癒えたのかもしれない。
元服したばかりなのでその辺りは、、
でも、元は独眼竜政宗。
静子の元でどう育つのか、、、
四六が懐いてる前田慶次に悪い遊びを教えられなければ良いけどねw
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同シリーズ
戦国小町苦労譚 シリーズ
小説版
漫画
その他フィクション
備忘録
天正四年 隔世の感
千五百七十七年六月上旬 一
帝は激怒していた。原因は本願寺教如による石山本願寺占拠であった。織田家と本願寺の和睦は朝廷が仲介を行っており、これは朝廷の権威を示す絶好の機会であった。しかし、教如の行動はこれを台無しにする暴挙であり、信長に対しても朝廷に対しても唾を吐く行為であった。正親町天皇は本願寺に対して門跡を与えており、その教如が朝廷に弓を引くことは飼い犬に手を嚙まれるような屈辱であった。
帝は怒りに震え、「余自らが軍を率いて大逆人を討ち取ってくれよう!」と宣言したが、官軍にはそれほどの戦力が期待できず、公家衆は必死になって天皇を諫めていた。前久もこの状況を把握しており、公家たちは織田家を動かせないかと考え、前久に頼っていた。
前久は公卿たちの要請に対し、「官軍の結集など我らには荷が勝つというもの」と述べ、織田家に御出陣を願うことは朝廷の威光を損なうと警告した。また、静子の義娘からの情報により、教如の行動には暗躍があると指摘した。
事件発生当初は信長も前久も教如の暴挙に激怒したが、次第にその行動に違和感を抱いた。教如にとって防衛設備を解体された石山本願寺は割に合わず、朝廷の代官を幽閉したことは朝敵として攻められる未来を招く行動であった。信長は本願寺を包囲していた兵を引き、朝廷に恩を売る一方で軍隊の維持費を節約する方針を取っていた。
前久はこの騒動が織田家による日本統一を阻止しようとする者たちによって画策されていることを察知していたが、計画自体が荒唐無稽であり、成功しても織田家の天下を覆すことはできないと判断していた。しかし、計画が実行されたことで、彼は愚か者に鉄槌を下す方策を練り始めた。
教如の暴挙に狼狽していたのは朝廷だけであり、信長はあまり気にしていなかった。「帝からの命令書があれば考えなくもないが、要請もないのに動く必要はない。朝廷も介入したからには、自ら始末をつけなければ立場がないだろう」と、信長は教如への対処について問われた際に答えた。彼にとって本願寺の問題はすでに終わったことであり、教如が何をしようと本願寺再興はあり得ないと考えていた。
信長の離間工作によって、本願寺門徒は穏健派と強硬派に分かれ、互いに牽制し合うようになっていた。穏健派には物資や資金援助を行い、強硬派を困窮させた結果、強硬派は過激な行動を取るようになり、排斥されたのである。教如が信長討つべしと唱えても、呼応するのは現状に不満を抱く強硬派のみであった。
静子は謹慎中の四六を呼び出し、課題に対する答えを尋ねた。課題は、教如が和睦を反故にして立て籠もった件についてどのように決着をつけるかであった。四六は「教如の死は避けられないが、率先して本願寺を攻撃するのは下策」と答え、朝廷が本願寺を叩く力がないことから、上様に朝敵として討つよう命令が下されると考えた。しかし、静子は上様に命令が下されることはないと指摘した。
静子の指摘を受け、四六は再び考えた。朝廷が立場を失わないようにするために、朝廷内の戦力を用いるしかないと考えた。そして、織田家の重鎮に匹敵する軍事力を持つ公家の人間、つまり静子自身が介入することになると気付いた。静子は現在、信長の後方支援を一手に担っており、彼女の協力なしに事態を解決するのは困難である。
静子は朝廷が彼女に接触することを予想し、信長の利益を確保するための取引が行われると考えていた。教如の問題を解決した後、大坂の再興には静子の力が必要であり、朝廷は静子に対して大坂開発の利権を与えることになるだろうと示唆した。さらに、教如の武装蜂起のせいで本願寺門徒が住む場所を失うことになるため、土木工事に彼らを雇うことで織田家への不満を和らげる策を講じた。
最後に、静子は本願寺を焼失させることを考え、そのための手段として天然アスファルトを使用する計画を示した。四六は静子の意図を理解し、その計画に感銘を受けた。
静子から言い渡された慶次の断酒期間である半月が過ぎた頃、同じくして四六の罰も解除され、二人は以前と変わらぬ日常へと戻っていた。六月の上旬、静子の知らない密室で、朝廷、前久、信長の三者による約定が交わされた。それは静子が四六とともに予想していた通りのものであった。
朝廷は前久を官軍の総大将とし、静子の軍を主として官軍を編成した。朝廷は表立って信長に協力を要請しなかったが、実質的に信長の軍を借り受けることとなり、信長に迷惑料と称する恩賞を約束した。静子が信長の各方面軍を支える兵站の総括者であるため、彼女と彼女の軍を借り受ける期間は一週間を限度とすることと正式に書面を交わした。
信長から臨時の電信があり、今後の予定を知った静子は、保留となっていた伊達家の使者との面会を決めた。伊達家の使者は以前から尾張に到着していたが、本願寺の件が緊急であったため面会を先延ばしにしていた。なお最上家の使者は森家の領地内で迷い、蘆名家の使者は北条家の間者に捕らえられた。
伊達家の使者である遠藤基信との面会時間が来ると、静子は彼を迎えた。基信は静子に深々と頭を下げ、伊達家が織田家に臣従する旨を記した親書を渡した。静子はその内容を確認し、伊達家の意向を信長に伝えることを約束した。また、佐久間を援軍として派遣することも許可された。
伊達家が置かれている状況は難しく、相馬家との一進一退の攻防が続いていた。北条の同盟に加入したが、東北の情勢は再びきな臭くなり、織田家からの援軍が必要であった。静子は伊達家が最上家を再び併吞することを許可し、蘆名家についても自由に扱うことを伝えた。基信は織田家からの約定書を求めたが、静子が信長に影響力を持っていることを確認するためであった。
静子が信長に直接確認を取ると、信長が現れ、基信の試金石としての意図を見抜いていた。
千五百七十七年六月上旬 二
遠藤基信にとって信長との会談は夢のようであった。事前情報では信長との謁見自体が難しく、不興を買えば中座されることもあると聞いていた。しかし、基信は昼餐をともにするという厚遇を受けた。彼は尾張と信長の生活に畏怖を感じ、供された食事の味すら記憶に残っていなかった。
基信は信長直筆の約定書を手に帰途に就いた。伊達家が恭順の証として人質を差し出すことが約定書に明記されており、その人選が問題となっていた。嫡子である政宗は性格に難があり、他の候補として次男の小次郎がいたが、実母の義姫が小次郎を特に可愛がっていたため難しかった。
基信が帰路を急ぐ一方で、静子は一軍を率いて上洛し、京屋敷に身を落ち着けた。朝廷は静子に対して三顧の礼を尽くすため、彼女は上京して使者を待った。朝廷の面子を保つための形式であった。
近衛邸に滞在する静子は前久と会談を持とうとしたが、前久の息子である信伊に捕まった。信伊は武家の影響を受け、公家社会の中で孤立していた。静子を義姉と呼び、彼女に強い憧れを抱いていた。
信伊の質問攻めに疲れながらも、静子は前久と認識を合わせた。教如の背後には九条、二条、一条家がいると推測された。証拠は既に押さえられており、密偵によって集められていた。静子は証拠を基に公家たちを攻撃する準備を整えていた。
教如は周囲に利用され続け、自分の意思を貫いていると信じていたが、実際には流される人生を送っていた。静子と前久は彼を利用し、彼の言葉をもとに策略を進めることに決めた。
静子は前久に対朝廷工作費用を渡した後、自身の京屋敷へと移動し、そこで体を休めた。その後、間者から報告を受け、指示を出してから再び近衛邸へ戻った。彼女の京屋敷は厳重な警備が施されており、朝廷からの使者であっても事前通告なしには面会できなかった。
やがて、朝廷より前久に本願寺鎮撫の命が下された。朝廷としては前久を官軍の総大将とし、彼の裁量によって静子を動かすことを認めた。前久もこの機に、官軍編成の動員を一任される言質を得ていた。数日後、京の一角には本願寺教如を討つ官軍の出陣を見ようとする人々で賑わった。
公家たちが束帯を身に纏い、注目を集める中、特に目立ったのが近衛家の信伊であった。完全武装の武士に守られた信伊は、静子とともに出陣することとなった。信伊は静子の太刀が「藤原三宝」の一つ「小狐の太刀」であることに触れ、その価値を知る者たちを意識していた。
静子は本願寺教如を討つための準備を整えた。九条家、二条家、一条家の関与が疑われる中、静子は彼らの宝物を利用して揺さぶりをかけた。信伊とともに官軍を率いて大坂へ向かうことになり、いくさ場には出さず、城を守らせる名目で役に立たせる方針であった。
信伊は静子の計画に従いながらも、自らの役割を果たそうとした。静子は速やかに任務を終えるべく、南方を見据えていた。
千五百七十七年六月上旬 三
静子は前久に対朝廷工作費用を渡した後、上京にある京屋敷へ移動し、休息を取った。その後、間者からの報告を受け、様々な指示を出してから再び近衛邸へ戻った。静子の京屋敷は厳重に警備されており、朝廷からの使者も事前通告がなければ面会できなかった。
やがて朝廷より前久に本願寺鎮撫の命が下された。前久はこの機に、官軍編成の動員を一任される言質を得ていた。数日後、京の一角には本願寺教如を討つ官軍の出陣を見ようとする人々で賑わった。
静子は、公家たちの形式主義と実利追求を重視する武家との違いに戸惑ったため、派兵が遅れた。結局、静子が本願寺に布陣できたのは京を出発して二日後であった。
進捗の遅れについては毎日信長に定時報告していた。電信設備の運用が難しいため、従来の早馬と併用して遅滞の少ない通信手段を確立していた。計画が遅延していることに対し、信長は静子を貸し出す期間が七日であるとしていた。
静子たちは本願寺を包囲し、主要な出入り口や水路を封鎖する程度のことはできた。内部からの反撃や妨害がないことから、教如が籠城作戦を取っていると予想した。
静子は石山本願寺周辺の地図を眺めながら、熱気球を用いた焼夷弾投下作戦を立案した。熱気球を飛ばし、天然アスファルトと有機溶剤を混合した焼夷弾を投下する計画であった。気球の飛行コースを確認するため、軍に篝火を焚かせて視認性を確保した。
夜が更けると、五機の熱気球が準備され、焼夷弾を積載して飛び立った。観測手、機関士兼操縦手、補助要員の三名で構成される乗員は、本願寺上空に到達すると焼夷弾を投下し、広範囲を火の海に変えた。これにより、僧兵たちは大混乱に陥り、教如の信頼を失った。
その後、教如が僧兵たちを鼓舞しようとするも、狙撃され左手首を失った。教如が倒れたことで、僧兵たちは恐慌状態に陥り、逃げ惑った。外部からの砲撃も加わり、僧兵たちは完全に統制を失った。
一方、狙撃を成功させた静子軍の狙撃チームは無事に撤退し、熱気球部隊も回収作業を進めた。彼らは秘匿された存在でありながらも、自らの成果に誇りを持ち、任務を遂行した。
この作戦により、本願寺内部は混乱し、静子の計画は成功を収めた。
砲声が止んだ後の石山本願寺は惨憺たる光景であった。天から引かれた線のように焼け焦げ、外壁から一直線に物が破壊されて視界を遮るものはなかった。無残な僧兵の屍が至る所に横たわり、攻撃の凄まじさを物語っていた。
静子は決然と声を放ち、伝令に二刻だけ降伏を待つと伝えた。伝令たちは生存者たちを探して西へ向かい、降伏を呼び掛けた。奇跡的に命を拾った者たちが次々と降伏を申し入れた。
静子は生存者たちを労い、二刻経っても返答がなければ全てを焼き払うよう命じた。静子は本陣へ戻り、戦後の後始末を楽にするための措置を取った。本願寺の僧兵たちは教如に代わる代表者を立てて降伏を申し出た。
静子は降伏の条件として、教如と朝廷の使者の身柄引き渡し、全ての武装放棄、下間刑部卿の監視下に入ることを要求し、代表は間を置かずに了承した。意識のない教如と拘束された朝廷の使者が戸板に乗せられて戻ってきた。
静子は二人を本隊へ移送させ、使者の弁明を遮って猿轡を嚙ませた。こうして、教如が一部の公家と結託して起こした石山本願寺の乱は、たった二日で鎮圧されたのであった。
千五百七十七年六月上旬 四
静子の帰還はあっさりとしていた。出陣は七日のみと定められており、戦後処理を全て丸投げにして尾張へ帰投した。京や安土に立ち寄って報告するべきだったが、電話での報告のみで尾張に戻った。
静子は風呂に入り、食事を取った後、自宅の気楽さを堪能していた。その後、真田昌幸が来訪し、今回の騒動の真の狙いは静子の暗殺であったことを報告した。教如の暴挙は静子を引きずり出すための計画であった。
近衛家が他の五摂家を圧倒しており、その飛躍の要因となった静子を排除しようとする試みが明らかとなった。二条家当主の昭実は島流しとなり、九条家と一条家にも監査が入ったが、証拠不十分として見逃された。
教如たちが籠城を選んだ理由は、石山本願寺が難攻不落であり、静子の助力を得られる期限を耐え忍べば朝廷側より和睦の申し入れが来ると考えたからであった。教如たちは補給の用意すらなく、持ち込んだ物資のみで七日間を耐えようとした。
静子は教如の状況を哀れに思い、小さく呟いた。
『本願寺の乱』と呼ばれる騒動は一段落し、戦後処理は信長と前久が請け負った。静子は再び後方支援の総括に戻った。宗教としての本願寺派は存続を許されたが、信徒は顕如率いる西本願寺派と、教如の思想に共感する東本願寺派に分かれた。信長は本願寺そのものに興味を失い、二つに分かれることを気にしなかった。
静子は信長や前久に報告した後、尾張へ戻り、後方支援に注力した。毛利家は織田家の攻勢に押されており、静子は毛利征伐が必要と考えた。秀吉軍が鳥取城を攻めており、吉川経家は備蓄不足で苦しんでいた。秀吉は兵糧攻めを計画しており、静子に兵糧米の融通を依頼した。
静子は秀吉からの緊急依頼に応じることを決めたが、もっと早く相談してもらえれば対策を講じられたと嘆息した。
羽柴軍内では緊張が高まっていた。他の方面軍が戦果を上げる中、鳥取城を攻略できず、日に日に劣勢に追い込まれていた。秀吉は信長に泣きつこうかと考えたが、信長の期待を裏切れないという思いで葛藤していた。
その時、信長から詳細な戦況報告を求める文官が派遣された。信長の期待に応えようと腹を据えた秀吉は、静子からの追加支援の約束を盾に、自信を持って文官に報告した。
しかし、兵糧支援だけでは打撃力の不足を解決できず、秀吉は後悔していた。そんな中、静子からの支援が到着し、兵糧の他に軍資金や擲弾筒までもが届けられた。秀吉は静子の先見性と調達能力に驚き、負けられないと決意した。
千五百七十七年七月下旬 一
時はやや遡り、石山本願寺陥落の一報が早馬によって京に齎された頃、二条家当主の昭実は寝所で不安な夜を過ごしていた。昭実は本願寺陥落の詳報に心を乱され、教如が生け捕りになったことに恐怖を感じていた。教如への援助や指示を出していたため、関与が発覚する恐れがあり、静子の暗殺計画が露見する可能性にも怯えていたのである。
連日の不眠と恐怖で疲労が重なり、昭実はまるで死人のような顔色をしていた。彼の身の回りでおかしなことが起こり続け、ついには暗部の者たちとの連絡さえも途絶えてしまった。強者として生まれ育ち、敵意を向けられたことのなかった彼は、いつ自分に危険が迫るかわからない恐怖に晒されていた。
その夜、昭実は異様な静寂に気づき、誰も応えない中で不安に苛まれていた。すると、赤黒い物体が御帳の中に飛び込んできた。それは四肢を切断され、胴体と頭だけになった人体であり、自分と暗部との連絡役であった。昭実は極限の恐怖から声も出せず、その骸を投げ込んだ人物が現れた。
その人物は凄まじい怒気を放ちながらも、足音を立てずに昭実に近づき、彼を見下ろして尋ねた。「お前が二条家当主、昭実か?」昭実は恐怖に震えながら、壊れた玩具のように頭を縦に振るだけであった。
足満が昭実に接触した際、鬼のような威圧感を放ちつつ、彼に対して厳しい処遇を告げた。昭実は怯えながらもその言葉を受け入れるしかなかった。足満は昭実に対し、罪人として京中に晒された後に壱岐へ流刑となり、恩赦もなく苦難の生を送ることを命じた。また、昭実の家族にも同様の苦しみが及ぶと警告した。
足満は自らの名を名乗り、昭実にその名を刻むよう命じると、闇の中へと消えていった。昭実は己の行く末に思いを馳せ、絶望の中で涙を流した。
一方で、足満は静子にはこの出来事を知らせないように命じた。彼は静子に人の醜い部分を見せたくないという思いから、この決断を下した。彼は静子が自分の失敗に気づき、反省の糧とすることを望んでいた。
その後、梅雨入りした尾張では平穏な時間が流れていた。静子は息子の四六に対して、人の上に立つものとしての心構えを教えていた。四六は親の威光だけで人が付いてくるわけではないと理解し、現場での経験を積みながら学びを深めていた。
また、四六は慶次や長可との角力の稽古を通じて、自分の力の不足を実感しつつも、努力を続けていた。景勝からも助言を受け、己が譲れないものを見つけることの重要性を学んでいた。
七月末から八月にかけて、伊達家から織田家へ臣従の証として秘密裏に人質が送られた。信長はその一報を受け、東国征伐の諸将に北条征伐を命じた。織田家からの支援が届き、上杉謙信率いる越後軍の行軍が再開された。
信忠は号令を受け、迅速に行動を開始した。彼は準備を整え、情報収集を行い、出陣に備えていたため、即座に出発できた。彼の迅速な対応に対し、静子は冷静に見守りながらも、長可は機密情報の漏洩に焦っていた。
信忠の策に乗って行動する静子は、信長との面会を前に何らかの計画を抱いていた。彼女の行動には諸将も二つの反応を示した。信長や堀は静子の計画を承知していたが、他の者たちは静子の失態を期待していた。
信長は静子に対し、伊達家からの人質の管理を任せることを告げた。人質とは、敵対しないことを保証するための存在であり、厚遇されることも多かった。静子はこれまでに景勝や他の人材を育成した実績があり、信長は彼女に人質の管理を委ねることを決定した。
静子は伊達家からの人質である藤次郎に対する管理を任されたが、到着時には彼が行方不明となっていることを知らされた。片倉小十郎から報告を受けた静子は、内心で頭を抱えつつも対応を始めた。
千五百七十七年七月下旬 二
静子たちが藤次郎(後の伊達政宗)の失踪について片倉小十郎から聞き出している頃、みつおは安土にある静子の屋敷から少し離れた牧場で、藤次郎と出会っていた。
みつおは尾張で畜産業の権威であり、信長により安土にも畜産業を根付かせるために招聘されていた。みつおと藤次郎の出会いは偶然であり、みつおが静子の屋敷に精肉を納めに来た時、庭石に腰掛けて所在なさげにしている藤次郎を見つけた。藤次郎の腹が鳴ったのをきっかけに、みつおは彼にコロッケを振る舞い、藤次郎もそれを食べた。
みつおの屋敷で、藤次郎は揚げたてのコロッケに魅了され、その香ばしさと甘さを堪能した。食事を終えた藤次郎は満腹で眠くなり、みつおは彼を横にして休ませた後、藤次郎の家族を捜すために再び静子邸に向かった。
静子は幼い藤次郎の捜索に苦労していたが、みつおが彼を保護していると知らされた。みつおの屋敷が近くにあるため盲点になっていたのだ。藤次郎が未来の伊達政宗であると聞かされ、みつおは驚いた。静子はみつおに案内を頼み、藤次郎が眠るみつおの家に向かわせた。伊達家の者たちが集まる中、無事に藤次郎は見つかり歓迎の宴が開かれた。藤次郎はみつおに懐き、毎日みつおの家を訪れていたが、みつおが尾張へ移ることになり、藤次郎も同道することが決まった。
一方、信忠軍は里見家の勢力と戦い、港湾を壊滅させて制海権を確保した。里見義弘は撤退を決めたが、佐貫城で反撃の準備を進めていた。信忠は里見軍の動きを見極めながら、勝山城を攻め、里見家の防衛拠点を次々と制圧していった。信忠は慎重に作戦を進め、最終的に佐貫城への進軍を命じた。
里見武士の矜持
信忠軍の甲板上は重苦しい空気に包まれていた。状況は優位に推移していたが、信忠が里見への対処を全て才蔵に任せると宣言したことが原因であった。才蔵に全権を託すということは、信忠が彼を信頼している証でもあるが、同時に北条攻めの見せ場から外されることを意味していた。
才蔵は静子の軍旗を掲げることを条件にこの任務を受け入れた。信忠は才蔵の望みを受け入れ、支城が完成するまでの支援を約束した。こうして才蔵は対里見の総大将となり、即座に反撃に備えた。
里見軍が進軍してきた際、才蔵は里見軍の武士、岡本隨縁斎と一騎打ちを行った。才蔵は圧倒的な技量で隨縁斎を討ち取ったが、首級を取らずに彼の体を里見軍に返した。この行動は才蔵の武士としての心意気を示すものであり、彼は最後の戦いの場で武士としての尊厳を守った。
才蔵の行動に対して織田軍内部から不満の声もあったが、彼はそれを一顧だにせず、戦う姿勢を貫いた。才蔵の独り言「口で戦う武士など武士足り得ぬ」は風に乗って消えていった。
千五百七十七年八月中旬
里見家の居城である佐貫城に籠城している里見義弘のもとに、勝山城が織田軍の猛攻で落城寸前との凶報が届いた。義弘は救援を派遣しようとしたが、織田軍が佐貫城近くの海岸に上陸している報告を受け、一刻も猶予がないと判断し全兵力で織田軍を叩くために出陣した。
義弘の軍勢は織田軍の上陸部隊に数的優位で攻め寄せたが、織田軍の艦船からの最新式の砲撃により大損害を受け、撤退を余儀なくされた。信忠はこの結果を見て、里見軍の評価を一段階引き上げ、織田軍の展開を進めながら里見軍を釘付けにする計画を続けた。
信忠はまず勝山城を陥落させ、勝山湊を物資集積拠点として整備し、佐貫城沿岸部に複数の簡易防衛拠点を構築した。義弘は北条氏や佐竹氏に援軍を要請し、上杉家と和睦を模索したが、どれも成功せず金谷城と岡本城も次々に陥落した。
信忠は里見家との戦いが長期化することを見越し、房総半島に強固な拠点を築くことで優位に立とうとした。一方、関東の北条家は織田軍の動きを見極めるために軍議を繰り返し、結論を出せずにいた。
静子は定時連絡を通じて戦況を把握し、必要な対策を講じながら自軍の兵站を支えた。彼女は休憩中に藤次郎と四六の問答を聞き、その様子に興味を持った。
藤次郎の質問は四六にとって負担となり、静子は助け舟を出すことにした。藤次郎は無意識にソクラテスの「無知の知」を実践しており、自らの知識の薄さに気付かせるものであった。静子は、藤次郎に質問を自分自身に向けるよう助言し、彼が他者を不愉快にしていたことを指摘した。
藤次郎は謝罪し、四六も彼の謝罪を受け入れた。静子は二人に図書室で知識を深め合うことを提案し、二人は静子に一礼して図書室へ向かった。小十郎は静子に、藤次郎が母親の愛を失ったことで心に影を落としていることを語り、静子はその状況を理解した。
藤次郎は天然痘により片目を失い、母親からの愛情を失ったことが心の傷となっていた。尾張での環境の変化や、みつおの優しさに触れたことで藤次郎の本来の性格が表に出てきたのだろう。静子はこの変化を見守り、藤次郎が成長することを期待していた。
戦況に関して、里見家が籠城する中、信忠は佐貫城を包囲しながら勝山湊を整備し、勝山城を再建して要塞化を進めていた。佐竹氏の動向が不明であり、北条家が援軍を送れない状況が続いていた。
静子は、四六と藤次郎が戦況について議論し、佐竹氏の沈黙を日和見と判断したことに感心していた。彼らの洞察力に感銘を受けつつ、二人の仲の良さを微笑ましく思っていた。
商業改革
静子の商人たちの中で特に有名なのは「田上屋」久次郎であったが、彼一人が全てを牛耳っていたわけではなかった。静子の元には多くの商人が集まり、彼らは商衆と呼ばれて他国にもその名が知られていた。商衆の中には真田昌幸の間者も紛れ込んでおり、商売の名目で全国に派遣されていた。商衆に加わることで商人は一目置かれ、多くの商機に恵まれる特権を得ていた。
商衆は普段、己の商売に専念し、節目ごとに静子に挨拶をするだけであった。彼らは静子を軽んじているわけではなく、商売を繁盛させることが恩義を返す方法だと理解していた。商衆が問題を解決できない場合のみ静子を頼ることになっていた。
ある日、商人の五幸が静子に「正札販売」について相談した。五幸は裕福な商家の五男坊であったが、実家の商売に嫌気がさし飛び出していた。彼は一時物乞いにまで落ちぶれたが、偶然静子と縁があり、商衆の一員となっていた。
五幸は正札販売の利点を語り、静子にその案を検討するよう依頼した。静子は正札販売が長期的に有益だと判断し、五幸にその実施を支持することに決めた。彼女は商売が互いに騙し合いでは効率が悪いと考え、正札販売の導入を後押しすることにした。
静子は五幸に対して、正札販売の他に店前売りや反物の量り売り、既製品売りも提案した。五幸は静子の提案に感銘を受け、すぐに実行する決意を固めた。静子は彼に手土産として自らの認可を示す木札を渡し、彼の商売の成功を願った。
静子はこれにより、革新的な販売方法が商売の新たな基準となることを期待していた。
千五百七十七年九月下旬
九月に入り、東国情勢に新たな動きが加わった。織田家の柴田と上杉謙信が率いる連合軍が北条氏の居城である小田原城へと進軍を開始した。北条氏は散発的な襲撃を試みたが、進軍を遅らせるだけで成果を上げられなかった。
信忠軍が里見領に駐留し、勝山湊と勝山城の再建を始めたため、北条はさらに不利な立場に立たされた。佐貫城を囲む才蔵軍は、里見軍の援軍である佐竹軍を潰走させ、才蔵の指揮能力を証明した。
一方、奥州では北条の要請に対して蘆名家、最上家、伊達家が消極的に援軍を送った。三家は義理を果たしつつも北条から距離を置こうとしていた。
静子は学校の一室で、彼女の元に集まった面々に東国の情勢を説明した。参加者は情報の量と精度に驚き、伊達藤次郎は北条氏の先行きを心配した。信之は佐竹家が織田軍との戦力差を見極めて接触してくる可能性を指摘した。
信之と四六、藤次郎はそれぞれの立場で議論を深め、静子は彼らの成長を微笑ましく見守った。景勝は静子の教育方針に感銘を受け、自身の領地でも学校を開きたいと語った。静子は彼の思いを理解し、穏やかに頷いていた。
九月中旬になると各地の戦況が動き始めた。まず、秀吉が鳥取城を攻め落としたが、史実の「鳥取の飢え殺し」とは異なり、兵糧攻めと策を併用して相手の士気を崩壊させた結果の開城であった。
鳥取城は備蓄が少なく、秀吉が周囲の村々を襲って逃亡した民を城内に受け入れざるを得なくなったため、食糧が急速に消費された。吉川経家は籠城を続けたが、秀吉の望遠鏡を使った観察により、内部の状況が把握され、飢餓に苦しむ女子供や老人に食料を投げ込むなどの策を講じた。これにより城門を守る兵士たちが裏切り、最終的に吉川は降伏を決断した。
一方、東国では信忠が勝山城と勝山湊を要塞化し、制海権を掌握した。信忠は下田城を攻め落とし、北条五大老の清水康英との戦いに勝利した。清水は善戦したものの討ち死にし、信忠はその忠勇を称賛した。
佐貫城では才蔵軍と里見・佐竹の軍が対峙しつつ、和睦に向けて動いていた。里見・佐竹は籠城を続けながらも敗北を受け入れ、和睦の使者を送った。
奥州では伊達家が蘆名、最上の両家に攻め込み、織田軍の援護を受けた蘆名家は降伏し、伊達家は最上家を追い詰めた。これにより東国の大部分が信長の手中に収まり、天下統一が目前となった。
静子は東国征伐の進展を見守りつつ、裏で経済戦争を仕掛け、物資と金を操作して敵勢力を弱体化させていた。信長の天下統一が近づく中、静子は太平の世でのんびり過ごすことを夢見ていたが、周囲は彼女の働き続ける姿を予見していた。
宇治川堤
北条領内で暗躍する間者からの情報が定期的に静子邸に届き、専任担当官が時系列に沿って再構築し、静子に報告した。北条方はこの情報戦に恐怖し、幾度斥候を送っても全て捕縛され、情報を持ち帰れなかった。「充分に発達した科学は魔法と見分けがつかない」という言葉通り、北条方には静子の手法が理解できなかった。
報告書の内容が徐々に薄くなっていたが、これは北条側の活動が減少したためであった。気象観測情報の重要性により、静子は情報の優先順位を基に詳報を送る態勢を取っていた。
北条氏政が次期当主氏直を奥州に逃がそうとしていることが判明し、静子はこれを阻止するか、信忠に報告して対処させるか思案した。信長が突然静子邸を訪れ、報告書を見て北条の動きを遅いと評した。信長は静子の兵が京に駐留していることについて問うたが、静子は義父近衛前久の護衛のためだと答えた。信長は巨椋池の工事についても尋ね、静子は護岸工事、堤の建設、流路変更計画を説明した。
信長は伏見に河川港を設ける構想を持ち、静子の計画を評価した。静子は信長に天下統一後に隠居したいと述べたが、信長はそれを夢物語だと一蹴した。
①貴腐人たちの日常
娯楽は余裕の象徴であり、日々の生活が安定している尾張では様々な娯楽が発展していた。尾張では兵農分離が進み、民は裕福であったため、競技角力や将棋、囲碁などのテーブルゲームが流行していた。他にも、尾張独自のニッチな娯楽も存在した。
詩と海という作家は、男色文化を表現することで知られていた。詩は男色小説を執筆し、海はその挿絵を担当していた。二人は望遠鏡を使って男同士の角力を覗き見しようとしたが、静子に断られた。彼女たちはそれでも創作意欲を掻き立てられ、四六と藤次郎を題材にした作品を描いた。
また、彼女たちは静子の屋敷で創作活動を行い、年に一度の書展を楽しみにしていた。海は瑠璃という異人の女の子に関心を持ち、彼女の胸を描きたいと思っていたが、弥一という男に邪魔されていた。
二人はそれぞれの好みで作品を作り、詩は少年同士の純愛を、海は成人男性同士の絡みを好んで描いた。しかし、共通の趣味を持ちながらも互いの好みを尊重し、活動を続けていた。詩は男性向けの作品に対してもっと奥行きのある描写を望んでいたが、商業的な需要に応じた作品を作ることが求められていた。
海は仕事の管理が苦手であり、澪という女性が彼女をサポートしていた。澪は海が仕事を放棄して外出することを厳しく戒め、二人を仕事場に戻した。
②伴侶選び(器の)
戦国時代における武家同士の婚姻は、個人の自由恋愛ではなく、安全保障契約の一環であった。主家の意向に従わない婚姻は謀反と見なされ、厳しく処罰された。今川家や武田氏など、多くの武家が制定した分国法がこれを統制していた。こうした背景から婚姻は政治的な盟約であり、統制する法の制定が普遍的であった。
静子は次女である器の嫁ぎ先を決める難題に頭を抱えていた。信長が四六の嫁取りを見定める一方、器に関しては様々な家から申し込みがあった。静子の娘である器は見目麗しく、庇護欲を誘うと評判であったが、静子自身は恋愛に疎く、異性の欠点を見抜くことが難しかったため、器の意思を尊重しつつも苦悩していた。
静子は信長に相談しようとしたが、「まず自分がどうしたいのかを決めよ」と突き放されたため、自身で候補を絞り込み、器に意見を求めることにした。器に三人の顔写真と経歴を見せたが、器は誰も適していないと判断し、書類を返した。
器の意思を尊重する静子は、無理に結婚を強いることはなく、器が納得する相手を見つけるまで待つことに決めた。器もまた、静子の理解に感謝し、もう少し静子の側にいたいと願っていた。
自慢大会
戦国時代において、歌会始は帝が主催する和歌の会であった。その起源は奈良時代にまで遡り、江戸時代以降も続けられていた。信長の上洛により京の治安が改善され、公家たちの懐具合も余裕ができたため、歌会始も再び盛大に行われるようになった。
今年の歌会始のお題は「花見」であり、夜桜見物を兼ねて夜間に実施された。参加者たちは篝火に照らされた桜の美しさを楽しんでいた。盃に桜の花びらが落ちる様子を見た公家が、その風流さを称賛し、盃自慢が始まった。
公家たちはそれぞれ自慢の盃を見せ合い、多くが尾張で製造されたものであった。そんな中、帝が持つ一つの盃が現れ、その出来栄えに皆が驚嘆した。さらに関白の前久が加わり、静子が作った盃を愛用していることを語った。これは名工の盃に比べれば稚拙であったが、親を想う愛が込められていたため、公家たちは自分たちの盃自慢が下品に感じられた。
前久は新しい樽酒を振る舞い、会の雰囲気を再び盛り上げた。
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