どんな本?
戦国小町苦労譚は、夾竹桃氏によるライトノベル。
農業高校で学ぶ歴史好きな女子高生が戦国の時代へとタイムスリップし、織田信長の元で仕えるという展開が特徴。
元々は「小説家になろう」での連載がスタートし、後にアース・スターノベルから書籍としても登場。
その上、コミックアース・スターでも漫画の連載されている。
このシリーズは発行部数が200万部を突破している。
この作品は、主人公の静子が現代の知識や技術を用いて戦国時代の農業や内政を改革し、信長の天下統一を助けるという物語。
静子は信長の相談役として様々な問題に対処し、信長の家臣や他のタイムスリップ者と共に信長の無茶ブリに応える。
この物語には、歴史の事実や知識が散りばめられており、読者は戦国の時代の世界観を楽しむことができる。
2016年に小説家になろうで、パクリ騒動があったらしいが、、、
利用規約違反、引用の問題だったらしい。
読んだ本のタイトル
#戦国小町苦労譚 十六、決戦! 小田原城
著者:#夾竹桃 氏
イラスト:#平沢下戸 氏
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あらすじ・内容
シリーズ累計200万部突破の超人気作、期待の最新作!!
1577年の末、東国侵攻は大詰めを迎えていた。
戦国小町苦労譚 十六、決戦! 小田原城
雪のため戦況は停滞せざるを得なかったが、
いくさの渦中で静子は新年を迎える。
常に新しい技術を追求する彼女の次なる一手は、
無煙火薬に完全装甲弾(ルビ:フルメタルジャケット)、ナパーム弾⁉
そんな中、ワーカホリック静子に下された命令は
なんと「休むこと」だった。
暇に飽かして回遊式庭園を造ったり、
角力大会を開催する静子だったが――
いくさの衛生観念を覆すナイチンゲールの発想を取り入れたり、
原油を精製する施設の建設に着手する一方、
総大将信忠率いる信長軍は、ついに小田原城を攻め落とす!
前巻からのあらすじ
石山本願寺の本拠地で挙兵の知らせあり。
朝廷が仲裁に入り和睦を進めて来たのに、それを蹴飛ばしての挙兵。
その知らせを聞いた天皇は激怒するも、朝廷には本願寺を討伐するだけの兵力が無い。
そんな朝廷の意図を汲んで関白の近衛家の娘、静子が出陣をする事になった。
静子は本願寺を囲み、信仰を崩すために気球で空爆を行い寺院を少しづつ燃やして仏罰が降っていると錯覚させ。
さらに本願寺の頭領が自身に矢玉は当たらないと豪語してる時に、火縄銃の狙撃で手を撃ち抜いて仏罰が下ったと信徒達を混乱させ。
本願寺はもう終わりだと心を折られた僧兵達は外に出よて逃げようと門を開けたら、大砲が撃ち込まれてで静子の軍が本願寺の城に突入。
石山本願寺は陥落。
そして、静子が本拠地に帰ると今度は伊達家から人質が来ることが決まる。
後々に独眼竜政宗と呼ばれるお子様だった。
感想
信忠が指揮する東国征伐は里見を落とし。
北条の小田原城を包囲して大砲で陥落寸前まで追い込んで行ったが、冬が到来して小康状態。
西は毛利を秀吉が攻めており織田家有利に進んでいるが、やはり冬で侵攻は止まる。
春を待って再侵攻をしようとして。
雪解けのなか軍を進める。
そして支城をドンドン落として30あった支城のうち23を陥落させ。
後は小田原城のみと思ったら。。
北条軍に圧力は充分効いていたが、小田原城を包囲している農民兵が主体の上杉、徳川、長宗我部の兵が農作業が始まるので厭戦気分になっていた。
それで、静子が送って来た資材で小田原城の近くに一夜城を建て。
80門もの大砲を並べ、気球で弾道観測をして小田原城を砲撃。
80門もの大砲の一斉射で小田原城に籠っていた北条軍は外に出ようと新型火縄銃を携えて出て来た。
その北条が頼みの綱にしていた新型火縄銃は、静子の源爺の鉄砲隊によって蹂躙されて。
織田家の銃より劣っていると見せつけられてしまう。
あまりにもの火力の差に心が折れた北条家は降伏。
東国征伐はコレで終わる。
小田原城に信忠が居座り、反乱分子へ睨みを効かせながらも。
援軍に来た上杉、徳川、長宗我部は地元に帰還する。
そんな戦いの最中。
静子は、尾張三位となり信長の次に官位が高くなった静子は、織田家では静子の乗った輿が通るとモーゼのように人垣が割れて頭を下げるほどの重鎮になってしまった。
そんな静子は、信長から仕事をするなと命じられるが、暇を持て余して色々な仕事を作ってみるが、信長が静子のネタが切れるまで仕事を取り上げてしまう。
それでも何かしたい静子だったが、東国征伐軍から送られて来る東国の庶民の生活の歴史的な参考資料になると狂喜乱舞。
側から見れば塵紙に喜んでいるようにしか見えない静子に、いつもの病気だと生暖かい目で見る周辺の人達。
東方の対抗勢力を鎮圧した織田信長は毛利領、九州と北海道以外はほぼ統一した。
そして、西側に集中するために織田信長は、静子に東国管領という織田領地の約半分を差配する地位を織田一族じゃない静子に与えてしまった。
ワーカーホリックのようになって信長から仕事禁止を言い渡され、仕事を求めていた静子に東国管領をポイっと任せてしまった。
そして静子は、子飼いの黒鍬衆を中心に、上杉家、徳川家を巻き込んで東国の関東を開発する。子供達がご飯いっぱい食べられ、安心してよく遊び、また学べる世にするために邁進する。
そのために街道整理をする。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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同シリーズ
同シリーズ
戦国小町苦労譚 シリーズ
小説版
漫画
その他フィクション
備忘録
天正四年 隔世の感
千五百七十七年十一月下旬
信長が命じた東国侵攻は、大詰めを迎えていた。信忠が里見を急襲してから二か月が経とうとしていたが、北条の牙城である小田原城は健在であった。織田軍は小田原城周辺の多くの支城を落とし、北条の力を削いでいた。しかし、早い冬の到来により寒さが厳しくなり、軍事行動に支障が出始めた。信忠は軍議を開き、信長及び静子と相談し、積極的な攻勢を控えることを決定した。しかし、落とした支城の再整備及び軍の再編成も行っていた。
一方、西国でも同様の状況が発生していた。鳥取城は早期に入手できたものの、本格的な冬の到来と共に降雪が始まれば軍需物資の搬入が難しくなった。織田領では舗装された街道があるため、物流が滞ることはなかったが、毛利の勢力下では深雪により街道が見失われることがあった。秀吉軍は神戸港からの補給線の整備及び標識の敷設を行い、積雪下でも物資の供給が途絶えないよう準備していた。
織田領では街道や宿場町の整備が充実しており、冬でも人や物の流動性は大きく損なわれなかった。寒さは人々の流動性を減らしたが、他領とは一線を画す状況であった。商業活動が刺激され、温かい食べ物がよく売れ、特に居酒屋で出される熱燗が好評であった。静子邸でも同様で、豚汁や温かい食べ物が好まれた。長可と慶次は食事中に飲酒の話をし、静子の禁酒指示に従わない者もいた。
藤次郎は静子の禁酒指示を受けていたが、長可と慶次の誘いに応じて酒を飲んだ。藤次郎の飲みっぷりに驚いた二人は、後に静子が伊達政宗の酒癖を知っていたため禁酒を命じたことを理解した。
静子の危惧は的中し、藤次郎は酒の席で失態を演じた。史実でも酒癖の悪さを自覚していながら、亡くなる二年前に失敗していた。しかし、彼が死を免れたのは徳川秀忠や家光からの絶大な信頼と、戦国時代を生き抜いた実績があったからである。今の藤次郎は単なる人質であり、酒の席での失態は大問題となった。
静子は全ての報告を聞いて呆れ、当事者である長可、慶次、藤次郎と四六は揃って頭を下げて謝罪した。藤次郎は額を床に擦りつけ、片倉小十郎は顔色が青を通り越して白くなっていた。四六も顔に青痣が残り、顔を伏せていた。藤次郎の酒癖がここまで悪いとは知らなかったのだろう。
藤次郎が酒の席に加わり飲んでいると、四六が通りかかった。飲兵衛たちは早速彼を誘い、談笑しながら飲み交わしているうちに酔いが回り、言動に遠慮がなくなった。四六は素面を保ちつつも、藤次郎に苦言を呈したが、口論となり取っ組み合いの喧嘩に発展した。長可と慶次は笑いながら見ていたが、藤次郎が倒れた時点で止めに入った。
静子は素手の喧嘩なら良しとし、壊した襖や調度の片付け、部屋の掃除を四六と藤次郎に命じた。藤次郎には改めて禁酒を言い渡し、次に酔って暴れたら罰を与えると警告した。四六は静子に対し、自分の大人像について考え直すことを誓った。
静子は四六の成長を喜びながらも、今回の喧嘩で破壊された物の一覧を見てため息をこぼした。
酒に関する格言がいくつもある中で、藤次郎はそのうちの「酒は飲むとも飲まるるな」に該当していた。酒で失敗することが多かったため、静子は彼に酒を控えるよう気を配ったが、戦国時代においては祝い事や神事で酒を断ることはできなかった。静子自身が酒を避けられたのは、信長の禁酒令があったからであった。
藤次郎は人質という立場が心理的な枷となり、酒の席で失敗したことを理由に遠慮することが多くなっていたが、完全に酒を断つことは難しかった。彼は酒の量を控えるようになっていたものの、懸念は残っていた。四六は藤次郎の失敗について静子に対し、「母上が気を回される必要はございませぬ」と断言した。四六の指摘により、静子は藤次郎を子供扱いすることを避けるために口出しを控えることにした。
静子は自身の責任を果たす大人としての態度を見せるため、藤次郎に対する過剰な介入を控えることにした。そして、信長が天下人となりつつある現状について話し合った。信長が官職を決めかねている状況で、朝廷は信長に官職を与えて彼を縛り付けようとしていた。
冬の寒さが厳しくなり、戦況は停滞していた。情報収集は続けられていたものの、相手側も冬ごもりしていたため、大した報告はなかった。長可は信長から代官の役職を与えられ、徴収権が年貢に限らず、借金の取り立てをも代行できる権限が与えられていた。静子は長可に適任の仕事を与え、藤次郎と四六の成長を見守りながら、現状の把握と春以降の予定を確認した。
千五百七十八年一月下旬
戦況が停滞している中、新年を迎えた。東国征伐に赴いている武将たちは新年の挨拶を控えていたが、静子には適用されなかったため、正月三が日は慌ただしいものであった。
静子は安土城に向かい、信長に新年の挨拶をした。信長との密会では、東国征伐の行方に関する重要な内容が話し合われた。信長への挨拶を済ませた後、静子は徒歩で帰宅しようとしたが、光秀と遭遇した。光秀は静子に感謝の意を伝え、今年も協力をお願いした。
静子は光秀に協力を約束し、彼の領地での流通改善に技術支援を続けることにした。その背景には、光秀が但馬を支配しようと目論んでいることを知っていたからである。静子は保険として技術支援や土木工事を通じて影響力を持ち、光秀の領地運営に関与する準備を進めていた。
さらに、静子は無煙火薬の量産に成功し、連発銃の実用化を目指していた。これは戦争の常識を根底から覆す技術革新であり、防衛拠点の優位性を飛躍的に高めるものであった。静子はこの技術を活用して戦争の犠牲者を減らすことを目指していた。
静子の方針は一貫しており、食料の供給と教育を通じて社会全体を豊かにすることを目指していた。彼女は自身の利益を社会に還元し、富国強兵を実践していた。その結果、静子の影響力は織田家のみならず、全国に広がっていた。
正月中、静子は四六と器を呼び出し、お金の使い方を学ばせることにした。静子は二人に対し、大きな金額を扱う経験を積むように諭し、成功や失敗を通じて真のお金の価値とありがたみを理解させようとした。
正月気分も松の内が過ぎると、平常に戻った。積雪の影響で停滞していたが、東国征伐の再開に向けて準備が進められていた。年が明けると、一月中旬には東国各地の国人から信長への恭順を示す文が静子に届き始めた。その多くが、信長への仲介を求める内容であった。
北条の反撃ができず、織田家の手が小田原城周辺にまで及んでいるため、国人たちは己の領土を守るために動いていた。里見家は降伏路線に傾き、佐竹家の一部は反発していた。才蔵軍は近いうちに里見と佐竹に相対することを予測していた。
里見・佐竹両家は疲弊しており、北条の援軍も期待できず、織田家に和睦を打診しているか疑心暗鬼になっていた。両家は一矢報いてから降伏したいと考えていた。
佐竹家では真壁氏が強硬に抗戦を訴え、佐竹氏に対して戦わずに負けを認めることを非難していた。真壁氏は突出した武勇を持ち、佐竹氏の多くの戦に参加していたが、忠臣ではなく自身や一族の利を優先していた。
才蔵は真壁氏が単独で仕掛けてくる可能性を警戒し、部下にも慢心を戒めた。寒さ対策も重要であり、静子の指示に従って防寒対策を徹底するよう命じた。織田軍の静子軍では、防寒対策が一兵卒に至るまで行われており、将官には白金懐炉や防水布の外套が配備されていた。
才蔵は部下の言葉に満足し、笑みを浮かべた。
千五百七十八年三月下旬
三月に入り、静子配下の事務方は徐々に忙しくなったが、静子の仕事は減少した。日々の細々とした決裁権を委譲していたため、重要な決断を下す以外にやることがなくなったのである。ルーチンワークは事務方が処理し、最終判断だけが静子に上がってくるようになった。
静子は暇を持て余し、主君の信長に補佐を申し出たが、信長は「貴様が休まないと配下が休めない」と言い、静子を休ませるよう強制した。信長の指示に従い、静子は一時的に大人しくしていたが、やがて優先順位の低い案件に手を出し始めた。具体的には、尾張一帯で流行している娯楽の公式ルールを制定することに取り組んだ。
例えば、○×ゲームのルールを整備し、三×三の盤面ではなく、五×五や九×九の盤面で四つの印が並ぶことで勝利とするルールを追加した。この取り組みは領民に好評で、『第一回静子杯○×ゲーム大会』を開催することになった。大人と子供の部門を設け、上位三位までを表彰し、優勝者には賞金も下賜された。
大会は成功し、信長は「安土で大会を開くのも面白そうだ」と提案し、静子の業務を他の者に引き継がせた。再び暇を持て余した静子は、新しい娯楽を広めたり既存の娯楽を組み合わせたりして過ごしたが、信長の介入により仕事を取り上げられた。静子は手に余る仕事を求めたが、誰もが静子を休ませるため一致団結していた。
慶次は静子に「暇だから何かをするのではなく、したいことだけをするように」と提案した。静子は考え込んだが、周囲の思いやりを感じながら、少しずつ休むことを検討し始めた。
人間はどんな状況にもやがて慣れるものである。最初は焦燥感から落ち着かなかった静子も、二週間も経つと生活リズムが整い、畑仕事に精を出し、日暮れと共に就寝するようになった。昼食後には中庭で一服する時間を持つようになり、中庭の殺風景さに気づいた静子は、回遊式庭園を造ることを思いついた。
回遊式庭園は広大な敷地に様々な景観を楽しむための庭園であり、造園に必要な美的センスと遊び心を持つ人物が必要であった。静子は近衛前久に相談し、彼の嫡男である信尹を推薦された。信尹は非凡な才能を持ち、静子は彼の起用に同意した。
静子は信尹に庭園の設計を任せることにし、計画の全体像と進捗を定期的に報告するように指示した。信尹の設計する庭園は京の静子邸で行われ、京中の貴人に大きな注目を集めた。信尹の設計は評価され、静子もその成果を楽しみにしていた。
しかし、静子は再び暇を持て余し、角力大会を開くことを思いついた。参加者は静子の側近や越後勢、伊達勢であり、優勝者には帝に献上された酒やカラスミが賞品として与えられた。大会は盛り上がり、藤次郎や小十郎が活躍した。
大会後、静子は参加者たちに風呂と宴会を勧め、皆が楽しむように配慮した。一方、小田原城では新しい火縄銃の試験が行われ、その性能に驚いた北条軍は大量に用意するよう命じた。
千五百七十八年四月下旬 一
北条氏の居城、小田原城の一室で、男性が一つの銃弾を手にしていた。その銃弾は、織田軍の新式銃の秘密を解明するための鍵であった。従来の球形の弾丸とは異なり、流線形で螺旋状の溝が刻まれていた。この銃弾は、織田軍の新式銃の性能を支える重要な要素であった。
この銃弾を手にしていた男、高座の弥勒は、知恵者として名を馳せる人物であった。彼は戦災孤児として寺で育てられ、その才覚を見込まれて領主に召し抱えられていた。北条氏の命を受けて新しい火縄銃を開発するため、銃弾に螺旋の溝を彫ることで弾道を安定させることに成功した。
しかし、銃弾を一発作るのに多大な費用がかかる問題があり、北条氏はこの問題を解決できなかった。実際には、銃弾ではなく銃身側に螺旋の溝が刻まれているという発想の転換が必要であった。
四月に入り、積雪が溶け始めた関東地方で、信忠は北条征伐を再開した。彼は、北条側が新兵器を開発したとの情報を受け、積極的に情報収集を進めるべきだと判断した。北条側の新兵器が織田軍の新式銃に匹敵するものであれば、織田軍の優位性が揺らぐ可能性があった。
信忠は、北条側の新兵器の開発者「高座の弥勒」に関する情報を得て戦慄した。彼は、この開発者を織田陣営に取り込みたいと考えたが、それが難しいことを認識していた。小田原城攻めの際には、この開発者と研究成果を奪取することが目標とされた。
こうして、信忠、信長、静子の三者による首脳会談の結果、北条攻めの基本方針が見直され、確実な包囲網を構築することが優先された。信忠は警戒心を抱きつつも、北条の力を奪うための準備を着実に進めた。
北条氏の新火縄銃についての情報が才蔵にも届いた。才蔵は詳細を読んで安堵した。新火縄銃は射程距離が長いが、他の性能は飛躍的に向上していないため、警戒は必要だが方針を見直す必要はないと判断した。北条が里見や佐竹に新火縄銃を提供することはないと考え、里見は降伏の準備をしていると推測した。一方で佐竹氏内では二派に分かれており、真壁氏幹を中心とした過激派が攻勢を主張していた。
四月下旬、真壁氏幹からの使者が才蔵のもとに訪れ、一騎討ちを申し込んできた。才蔵はこれを受け入れ、両陣営にこの情報が広がった。信忠はこの機会を利用し、北条攻めを開始した。慎重に進めていた信忠の攻勢は北条を不意打ちし、八王子城を短期間で落とすことに成功した。
信忠は城の改築を命じ、落城した八王子城の資料を静子に送るよう指示した。信忠は静子の要望に応え、大量の資料を送ったが、それが静子にとって価値あるものであることを理解した。
信忠が東国征伐に向かってから、尾張の静子邸には多種多様な資料が届けられていた。これらは補給物資を運ぶ船便に同梱されており、膨大な量となっていた。北条側の支城から得られた軍事や政治、地理的な資料だけでなく、領民の暮らしぶりや商取引の証文なども含まれていた。静子邸ではこれらを司書と静子自身がカテゴリーごとに分類し、資料として編纂していた。
そんな中、真壁氏が佐貫城を出立し、才蔵が構える支城へ向かったという急報が静子に届けられた。真壁氏の動きが膠着状態を崩すきっかけになると静子は確信した。才蔵に代わる人材はおらず、真壁氏の賭けに応じるしかなかった。
才蔵も真壁出陣の一報を受け取り、配下に一騎討ちの立ち合いと後始末の人員を率いていると説明した。才蔵は一騎討ちを挑まれた以上、小細工は不要と断じ、全身全霊で応える決意を示した。配下の将兵たちは才蔵の自信に感化され、意趣返しを計画した。
二日後、真壁氏幹の一行が才蔵の支城に到着した。支城の門前には観客席を設けた急ごしらえの施設があり、その中心で才蔵が待ち受けていた。氏幹はその異様な光景に驚きつつも、一騎討ちの場が整えられていることを確認した。
千五百七十八年四月下旬 二
真壁氏幹は、織田軍の才蔵が城門を開け放ち護衛も伴わず待ち構えていることに驚愕していた。才蔵は一騎討ちの安全を保証し、四半刻後に勝負を挑んだ。観客席には織田軍の兵士たちが集まり、試合会場のような雰囲気が漂っていた。
氏幹と才蔵は、それぞれの武器を構え対峙した。氏幹の樫木棒は才蔵の槍に比べて重く太いが、才蔵は槍を下段に構えることで氏幹の動きを封じた。才蔵は槍の斬撃や蹴りで攻撃し、氏幹も応戦するが、才蔵の技量に圧倒される。氏幹は体勢を崩したフリをして、才蔵の槍をへし折ることに成功したが、致命的なダメージを受けた。
最終的に才蔵は、氏幹の樫木棒を踏みつけ、槍の石突で氏幹を突き倒した。氏幹は地面に倒れ込み、才蔵の勝利が確定した。観客から歓声が上がり、氏幹は介抱されながらも受け答えをしていた。
才蔵は氏幹の戦いぶりを称賛し、再戦を誓った。これを契機に佐竹氏は和睦へと動くことが予想された。才蔵と氏幹は互いに武人として認め合い、多くを語らずに別れた。
静子は尾張の技術街で研究者たちと会い、越の燃ゆる水(原油)の研究に取り組んでいた。原油の蒸留装置は小型の試作品が作られていたが、大規模な精製装置を作るには巨大な施設が必要であり、その設計は困難を極めた。さらに、黒川の油田から採れる原油は硫黄分が多く、排煙には亜硫酸ガスが含まれていた。これは公害の原因となるため、活性炭フィルターによる脱硫が提案されたが、運用コストが高かった。
また、活性炭の製造には多くの工程と薬品が必要であり、大型の発電施設が求められるという問題があった。それでも、石油から得られる様々な物質は非常に魅力的であり、軽油、重油、灯油、ガソリン、タール、アスファルト、さらにはポリエチレンやPETボトルの製造まで夢が広がっていた。静子は尾張から越後に通じる鉄道の計画も必要だと感じていた。
千五百七十八年五月中旬 一
才蔵が真壁氏幹との一騎討ちで勝利した結果、佐竹氏と里見氏が織田軍に降伏する可能性が高まった。この状況により、北条氏はさらに苦境に立たされた。氏幹は重傷を負い、真壁家の家督を義幹の子、房幹に譲ることを決意した。佐竹氏は降伏し、里見氏も和睦を求めたため、北条氏は東国で孤立することになった。
一方、東北では伊達家が躍進し、蘆名氏を併吞しつつ、最上氏も徐々に劣勢になっていた。このため、北条に援軍を送る余裕はなく、北条はさらに追い詰められた。北条は新火縄銃に希望を託していたが、織田軍の進撃を止めることはできず、次々と支城が落城した。
信忠は北条の内通者から新火縄銃を入手し、その構造と性能を分析した結果、従来の銃よりも性能が劣ることを確認した。信忠は、北条の孤立と織田軍の優位性を確信し、北条征伐後の関東の処理について信長と静子が計画を練っていることを知りつつも、自身の知識不足に悩んでいた。彼は静子のように広範な知識を身につけたいと願い、配下の信頼を得るために努力を続ける決意を固めた。
信忠が東国征伐後のことを考えていた頃、静子は負傷兵の死亡率に悩んでいた。戦場で即死するケースは少なく、多くは負傷後の感染症などで死亡していた。静子はナイチンゲールの衛生管理を参考に、野戦病院の建設や清潔な医療物資の提供を進め、負傷兵の死亡率を下げるための取り組みを始めた。
静子は命令書一枚で劇的な変化を期待せず、データを積み重ねて改善を続けることにした。彼女の目標は織田家の味方の死者を減らすことであった。
また、静子はキリシタンの強制改宗問題にも頭を悩ませていた。彼女は宗教の布教を制限せず、政治に関与しない限り自由にさせていたが、一部の領主が無理やり改宗を迫っていた。信長からの許可を得て、問題のある領主に対して制裁を加えることもあった。
オランダやイギリスとの貿易が始まり、彼らは宗教を持ち込まない点でポルトガルやスペインと異なり、静子はこれを利用して経済的混乱を回避しようと考えた。
さらに、静子は野伏せりの問題にも直面していた。報告書によると、野盗が軍需物資を狙っており、静子はこれを対処するため長可に命じた。長可は野盗を一網打尽にする決意を固めた。
千五百七十八年五月中旬 二
信忠が指揮を執る北条征伐は順調に進んでいた。織田軍は慎重な戦略で北条氏を追い詰め、支城間の連携を断ち切ることで各支城を孤立させた。信忠は正確な報告を重視し、細かい指示を徹底していた。
織田軍は房総半島から侵攻を開始し、関東平野の城々を次々と制圧し、最終的に七割以上の城を手中に収めた。北条氏は孤立し、信忠は「戦う前に勝つ」という言葉の意味を実感した。
信忠は小田原城の包囲を完成させ、南東の海側も含めて完全に封鎖した。さらに、信忠は笠懸山に築いた新たな城を使い、小田原城を威圧した。この城は鉄筋コンクリートで構築され、長射程の砲が並んでいた。
北条側は新火縄銃に頼っていたが、織田軍はこれに対抗するため、長射程の武器で防衛設備を破壊する作戦を取った。しかし、信忠は包囲が完成した後、友軍の士気が低下していることに気づいた。特に徳川や上杉の兵士たちは農繁期を迎え、農業に意識が向いてしまったのである。
信忠は友軍の士気を高めるために静子に相談し、試作段階の新しい戦術を提案された。信忠はこれに賭ける決意を固めた。
信忠の依頼を受けた静子は、準備に取り掛かり、戦国時代には考えられない兵器を手配した。また、大量の食料、酒、そして女性も用意し、兵士たちの士気を高めるための策を講じた。織田軍は食事の質を改善していたが、友軍は粗食に耐えていたため、ご馳走や酒、女性は大いに効果があると見込まれた。
静子は長可と会話しながら、書類の処理を進めていった。御馬揃えの準備が決まっていたため、信長は静子を遊ばせておく余裕がなくなっていた。御馬揃えは重要なイベントであり、その準備には多くの調整が必要であった。信長や朝廷側、公家衆などからの要望があり、静子は見事に交渉をまとめ、信長から褒美を得た。
褒美として静子が求めたのは、御馬揃えの裏方仕事であった。これにより、彼女は歴史に残らなかった事柄に直接関わり、記録を残す機会を得た。静子は、御馬揃えに関与することに喜びを感じ、その準備に全力を尽くした。
長可との会話で、静子は関所を強引に突破した人物について問いただし、長可はその人物が自分であることを暗に認めた。静子はまた、風魔の間者についての情報を提供し、長可に対して搦め手を使う重要性を説いた。
静子は戦闘能力が低いが、いくさが始まる前に終わらせる能力に長けていた。彼女は内政でその本領を発揮し、戦争を未然に防ぐ策を講じることができた。長可は静子の才能を認め、彼女が敵でなくて良かったと感じていた。
千五百七十八年六月下旬
信忠の命を受けた静子は、新兵器の手配と共に、大量の食料、酒、そして女性をも用意した。遠征中の兵士たちの士気を高めるためである。
その日、笠懸山城から曳光弾が発射され、小田原城の外れに着弾した。この曳光弾は光と煙を描きながら飛行し、着弾地点に大きな衝撃を与えた。徳川軍の布陣地に近くに落ちた砲弾は、家康を驚愕させた。観測気球と連携して、射撃精度を高めるための座標情報が迅速に伝達され、続いて笠懸山城から大砲が一斉に発射された。
その結果、小田原城内の部隊が甚大な被害を受け、特に内藤綱秀の部隊が壊滅状態に陥った。この一斉射撃は北条氏の士気を大きく損ない、三度目の砲撃では城下町が火の海となった。この砲撃にはナパーム弾が使用され、燃料が広範囲に飛散し、消火が困難な炎を引き起こした。
玄朗は信忠軍の一部として北条軍の突破を警戒し、前線で待ち構えた。北条軍が新火縄銃を装備して反撃を試みたが、織田軍は射程ギリギリで後退しており、銃弾は効果を発揮しなかった。織田軍の返礼射撃は劇的で、北条軍は総崩れとなった。
北条の弥勒は織田軍の圧倒的な銃撃力に打ちのめされ、北条軍は小田原城に敗走した。新火縄銃の敗北は氏政の心を完全に崩壊させた。
新火縄銃の敗北により、氏政の心の均衡は崩壊した。絶望的な戦況と新兵器の不甲斐なさに怒りを感じていた氏政は、弥勒に怒りをぶつけようとしたが、彼は既に姿を消していた。氏政は失意の中、全てを失った現実を直視することなく、抗戦を続けるよう命じたが、家臣たちはすでに各々の身の振り方を考えていた。
信忠は笠懸山城で戦況報告を受け、状況が想定内で進んでいることに安堵していた。しかし、砲撃を続けるには限界があり、次の一斉射撃で弾薬が尽きる恐れがあった。そこで、信忠は兵力を温存しつつ、圧力をかけ続ける方針をとり、移動式の砲や新式銃を用いた。
北条軍は、最初の一斉射を受けた東側や火災の続く西側を避け、北側の虎口に戦力を集中させた。しかし、織田軍の攻撃により、北条内部の士気は崩壊し、降伏派と抗戦派の対立が深刻化していた。柴田勝家の軍が小田原城の総構え内部に進軍し、他の虎口からの侵攻も始まり、小田原城は落城寸前となった。
最終的に、氏政は信忠の最後通牒を受け入れ、降伏を決断した。
千五百七十八年七月下旬
北条家の敗北が報じられ、関東全域が信長の支配下に入ることとなった。信長の影響力は北海道と九州地方を除いて全国に及び、四国も長宗我部の統一により信長の影響下に入った。これにより、信長の覇道を阻む者はほぼいなくなり、朝廷が慌て始めた。
朝廷は急遽招集した公卿たちによって信長に従一位、右大臣および右近衛大将の官職を与えることを決定した。これは信長が名実共に天下人となったことを意味し、公家たちも表立って信長を批判できなくなった。これにより、織田家はさらに情報を活用してその動きを後押しし、商人たちも情報拡散に貢献した。
相模国では北条側からの降伏の申し入れがあり、戦後処理に数か月を要する見込みであった。その間、静子は前線からの報告書を手に取り、笠懸山城で使用した長距離砲の不具合に関する報告を読み込んだ。砲身の鋳造による強度不足が原因であることが記されていた。
信長は静子の茶室でくつろぎながら、東国征伐の褒賞や将来的な計画について話し合った。信長は東国開発を静子に任せることを決定し、勅定を得るための準備を進めるよう指示した。静子は関東開発の総奉行に任命され、街道整備から始めることを考えた。勅定により、信長は朝廷から東国に関する権限を委任され、東国管領としての役割を担うことになった。
信長は静子に東国開発の全権を委任し、贅沢は言わずに尾張に及ばぬ程度まで東国を富ませるよう指示した。静子はこの大役を受け入れ、開発計画を進めるために準備を整えた。
千五百七十八年八月中旬
朝廷が信長に東国の惣無事を任じた報せが広まると、民たちは動揺することなく受け入れた。しかし、静子に東国惣無事に関する全権が与えられることが発布されると、世間は騒然とした。信忠ではなく血族でもない静子に二十五か国もの統治権限が与えられることは異例中の異例であったが、織田家では順当な采配と受け入れられた。
織田家の重鎮たちも静子の功績を評価し、信長が彼女を信頼していることを理解していた。静子は軍備手配を含む多くの支援を織田家に提供し、その功績が認められていた。
静子は東国のインフラ整備に意欲を燃やし、特に鉄道敷設に力を入れた。彼女は信長から任されている仕事を終え、東国の国人に対して安土へ赴き臣従を誓わせる旨を通達した。これにより、東国の国人たちは静子の指示に従い、速やかに安土詣での準備を進めた。
同時に静子は「御馬揃え」の準備にも忙殺され、膨大な物資の調達や輸送、関連人物との調整に奔走した。彼女はこれらの作業を楽しみながらこなし、誰よりも「御馬揃え」に詳しい第一人者となった。
その後、北条家の処罰が決定し、氏政と氏照は切腹、氏直は蟄居という結果になった。信忠は北条家伝来の家宝や武具を没収し、反抗の気運を潰した。静子はこれらの物品を受け取り、目録を作成して保管した。
さらに、静子は東国の歴史的史料を買い取る旨の通達を出し、多くの公文書や私文書を収集した。彼女はこの活動を楽しみながらも、静子の奇行に理解を示す者は少なかった。
静子の歴史的史料蒐集は後世の歴史研究家にとって貴重なものとなり、彼女の活動は静子自身の満足と未来の歴史研究に大きな影響を与えた。
信長が静子に東国の管理を任せたのは、彼女が絶対に裏切らない能臣であることに加え、信長に与えられた東国の惣無事令が、ある人物の策略によるものだったためである。信長を東国に縛り付け、京や西国に関する注意を逸らす狙いがあったが、信長の機転によりその計画は裏目に出た。
義昭は京からの文を見て憤慨し、恵瓊に対して怒りをぶつけたが、恵瓊は冷静に対応した。義昭は信長の策略により、毛利家に頼って鞆に移ったが、毛利との相談もなく幕府の樹立を宣言するなどの失態を犯していた。結果として毛利家は織田と敵対し、西国攻めにおいて劣勢に立たされることとなった。
一方、信長は東国の統治を静子に任せることで、革新的な統治を期待していた。静子は東国のインフラ整備に意欲を燃やし、鉄道の敷設などを計画していた。また、信長は彼女の勤勉さとその結果を高く評価しており、彼女に東国の管理を任せることは合理的な判断であった。
信長とその側近たちは、静子が多くの功績を積み上げても自らの利益を求めることなく、私財を投じて開発を促進する姿勢を称賛していた。静子の行動は、織田家の発展に大きく寄与し、彼女の存在は織田家にとって不可欠であると認識されていた。
信長は、静子が日本の将来においても重要な役割を果たすことを期待しており、彼女の活動が織田家の新しい時代を築く一助となることを確信していた。
千五百七十八年九月下旬 一
恵瓊の懸念通り、東国征伐に赴いた軍の大部分が論功行賞の決定後に畿内へ帰還した。戦後処理は信忠らが行い、主力部隊は戻った。これにより、静子が東国管領に就任したことが示された。
静子軍は兵站を担っており、部隊は小分けにされて帰還した。黒鍬衆は東国に招集され、各地で工事やインフラ整備を行うことになった。静子はまず巡検を必要と考えた。関東は湿地帯であり、徳川家康の治水工事が行われていないためである。大坂で行われたような大規模な治水と干拓工事を計画した。
静子は関東開発用に機材や人員を調整し、小規模な調査チームを編成した。しかし、静子自身の関東移住には信長や前久、黒鍬衆から反対された。静子は関東移住を断念し、尾張から関東への指示を出すことにした。彼女は定期的に往復する案を考えたが、信長や前久の許可が必要だった。
静子は信長に提案を伝え、東国全体の経済を底上げする計画を示した。信長はその計画を許可し、静子に任せた。ただし、静子の関東移住は許可せず、尾張からの指示を求めた。静子は家臣たちに仕事を任せることの重要性を学び、信長の助言に従った。
信長との通話を終えた静子は、関東行きを中止し、尾張から指示を出すと家臣たちに伝えた。家臣たちはこれを歓迎し、黒鍬衆の頭領たちも安心して関東へ向かった。静子は御馬揃えに集中し、関東開発の準備を配下に任せた。
並行して、上杉謙信と徳川家康に文を送り、東国の今後について会談を持ちたい旨を伝えた。二人は迅速に尾張入りし、情報収集に熱心であった。会談は九月下旬に調整され、静子の挨拶から始まった。
静子は信長から東国の惣無事を任じられたことを説明し、東国では原則いくさが禁止されることを告げた。参加者の側近たちは動揺したが、既に開戦中の戦いは例外として認められることが伝えられた。
静子は、上杉には北陸、伊達には陸奥と出羽、徳川には関東を管轄してもらうとし、関東の開発計画を説明した。徳川家が関東を任されることについて、静子が先行して開発を行い、適切な時期に引き渡すとした。
会談中、謙信が静子にどのような世を目指しているのか問うた。静子は、子孫たちが安心して腹一杯飯を食べ、遊び、学べる世を目指していると答えた。
千五百七十八年九月下旬 二
静子が関東行きを中止すると告げた後、家臣たちはこれを歓迎した。黒鍬衆の頭領たちも安心して関東へ向かうことになり、静子は御馬揃えに集中し、関東開発の準備を配下に任せた。
その後、上杉謙信と徳川家康に文を送り、東国の今後について会談を持ちたいと伝えた。二人は迅速に尾張に来訪し、情報収集を始めた。会談は九月下旬に開かれ、静子の挨拶から始まった。静子は信長から東国の惣無事を任じられ、東国での戦争が原則禁止となることを説明した。参加者たちは一部の戦いが例外として認められることに安堵した。
静子は上杉には北陸、伊達には陸奥と出羽、徳川には関東を管轄してもらうことを提案し、関東の開発計画を説明した。徳川家康も静子に協力を約束し、東国は織田家を筆頭に徳川家、上杉家、伊達家の四家による合同統治が決まった。
静子は農業士を派遣し、現地の環境調査と農業指導を行う計画を説明した。徳川領には二百人、上杉領には三千人規模の人員が派遣されることとなった。
会談後、静子は新しい宴席の方式を提案した。会席料理の形式で、少量ずつ多彩な料理を提供することにした。この新しい形式が参加者たちに受け入れられるかどうかを試みた。静子の提案は好意的に受け入れられ、宴会は和やかな雰囲気で始まった。
千五百七十八年十月中旬
静子が開催した会席は大成功であった。謙信も家康も装飾のバランスを気に入り、特に謙信は刺身と酒の組み合わせを気に入った様子であった。これに気を良くした静子は次の御馬揃えに備えたが、一部の公家たちが十月開催に文句をつけ始めた。
信長は公家たちに譲歩する姿勢を見せたが、実際は責任を彼らに被せる策略であった。開催予定日は未定となったが、静子は準備を続けていた。そこに北条征伐に参陣していた才蔵と、佐渡島で金山開発をしていた足満が帰還した。
足満は静子の要望に応えて佐渡島で金山を開発し、多忙な日々を送っていたが、ついに大量の金銀を持ち帰った。足満は静子に金の延べ棒や銀のインゴットを見せた。静子は金の装飾品には興味を示さなかったが、その心遣いに感謝した。
さらに足満は静子に鼈甲の簪を贈った。静子は喜び、足満に感謝の言葉を伝えた。その後、足満は佐渡島での出来事を静子に報告した。
足満に同行して佐渡島から帰還した部下たちは、静子邸での足満の変化に驚いていた。彼らの知る足満は冷酷非情であったが、静子の前では柔和な笑みを浮かべていた。
部下たちは尾張を視察したいと足満に許可を願い出たが、足満は彼らに対して消極的な許可を与えた。彼らは尾張の街へと繰り出し、礼儀正しく振る舞うことを誓った。
その後、才蔵が尾張へ帰還し、静子と対面した。才蔵は北条征伐での活躍を称えられ、静子に感謝の言葉を述べた。才蔵は、真壁氏幹を尾張に招き、治療を受けさせることを静子に許可された。
才蔵と氏幹は尾張の温泉と酒を楽しみながら、氏幹は尾張の繁栄と才蔵の友情に感謝した。彼らは再戦の約束を交わし、酒を酌み交わしながら絆を深めた。氏幹は尾張の生活に感動し、完全に尾張の魅力に浸りきっていた。
巻末 S S 長可流胆力錬成
四六は育児放棄されたために体格にコンプレックスを持っていた。食も細く、鍛えても体重が増えにくい状態であったが、公家の子息として扱われるようになってからも武家社会での一端の武者を目指して鍛錬を続けていた。
懸垂と走り込みを重視し、少しずつ食べられる量を増やしていたが、実戦経験の不足を感じていた。そこで荒事に長けている長可に相談したが、長可の提案は四六を驚かせた。長可は街で喧嘩を見つけたら割り込んで両方を倒せと言い、その理由を「実戦経験を積むため」と説明した。四六はその理屈に一理あると感じつつも、長可の無茶苦茶な提案に困惑した。
長可は法の『穴』をついて自分の行動を正当化し、静子の法令の隙を突いていた。彼の振る舞いは信長に気に入られており、処罰されにくい状況であった。四六は法を守るべきと考えつつも、長可の影響力と実戦経験を無視できなかった。
数日前に起こった荒れ寺跡地での銃声と爆発音の事件を思い出し、四六は長可がその事件に関与していることを悟ったが、長可は詳細を秘密にし、北条の残党が絡んでいるとだけ告げた。翌日、長可は静子から本気で叱られることを知らずにいた。
孫バカ親父が2人
信長、前久、足満の三人が集まると、話題は必然的に静子のことになった。三人とも多忙で頻繁に集まることはできなかったが、最近、静子の義娘である器の婿取りについて緊急議題が発生した。
戦国時代の常識では年増となる静子だが、絶大な利権を持つため安易な婿取りはできず、独身であった。そのため、器が婿取りの対象とされることになった。男は自身の身内を静子の学校に入学させ、保護者として見学を希望し、器に接触しようとしたが、警戒網に引っかかり、足満の前に引き立てられた。結果、三人の保護者が緊急対策会議を開くことになった。
器の成長は目覚ましく、美しい才女となり、読み書き算盤、簿記を網羅し、漢詩を諳んじるほどであった。欠点は人見知りと重度の静子依存であった。信長と前久は器を可愛がり、孫馬鹿状態に陥っていた。
信長と前久は互いに器の婿を見つけようと競り合い始めた。足満は静子が悲しむことを避けるために、孫馬鹿二人の口喧嘩を他人事として眺めていた。「孫娘はやれぬ!」「既に織田殿の孫ではありませぬ」と言い合う二人を見て、足満は静かに茶を啜り、「やれやれ、孫馬鹿すぎるな」と呟いた。
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