どんな本?
『戦国小町苦労譚 十八 西国大征伐』は、戦国時代を舞台にした歴史ファンタジー小説である。物語は1579年、織田家による西国攻めが本格化する中、毛利輝元が水軍を編成し、織田軍を迎え撃とうとする。一方、織田側の九鬼水軍は新造の大型鉄甲船を投入し、両軍の激突が描かれる。また、大坂城の築城や新兵器の登場、主要キャラクターたちの成長など、多彩なエピソードが展開される。  
主要キャラクター
• 綾小路静子:現代から戦国時代にタイムスリップした農業高校生。持ち前の知識と技術を活かし、織田家の重臣として活躍する。
• 羽柴秀吉:織田信長の家臣で、西国攻めを任されている。黒田官兵衛や竹中半兵衛といった優れた人材を配下に持つ。
• 明智光秀:織田信長の家臣で、冷静沈着な戦略家。日向守とも呼ばれる。
物語の特徴
本作の特徴は、現代の知識を持つ主人公・静子が戦国時代に革新をもたらす点である。大坂城の築城や新兵器の開発、さらには刀狩りや検地、石鹸や動物写真集の制作など、多岐にわたる活動が描かれている。また、歴史上の人物との関わりや、彼らの成長も見どころの一つである。 
出版情報
• 出版社:アース・スター エンターテイメント 
• 発売日:2025年3月14日
• 定価:1,430円(税込) 
読んだ本のタイトル
戦国小町苦労譚 十八 西国大征伐
著者:夾竹桃 氏
イラスト:平沢下戸 氏
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あらすじ・内容
時は1579年。毛利輝元は全力を以って水軍を編成、織田軍を迎え撃とうと画策。
対する織田側の九鬼水軍は新造の大型鉄甲船を引っさげて接敵。
両兵衛の暗躍・大砲部隊の援護もあり、潰走する毛利軍だったが――
一方、手柄を立てようと必死な秀吉と光秀は互いに焦っていた。
秀吉は山越えを決意し、光秀は大砲を準備。それぞれ進軍するも……
ついに始まるビッグプロジェクト、大坂城の築城や新兵器の登場もさることながら、
四六の成長ぶりにも注目!
そして相変わらずの静子は、刀狩りに検地、石鹸や動物写真集作りに着手?
主な出来事
- 静子の影響力拡大
静子は近衛前久との関係を深め、公家社会でも重要な地位を得た。教育と技術者育成に力を入れ、織田政権の経済力を強化した。 - 信長と四六の関係
静子の後継者である四六の忠誠心は不確かであり、信長は彼の動向を慎重に見極めた。織田家の安定を考え、四六が問題に直面した際には試練として静観する方針をとった。 - 毛利水軍の敗北
織田軍は九鬼水軍の大型鉄甲船を用いて、毛利・村上水軍を撃破。瀬戸内海の制海権を確保し、四国や九州の戦局に影響を与えた。 - 秀吉と光秀の競争
秀吉は鳥取城を無血開城したが、光秀が上月城を寡兵で攻略し、戦功を競う状況になった。秀吉は軍の質を向上させる必要性を痛感した。 - 毛利家の苦境
毛利水軍が壊滅し、織田軍が西へ進軍。毛利家は和睦か抗戦かの決断を迫られ、内部でも意見が割れた。 - 西国の経済戦略
秀吉は西国での酒造事業に着手。尾張の技術を導入し、地元産の清酒を生産することで市場を独占しようとした。 - 静子の休暇と正倉院の記録
信長の命により静子は休養を取ることになった。その間、正倉院の宝物目録の作成を進め、日本の文化財管理に寄与した。 - 四六の試練
四六の学友が投資詐欺を行い、処断が求められた。四六は冷徹な判断を下し、学友を断罪。彼の裁定者としての名声が広まった。 - 東国の改革
静子は刀狩りと検地を進め、東国の統治を強化。度量衡の統一にも取り組み、土地制度の整備を進めた。 - 毛利家の情報戦
静子は毛利の間者を泳がせ、誤った情報を流した後に一斉に処分。毛利家は混乱し、織田軍の動きを見誤った。 - 大坂城の建設
信長は大坂を日本最大の港とする構想を持ち、静子にその建設を任せた。瀬戸内海の統治を確立し、商業航路の安全を確保しようとした。 - 石鹸製造と工業化
技術街で石鹸の生産が始まり、工業用や衛生管理向けの製品が開発された。焼き鳥屋台などの廃油を利用し、効率的な生産体制を構築。 - 謙信の尾張訪問
謙信と景勝が織田領を視察し、戦乱の終焉を実感。織田の統治に従うことが正しいと確信し、民の安定を守る決意を固めた。 - 秀吉軍の山越えと熊の襲撃
山中で熊が斥候部隊を襲撃。秀吉軍は根切り作業を進めながら進軍し、新たな戦略を模索した。 - 光秀軍の霰弾攻撃
光秀軍は浦上軍の塹壕陣地を霰弾で破壊。高コストながら、塹壕戦術を封じる効果を発揮した。 - 秀吉軍の川根村接触
秀吉軍が川根村を支配し、山越え街道を整備。村人たちは毛利と敵対することを悟り、秀吉軍に協力する道を選んだ。 - 一夜城の出現
吉田郡山城の目前に、一夜で築かれたように見える城が登場。毛利軍はこれを警戒し、攻撃を試みるが失敗。 - 宇喜多直家の最期
直家は奇襲を続けたが、最終的に明智軍と決戦し討死。浦上宗景は降伏し、明智軍は西へ進軍を再開した。 - 毛利の降伏と天下統一
秀吉の砲撃により毛利軍の士気が崩壊し、輝元は降伏を決意。信長は織田政権の完成を喜ぶが、秀吉の台頭を警戒し始めた。 - 信長の特注布団
静子が一年かけて作った特注布団が信長に献上され、絶賛される。湯たんぽも改良され、冬の寒さ対策が進む。 - 福利厚生と振る舞い酒
静子邸では福利厚生が充実し、余剰の酒が振る舞われた。酒飲みたちは人事考課を意識し、秩序を守るようになった。 - 彩の立身出世
彩は孤児から静子邸の財務を任されるまでに出世。過去の自分と現在の贅沢な生活を比較し、静けさの中での孤独を感じた。 - 静子との会話
静子が彩のもとを訪れ、共に茶を飲みながら世間話をする。何気ない時間の中で、彩は静子の温かさを実感した。
感想
西国征伐の戦略と軍勢の動き
本作では、西国の毛利家を巡る戦局が描かれている。
織田軍は二手に分かれ、羽柴秀吉と明智光秀がそれぞれ進軍した。
秀吉は迅速な攻勢を仕掛け、一夜城を築くことで毛利軍を揺さぶり、静子から送られた大砲を用いて籠城戦を有利に進めた。
一方、光秀は宇喜多直家の奇襲により足止めされ、戦功争いに遅れを取る。
戦の規模が拡大する中、信長の政略や織田軍の各武将の思惑が交錯し、戦国時代の勢力図が大きく動いていく様子が鮮明に描かれていた。
静子の影響力と四六の活躍
織田軍の戦が激化する一方で、静子の影響力もますます拡大していた。
近衛前久との関係を通じて公家社会に足場を築き、経済や技術革新にも大きく貢献する。
特に、彼女の後継者である四六が成長し、独自の判断を下す場面が印象的であった。
学友の投資詐欺事件では、四六が冷徹な裁断を下し、彼の統治者としての資質が問われた。
静子が四六の決断を見守る姿勢を取ることで、世代交代の兆しも感じられた。
戦の裏で広がる静子の影響
西国征伐の戦いが続く中、静子は政治や経済面での安定を築き、国内の改革を進めた。
大坂城の建設や瀬戸内海の支配、さらには石鹸製造の開始など、社会基盤を整える動きが加速する。
また、謙信や景勝の訪問によって、織田の統治がもたらす安定が東国にも波及していることが伝わった。
戦の表舞台には立たずとも、静子の影響が戦国時代の枠組みを大きく変えていることがよく分かる。
信長と光秀の「本能寺の変」の伏線?
物語の終盤では、信長と光秀の関係に関するちょっとしたエピソードが描かれる。
本能寺の変まであと二年。
静子は二人の対立を警戒する中「愛猫の写真品評会」での口論が起きたと知り、アホらしさに呆然とする。
この猫好きな二人のやり取りには思わず笑ってしまった。
戦乱の世に生きる彼らの意外な一面が見え、物語にユーモアを添えていた。
信長と布団、そして静子の「暇」
信長は戦の采配を振るう一方で、静子から贈られた特注布団に夢中になる。
布団の心地よさに感動し、どこへ行くにも持ち歩くほどのお気に入りとなった。
戦国時代を舞台にしながらも、こうした日常的なエピソードが挟まれることで、登場人物の人間味がより際立つ。
また、四六の活躍により仕事が減った静子が、暇を持て余してしまう描写も興味深い。
常に忙しく働いてきた彼女にとって、「何もすることがない」という状況は新鮮だったのだろう。
その違和感を持て余す静子の姿が微笑ましかった。
総括
本作は、西国征伐を巡る戦局を中心に、静子の影響力の拡大や四六の成長、信長と光秀の関係など、多くの要素が絡み合う展開となっていた。
戦の緊迫感と同時に、布団や猫といったユーモラスな要素が織り交ぜられ、戦国時代の壮大な物語でありながらも、どこか温かみを感じる作品であった。
次巻では、信長の運命がどう動くのか、静子と四六の関係がどう変化するのか、ますます目が離せない。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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備忘録
天正六年 織田政権
千五百七十九年四月中旬 一
信長への忠誠と静子の影響
静子の忠誠心は揺るぎないものであった。信長の危機に直面するたびに彼女は機転を利かせ、戦局を大きく覆してきた。その最たる例が三方ヶ原の戦いであり、織田軍の劣勢を覆し、武田信玄の野望を挫いた。彼女の戦功は比類なきものだったが、一度として自ら誇ることはなかった。
また、静子は自身の忠誠心を貫くものの、彼女の後継者である四六が同じように織田家に忠誠を誓うかは不確かであった。四六は信長の直系でありながら、幼少期に織田家で虐待を受けた過去を持つ。そのため、信長や前久は四六の内心を測りかねていた。
近衛家との関係と影響力の拡大
静子が近衛前久と猶子の関係を結んだことで、彼女と四六の立場は公家社会でも重要なものとなった。武家と公家の橋渡しだけでなく、公家に対する軍事的支援も担い、静子軍はその規律と礼節によって朝廷からも高く評価されていた。
また、静子は早くから教育の充実と技術者の育成に力を入れていた。その結果、多くの知識人や技術者が第一線で活躍し、静子に恩義を感じていた。彼らの影響力は日ノ本全体に広がり、尾張を中心に巨大な経済圏が形成されつつあった。この一極集中した権力と財力が、信長の天下統一を早めた要因の一つとされている。
四六の継承問題と信長の懸念
静子の後継者として四六が名乗りを上げることは、織田家にとって新たな問題を生んだ。静子のもとで集中された権力と財力は、四六がそれを受け継ぐことでさらに強大なものとなる。信長は、四六が野心ある者に取り込まれれば織田家の基盤が揺らぐと危惧していた。
また、静子は己の力を過小評価する傾向があり、四六が問題に直面した際には「後継者の試練」として静観する可能性が高いと考えられた。そのため、信長は四六の動向を慎重に見極め、統治の安定を図る必要があった。
器の役割と女社会の影響
一方、器は金融や服飾・美容事業を掌握し、女社会に大きな影響を与えていた。これは静子の配慮によるものであり、農林水産業や医療、工業分野を避けることで四六の領域と競合しないように調整されていた。
器は金融事業で名を上げつつあり、その結婚についても考慮すべき時期に差し掛かっていた。静子は、たとえ四六と器が袂を分かつことがあっても、器が経済的に自立できるように知恵と経験を授けていた。これにより、織田の治世が続く限り、器の能力を必要とする者は絶えないと見込まれていた。
毛利水軍の敗北と戦局の転換
1579年、毛利輝元は織田軍に対抗するため、水軍を総動員して戦いを挑んだ。織田側の九鬼水軍は新造の大型鉄甲船を導入し、戦闘に備えた。両兵衛の策略と大砲部隊の援護により、毛利軍は潰走を余儀なくされた。
この戦いによって織田軍は瀬戸内海の制海権を掌握し、四国は長宗我部の手に落ちた。この結果、九州における親毛利派の国人たちは毛利家との関係を見直さざるを得なくなった。
毛利水軍の敗北は、織田家の勢力拡大に大きく寄与し、毛利家に対して臣従か敵対かの決断を迫ることとなった。
千五百七十九年四月中旬 二
秀吉の焦燥と戦功争い
羽柴秀吉は、西国征伐において鳥取城を無血開城し、一歩先んじた戦功を挙げていた。しかし、明智光秀が寡兵で上月城を攻め落とし、評価を高めたことで、秀吉の優位性が揺らぎつつあった。光秀軍は武家の出身者が多く、教育の行き届いた兵が揃っていた。一方で秀吉軍は数こそ多いが学のない者が大半を占め、高度な軍事行動を遂行する下士官が不足していた。この差が秀吉の焦燥の根幹にあった。
両兵衛の助言により戦略的な作戦を立案できるようになったが、それを実行に移すには軍の質が足りなかった。それに対し光秀は少数精鋭の部隊で成果を挙げており、兵の能力差が如実に表れていた。秀吉は、毛利の本拠である吉田郡山城の攻略に向け、大軍の編成を急いでいた。
毛利との海戦と秀吉の決断
その最中、九鬼水軍と毛利・村上水軍の海戦勃発の報が秀吉のもとへ届いた。信長の支援を受けた九鬼水軍の新型戦艦は圧倒的な性能を持ち、敗北はあり得ないと秀吉は判断した。毛利が海戦に集中している間に、陸地で優位を確保すべく、秀吉は迅速に行動を開始した。
物資の確保が急務となり、兵站を担う静子軍の真田昌幸に支援を要請した。即時の電信は不可能であったが、秀吉の要望を受け取った昌幸は、その内容を精査し、補給可能と判断した。秀吉軍は鳥取城から中国山地を越えて南下し、安芸国に入る計画であり、補給拠点の構築と物資の逐次供給が作戦成功の鍵を握っていた。
補給計画の調整と静子の判断
昌幸は兵站部隊の動員状況を調査し、京から鳥取城への補給経路を確認した。現地の状況を鑑み、補給部隊の人員を増やすよう秀吉に助言し、継続的な補給体制を構築する方針を定めた。
この計画は静子にも報告され、最終判断を信長に委ねることとなった。信長は慎重に考慮した末、秀吉の作戦を許可した。これにより、秀吉は西国征伐においてさらなる戦功を求め、山越え作戦の準備を本格化させた。
毛利水軍の敗北と戦局の転換
九鬼水軍は毛利・村上水軍の連合艦隊に対し、圧倒的な勝利を収めた。この戦いで九鬼水軍の旗艦「日輪丸」はその強大な戦闘力を示し、「黒船」と称されるようになった。瀬戸内海の制海権を完全に喪失した毛利は、以降、軍事行動を起こすことすらできず、守勢に徹することを余儀なくされた。
この海戦の結果、西国の国人衆にも動揺が広がり、毛利の影響力は大きく低下した。秀吉はこの機を逃さず、毛利を一気に追い詰めるための準備を進めていた。
西国の経済戦略と酒造事業
戦功争いだけでなく、秀吉は経済面でも優位に立つため、西国での酒造事業に目を向けていた。尾張の清酒は畿内で高値で取引されていたが、輸送費と品質の劣化が問題となっていた。そこで秀吉は、現地での醸造を試みることで市場を独占しようと考えた。
武庫山を含む地域に適した酒造職人を派遣し、西国の需要を掌握する計画を進めた。この事業が成功すれば、秀吉軍の財源となるだけでなく、西国の経済圏においても影響力を持つことができると見込まれた。
光秀との競争と秀吉の野心
畿内では光秀の名声が高まり、市場に影響を与えるほどの影響力を持つようになっていた。秀吉は光秀に遅れを取ることを危惧し、西国征伐における功績を確実なものとするため、毛利討伐を急いだ。
山越え作戦の成功は、西国制圧の決定打となる可能性があったが、慎重さも求められた。過去の播磨での失敗を踏まえ、秀吉は計画的な侵攻を進めていた。最終的には、冬を迎える前に毛利を攻め落とし、確実な戦功を得ることが目標とされた。
静子の休暇と正倉院の記録事業
一方、静子は信長の命により休暇を与えられていた。彼女は常に仕事を増やす傾向があり、休養を取るよう命じられたのはこれが初めてではなかった。外出制限まで課され、仕事から完全に切り離された状況にあった。
その間、彼女は正倉院の宝物目録の作成に取り組むことを決めた。正倉院文書の公開許可を得て、歴史的資料の記録を進めることが決まった。これにより、日本の文化財管理が大きく進展することとなった。
四六の試練と静子の決断
静子の後継者である四六の学友が、不正に手を染めているとの報告が入った。四六の名を騙り、投資詐欺を行ったことが判明し、間者によって証拠が押さえられた。
静子は、この問題の処理を四六に委ねることとした。為政者として、たとえ親友であっても悪を断罪できるかが試される局面であった。静子は四六がこの試練を乗り越えられるかを静観しつつ、世代交代の時が近づいていることを実感していた。
千五百七十九年六月中旬 一
岐阜監獄への訪問と四六の苦悩
美濃国の一角に、ツルリとした継ぎ目のない高い石壁に囲まれた監獄が存在していた。戦国時代においても珍しいコンクリート壁に覆われたこの施設は、国家を転覆せしめるほどの罪を犯した重罪人を収監する岐阜監獄であった。四六は案内役の獄吏と共に、この厳重な警備の敷かれた監獄へと足を踏み入れた。
彼の目的は、学友であった宇野貞吉と対面することであった。貞吉の家は薬の商いで成功を収めていたが、父である貞次郎が尾張の新薬を不正に改造し、利益を追求したことで破綻を招いた。その窮状を救うため、貞吉は四六の名を騙り投資詐欺を働いたが、その行為が露見し、一族もろとも逮捕されたのである。
貞吉の独房での対話
重犯罪者隔離房に収監された貞吉は、四六との面会を許された。四六が鉄扉越しに声をかけると、貞吉は悪態をついて応じた。彼には反省の色はなく、むしろ四六を言いくるめて助命を得ようと考えていた。
四六は淡々と、貞吉の罪の重大さを伝えた。貞吉の罪は彼一人に留まらず、一族郎党にまで及ぶものであった。この事実に直面し、貞吉は蒼白となり震えた。さらに四六は、貞吉の父・貞次郎も既に捕らえられていることを告げ、助命の望みはないと明言した。
四六の裁断と貞吉の最期
四六は静かに、貞吉の処断を己に委ねられていることを告げた。貞吉は必死に情に訴え、二度と罪を犯さないと誓った。しかし四六は、その虚言を看破した。彼の態度に反省の兆しがないことを見抜き、ついに沙汰を下した。
貞吉は尾張領主の名を騙り、詐欺を行った罪により「打ち首獄門」と決定された。さらに、詐欺に関与した貞吉の一族も死罪に処されることが決まった。貞吉は絶叫しながら四六に詰め寄ったが、四六の決断は揺るがなかった。
四六が監獄を後にする際、貞吉は鉄扉の向こうで怒号を上げた。しかし、その声は誰の耳にも届かなかった。学友を処断した四六の苛烈さは広く語り草となり、彼の名は冷徹な裁定者として世に知れ渡ることとなった。
静子の統治と東国の改革
四六が岐阜で裁きを下していた頃、静子は東国管領として検地と刀狩りを進めていた。刀狩りについては、害獣対策などの正当な理由があれば村単位での管理を認める穏当な方針を採っていた。しかし、刀剣類の犯罪利用を防ぐため、厳格な管理体制を敷いた。
一方、検地に関しては測量部隊が派遣され、正確な耕作面積や所有者を記録する作業が行われた。この結果、東国の土地制度が整備され、年貢の負担者が明確になった。さらに、度量衡の統一を進め、以降の検地をより正確なものとする体制を整えた。
伊達家と最上家の膠着状態
東国では、伊達家と最上家の戦が依然として続いていた。静子の発布した禁令により、新たな戦の勃発は抑制されていたが、すでに開戦していた両家は例外であった。他家の介入が禁じられたことで、両者は独力で決着をつけるしかなくなった。
禁令の効果は絶大であり、第三者の介入があれば織田家が即座に武力介入することが通達されていた。そのため、伊達家と最上家は慎重に戦を進めざるを得なかった。
静子の影響力と毛利家の動揺
尾張に潜入していた毛利の間者たちは、静子が軍事行動を起こさずに九鬼水軍を支援したことに動揺していた。毛利家は静子の動向を把握しようと間者を送り込んでいたが、静子は彼らを泳がせ、必要な情報を意図的に流していた。
やがて、静子は間者の処分を決断し、すべての情報源を断った。突然の情報途絶により、毛利家は静子の動向を読み違え、さらなる混乱に陥ることとなった。
毛利家の苦境と決断
九鬼水軍の圧倒的な勝利により、毛利水軍は壊滅的な打撃を受けた。毛利家の軍議では、徹底抗戦か和睦かを巡って意見が割れ、決定を下せない状況が続いていた。
そんな折、大坂に静子の軍が大規模な拠点を築くという報がもたらされた。これにより、西国の国人たちは、京へ攻め上がる道が完全に閉ざされたことを悟った。毛利家をはじめとする西国勢力は、織田家と戦うか降伏するかの二択を迫られることとなった。
大坂城建設と信長の構想
静子は、大坂に軍事拠点を築くため、大坂城の建設計画を進めていた。信長は、西国制圧の要として石山本願寺跡地を戦略的拠点にすることを決定しており、その建設計画を静子に一任した。
信長の真の狙いは、大坂を日本最大の港として整備し、西回り・東回りの航路を確立することであった。この構想は当時の人々には理解されなかったが、静子はそれを知る数少ない人物の一人であった。
信長と静子の交渉
信長は朝廷を利用し、瀬戸内海の支配を確立しようとしていた。朝廷から公式に瀬戸内の統治権を認めさせることで、反対勢力を封じる狙いがあった。
静子はこの方針を理解し、私掠船の取締令を布告することを提案した。これにより、瀬戸内の海賊行為を抑制し、商業航路の安全を確保しようとした。信長はその案を受け入れ、さらに朝廷に矢面に立たせることで、西国の国人たちの不満をかわそうと画策した。
信長の策略により、西国の支配は着々と進められ、静子もまた、信長の期待に応えるべく動き続けていた。
千五百七十九年六月中旬 二
技術街での石鹸製造
梅雨が明け、静子は久しぶりに技術街を訪れた。彼女と技術者たちは、目の前に並ぶ陶器製の壺を前に頭を悩ませていた。壺の中には刺激臭を放つ粘液が詰まり、加熱されていた。それは、工業化が進んだ尾張において不可欠となった石鹸の製造過程であった。
工業用機械の油汚れは従来の天然洗剤では落としきれず、より強力な洗浄力を持つ石鹸の需要が高まっていた。さらに、外洋航行の衛生管理の観点からも、粉石鹸の開発が求められた。石鹸の製造には苛性ソーダが不可欠であったが、尾張では工業化の過程で苛性ソーダが大量に生産されていたため、問題はなかった。
安価な石鹸の原料として、焼き鳥屋台などから出る廃油が活用された。従来、廃油は焼却処分されていたが、食品由来の腐敗臭や煤の問題があった。そこで、濾過や遠心分離を行い、精製した上で石鹸の原料とすることにした。
石鹸製造の工程と成果
精製した廃油を加熱し、技術者たちが食塩を投入すると、そぼろ状の固形成分が浮かび上がった。これを繰り返し塩析することで、高純度の石鹸が得られた。さらに、ローズマリーの精油を加えることで、香りの良い廉価版洗濯用石鹸が完成した。
しかし、工業用油の汚れを完全に落とすには力不足であったため、菜種油の廃油を用いた液体石鹸が開発された。水酸化カリウムを加えて炊き上げ、レモンの皮を粉砕したスクラブを添加することで、洗浄力を強化した。試験の結果、この液体石鹸は油汚れを効果的に落とし、周囲から歓声が上がった。静子は生産手順を最適化し、大量生産へ移行するよう指示を出した。
農業士の活躍と尾張式農法の普及
静子が石鹸製造の管理を離れた頃、各地に派遣された農業士たちの成果が報告された。尾張式農法と呼ばれる新しい技術を導入した田畑は、従来の収穫量を大幅に上回り、各地の国人たちは驚嘆していた。これを受け、多くの領主が自領への農業士派遣を求めた。
家康や謙信は、この成果に満足し、さらなる農業支援を要請した。静子はこれを喜びつつ、信長に方針を確認した。信長の返答は「好きにせよ」という素っ気ないものであったが、静子は自らの方針が信長の考えと一致していることに安堵した。
こうして、三河と遠江には大豆の生産を推奨し、越後には酒造技術者を派遣する計画が立てられた。食料の増産が成功したことで、嗜好品の充実にも目が向けられるようになった。
謙信の訪問と宴席の準備
夏を迎えた頃、謙信が尾張を訪問する旨の連絡が届いた。朝廷への挨拶や信長との会談を予定していたが、静子の元にも立ち寄りたいと申し出たのである。静子はこれを歓迎し、準備に取り掛かった。
越後の人々は無類の酒好きであり、七月上旬の時点では新酒の「吞切り」には早かった。そこで、静子は謙信一行をもてなすため、大量の酒を手配した。景勝と兼続が確認のため酒蔵を訪れると、見上げるほどの酒樽が積まれていた。その量に圧倒されつつも、宴席には十分であると判断した。
東国の変化と厭戦気運の広まり
織田の農業支援を受けたことで、東国の民は生活に余裕を持ち始めていた。その結果、「安定した生活を守りたい」という意識が強まり、厭戦気運が広がった。武士階級においても、下級武士は家族を養うため、無謀な戦を避ける傾向が強まっていた。
これにより、織田家に恭順する勢力が増え、西国の国人たちは苦境に陥った。東西で織田を挟撃する従来の戦略が不可能になり、静子の支援が進めば進むほど、東西の経済格差が拡大していった。
西国の混迷と決断の遅れ
尾張・美濃の二国だけで東国全体に匹敵する経済力を持つ織田家が、さらに東国全体を豊かにしていく中、西国の国人たちは織田に従うか、徹底抗戦するかの決断を下せずにいた。
秀吉と光秀が西国攻略を進めていたが、東国の発展により織田の余剰戦力が増し、西国に向けられる可能性が高まっていた。信長や静子の本軍が動けば、抗戦の余地はなくなると考えられていた。こうして、西国にも戦国時代の終焉が迫っていた。
謙信の尾張視察と織田の統治
謙信は京・安土を歴訪し、尾張へと到着した。彼は織田領の至る所で、人々が安定した生活を営んでいることを目の当たりにし、感慨を抱いた。戦乱に翻弄されることなく、人々が互いを支え合いながら生きる姿を見て、いくさの終焉が現実となりつつあることを実感した。
景勝もまた、この光景に感銘を受け、越後にも同じ未来をもたらす決意を固めた。彼は、「奪うことでしか生き残れない時代ではなくなる」とし、織田家の統治に従った判断が正しかったことを確信した。
謙信と景勝の決意
謙信は、いかに武に優れようとも、織田には勝てなかったと認めた。宇佐山の戦いにおける織田軍の結束力や、信長の治世がもたらした安定こそが、織田家の強さの本質であったと悟った。景勝もまた、武力のみでは勝ち得ぬものがあることを理解した。
彼らは「織田の治世が永遠に続くわけではないが、少なくとも今の秩序を守るべき」と考えた。彼らの使命は、民の暮らしを守り、より良い未来を築くことであった。
静子の影響と統治の未来
謙信は静子の働きを高く評価し、彼女の手腕が東国の安定を支えていることを認識した。織田の治世が続く限り、民は安心して暮らせる。しかし、いずれ時代が移り変わる時が来る。その時、彼らは変化に目を光らせ、織田家が暴政に走らぬよう監視し続けることを誓った。
こうして、彼らは織田の統治を支える決意を新たにし、静子との会談に備えて尾張での宴を楽しんだ。
千五百七十九年六月中旬 三
秀吉軍の山越えと伐根作業の困難
秀吉軍の山越えは、想定以上に難航していた。山奥に進むにつれ、背の高い広葉樹が樹冠を形成し、日差しを遮っていたため、地表は薄暗く、湿った腐葉土と地衣類が厚く積もり、足元が不安定であった。さらに、山犬や狼、猪、熊などの大型動物の生息域であり、とりわけ攻撃性の高い熊の出没が斥候部隊を苦しめていた。
兵士たちは、静子軍から支給された「根切り」と呼ばれる特殊な鋤を使い、長大な木の根を切断していた。切断後、技術街の職人が開発した「チェーンブロック」を用い、三脚の支持架を立てて根を引き抜く作業を行った。これにより、大型の切り株も徐々に撤去され、進軍路の確保が進められた。
斥候部隊の遭難と熊の襲撃
本隊の作業が進む中、斥候部隊の一組が消息を絶った。捜索隊が派遣され、数時間後に彼らの遺体が発見された。現場には激しい戦闘の痕跡が残されており、斥候たちは熊に襲われ、惨殺されていた。
戦闘の様子を分析すると、彼らは野営中に熊と遭遇し、応戦したものの、圧倒的な力の前に倒れたことが分かった。最後の一人は銃を発砲し、熊に致命傷を与えたが、すでに彼自身も致命傷を負っていた。熊は負傷しながらも生き延び、山の奥へと姿を消した。捜索隊は熊の死骸を発見できず、遺体の回収を諦め、遺髪のみを持ち帰ることとなった。
光秀軍の進軍と浦上の遅滞戦術
一方、備前国へ進軍した光秀軍も苦戦していた。浦上宗景は天神山城に籠城し、伏兵による遅滞戦術を展開していた。光秀軍の斥候は次々と襲撃され、兵力を削られていた。
さらに、光秀軍は吉井川を挟んで浦上軍と対峙することになった。浦上軍は川沿いに陣地を構築し、空堀を掘り、火縄銃を備えた防御態勢を取っていた。渡河手段も封じられたため、光秀は渡河作戦を断念し、塹壕対策として「霰弾」を使用することを決断した。
霰弾の投入と浦上軍の敗走
霰弾は、砲弾内部に無数の鉛玉を詰めた特殊弾で、上空で炸裂し、広範囲に鉛玉を降らせる仕組みであった。砲撃が始まると、浦上軍の陣地は壊滅的な被害を受け、多くの兵士が倒れた。これにより、浦上軍は戦意を喪失し、撤退を余儀なくされた。
しかし、霰弾は通常の砲弾の20倍もの費用がかかるため、光秀はこの戦闘が採算に合わないことを嘆いた。それでも、塹壕戦術を封じるためには避けられない決断であった。
信長と静子の会談
安土城では、信長と静子が会談を行っていた。信長は、毛利家を筆頭とする西国の反織田勢力の頑なな態度に関心を示さなかった。秀吉と光秀の進軍は遅れていたものの、計画自体は順調であり、毛利家が織田家に対抗できる手立ては残されていなかった。
静子は、西国への物資支援を管理し、密輸経路の特定を進める方針を伝えた。さらに、秀吉軍には熊除けの忌避剤を、光秀軍には弾薬の補充を手配することを報告した。
西国攻めの展望と静子の役割
信長は、西国の平定後、東国の統治について静子の見解を求めた。静子は、上杉や徳川が独自の対応を取り始めることを警戒し、適度な監視を続ける意向を示した。また、西国の平定後にどのような施策を取るかについて、信長と協議を進めた。
こうして、秀吉軍と光秀軍は困難に直面しながらも前進し、静子は彼らを支援しつつ、西国平定後の展望を描いていた。
千五百七十九年八月下旬
川根村と秀吉軍の接触
安芸国高田郡の最北端に位置する川根村に、見慣れぬ衣装の客人が現れた。彼らは多量の手土産を携え、村長宅で歓待を受けることとなった。村人たちは塩不足に悩んでいたため、客人の持ち込んだ保存食や衣類、鉄器などの物資を大いに歓迎した。宴が催され、客人は山を越えて道を作る準備をしていると説明し、村を山越えの玄関口にしたいと申し出た。
領主の許可なく決定はできないものの、村人たちは領主からの援助が乏しい現状に不満を抱いていた。そのため、正式な承認を得ることなく客人の活動を黙認する形となった。やがて、村の一角に建てられた小屋は物資集積基地へと変貌し、客人の数も増えていった。
福島正則の到着と村の決断
やがて秀吉軍の本隊が到着し、福島正則が指揮を執った。福島の到着により、村人たちは自分たちが毛利輝元と敵対する勢力を受け入れてしまったことを悟った。しかし、この時点で密告しても処罰を免れないと考え、村は秀吉軍への協力を決意した。福島は山越え街道の整備を約束し、村を物流拠点として保護する方針を示した。こうして村人たちは秀吉軍の駐留を受け入れ、支援する体制を整えていった。
光秀軍の進軍と浦上宗景の敗北
一方、光秀軍は吉井川の戦いで浦上宗景を打ち破った。浦上軍は塹壕を用いた防御陣を構築していたが、光秀軍は霰弾を用いた砲撃でこれを突破した。浦上軍は壊滅的な被害を受け、天神山城へ撤退した。
敗北を喫した浦上は、かつての家臣であった宇喜多直家に協力を求めることにした。宇喜多は一度は浦上と対立し、独立を貫いていたが、光秀軍の強大さを目の当たりにし、協力を決断した。宇喜多は織田軍と敵対する姿勢を維持しつつ、己の家を存続させる道を模索していた。
光秀軍の渡河作戦
吉井川を渡る手段を失った光秀軍は、浦上軍によって沈められた高瀬舟を発見した。地元住民の協力を得て高瀬舟を引き揚げ、渡河作戦を再開した。この間に二週間近くの足止めを受けたが、再び進軍を開始することができた。
秀吉軍の強化と毛利軍の警戒
鳥取城に陣取る秀吉のもとに、新式銃を装備した静子軍の二大隊が派遣された。この新式銃は無煙火薬を用い、連発射撃が可能な革新的な武器であった。毛利陣営は秀吉の本気を悟り、戦況の変化に警戒を強めた。
秀吉はこの戦力を活用し、毛利本拠地である吉田郡山城を攻略する計画を進めた。彼の真の狙いは、静子軍の圧倒的な火力を活かしつつ、毛利軍に心理的な圧力を与えることであった。
秀吉軍の侵攻と静子軍の活躍
秀吉軍は鳥取城を出発し、伯耆蛇山城へと進軍した。城主塩見氏は籠城を決め込んだが、静子軍は正面攻撃と陽動作戦を組み合わせ、計画的に城を攻略した。新式銃の制圧射撃と手榴弾を駆使し、防衛設備を無力化していった。
この圧倒的な戦果に秀吉は驚嘆しつつも、毛利軍をさらに動揺させるため、進軍を加速させた。毛利側は秀吉軍の進路を予測し、防備を固め始めたが、それこそが秀吉の策略であった。
千五百七十九年九月下旬
秀吉軍の快進撃と毛利陣営の動揺
秀吉軍は圧倒的な速度で侵攻を続け、毛利陣営を大いに動揺させた。この一月余りで二桁に及ぶ城を落とし、防衛の兵を残さず西へと突き進んだ。降伏した敵将兵は軟禁状態とされ、最低限の代官に後事を託す形で進軍が継続された。伯耆国を制圧した後は、勢いそのままに出雲国へと侵攻し始めた。
秀吉は、降伏を申し出た者や交戦で実力を示した者に対して寛大な処遇を与えた。優れた人材には直接会い、尾張の文物を贈ることで配下に引き入れた。一方で、間者を放ち、新たに臣下とした武将たちの内部事情を探らせた。対立関係を把握し、互いに監視し合う状況を作り出すことで支配地の安定を図った。
静子の情報収集と本能寺の変への警戒
尾張では静子が秀吉軍と光秀軍の戦況、さらには毛利陣営の動向について定期報告を受けていた。彼女の軍は後方支援を担う兵站部隊であるため、的確な支援のために戦況を詳細に把握する必要があった。その情報収集の中で、静子の脳裏には「本能寺の変」の不安がよぎっていた。
歴史上の大事件でありながら、明智光秀が謀反を決意した契機は不明であった。静子は、光秀もしくは秀吉が関与していると考え、二人の動向を特に注意深く監視していた。京から安土を経由して尾張まで監視網を構築し、人・金・物の流れを掌握。街道のインフラ整備と関所の管理により、誰がどれほどの富や武力を有しているかを把握できるようにした。
しかし、この厳重な監視態勢を敷くことで、静子が天下に野心を抱いていると見られる可能性もあった。それを回避できたのは、長可の存在によるものであった。長可は暴力的な手法で問題を解決する傾向があり、信長の寵愛を受けていたため、その問題行動も不問とされがちであった。彼の制御を静子が担うことで、結果的に兵力の駐留が歓迎される形となった。
農業士の成果と今後の課題
東国では、静子の配下である農業士たちが成果を上げつつあった。試験的に越後と三河の一部地域で新技術が導入され、収穫量は従来の三倍に達した。国人たちですら過度な期待をしていなかったため、この成果は大いに喜ばれた。
しかし、農業士たちは当初の見積もりより収穫量が少なかったことに落胆していた。静子は、農業が自然を相手にするものであり、計画通りにいかないこともあると理解し、叱責することなく励ました。問題点を整理し、翌年に向けた対策を指示。農業士たちは来年の成功を誓い、新たな計画を練り始めた。
静子は信長に対し、技術継承を優先するため来年も同程度の収穫になる見込みだと報告。しかし、この想定が裏切られることを知るのは一年後のことであった。
信長と光秀の不和の原因
静子が平穏な日々に満足していた矢先、信長と光秀の仲が険悪になりかけているとの報告が届いた。警戒心を抱いた静子は詳細を確認し、原因を知ると肩を落とした。それは、二人が飼う猫に関する些細な出来事であった。
朝廷の要人たちは己の愛猫こそが最も美しいと公言し、猫の写真を絵師に彩色させ品評する催しを開催していた。そこで最優秀とされたのが光秀の愛猫であり、信長はこれを快く思わなかった。さらに、帝が光秀の愛猫を称賛したことで、信長の不満は頂点に達した。
この騒動を収めるため、静子は「一枚の写真で評価を決めて良いのか」と問いかけた。すると、貴人たちは写真アルバムの魅力に気づき、競うように愛猫のアルバム制作に励むこととなった。こうして、不和の芽は摘み取られた。
大食い大会の企画と中止
静子は写真の普及を目的とし、大食い大会を企画した。米・芋・酒の三部門に分かれ、制限時間内に食べた重量を競う内容であった。優勝者の写真を額に入れ、一年間掲示する計画であった。
しかし、大会開催の直前、信長の鶴の一声で中止が決まった。その理由は、徳川家康が静子のもとへ人質を送ることを申し出たためであった。
於義伊の人質としての派遣
徳川家では、上杉謙信や伊達家が人質を差し出している中、自分たちだけが同盟に頼っている状況を問題視する意見が出ていた。その結果、人質として次男の於義伊(後の結城秀康)を送ることが決定された。
於義伊は長らく家康の子として認知されていなかったが、家中の事情により今回正式に次男とされた。築山殿の反対を押し切る形で、長勝院を側室とし、於義伊を認知することで決着がついた。こうして、彼は静子のもとへ送られることになった。
静子は、於義伊の境遇について興味を抱いたが、深入りすべきではないと判断し、受け入れの準備を進めた。同時に、中止となった大食い大会を来年の収穫期に改めて実施する旨を宣言した。
国内整備と西国の戦局
尾張では、浮浪者が減少し、インフラ整備のための労働力として活用され始めていた。愛知用水の開発が進行中であり、労働者の需要が高まっていた。さらに、東国開発に向けた街道整備や公共施設の建設も本格化し、各地で大規模な工事が予定されていた。
インフラ事業は基本的に赤字であるため、他の事業で利益を補填する必要があった。浮浪者への支援として、生活基盤の安定と就労支援をセットで実施し、労働力として活用する政策が進められた。
こうして静子が国内整備に尽力する中、西国では毛利と織田の最終決戦が迫っていた。
千五百七十九年十月中旬 一
一夜城の出現と毛利輝元の動揺
吉田郡山城の眼前に突如として漆喰塗りの城が出現した。掲げられた旗は信長と秀吉のものであり、毛利家の本拠地からわずか数キロメートルの地点に敵軍の拠点が築かれた形となった。これに激怒した輝元は、すぐに一夜城への攻撃を決断した。
一方で、毛利陣営の中には秀吉の過去の築城手法を警戒し、慎重な対応を求める声もあった。しかし、敵の拠点が増えれば状況が悪化することは明白であり、試しに攻めてみるべきとの意見が優勢となった。輝元は、一夜城の内部に秀吉軍の少数部隊が籠もっていると推測し、本格的な攻撃が始まる前に城を攻略するよう命じた。
福島正則の策略と一夜城の実態
福島正則は、毛利陣営の混乱を見越して一夜城の建造を進めていた。この城は決して一夜で築かれたものではなく、二か月近く密かに準備されたものであった。谷間の陰を利用し、石垣を積み上げた上で、漆喰塗りに見せかけた外壁を設置することで、あたかも一夜で完成したように見せかけたのだ。
城の壁は、実際には静子が開発した石膏ボードで作られており、大砲の砲撃には耐えられないが、遠目には堅牢な城に見える工夫がされていた。建材は川根村で製造され、江の川を経由して運び込まれた。毛利陣営の視界に入らないよう細心の注意が払われていた。
毛利軍の攻撃と一夜城の防衛
毛利軍は、一夜城の規模を把握するため、まず二百の兵を送り込んだ。城の基部に到達すると、しっかりと積まれた石垣を目にし、これが単なる急造の城ではないことを悟った。しかし、情報を得るためにさらに二十名の兵を派遣すると、城から降り注ぐ石によって半数が負傷し、撤退を余儀なくされた。
続いて火縄銃と弓を用いた攻撃を試みたが、攻撃側が低地にあったため効果がなく、逆に城側の銃眼からの反撃を受けて撤退することとなった。この戦闘によって、一夜城はただの急ごしらえの建築物ではなく、本格的な防衛設備を備えた拠点であると確認された。
輝元の決断と一夜城の戦略的放置
毛利軍の攻撃が失敗に終わると、輝元は再び合議を開いた。最終的に、一夜城は放置する方針が採られた。理由として、城の規模が小さく、内部の兵数も五百を超えないと推測されたためであった。事実、福島正則が配置していた兵は三百に過ぎず、主力は川根村に滞在し、物資の輸送を担当していた。
輝元にとって、敵本拠地に少数の兵を置く戦略は理解しがたいものであったが、その意図を知るのはもう少し後のことであった。
秀吉本隊の進軍と山越えルートの開通
秀吉の本隊は出雲国から南下し、開通した山越えルートへと進んでいた。このルートは、砕石を撒いた簡素なものではあったが、従来の山道に比べれば格段に移動しやすかった。
秀吉は、明智光秀よりも先に高小屋城(毛利側の呼称)へ入ることを望んでいたが、軍の進軍速度や兵站の問題から、大砲の輸送が間に合わない可能性を懸念していた。しかし、毛利側に対して心理的な圧力を与えることができれば、城を落とす必要はないと考えていた。
一夜城は毛利の注意を引きつけるための囮であり、毛利側に「放置しても問題ない」と思わせることが狙いであった。その間に、外壁の石膏ボードをコンクリートに置き換える計画が進行しており、最終的には堅牢な城へと変貌する算段であった。こうして、吉田郡山城攻めの幕が切って落とされた。
奥州の戦況と伊達・最上の戦い
西国での戦局が激化する一方、奥州では伊達と最上の戦いが続いていた。この戦争は、織田家の威光により他の勢力の介入が許されず、完全な一対一の戦いとなっていた。しかし、最上家は内部に親伊達派を抱えており、劣勢を強いられていた。
この戦いの勝敗は、どちらかが降伏を宣言した時点で決着する運命にあった。織田家の介入を恐れ、長期戦を避けるため、両家とも慎重な戦いを続けていた。
宇喜多直家の決断と明智軍への接触
備前国では、宇喜多直家が動きを見せていた。彼は織田家との和睦を目指し、自らの命を代償に有利な条件を勝ち取ろうと決意していた。嫡男・秀家に家督を譲ると、自身は忍山城へ移り、明智軍に臣従の意を伝えた。
直家は、明智軍に対し「宇喜多家は織田家に従うが、これに反対する直家を追放した」との書状を送った。つまり、直家が明智軍に危害を加えたとしても、宇喜多家は関与しないという立場を取ることで、織田家への臣従を確実なものにしようとした。
光秀の判断と浦上の動向
明智光秀は宇喜多家の申し出を受け、信長の判断を仰ぐことを決定した。しかし、直家という謀略に長けた人物が独立勢力となったことに警戒を抱いた。
一方で、敗走した浦上宗景は、光秀に挟み撃ちにされることを恐れ、宇喜多と手を結ぶことを模索した。しかし、直家は明智軍への臣従を優先し、浦上と手を組むことを拒絶。孤立した浦上は天神山城へと籠城し、明智軍の動向を探ることとなった。
光秀は浦上を深追いせず、西へと進軍を続けた。その結果、浦上は備中へ向かい、再び直家と交戦する可能性が生じることとなった。こうして、西国と東国での戦局がそれぞれの局面を迎える中、織田軍の勢力は着実に拡大していった。
千五百七十九年十月中旬 二
秀吉軍の進軍と吉田郡山城の包囲
秀吉軍本隊は中国山地を越えて川根村へ到達し、江の川を利用して毛利軍に妨害されることなく高小屋城へ合流した。総勢二万を超える大軍を抱えた秀吉軍は、部隊を分割しながら進軍を開始し、まずは柿原城を攻め落とした。最新式の連発銃を備えた兵の活躍により、地理的優位を持つ籠城側の毛利軍を圧倒し、次々と支城を制圧していった。
その後、秀吉軍は南へ進軍し、釜ヶ城、長見山城、中山城、高塚山城を陥落させた。これにより、わずか三日で吉田郡山城の東側の支城群を手中に収め、包囲網を完成させた。
秀吉の戦略と毛利軍の心理戦
吉田郡山城の周辺を制圧した秀吉は、次なる戦略を練り始めた。勢いに乗じて総攻撃を仕掛けるのではなく、あえて動きを止めることで毛利軍を揺さぶる策を講じた。毛利軍が籠城を続けるか打って出るかを決断できずにいる間に、彼らの士気を削ぎ、動揺を誘う意図であった。
また、秀吉は単に勝つだけではなく、信長の関心を引くための「遊び」を仕掛けることを考えていた。単なる正攻法では信長の印象に残らず、手柄を光秀と分け合うことになるため、敵を挑発するような策が必要と考えたのである。
毛利軍を揶揄する支城制圧作戦
秀吉は、毛利軍の士気をさらに削ぐため、吉田郡山城を攻める前に西側の支城もすべて落とす作戦を立てた。すでに東側の支城を制圧したことで、毛利軍はすでに追い詰められていたが、さらに退路を断つことで精神的な圧力をかけることが狙いであった。
秀吉軍は南北に部隊を分け、南側は高塚山城から田淵ヶ城を経由し、青山城、光井山城を攻略するルートを進んだ。一方、北側は安芸宮崎城、船山城を攻め落とし、包囲網を強化していった。
この間、毛利軍は合議制の弊害によって迅速な決断ができず、各支城の奪回や総力戦に踏み切ることなく、次々と拠点を失っていった。結果として、毛利軍は完全に孤立し、籠城戦を続ける以外の選択肢を失うこととなった。
秀吉軍の警戒と毛利軍の不可解な沈黙
吉田郡山城の周辺の支城がすべて落ちたにもかかわらず、毛利軍は積極的な反撃に出ることはなかった。この不可解な態度に秀吉軍の軍師たる黒田官兵衛と竹中半兵衛は警戒を強めた。
官兵衛は、毛利軍が何らかの隠された策を持っているのではないかと疑い、斥候を増やして毛利軍の動向を探ることを決めた。籠城を装いながら密かに脱出し、外部の支城と連携して挟み撃ちを狙う可能性や、冬の到来を待って秀吉軍の撤退を誘う戦略も考えられた。しかし、決定的な証拠はなく、毛利軍の真意を読み取ることはできなかった。
宇喜多直家の決意と最期の戦い
一方、備前国の宇喜多直家は、毛利の敗北を確信していた。瀬戸内海戦や吉井川の戦いを経て、織田軍の戦術が戦国時代の常識を覆すものであることを肌で感じ取っていた。彼はこれまでの謀略に満ちた人生を振り返り、自身の最期を迎えるにふさわしい戦場を求めていた。
直家は、織田軍に降る道もあったが、矜持を捨てて生きるよりも、明智軍との戦いで散ることを選んだ。自ら槍を手に取り、己の生涯の締めくくりとなる戦場へ向かう決意を固めた。
こうして、西国の戦局はさらに激化し、吉田郡山城を巡る攻防戦の幕が上がろうとしていた。
千五百七十九年十月下旬
宇喜多直家の奇襲と明智軍の苦戦
明智光秀は、宇喜多直家をただの謀略家と見なしていたが、その戦術は予想をはるかに超えていた。備中国の街道を進軍中、直家自らが率いる部隊が突如奇襲を仕掛けた。花房正幸の弓、遠藤兄弟の鉄砲が猛威を振るい、明智軍は大きな損害を受けた。奇襲後、直家の部隊は即座に撤退し、明智軍は反撃の機会を持たぬまま翻弄された。
その後も直家は執拗に奇襲を続けた。明智軍も対策を講じ、どの方向から攻撃を受けても反撃できる体制を整えたが、それでも消耗は避けられなかった。最終的に直家の兵は激減し、奇襲を継続できる戦力を失った。
直家の最期の決戦
直家は最後の戦いを決意し、老臣たちだけを残して若者を退かせた。岡利勝、戸川秀安、延原景能ら忠臣たちは、直家の覚悟を受け入れ、共に討ち死にする覚悟を固めた。彼らは忍山城を決戦の地と定め、明智軍を待ち受けた。
忍山城の大手門は開け放たれ、誘い込むような構えを見せた。光秀は罠を警戒し、砲撃を命じたが、その瞬間、直家の騎馬隊が大手門の陰から突撃を仕掛けた。しかし、光秀もこれを予期しており、鉄砲隊を待機させていた。乱戦となり、多くの直家の兵が討たれたが、直家自身はなおも戦い続けた。
直家の壮絶な最期
直家は敵兵を蹂躙しながら光秀の本陣へと迫った。しかし、明智軍の迎撃は苛烈を極め、直家と延原は落馬し、重傷を負った。それでも直家は立ち上がり、最後の一撃を狙って突撃を試みたが、明智軍の包囲を突破することは叶わなかった。
彼は最後の抵抗として敵兵に小便を引っ掛け、挑発した後、槍に貫かれて果てた。直家の死を見届けた延原もまた、狙撃によって命を落とした。
浦上宗景の降伏と光秀の進軍
宇喜多直家の討ち死にを知った浦上宗景は戦意を喪失し、明智軍への降伏を決意した。彼にとって直家は憎むべき仇でありながら、同時に強烈な存在であった。その直家があっけなく討たれたことで、戦への執着も消え去った。
光秀は予想外の大打撃を受けたが、浦上の降伏によって戦線の整理を進めることができた。補給を受けた後、彼は秀吉に遅れを取りながらも西へと進軍を開始した。
千五百七十九年十一月上旬
毛利両川の進言と輝元の葛藤
毛利輝元は、小早川隆景と吉川元春から織田方と和睦すべきとの進言を受けた。吉田郡山城の支城はすべて陥落し、援軍の望みもなく、降雪まで耐えるには時間がありすぎた。激昂した輝元は二人を斬ろうとするが、冷徹な元春の言葉により冷静さを取り戻した。
宇喜多直家は討ち取られ、浦上宗景も織田に降った。西国の独立勢力が相次いで消滅する中、輝元は毛利の行く末を案じた。だが、決断を下せず、時を引き延ばしていた。
秀吉の喜悦と明智軍の遅れ
一方、秀吉は明智軍が間に合わないという報告を受け、快哉を叫んだ。宇喜多直家の奮戦により光秀の進軍が遅れ、秀吉は単独で毛利と決着をつける機会を得た。
本来、一夜城こと高小屋城は光秀の大砲部隊と連携し、砲撃戦によって毛利の戦意を挫く予定だった。しかし、計画が変わり、秀吉は調略や心理戦で毛利を追い詰める必要に迫られた。それでも信長から直々に称賛を受けたことで機嫌は良かった。
突如として始まった砲撃
ある朝、輝元は轟音と地震のような揺れで目を覚ました。飛び出した先で目にしたのは、黒煙を上げて炎上する食料庫だった。驚愕する輝元は、高所に上って敵の動きを探るが、攻撃地点は見当たらない。
次の砲撃が放たれた瞬間、輝元は一夜城の射撃場から炎が噴き上がるのを目撃した。秀吉軍は、福島の機転により、播磨から修理中の艦載砲を運び込み、砲撃を敢行したのだった。砲弾は毛利の食糧庫、物見櫓、城壁を直撃し、短時間で毛利の士気を打ち砕いた。
この砲撃により、輝元の矜持は完全に折れた。彼は膝をつき、「もはやこれまで」と呟き、織田への降伏を決意した。
和睦の成立と毛利の屈服
秀吉は、毛利降伏の報を受けても浮かれず、迅速に和睦交渉を進めた。和睦条件は、毛利家の存続を認めるものの、完全に秀吉の支配下に置くという内容であった。
福島の機転による大砲の運用は効果的であったが、兵士たちの未熟さから負傷者が続出し、改めて大砲の運用の難しさを思い知ることとなった。秀吉は、大砲の重要性を再認識し、今後の軍備に取り入れる意向を示した。
秀吉は、毛利家を代官として安芸に留めつつ、福島を監視役として派遣し、西国の安定化を図った。毛利家には一定の裁量を与えるが、織田に反抗すれば即座に粛清される立場となった。
秀吉の帰還と元服式の準備
和睦が成立し、秀吉はただちに京へ向かう準備を進めた。彼の最大の懸念は、静子の後継者たる四六の元服式に遅れず参列することであった。
京には多数の参列者が集まるため、宿泊地の確保が急務であった。秀吉は京入りを急ぎ、良い宿を押さえようとした。警備には静子の軍が動員され、京の治安は万全であった。
天下統一への道
毛利の降伏により、西国は完全に織田の勢力圏となった。信長はもはや名実ともに天下人であり、朝廷も織田に逆らう余地を失った。
信長は静子の邸を訪れ、天下統一の達成を静かに喜んでいた。彼は、朝廷や旧勢力の動きを見極めつつ、新たな秩序を築く準備を進めていた。
信長は毛利の屈服を高く評価したが、同時に「猿の手柄が大きすぎる」と警戒していた。秀吉の勢いは今や無視できぬ存在となり、信長の目には、彼をどのように制御するかという新たな課題が映っていた。
巻末 S S 特注布団一式
信長の特注布団の完成
静子はかつて信長から受けた「最高級の布団一式」の発注書を手にし、その完成を懐かしんでいた。この布団の製作には一年の歳月を要した。信長が以前使用していた布団は尾張産の木綿を詰めた一般的なものであったが、今回の特注品は全く異なる仕様となっていた。
敷布団は三層構造とし、第一層と第三層には真綿を使用した。真綿とは繭をそのまま引き延ばして作られたもので、何百層にも重ねて厚みを出した。芯材には羊毛を採用し、温かさと吸湿性を確保した。この三層をそれぞれ独立した包装にすることで、洗濯時の問題を回避する工夫も施された。
掛け布団には、厳選された極細の木綿糸を使用した最高級の側生地を採用した。詰め物には天然ダウンのみを使用し、羽毛のような軽さと優れた保温性を実現した。さらに冬用の毛布には希少なカシミアを用い、滑らかで温かい肌触りを追求した。この純カシミア毛布は試作品として静子自身が使用し、正式仕様の第一号は信長のもとへ届けられた。
枕にも同様のこだわりが注がれた。信長の髪型が茶筅髷であるため、沈み込む柔らかな枕が適していた。三層構造を導入し、上下にグースダウン、芯材には高品質のダウンを使用することで、極上の寝心地を提供する枕が完成した。
信長の絶賛と布団の威力
信長はこの特注布団を使った翌朝、極上の睡眠を体験したことを静子に伝えるべく、彼女を安土城へ呼び寄せた。彼は布団の柔らかさ、掛け布団の軽さ、枕の包み込むような感触に驚嘆し、「天上の心地であった」と評した。
掛け布団の軽さは従来の綿布団とは比べ物にならず、身体への負担がなくなったと実感していた。さらに、枕の絶妙な沈み込み具合が頭部を支え、心地よい眠りへと導いた。結果として、信長は目覚めの爽快さを実感し、普段の起床時に感じる倦怠感が一掃されていた。
この布団一式を献上した静子と関係者には、信長より褒美が与えられた。以来、信長はこの布団を持ち歩くようになり、遠征先でも専用の世話係に清掃を担当させるほどの愛用品となった。
湯たんぽの普及と改良
信長は布団の心地よさに満足しつつ、寒冷な夜に対策を求めた。静子が使用していた湯たんぽを見つけると、自身用に作るよう要求した。尾張ではすでに普及していたが、越後や奥州などの寒冷地では垂涎の的となり、特に上杉家や伊達家の領内では飛ぶように売れた。
しかし、初期の湯たんぽには問題点があった。樹脂製は軽量で丈夫だが保温性が低く、朝には冷たくなってしまう。そこで、陶器製の湯たんぽが開発された。これにより朝まで温かさが持続するようになったが、陶器製ゆえに割れやすいという新たな課題が発生した。
濃姫がこの湯たんぽに興味を示し、さらなる改良を求めた。結果として、内部を鏡面仕上げにした魔法瓶のような湯たんぽが開発された。これにより、長時間の保温が可能となり、特に寒さが厳しい地域での評価が高まった。
信長の自慢と特注布団の波紋
信長は極上の寝具に感動し、各方面に自慢し続けた。その結果、公家や武家、さらには仏家からも同様の寝具を求める声が殺到した。特に近衛前久からの問い合わせを皮切りに、静子のもとには寝具の注文依頼が山のように届いた。
しかし、この特注布団は大量生産が困難であり、製作には時間と労力を要する。さらに、信長が持ち歩くことで清掃の問題も発生し、羊毛部分の定期的な洗濯が必要となった。
静子はこれらの要望に応じきれず、布団の供給を制限することを決断した。濃姫からの特注湯たんぽも完成し、それを送ったことで一段落したかに思えた。しかし、これを契機に貴族層の女性たちから、さらに大量の注文が押し寄せることとなった。
巻末 S S 福利厚生
静子邸の福利厚生と特別な酒
静子邸では、当時としては珍しい福利厚生が提供されていた。徒弟制が主流の時代にあって、特に食に関する手当が手厚くなっていた。これは、静子が現代的な価値観を取り入れた結果である。尾張は静子の政策によって食糧が豊富であったが、それでも飢饉の可能性は否定できなかった。そのため、特別な時にのみ食料を配るのではなく、常に保存の利く食料や調味料を支給する形で対策を講じていた。
この中でも最も人気があったのは酒であった。静子邸の酒蔵には、一般人が購入できる酒から、金を積もうが手に入らない逸品までが揃えられていた。そのため、「静子邸に無い酒は日ノ本に存在しない」と豪語できるほどの品揃えを誇っていた。しかし、酒には飲み頃があり、常に適量を確保するために余剰が発生していた。そこで、余った酒は福利厚生の一環として家人たちに振る舞われることがあった。
振る舞い酒をめぐる酒飲みたちの結束
この福利厚生は静子の善意によるものであり、法で定められたものではなかった。そのため、行状が悪い者には制限が加えられることもあった。特に、酒を好む者たちは、この特権を失うことを恐れ、半年に一度行われる人事考課の時期が近づくと、互いに励まし合いながら慎重に行動するようになった。
問題を起こせば連帯責任で振る舞い酒が減らされるため、彼らの結束は自然と強まった。あの荒事を好む長可ですら、この時期になると喧嘩の当事者にならぬよう振る舞い、治安部隊に酔漢を引き渡すほどであった。こうして考課日が近づくにつれて、酒飲みたちは日に日に緊張感を高め、前日には殺気立つほどの真剣さを見せるようになった。
一方で、静子は「市場へ払い下げればよいのではないか」と提案したが、彼らは「特別な酒を自分たちだけが飲めることに意味がある」と主張し、反対した。かつて振る舞い酒を餅に変えようとした際も、多くの反対意見が寄せられ、頓挫したことがあった。
静子の決断と酒飲みたちの動揺
静子は、新設した醸造所の献上品が増えたことで酒の保管場所を確保する必要があった。そのため、振る舞い酒の量を増やすか減らすかを考えていた。彼女が「酒の減りが早い」と口にした途端、心当たりのある酒飲みたちは青ざめた。さらに、「酒量が増えれば健康に悪い」との発言に、戦々恐々としながら神仏に祈る者まで現れた。
しかし、静子は「仲間意識を醸成するには酒宴も重要」と考えを改め、慎重に判断を下すことにした。だが、彼女が思案するたびに酒飲みたちは固唾を飲んで見守り、密かに耳をそばだてていた。
やがて静子は、「酒飲みたちの気持ちが分からないので、越後の者に聞いてみるのが良い」と考えたが、彼らがただ酒を増やすよう求めることは明らかであった。結局、彼女の思考は二転三転し、酒飲みたちを不安に陥れた。
静子の策略と酒飲みたちの反応
静子は毎年のことながら、人事考課前になると酒飲みたちが過剰に気を配る様子に気付いていた。彼女の呟きに一喜一憂する彼らの反応を楽しみつつ、冷静に判断を下していた。最終的に彼女は、「振る舞い酒の量を昨年の1.5倍にする」と決定したが、その結果を公表することはなかった。
書類に記載した後、それを懐へと仕舞い、決して口にはしなかった。その瞬間、遠くで小枝を踏む音がしたが、すぐに静寂に紛れた。盗み聞きをしていた者たちは、その決定が明かされなかったことに焦りを覚えたであろう。
静子は「明日が楽しみだ」と微笑み、彼らの反応を期待していた。
特別書き下ろし 一番の贅沢
静子邸における彩の立身出世
静子邸では、出自に関係なく成果が評価される仕組みが徹底されていた。その象徴とも言えるのが彩であった。彼女は戦乱によって親族を失い、孤児として浮浪する身となった後、間者として拾われた過去を持つ。もし静子のもとへ下働きとして派遣されていなければ、厳しい任務により命を落とすか、汚れ仕事に手を染めるしかなかったであろう。
しかし、静子邸に仕えることで彼女の運命は大きく変わった。尾張という日ノ本でも屈指の領国を治める静子のもとで、彩は資産管理という重要な役割を担うまでに出世したのである。この成功に関して、彩自身は「静子の引き立てがあってのこと」と述べていたが、周囲は単なる幸運とは見なしていなかった。静子は一度信頼した者には寛容であったが、職務に関しては情を挟まず厳格な基準を設けていた。特に、領国全体に影響を及ぼしかねない要職には慎重な人選がなされており、彩が金庫番を任されたのは、その実力を認められた結果であった。もし彼女が静子の庇護に甘え、傲慢な振る舞いを見せていれば、とうの昔に粛清されていたであろう。
贅沢になった食事と孤独な時間
彩は目の前の食事を見つめながら、過去の自分がこの光景を見たら驚くであろうと考えていた。炊き立ての白米に味噌汁、主菜や副菜、香の物まで揃った食卓は、かつての彼女には夢物語のような贅沢であった。かつて間者として生きていたならば、一生に一度食べられるかどうかというほどの豪華な食事である。しかし、その贅沢に慣れてしまった今、彼女は別のことに気付いた。
それは、食事の場に誰もいないことへの寂しさであった。静子邸では「食事は皆で取る方が美味しい」という考えのもと、特別な事情がない限り、共に食事をすることが掟とされていた。しかし、その日は彩が一人で膳を囲んでいた。どれほど豪勢な料理でも、静寂の中で食すことに彩は物足りなさを感じていた。
静子とのひととき
その時、食堂に静子が姿を現した。彼女は広々とした空間の片隅で一人食事をしている彩を見つけると、驚いた様子を見せた。そして、彩に向かって「お茶を淹れてくるから話をしよう」と提案し、自ら台所へ向かった。
関東管領という要職にありながら、静子は手慣れた所作で盆に急須と茶碗を載せ、再び戻ってきた。そして、茶碗を彩に手渡すと、自らも熱い茶を啜りながら世間話を始めた。
彩はそんな静子の姿を見て、ふと微笑んだ。先ほどまで味気なかった食事が、一変して温かみのあるものに感じられたからである。とりとめのない会話が、何よりも心を和ませる時間であった。
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