「戦国小町苦労譚 2 天下布武」静子に馬廻が出来る【感想・ネタバレ】

「戦国小町苦労譚 2 天下布武」静子に馬廻が出来る【感想・ネタバレ】

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どんな本?

戦国小町苦労譚は、夾竹桃氏によるライトノベル。
農業高校で学ぶ歴史好きな女子高生が戦国の時代へとタイムスリップし、織田信長の元で仕えるという展開が特徴。
元々は「小説家になろう」での連載がスタートし、後にアース・スターノベルから書籍としても登場。

その上、コミックアース・スターでも漫画の連載されている。

このシリーズは発行部数が200万部を突破している。

この作品は、主人公の静子が現代の知識や技術を用いて戦国時代の農業や内政を改革し、信長の天下統一を助けるという物語。
静子は信長の相談役として様々な問題に対処し、信長の家臣や他のタイムスリップ者と共に信長の無茶ブリに応える。

この物語には、歴史の事実や知識が散りばめられており、読者は戦国の時代の世界観を楽しむことができる。

戦国小町苦労譚

2016年に小説家になろうで、パクリ騒動があったらしいが、、、
利用規約違反、引用の問題だったらしい

前巻からのあらすじ

信長は静子を数年連続して凶作の村の村長に任命して再建せよと命じる。
初年、静子はサツマイモ、カボチャ、スイートコーン、トマトを収穫。

翌年は命じられた8倍の米。
さらに戦略物資の大豆、シイタケ、砂糖、ハチミツを生産して織田家に大貢献する。

読んだ本のタイトル

戦国小町苦労譚   2 天下布武
著者:#夾竹桃 氏
イラスト:#平沢下戸 氏

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あらすじ・内容

現代よりちょっと先の未来に暮らす、平凡な女子高生静子の特技は農作業。畑からの帰り道に突然タイムスリップしてから約2年−−

相変わらず農業に明け暮れる彼女だったが、信長から「弓勝負」を持ちかけられたのをきっかけに、クロスボウを増産したり、村の拡大を機に戸籍まで作成することに。

そして例のアレの生成に成功し、軍事的支援も!?

そんな中、信長はついに稲葉山城を攻め落とす。

なぜか迷い込んできた本多忠勝や、同じくなぜか面倒を見ることになった前田慶次、濃姫まで絡んできて、より一層歴史の渦に巻き込まれていく静子の運命に刮目あれ!

戦国小町苦労譚 二、天下布武

感想

農業は軌道に乗り、戦略物資の生産も出来て来たが・・・

隣村の飢餓を間伐や井戸掘り等をして救った静子。

彼女の知識の源泉は黒歴史ノート?それによって土壌改良、暗渠、草刈機、塩、レンガ、コンクリート、木酢液等を開発し。

三河の綿も入手。
ついでに本多正勝と共同開発を行う事にもなる。

風邪を拗らせて咳が止まらず熱が下がらない信長の嫡子、奇妙丸を保健体育の教科書を参考にして治療。

それだけ功績を積んだ静子は美濃平定の宴に呼ばれるが、、

余興で信長と静子のクロスボーを披露させられる。
静子はクロスボーを使用して、織田信長の和弓との対決で互角で終わる。

非力な女性である静子が狙い撃っても高確率な命中精度の高さに諸将は驚くのだが。

矢が特殊なのと、クロスボーの精密な作りには戦場には向かないと結論が出る。

でも、信長は構造を簡略化して試しに少量のクロスボーを作るようになり。
斉藤家との戦闘で有効だと認められるが、鉄砲ほどではなかった。

そして、一仕事が終わった静子は、後々に信長から酒を飲まされたらポロポロと優良な情報を吐きまくる。

年末の宴では信長と口論して、静子が反論するとは思わず驚いた信長が座卓を蹴り飛ばす事件が起こり。
だが、信長が怒る事もしっかり反論する静子に諸将は戦慄。

それ以来、諸将は静子を女性だからと見下す事が少なくなった。

そんな有能な彼女を信長は別の時代の人間だと看破して保護する事を決める。

その一手に彼女直属の馬廻衆を入れた。

前田慶次、可児才蔵。

そしてオマケに元服前の森長可。
そんな彼等が家に住み身辺を護る。

だが、森長可は女の言う事を聞く事に難色を示し反発していたのを静子との勝負で勝ったら、言う事を聞くと約束。

勝負の内容を静子に選ばせたら、英語の和訳勝負を挑まれて敗退。
剣、弓、馬などで勝負すると思い込んでいた森長可がより反発するが、父親の森可成が激怒して森長可は静子の言う事を聞かされる。

その後も実力行使をしようとしたら、ビットマンファミリーの警邏網に引っかかって分からせられ。
それでも諦めずに静子の寝込みを襲ったら、

静子の姉直伝のサブミッションを喰らって森長可は大人しく静子の言う事を聞くようになった。

そうして、森長可は静子という名コーチの下屈強な身体を手に入れて、

10歳児としてはかなり屈強な身体を手に入れた。
同じ事をして、さらに良い食事をしていた前田慶次、可児歳三も屈強な身体を手に入れる。

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備忘録

永禄十年天下布武

千五百六十七年一月上旬

戦国時代の正月と餅の重要性

戦国時代において正月は特別な行事であり、餅は神への供物として神聖視されていた。祝い事や祭りには欠かせず、貧しい百姓であっても正月には餅を用意するのが習わしであった。静子は年末から正月の準備に奔走し、門松、しめ飾り、鏡餅の準備を進めた。門松は年神を迎える目印、しめ飾りは神聖な空間を示す印、鏡餅は年神の依り代とされ、十二月二十八日までに準備を終えることが望ましかった。

正月の宴会と餅つき

元日、村人たちは寒さを厭わず日の出前に起床し、広場に集まって焚き火を囲みながら一年の健康を祈願した。日の出とともに全員が手を合わせた後、餅つきが始まり、蒸したもち米を臼と杵で搗きながら餅を作る作業が進められた。その頃、二作の村人が新年の挨拶を交わしながら村を訪れ、手土産として猪肉を贈った。彼らは数日前に大きな猪を三匹仕留め、その一部を持参していた。静子は猪肉を用いた料理としてぼたん鍋を作ることを決め、鍋を神聖な調理器具として扱うため、直箸を避けて取り箸を用意した。

雑煮の歴史と地域差

静子は猪料理に加え、正月の伝統料理である雑煮を用意した。雑煮という言葉は室町時代の『鈴鹿家記』に初めて登場し、武家社会では宴会の最初に食べる縁起物とされていた。しかし、江戸時代以前は米が高価であったため、庶民は餅の代わりに里芋を用いることが一般的であった。また、地域によっては正月三が日に餅を神仏に供えることを禁忌とする風習も存在した。これは米が外来の食物であり、神仏に供えるのはふさわしくないと考えられていたためである。江戸時代以降、餅の普及とともに雑煮の食文化は全国に広まり、地域ごとに異なる味付けが定着した。

新年の挨拶と祝宴の開始

餅つきが終わると、村人たちは集会所に集まり、静子が「明けましておめでとうございます」と祝いの言葉を述べた。村人たちもそれに続き、新年の喜びを分かち合った。静子は新年の始まりを祝い、三が日を存分に楽しむよう促した。そして、村人たちが「いただきます」と声を揃えた瞬間、正式に祝宴が始まった。ぼたん鍋や雑煮など、普段口にできない料理に村人たちは舌鼓を打ち、宴会は盛大に催された。

信長からの使者と桑の葉茶

宴会の最中、彩が信長からの伝令の到着を知らせた。静子は席を立ち、使者のもとへ向かった。冬の寒さが身に染みる中、使者の冷えた体を気遣い、温かい桑の葉茶を用意させた。まずはぬるめの茶を与えて喉を潤させた後、次に熱い茶を手渡した。この心遣いは、石田三成の「三献茶」の逸話を彷彿とさせるものであり、戦国の礼儀として適したものであった。感謝した伝令は深く頭を下げ、静子の配慮に敬意を表した。

慰労の宴会と信長への謁見

元日の宴会は日が沈むまで続き、村人たちの多くがその場で雑魚寝した。翌朝、静子は入浴を済ませ、武家社会の正式な宴会に備えて身支度を整えた。慰労の宴会は格式が高く、信長の面子を損なわぬよう、厳格な礼儀作法が求められた。静子は武家婦人の装いではなく、武将としての正装を選び、小牧山城へ向かった。

城に到着すると、まず信長への新年の挨拶が必要であり、多くの武将たちと共に列に並んだ。静子はその場で自分の身長が周囲の武士よりも頭一つ分高いことに気づき、注目を浴びることとなった。

宴会での試練と信長との対話

宴席では、信長の近くに静子の席が設けられ、両隣には森可成と滝川一益が座っていた。周囲には柴田勝家や丹羽長秀ら織田家の重臣たちが並び、その圧倒的な威圧感に静子は強い緊張を覚えた。宴が進む中、信長は静子に酒を勧めるとともに、彼女が持参したクロスボウに興味を示し、弓勝負を提案した。

信長との弓勝負とクロスボウの実力

信長は和弓を用いて的を射抜き、続いて静子がクロスボウを撃った。クロスボウの矢は的を貫通し、その威力に周囲は驚愕した。さらに信長は、足軽の甲冑を的として用意させ、クロスボウの威力を試すことにした。静子は矢の長さと重さが適切でなければクロスボウの損傷につながることを説明し、専用の矢を用いて射撃を行った。その結果、クロスボウの貫通力は戦場での使用にも耐えうるものであることが証明された。

信長の決断とクロスボウの導入

信長はクロスボウの有用性を認め、配下に生産を指示した。森可成には静子を通じてクロスボウの製造を命じ、滝川一益には弓を扱えない兵三十名の選抜を命じた。さらに、丹羽長秀と奇妙丸には静子の知識を基に明の兵法について情報を得るよう指示した。

最後に、信長は配下を見渡しながら、静子の軍事知識を完全に掌握することを誓った。こうして、信長の決断によりクロスボウは織田軍の新たな戦力として導入されることとなった。

千五百六十七年一月下旬

冬の農作業と村の発展

正月三が日が終わると、特別な行事もなく、静子の村では冬の野菜や菜種油の栽培が続けられた。玉ねぎの生産も軌道に乗り始め、わずかではあるが食用として確保できるようになった。しかし、種苗と耕地の不足により、本格的な増産はまだ困難であった。

静子は村で生産する作物を整理した。野菜はとうもろこし、ニラ、かぼちゃ、ナス、トマト、大根、ネギ、レタス、里芋、小松菜、金時ニンジン、カブの十二種類を栽培していた。軍需物資としては米、大豆、椎茸、蜂蜜、サトウキビを生産し、非常食として薩摩芋を確保した。さらに、養鶏場を整備し、鶏肉と卵を供給。菜種から油を搾り、疲労回復に効果のある玉ねぎも育てた。また、規模は小さいながら養蚕による絹糸生産や、桑の葉を使った茶と果実の収穫も行っていた。人口わずか百人ほどの村でこれほどの品目を生産することは、当時としては異例であった。

奇妙丸との対話と天下統一の構想

奇妙丸が村を訪れ、豊富な作物の種類に驚きながら、信長も喜ぶだろうと話した。しかし、すぐに話題を変え、静子に問いかけた。「もし天下を取るなら、どのような方法で成し遂げるのか」

突然の質問に戸惑いながらも、静子は戦国時代を舞台にした戦略ゲームを参考に考えをまとめた。「まず畿内、つまり京を押さえる。そして地方の農村に対し、飼い殺し作戦を行う」

奇妙丸は京の制圧の意図を問うた。静子は「帝の権威を復活させることで、天下に対する正当性を確保できる。帝から征夷大将軍に任命されれば、多くの国人が逆らえなくなる」と説明した。

武士社会において血統と権威は絶対的な価値を持ち、帝の名のもとに戦えば多くの者が従う。戦国の武将たちが源氏や平家の末裔を名乗ったのも、この権威を利用するためであった。奇妙丸は興味を示しつつも、帝の権威が衰えている点を指摘した。

静子は「千年以上続く天皇家の存在は、日本国内外において絶対的な影響力を持つ」と歴史的視点から説明した。奇妙丸は自身の立場を意識した様子を見せたが、静子は彼が信長の血縁者であることに気づきつつも、特に追及はしなかった。

飼い殺し作戦と戦場の現実

奇妙丸は「飼い殺し作戦」の意味を理解できず、詳しく尋ねた。「戦場に行く雑兵たちの目的は何だと思う?」

奇妙丸が「武功を挙げるため」と答えると、静子は首を振った。「違う。彼らの目的は生きるための稼ぎを得ること」

武士は武功を求めて戦場へ向かうが、大半を占める足軽や雑兵は生活のために参戦していた。そのため、戦場では焼き討ちや掠奪が横行し、敵城を落とした際の褒美として略奪が黙認されるほどであった。

静子は、この雑兵たちの経済的な依存を逆手に取り、戦場に行く必要のない環境を作れば徴兵が困難になることを示唆した。「戦争をしなくても食べていけるなら、わざわざ戦場に行こうとは思わない。それなら、農村に食料供給を行い、戦の必要をなくせば、敵の戦力は大幅に減る」

奇妙丸は驚き、「孫子の兵法」にある「戦わずして勝つ」に通じると感嘆した。

信長の戦略変更と孫子の影響

奇妙丸が学んだ内容は信長のもとへ伝えられた。信長は孫子の兵法を読み、その精度の高さに驚愕した。特に「間者」に関する記述は、彼の戦略観を大きく変えた。

「武田信玄は情報収集を重視し、『三ツ者』と呼ばれる隠密組織を活用している」

信長はこの情報を照らし合わせ、武田の勝利の裏に徹底した諜報戦略があることを理解し、これを織田家の戦略に取り入れることを決意した。さらに、静子の持つ戦略知識が実戦でどこまで活用できるかを見極めるため、「飼い殺し作戦」の可能性も検討した。

武田信玄の病と信長の決断

報告書の最後には、信長を驚かせる一文が記されていた。

「武田信玄、不治の病を患っており、余命六年から七年程度」

この情報が真実であれば、武田家との戦い方は大きく変わる。信長は即座の軍事行動を控え、武田との関係を維持しつつ、静子の知識を活用する道を選んだ。

「今しかできぬことに集中し、この情報を活かすのはその後でよい」

信長は、静子の知識が織田家にとって計り知れない価値を持つことを確信し、彼女の動向をより注視することを決めた。

千五百六十七年二月下旬

炭焼きとクロスボウの生産

二月に入り、静子は炭焼きを開始し、乾燥した木材を用いてその技術を二作たちに伝授した。同時に森可成からの依頼で、簡素なクロスボウ三十台を生産し、巻き上げ式の機構を取り入れた新型の開発にも着手した。

また、信長からの報酬として人夫二百名が派遣され、加えて信長自身の開発計画書を託された使者まで同行していた。使者である丹羽長秀は、計画を押し付ける形になったことを気に病み、静子とのやり取りにも慎重さを見せた。二月は農閑期であるはずだったが、静子にとってはむしろ労働が増える時期となった。

軍需生産拠点の拡大と村の再編

信長が託した計画書は、軍需生産拠点の拡大を目的とするものであった。従来の百姓たちは、米や大豆を納める代わりに国人の庇護を受けていたが、静子の村の成功を見た信長は、農地を直接織田家で管理し、生産を統括する構想を思いついた。

その試金石として、静子の村を改造することが決定され、防衛施設の建設も同時に進められることとなった。宮大工の岡部又右衛門が防衛設計を担当し、村の規模は本格的に拡大された。

村の人口は百人程度だったが、新たに半農半兵の百六十人、さらに専業の衛士三百人が駐屯し、その家族も加わることで人口は急増した。信長は事前に周辺の土地を確保し、新たな開拓を命じた。また、軍需生産を一箇所に固めることを避け、三つから四つの村に分散させることでリスクを軽減した。それらの村を直営の軍需生産地として管理し、統一した税制を導入した。

最低納税基準は米五百俵(約十五トン)、大豆八百貫(約三トン)、黒砂糖八貫(約三十キロ)と定められた。しかし、これは最低基準であり、実際には生産量の五割が信長に徴収され、残りが村人の取り分となった。なお、薩摩芋やかぼちゃ、鶏卵は課税対象外とされた。

農地拡大と生産計画

信長の要求に対応するため、静子は三百ヘクタールの農地拡大計画を見直し、一人当たり二ヘクタールを割り当てることとした。そのうち一ヘクタールは米、残りを大豆とし、大豆はコンパニオンプランツとして栽培することで、実質的な栽培面積を五十アールに抑えた。

また、各村ごとにサトウキビ畑を五ヘクタール設け、野菜や雑穀の栽培は各村の判断に委ねた。この結果、米と大豆の総耕作面積は三百九十ヘクタールとなり、稼働率八割と見積もると、米の生産量は六千二百四十俵に達した。信長に三千百二十俵を納めた後も、村には同量の米が残り、一戸あたり十俵を分配できる計算となった。

さらに、農地の分散により病害虫の被害を抑えることが可能となったが、その代償として各村の防衛施設が必要となった。

村の変貌と信長の介入

村の発展は異常な速さで進み、信長の期待が静子に重圧としてのしかかった。丹羽長秀の指示により、田畑に影響を与えない範囲で村全体が堀で囲まれ、兵士の詰所や大門が設置された。

さらに、織田家の兵が三百六十五日、二十四時間体制で村を警備することになった。そして、静子の家の隣には信長の別荘が建設され、温泉へ直結する通路まで作られた。この事態に静子は何も言わず、ただ小さく肩を落とした。

美濃攻略の報せ

三月上旬、村の防衛施設の工事が半ばを迎えた頃、奇妙丸が驚くべき報せを持って訪れた。「西美濃と東美濃が落ちた!?」

思わず大声を上げた静子に対し、奇妙丸はすぐに制止し、間者に聞かれる危険を指摘した。残るは中央の美濃、すなわち稲葉山城のみであった。城の立地上、周囲の動きが一望できるため、攻略には時間を要すると二人は認識していた。一方、静子は美濃攻略とは別に、村の発展に伴う新たな課題に直面していた。

塩の必要性と利権問題

静子は塩の不足に悩んでいた。塩は人間の生命維持に不可欠なだけでなく、保存食作りにも必要であった。しかし、戦国時代の塩は厳しい利権で管理されており、自由に生産することが難しかった。

奇妙丸は、織田家の事業として行えばよいと提案したが、静子はすでに多くの要求を信長にしているため、これ以上の要望を出すことに気が引けていた。

村の連絡網の問題と戸籍制度の導入

五つの村が連携するにあたり、意思伝達の遅れが生じ、作業の遅滞や誤解が頻発していた。「電話があれば……」静子は無いものねだりをしつつ、情報伝達の手段を再考した。そして、電話の仕組みを思い出すうちに、一つの解決策に思い至った。「戸籍を作るの!」

静子は興奮しながら、彩に墨と紙を用意させ、信長に一筆書く準備を始めた。五つの村の統括にあたり、住民を整理し、正確な情報管理を行う必要があった。こうして、戦国時代において先進的な村の統治制度が生まれようとしていた。

千五百六十七年三月中旬

信長の戦術の変化

信長の戦い方は、以前とは明らかに異なっていた。かつての彼は強行突破を得意とし、戦の流れを勢いで決めることが多かった。しかし、今回の美濃攻略では異なる手法を用いた。城を守る武将が血気盛んな場合、あえて敗北したように見せて退却し、敵を誘い出した。そして、敵が追撃してくると伏兵を用いて囲地へ誘い込み、高所からの弓矢や岩を用いて壊滅させる戦術を取った。この計略により、敵将は退路を断たれ、絶望のうちに命を落とした。

冷静さを装う信長

戦術を大きく転換したにもかかわらず、信長は表情を崩さず、「上出来じゃ」と笑っていた。表面上は冷静を装っていたが、その内心では怒りや焦りを抑えていた。彼の態度は、単なる虚勢ではなく、意図的に味方の士気を高め、敵に不安を植え付けるためのものであった。指揮官が冷静であれば、兵士たちの動揺は最小限に抑えられる。信長はこれを理解し、戦況を有利に進めようとしていた。

間者を使った情報操作

信長は情報戦にも力を入れていた。落とした城の雑兵に敵の甲冑を着せ、落ち延びた兵に見せかけ、間者として敵陣に潜入させた。そして、意図的に情報を省略する形で報告を行わせた。「信長が進軍中」とだけ伝えさせることで、敵はその規模や目的を自ら推測し、過大評価して慌てて行動を起こす。誘き出された敵軍は囮部隊に釣られ、背後から本隊に挟撃されることとなった。

密集陣形の導入

信長は新たな陣形を試験運用していた。ファランクスに似た密集陣形を採用し、五人を一列とした部隊を編成した。最前列の兵士は大盾で防御し、後列の兵士は長槍を構え、最後尾にクロスボウ兵を配置することで、統率の取れた戦闘を可能にした。初めての試みであったため、兵士たちは戸惑っていたが、戦場での連帯感が生まれ、攻撃の効果も向上していった。中規模の山城であれば、この陣形で敵陣を突破することが可能であった。

信長の冷徹な指示

美濃の城攻めは順調に進み、山城も陥落寸前となった。信長は密集陣形を組んだ兵を下げさせ、雑兵たちに城を落とさせるよう命じた。黒煙が立ち上る城を見ながら、彼は森可成に向かって「残りの城もこの調子で落とすぞ」と命じた。森可成は従順に返事をしたものの、その背中には一筋の冷や汗が流れていた。信長の知識と実践力に対し、彼は畏怖を抱かずにはいられなかった。

静子の農業改革と戸籍整備

一方、戦場から遠く離れた農村地帯では、静子が農業改革に取り組んでいた。彼女は田起こし用の新たな道具「はねくり備中」を導入し、作業効率の向上を図った。同時に、村の戸籍整備も進めていた。しかし、戦国時代の家庭事情は複雑であり、夫が戦から戻ると子供が増えているといった状況も珍しくなかった。これでは間者の侵入を防ぐことができず、戸籍整備は防諜対策としても必要不可欠であった。

静子は、自身の農業技術を村人に広めることで、彼女個人が狙われた際のリスクを減らそうと考えた。技術が分散されれば、彼女が暗殺されたとしても、農業生産への影響は最小限に抑えられる。この農業改革は、結果として織田領全体の食糧生産を飛躍的に向上させ、戦国時代における富国政策へと繋がっていった。

伝令手段の課題

静子は連絡手段の確立にも頭を悩ませていた。広がる村々との情報伝達を迅速に行う手段として早馬を用いていたが、それではコストがかかりすぎる。新たな伝令方法を考えていた彼女のもとに、奇妙丸が訪れた。彼が現れた際、狼たちが興奮して彼の周囲を囲んでいたため、驚いて悲鳴を上げた。その後、静子は気分転換として、狼たちとフリスビー遊びをすることにした。奇妙丸も最初は戸惑っていたが、興味を持ち、彼女の遊びに加わった。

信長の武器改良への探求

一方、信長は本陣で休息を取っていた。戦は順調に進み、予定していた城の一つが降伏の意を示していた。しかし、信長の関心は次の戦に向けられていた。彼は静子が開発したクロスボウを手に取り、その改良について森可成と議論を交わした。

クロスボウの最大の欠点は、弦を引く際に時間がかかることであった。信長はこの問題を克服する方法を模索し、さらに矢以外のものを発射できないかと考えた。新たな兵器としての可能性を探る彼の視線は、すでに次の戦略へと向けられていた。

千五百六十七年三月下旬

住所制度の確立

静子は戸籍を作成するにあたり、住所制度を整備する必要があった。村を四つに分割し、それぞれに「丁」の番号を振り、さらに「番」に区分した。最北東を一丁目一番地とし、南、そして西へと番号を振り分け、最南西を四丁目四番地とする方式である。これにより、すべての村が統一された住所制度を持つことになり、管理が容易になった。また、各村には特産品の生産を推奨し、それぞれに「麻町」「味噌町」「蜜町」「茸町」と命名した。静子の村は「元町」と名付けられ、基盤となった村であることを示していた。識別のための名称に過ぎなかったが、村人にも受け入れやすいものとなった。さらに案内看板を設置し、伝令や旅人が道に迷うことを防ぐ仕組みを整えた。こうして、空間の整理は完了した。

時間の共有化と日時計の導入

空間の認識は統一されたが、時間の共有にはさらなる工夫が必要であった。戦国時代の日本では地域ごとに異なる暦が使用され、統一した時間の概念が存在しなかった。そのため、静子はグレゴリオ暦に近いカレンダーを作成し、七曜制を導入することで、織田家と村々の間で日時を統一することを試みた。

時刻の把握には日時計を用いることにした。当時の時間の概念は、日の出・日の入りを基準とした大雑把なものであり、会合時間の統一が難しかった。日時計によって基準を設けることで、一定の時間感覚を持たせることができた。ただし、曇天や雨天時には利用できない欠点があり、村人が慣れるまでは不便を強いられた。本来なら鐘を鳴らして時間を知らせたかったが、信長が「寺が必要になるから許可しない」として却下した。信長は仏教そのものを否定しているわけではなく、腐敗した僧侶たちの行いに強い嫌悪感を抱いていたためである。

そこで静子は、寺ではなく神社を建設する許可を求め、鐘を設置する施設や寺子屋、宿泊施設、火葬場などを含めた計画を提出した。結果として、信長は疑問を抱えつつも建設を許可した。しかし、後に質問を受ける機会を設けるよう指示があり、静子は新たな課題を抱えることになった。

回覧板の導入と情報伝達の効率化

カレンダーは村ごとの集会所や村長宅に掲示され、情報の共有が容易になった。これにより回覧板を活用できるようになり、村人たちは新たな制度に戸惑いながらも次第にその利便性を理解していった。時間の勘違いは多少残るものの、日付を間違えるような連絡ミスは大幅に減少した。

さらに、回覧板や掲示板を活用することで、一度に多くの人々へ正確な情報を伝達できるようになった。従来の「人から人へ伝える方式」では情報が歪められるリスクがあったが、掲示板の利用により伝言ゲームの弊害を防ぐことができた。それでも静子は不安を拭えず、何度か各村を視察したが、運用が想定通りに機能していることを確認し、ようやく安堵の息をついた。

戸籍の管理と運用方法

戸籍の原本は信長に預け、静子はその写しを保持することにした。これにより、改ざんされても照合によって不整合を検出できる仕組みを整えた。ただし、この方法は紙の消費量が増加し、管理の手間もかかるという欠点があった。そのため、年に一度変更内容をまとめて記録し、原本と突き合わせる方式を採用した。

この仕組みは信長にとっても魅力的であり、村の規模を把握しやすく、間者の潜入を防ぐ効果があると評価された。結果として、大量の紙の使用許可を得ることができた。ただし、無駄を出さないようにという厳命も同時に下された。

奇妙丸はこの戸籍を興味深そうに眺め、「誰がどこに住んでいるのか一目瞭然だな」と感想を漏らした。そのあまりに気軽な態度に、静子は内心複雑な気持ちになったものの、戦国時代には存在しなかった制度であるため仕方ないと割り切ることにした。

炭の取引とその利用

奇妙丸は静子に炭を売ってほしいと頼んだ。彼の作る炭は煙が多く、形も不揃いだったため、静子の作った炭の品質の高さを認めていた。静子の炭は煙がほとんど出ず、形も均一だったが、これは炭焼きの工程を正しく行っていたためである。

静子は、炭焼きの本来の目的は燃料だけでなく、木酢液の確保にもあると考えていた。木酢液は農業や水質浄化に利用できるものであり、農薬や消臭剤としても応用が可能であった。しかし、扱いには注意が必要であり、過度の期待はできない代物だった。

春の椎茸収穫と環境整備

四月に入り、静子は椎茸の収穫に向かった。春の椎茸は「春子」と呼ばれ、春の味覚として楽しまれるものであった。静子は当初、個人消費のために少量栽培するつもりだったが、信長から増産を命じられ、本格的な栽培へと移行した。

彼女は原木を大量に確保し、日当たりを調整し、猪の侵入を防ぐための柵を設置するなど、環境を整備した。収穫は慎重に行われ、不適切なものは除去し、適切なものだけを採取した。さらに、収穫した椎茸を収納するために、鹿革を使ったショルダーバッグを用いた。

侵入者の出現と静子の対応

収穫を進める中、カイザーたちが警戒しながら近づいてきた。彼らの挙動から、縄張りに何者かが侵入したことが分かった。静子はすぐに彩へ兵の派遣を求める手紙を書き、ケーニッヒに託して送った。

静子はカイザーとヴィットマンを連れて椎茸畑を巡回し、最も狙われやすい離れた畑へ向かった。そこでは何者かが柵を破壊し、内部を物色していた。静子は慎重に近づき、侵入者の動きを観察した。そのとき、遠方から丹羽の声が響いた。

侵入者もその声に反応し、慌てて槍を取ろうとした。しかし、その瞬間、ヴィットマンが低く咆哮し、侵入者を威嚇した。狼の咆哮に驚いた侵入者は動揺し、動きを止めた。さらに、丹羽率いる兵士たちが到着し、周囲を完全に包囲した。侵入者はもはや逃げ場を失い、静子の計算通り追い詰められることとなった。

千五百六十七年四月上旬

侵入者の投降と正体の判明

侵入者は脇差を投げ捨て、武装を解除して降伏の意思を示した。兵士たちは警戒を緩めつつも完全には油断せず、彼を取り囲んだ。侵入者は抵抗することなく縛られ、槍と刀も回収された。静子は槍に刻まれた彫刻を見て、それが三河文珠派・藤原正真作の「蜻蛉切」ではないかと推測した。

その名を口にした途端、侵入者は驚愕し、強く反応した。丹羽が問いかけると、静子は慎重に答えた。「蜻蛉切を使う槍使いなら、おそらく三河国の国人、本多平八郎殿ではないか」と。三河国は徳川家康の領地であり、織田家とは清洲同盟を結んでいた。そのため、侵入者が盗人であっても、軽々しく処断するわけにはいかなかった。

忠勝の覚悟と静子の対応

本多忠勝は、自らの失態を認め、どのような処罰も受ける覚悟を示した。ただし、徳川家に累が及ばぬよう、自身の責任として処理してほしいと願った。静子は、彼が戦国史に名を残す忠臣・本多忠勝であると確信したが、外交問題を考慮せねばならなかった。織田領への不法侵入だけでなく、人工栽培の椎茸を目撃されたことも重大な問題であった。

静子は丹羽に相談し、最終的には信長の判断を仰ぐこととなった。丹羽は早馬を出し、信長の裁定を待つ間、忠勝を駐屯所の一室に軟禁することとした。「相分かった」忠勝はそれだけを告げ、従った。豪胆なのか、開き直っているのか判断しかねる丹羽だったが、従順であるなら問題はないと考えた。

その時、忠勝の腹の虫が鳴り響いた。彼は恥じ入りながら震えていた。耳まで赤く染まり、居たたまれない様子であった。静子と丹羽は顔を見合わせ、緊張が解けたかのように笑い出した。

新しいお握りと忠勝の興味

静子は忠勝の恥をかかせぬよう、唐突に新しいお握りの話を持ち出し、丹羽もそれに乗った。二人は忠勝を誘い、共に食事をとることになった。忠勝は山中で迷い、食糧が尽き、一日以上水以外口にしていなかったと明かした。

静子が取り出したのは、玄米と雑穀米のさつまいもご飯で作ったお握りと、いぶり漬けであった。丹羽は見慣れぬ漬物に疑問を抱いたが、忠勝は迷うことなく口にした。そして、「握り飯には飽きていたが、甘みが程よく飽きのこない味だ。この漬物も、どこか懐かしく、故郷を思い起こさせる」と称賛した。

無警戒に食事を口にする忠勝の態度に丹羽は驚いたが、忠勝は「もし殺すつもりなら、もっと楽な方法がある」と一蹴した。その言葉に丹羽は苦笑しつつ、お握りを口にした。

忠勝の移送といぶり漬けの贈り物

翌日、忠勝は牢ではなく、監視の兵を伴い別の場所へ移送された。丹羽を含む三十名の兵が付き添ったが、忠勝は落ち着いた様子で馬に乗っていた。彼の手には、静子から譲り受けたいぶり漬けの包みがあった。

忠勝はこの漬物をいたく気に入り、出立の際に分けてもらえないかと申し出た。静子は問題ないと判断し、快く応じた。忠勝は受け取ると、静子の手を両手で握り、感謝を示した。彼にとってこの仕草は「貴方を信頼しています」という意味を持っていたが、静子には伝わらなかった。

道中、忠勝はふと桜を見て、歌を詠んだ。「春風が 桜の花を 散らせども 輝き咲くは 我が心の花」。隣にいた丹羽が怪訝な表情を浮かべると、忠勝は顔を赤らめ、咳払いをして話題を変えた。

大豆ととうもろこしの水分問題

四月、静子は昨年大豆を植えた畑を訪れた。井戸掘りの道具を使い、土を採取して調査すると、一部の土が酷く乾燥していることに気づいた。原因はとうもろこしであった。

とうもろこしは水分含有量が高く、他の作物よりも多くの水を必要とする。特に、根が二メートル以上に達するため、地下水を大量に吸い上げていた。このまま大豆の生産を拡大すれば、地下水の使用が不可避となり、地盤沈下や砂漠化を引き起こす可能性があった。

水分管理と対策の導入

静子は水の使用を抑えつつ、土壌の水分を維持する方法を模索した。竹製の樋を設置し、小さな穴を開けて水を少量ずつ供給する方式を採用した。これにより、水の使用量を七割削減しつつ、とうもろこしの成長を維持できると考えた。

また、大豆の害虫対策として、雑草の徹底的な除去を行うことにした。特にカメムシ類や蝶蛾類の発生を抑えるため、大豆の作付け前に畑周辺の雑草を刈り取ることを徹底した。

彩との遭遇

最も効果的な雑草対策として、静子は「焼き討ちだ!」と勢いよく振り返った。しかし、そこには無言で立つ彩の姿があった。気まずさを覚えた静子は、何とか誤魔化そうと考えたが、彩の鋭い視線を前にそれは叶わなかった。

静子は彩の過剰な配慮に苦笑し、次からは遠慮せず声をかけるよう頼んだ。その後、彩は「茶丸様がお見えです」と告げ、静子を仕事へ促した。無言の圧力を感じつつ、静子は渋々ながらも彩の後を追った。

奇妙丸の体調不良と正体の判明

屋敷に戻ると、奇妙丸がすでに待っていた。彼は咳をしており、「ちょっと咳病を患った」と言ったが、静子は無理をしないよう忠告した。しかし、それを境に彼の訪問は途絶えた。

二週間後、織田家の家臣が静子を訪れ、奇妙丸の咳病が悪化し、寝込んでしまったことを告げた。静子はすぐに出発し、屋敷へ向かった。

到着後、奇妙丸は「騙して悪かったな。俺の本当の名前は奇妙丸……だ」と名乗った。静子は混乱したが、彼が信長の嫡男・織田信忠であることを理解した。奇妙丸は弱気になっていたが、静子は「病は気から」と励まし、治療の準備を始めた。

千五百六十七年四月中旬

奇妙丸の看病

静子は早馬で戻ると、すぐに奇妙丸の寝所へ向かった。彼は横になりながらも静子の指示に従うよう教育係に命じた。静子は、部屋の四隅に湯を張った桶を置くこと、冷たい水と手ぬぐいの準備、着替えの用意を指示し、奇妙丸の体調を整えるための準備を進めた。その後、大根と蜂蜜を使った大根あめを取り出し、喉の痛みに効くことを説明した。奇妙丸は半信半疑ながらもそれを口にし、その甘さに驚いた。「喉の炎症を抑え、消化を助ける」と静子が補足すると、彼はしぶしぶ納得した様子であった。

奇妙丸の抵抗と静子の診断

教育係が戻ると、静子は奇妙丸の汗を拭き、着替えを手伝った。しかし、奇妙丸は強く抵抗し、静子はその理由が理解できなかった。年相応の恥じらいを感じていたが、静子はそれに気づかず淡々と作業を進めた。次に静子は体温計を取り出し、脇に挟ませた。奇妙丸は不思議そうに見つめながらも指示に従った。「37.9度、命に関わる熱ではない」と静子が診断すると、奇妙丸は納得できない様子で「生命の危機を感じている」と訴えた。しかし静子は「体力をつけるしかない」と言い、生姜湯や焼き梅干しを用意することを決めた。

奇妙丸の信頼

戦国時代には栄養に関する知識がなかったため、奇妙丸は静子の治療法に不安を抱いた。しかし、静子が「ここは静子お姉さんを信用しなさいな」と言うと、彼は「貴様を信じていないわけではない」と言い直した。彼にとって静子は、損得勘定なしに話せる数少ない相手であった。もし静子が男であれば、腹を割って語れる無二の親友になれたであろうと考えたが、「女だからこそ出会えたのかもしれない」とも思った。そんな思いを抱きながら、彼は冷たい手ぬぐいの心地よさに身を委ね、眠りについた。

信長の対応

奇妙丸の病状は、遠征中の信長にも伝えられていた。稲葉山城を攻める最中、信長はすぐに薬師を派遣するよう命じたが、一週間経っても快方に向かったとの報告はなかった。信長は嫡男である奇妙丸を失うわけにはいかず、対応を考えていたところ、静子が彼の看病をしているとの報告を受けた。「湯を張った桶を部屋の四隅に置く」「刻んだ葱を枕元に置く」「食事に特定の食材を用いる」といった静子の指示に家臣たちは首をかしげたが、信長は彼女の行動を深く考察した。

「あの娘は世渡り上手なら、わしのもとには来ていない。つまり、静子は何も考えず、純粋に奇妙丸のために動いているだけなのだろう」と結論づけた。信長は家臣に「静子の指示に従え。必要なものは可能な限り用意せよ」と命じ、後日詳しい報告を聞くことにした。

静子の知識と説明力

森可成は「静子殿は農業だけでなく、病にも精通しているのか」と感心したが、信長は「静子の真の強みは知識ではない」と指摘した。静子はただ博識なだけではなく、「他人に分かりやすく説明できる語彙の多さ」があると信長は考えた。彼女の説明は、聞き手の知識に合わせて調整されており、兵法書のような難解な概念すら明瞭に伝えられることに気づいた。その点を考慮し、信長は彼女の今後の活用方法を模索することにした。

本多忠勝の処遇

以前、静子の村に侵入した本多忠勝について、信長はすでに徳川家へ引き渡しを完了していた。この件を荒立てることなく、忠勝と丹羽の間に「友好関係がある」との形で処理した。忠勝はこれに異論を挟まず、主人・家康に累が及ばぬならばどのような条件でも呑むつもりであった。

稲葉山城の包囲戦

信長は稲葉山城の攻略に向けて、包囲戦を本格化させた。まず、城下町である井口を焼き払い、城を孤立させた。そして、兵を「10人一組」とし、「7人を昼番、3人を夜番」とする交代制の攻撃を命じた。森可成はその意図を理解できず困惑したが、信長は「ここからは根気比べよ」と言い、長期戦を見据えていた。

斎藤龍興の誤算

斎藤龍興は、信長軍が半数に分かれたことを不審に思いながらも、美濃三人衆に援軍を要請し、十日後に到着するとの返答を受けたため、籠城戦を選択した。しかし、信長の本当の狙いに気づいていなかった。信長は「七日間、凡戦を繰り返し、敵の損耗を抑えつつ、士気を低下させる」作戦を展開した。

消耗戦の効果

稲葉山城の守備兵たちは、昼夜問わぬ小競り合いの繰り返しによって次第に疲弊していった。

  • 「睡眠不足」による集中力の低下
  • 「栄養・水分不足」による体力の低下
  • 「ストレス」による士気の低下

六日目には城の防衛力が目に見えて衰えていた。

総攻撃の決定

七日目の夜、秀吉をはじめとする織田家の武将たちは「今こそ攻めるべき」と信長に直談判を申し出た。彼らは、敵兵の動きが鈍くなり、士気が低下していることを確信していた。信長は彼らの意見を聞き終えた後、「明日は存分に鬱憤を晴らせ」と告げ、織田軍は総攻撃の準備を整えた。

森可成の冷静な指導

森可成は興奮する部下を諭し、「功を焦らず、己を律することが武士の本分」と説いた。「生きてこそ浮かぶ瀬もある」と考え、軽率な行動を慎むよう指導した。それとは対照的に、秀吉は戦略的な動きを進めていた。総攻撃の準備が整い、信長の稲葉山城攻略戦はついに最終局面を迎えた。

総攻撃の開始

永禄十年(1567年)四月十四日の午前九時半、織田軍は稲葉山城への総攻撃を開始した。森可成が先陣を切り、猛々しい咆哮を上げながら突撃すると、それに続く兵士たちも勢いを増した。対する斎藤軍の兵士たちは、連日の消耗戦で疲れ果てており、援軍を要請したが「当方も織田軍の猛攻を受けており、援軍を送る余裕なし」との返答を受けた。

織田軍の武将たちは「鬱憤を晴らせ」と兵を鼓舞し、その熱気は戦場全体を覆った。斎藤軍はこの時点で、織田軍が全軍を挙げて総攻撃を仕掛けていることをようやく理解した。しかし、指揮系統が混乱し、誰が伝令を送るのかも定かでなくなっていた。その結果、斎藤龍興へ状況が伝わることはなかった。

秀吉の奇襲

総攻撃の混乱に乗じて、秀吉は蜂須賀小六や堀尾茂助らわずか七名を従え、稲葉山城の裏手にある瑞龍寺山の間道を利用して侵入した。城内はまだ総攻撃の報を受けておらず、通常通りの警戒態勢を維持していた。秀吉はこれを好機と捉え、奥へと進み、城兵を斬り伏せながら薪小屋に火を放った。

さらに、倒した城兵の槍に瓢箪を巻きつけ、それを手に天狗岩に登ると、織田軍に向けて大声で勝鬨を上げた。「えいえいおう!」と何度も叫ぶ姿は織田軍に伝わり、彼らは奇襲の成功を確信して勢いを増した。一方、斎藤軍は城がすでに陥落したと誤認し、士気を完全に喪失した。兵たちは次々と武器を捨て、戦意を失っていった。

龍興の逃亡

薪小屋の火と正面大手門の崩壊によって、ようやく斎藤龍興と重臣たちは事態を把握した。彼らは織田軍が六日間も決定的な戦果を上げていなかったことから油断しており、城が落ちるはずがないと考えていた。しかし、すでに状況は絶望的であり、彼らに残された選択肢は「降伏」か「自決」のみであった。

龍興は決断を下し、降伏を選択した。しかし、その言葉とは裏腹に、彼と取り巻きの家臣たちはこっそりと財産を持ち出し、平服に着替えて城を脱出した。彼は「降伏すれば晒し首にされる」と恐れ、統治者としての責任を放棄し、家臣たちを置き去りにした。

龍興の裏切りに気づいた家臣たちは、もはや彼のために戦うこともなく、それぞれが自らの道を選んだ。ある者は美濃を去り、ある者は自害し、ある者は信長に仕えることを選んだ。ただし、誰一人として龍興のもとへ戻ろうとする者はいなかった。この時点で龍興は完全に見限られ、信長も追撃する必要はないと判断した。こうして斎藤義龍の死から六年、信長はついに美濃を手中に収めた。

信長の入城と異例の処置

信長は龍興の降伏を受け入れたが、その後の行動は乱世では異例のものであった。通常、落城後には勝者による略奪や暴行が常態化するが、信長は兵士たちにそれを厳禁し、違反者は即座に斬首すると命じた。実際に婦女暴行を犯した五名の上級足軽が処刑されたことで、この命令は厳格に守られた。

その後、信長は生き残った美濃の兵を武装解除し、下山させた。彼らは尾張兵の弱点を補う貴重な戦力となる可能性があったため、無駄に処刑することを避けた。また、城内の非戦闘員も安全に退去させた上で、武具をすべて回収した後、ついに稲葉山城へ入城した。

信長の決断と斎藤家家臣の選択

入城直後、龍興の逃亡を報告された信長は、それを一笑に付し、特に追撃命令を出さなかった。そして、かつて龍興に仕えた重臣たちと対面し、彼らがすでに白装束を身にまとい、切腹の覚悟を決めていることを確認した。信長は「敵ながら見事な戦いであった」と賞賛した上で、「忠義を貫くのもよいが、生きて新たな主に仕える道もある」と告げた。そして「強要はしない」と念を押し、彼らを残してその場を去った。

家臣たちはこの前例のない対応に動揺したが、時間が経つにつれ信長の意図を理解した。彼は敗者に花を持たせ、尊厳を守る機会を与えたのだ。結果として、ある者は織田家に仕え、ある者は武士を捨てた。ただし、誰も龍興のもとへは戻らなかった。この時点で龍興の影響力は完全に消滅した。

奇妙丸の回復

稲葉山城陥落後、信長のもとに朗報が届いた。奇妙丸が静子の看病によって快癒したという報告であった。それは静子が治療を始めてからわずか数日後のことであったが、信長は特に驚かなかった。「当然の結果」と考えていたからである。ただし、静子の能力が広まると彼女の素性を気にする者が現れることを懸念し、とりあえず彼女を「公家の生まれ」として扱うことにした。そのため、公家の装束を用意することを決めたが、「果たして静子が公家らしく振る舞えるか」と一抹の不安を抱えていた。

信長の新たな決断

美濃を手に入れた信長は、新たな統治体制の確立に取り掛かった。旧斎藤家臣をどのように扱うか、美濃の民を安定させる方法を模索した。そして、静子が行っている農業改革にも関心を示し、彼女にさらなる任務を与えることを決めた。こうして、信長の統治戦略は次の段階へと進みつつあった。

千五百六十七年五月上旬

奇妙丸の脱走未遂

夜明け前、奇妙丸は慎重に屋敷を抜け出そうとしていた。謹慎処分はすでに解かれていたが、彼は外出しにくい状況にあった。教育係の教育熱が再燃し、朝から晩まで学問漬けの日々を強いられていたのである。信長も「良い薬だ」として、それを容認していた。奇妙丸は脱走を試みたものの、すんでのところで教育係に発見された。言い訳を試みるも、苦し紛れの嘘は通じず、「今日は弓と馬の稽古がある」と告げられ、結局、逃亡計画は失敗に終わった。

忠勝の申し出と静子の対応

静子は忠勝の食事の誘いに対し、信長の判断を仰ぐことにした。信長が直接部下に命じて返答を作成することで、余計な無礼を避ける狙いであった。その結果、穏便に誘いを断る内容の文が忠勝に送られた。しかし、静子は忠勝の粘り強さを見誤っていた。五月八日、丹羽からの呼び出しを受け、静子は彼の屋敷へ向かった。そこで彼女を待っていたのは、丹羽のほかに本多忠勝、榊原康政、本多正重の三名であった。

忠勝は正式に名乗りを上げた後、深々と頭を下げ、「先日はご迷惑をかけた」と謝罪した。静子がその意図を図りかねていると、忠勝は風呂敷を広げ、一輪の綿花を見せた。「三河国に伝来した綿花である」と説明し、特に苦労して手に入れたことを強調した。静子は綿花に関心を示したが、それは花の美しさではなく、木綿の実用性によるものであった。

共同栽培の提案とすれ違い

忠勝は「この華を一緒に育てないか」と静子に持ちかけた。しかし、彼の意図は「結婚を前提とした関係を築きたい」というものであったのに対し、静子は「三河と尾張の共同事業として綿花を栽培しよう」と受け取った。この誤解に気づいた康政と正重は呆れた表情を見せたが、忠勝本人はすぐには理解できず、後になってようやく自分の伝え方の不備を悟った。

静子は冷静に「共同栽培を進めるには信長の許可が必要だ」と述べた。さらに、「どちらかの国で単独栽培するのではなく、国境付近に畑を設ける方が公平である」と提案した。忠勝はすでに失意のどん底にあり、形式的に「はい」と答えるのみであった。

静子の戦略と丹羽との密談

丹羽は静子に「綿花にはそれほどの価値があるのか」と問うた。静子は「花ではなく実に価値がある」と説明し、木綿の繊維が保湿性や通気性に優れ、安価に大量生産できることを伝えた。そして「南蛮では大英帝国が印度で大々的に綿花栽培を行っている」と補足した。

丹羽は「三河で既に栽培しているなら、なぜ普及していないのか」と疑問を呈した。静子は「堺などの商人が輸入木綿に依存しており、三河の木綿には目を向けていないためだ」と答えた。そして、「価値が低いため、種の入手は容易だったはずだが、なぜ共同栽培という回りくどい方法を取るのか」とさらに問われた。静子は「価値が低いものを、合理主義者である信長が突然欲しがれば不審に思われる。だからこそ、自然な流れで導入する必要がある」と説明した。丹羽は納得し、「慎重に進めるべきだ」と理解を示した。

忠勝の失意と静子の決断

静子は「本多平八郎殿、貴殿の申し出は信長の許可を得た後、正式に返答する」と告げた。忠勝は「相分かった」と述べたが、表情は完全に力を失っていた。康政は小声で忠勝に「もっと直接的に伝えろ」と助言し、「綿花を贈るのは一歩前進だったが、言葉が迂遠すぎる」と指摘した。忠勝は「しかし、それは気恥ずかしい」と抵抗したが、最終的には「静子に会う機会が増えるなら、これも悪くない」と考えを改めた。

静子は一連の流れを整理し、「綿花の共同栽培を通じて木綿を普及させる」という自身の目的を遂行する方向で動くことを決めた。木綿の導入には慎重さが求められるため、時間をかけて計画を進めるつもりであった。こうして、静子と忠勝の意図が大きくすれ違いながらも、綿花の共同栽培という形で話が進むことになった。

信長からの召喚

静子が天ぷらを食べ終えた頃、信長の使者が到着し、至急の召喚を告げた。彼女は急いで身支度を整え、指定の場所へ向かった。そこには信長が乾いた切り株に腰を下ろして待っていた。静子が遅れを詫びると、信長は気にする様子もなく、顎で座るように指示した。彼の周囲には小姓や武将の姿はなく、目と鼻の先にいるにもかかわらず、完全に二人きりの状況であった。

信長の問い

信長は鋭い口調で「これからの問いに偽りなく答えよ」と告げた。全身から鋭利な覇気を放つ信長の圧に静子は背筋を伸ばした。彼の言葉は断定に近いものであり、「貴様はこの世の者ではないな」と核心を突いてきた。動揺した静子は反論する間もなく、さらに「貴様はこの乱世の生まれではなく、南蛮でもない」と畳みかけられた。信長はすでに結論に達しているように見え、静子が答えるべき言葉は「はい」か「いいえ」のみであった。静子は観念し、「はい」と答えた。信長は驚く様子もなく、「やはりな」と静かに呟いた。

静子の正体への疑念

信長は、静子が戦国の常識にそぐわない点を列挙した。膨大な知識を持ちながら、どこで学んだか不明であり、仏教にも無関心で、金銭への態度が奇妙であった。普通なら莫大な対価を求める技術を、彼女は惜しげもなく提供しながら、見返りを一切要求しなかった。信長はそれが異常であると指摘し、「貴様の利益がまるで見えぬ」と言い放った。

謎の老婆の予言

さらに信長は、静子と出会う少し前に、不思議な老婆と遭遇した話を語った。濃霧に包まれた帰路で突然現れた老婆が「剣が刻の落胤を運ぶ」と告げたのだという。「刻の落胤」とは時の流れから外れた者を指すと信長は解釈し、それにより静子が異なる時代から来たのではないかと確信を抱いたのだった。

信長の命令と新たな役職

信長は静子に「約束を違えぬ限り、命を守ろう」と告げ、「才を示せ」と命じた。そして、彼女に「織田家相談役」という役職を与えた。これは実質的には御伽衆に近い立場であり、静子の知識と機転を信長のために活用する役目であった。さらに、兵五百と馬廻りを授けると告げた。静子は驚きながらも、「この兵を好きに使って良いのか」と確認すると、信長は「何か考えがあるのか」と問い返した。彼女はローマ帝国の軍団兵を例に挙げ、戦闘と土木技術を兼ね備えた部隊を作る構想を説明した。これに信長は興味を示し、「それは面白い」と評価した。

マキャベリの知識と信長の興味

静子は部隊の運営のために時間を求め、その理由としてマキャベリの『君主論』の一節を引いた。すると、信長は興味を抱き、「その書物を渡せ」と笑みを浮かべた。信長は戦国の常識を超えた考えを持ち、「南蛮の道徳心など不要。わしが日ノ本の常識だ」と言い放った。

信長の好奇心と静子の疲労

信長の質問はさらに続いた。静子の生活や好み、家族構成から始まり、政治体制、軍事組織、経済制度に至るまで、多岐にわたった。彼はただ話を聞くだけでなく、自らの意見も述べた。民主主義の欠点を指摘し、義務教育の利点と欠点を論じ、腐敗した官僚や無能な報道機関の問題点を厳しく批判した。さらに、警備制度の強化や、軍馬の去勢による管理のしやすさ、蹄鉄の導入など、聞いた話を即座に応用しようとした。

静子は次第に疲弊し、早く話が終わることを願った。しかし、信長は「では、続きは屋敷で夕餉を取った後にしようか」と満足げに告げた。静子は解放されるどころか、さらなる質問攻めが待っていることを悟り、静かに絶望した。

信長の終わりなき知的探求

信長は夜が明ける前に静子を叩き起こし、朝餉の最中も絶え間なく質問を浴びせた。休憩を挟みながらも、日が変わるまで議論は続き、軍事、政治、社会学、さらには文化芸術にまで及んだ。特に信長の関心を引いたのは、曹操、チンギス・ハン、五賢帝といった歴史上の偉人であった。彼らの国家建設の手法、大国の維持、外敵への対策、兵数や陣形、武装や指揮系統など、詳細にわたる質問が続いた。

静子は口頭での説明に限界を感じ、黒板とチョークを用意した。しかし、それがさらに信長の興味を刺激し、「どうやって作ったのか」「量産可能か」と新たな質問攻めに遭った。説明を終え、黒板を使って歴史を図解するまでに半日を費やした。

信長の関心の偏り

静子は信長の興味の傾向に気づいた。軍事に関しては時代や地域を問わず広範囲にわたり関心を持つが、政治や社会制度に関しては近代を好み、文化や芸術は古典に惹かれる傾向があった。宗教に対しては無関心であり、むしろ害悪と見なしていた。歴史を学ぶうちに、その嫌悪感はさらに強まったようであった。

こうして静子の知識は信長の手によってさらに引き出され、新たな戦略と政策が生み出される土壌が整えられていった。

千五百六十七年七月中旬

織田家相談役としての静子の日々

信長からの音沙汰なし

静子が織田家相談役に任命されてから二ヶ月が経過したが、信長からの指示は一切なかった。馬廻衆や兵士についての話もなく、訪れる者もいなかった。信長なりの配慮で農繁期を避けたのだと推測できたが、何も告げられないことに静子は不安を感じていた。次の指示が「塩と黒板の生産、および製法の記録」になると予測し、必要な材料を整理した。塩作りにはよしずやすだれ、黒板には墨と柿渋、チョークには糊と石灰が必要であった。

さらに石窯を作ろうと考えたが、ここで問題が発生した。当時の日本には煉瓦が存在せず、耐火煉瓦の製造から始めなければならなかった。

耐火煉瓦製造の苦闘

耐火煉瓦を作るには高温を保てる登り窯が必要だった。しかし、登り窯の建造には耐火煉瓦が不可欠であり、静子は「耐火煉瓦を作るために耐火煉瓦が必要」という矛盾に直面した。そこで、まず耐火煉瓦を焼くための窯の製作から始めることになった。

粘土を作るための土練機を設計したが、組み立てにミスがあり、稼働直後に破損した。設計ミスを修正するため、二週間かけて原因を追究し、改良版を完成させた。以後も試行錯誤を繰り返しながら、ようやく耐火煉瓦を製造できる体制を整えた。

さらに、窯の温度管理の問題にも直面した。焼成後に急激に冷やしてしまい、煉瓦が収縮して割れてしまったのである。また、窯内部の温度差を均等にするため、煙突の設計を見直し、三メートル以上の長い煙突を設置して気圧差を利用することで熱を均一に行き渡らせた。こうして一ヶ月半に及ぶ苦闘の末、ようやくまともな耐火煉瓦が完成した。生産量はまだ三百個程度だったが、小槌で叩くと金属のような澄んだ音を返し、その成功を静子は喜んだ。しかし、彼女はこの耐火煉瓦が石窯だけでなく、鋼の精錬にも転用可能な戦略的資源であることに気づいていなかった。

綿花栽培の準備と忠勝の訪問

静子の村は相変わらず平和であり、技術伝達も順調に進んでいた。人力田植え機も完成し、田植えの作業時間を大幅に短縮することに成功した。また、綿花栽培の準備も進めていた。忠勝が家康へ打診したことで、三河での共同綿花栽培が正式に決まった。ただし、領地の問題もあり、計画の実施は翌年へ持ち越しとなった。

その話を聞いた静子は「綿花の種を見てみたい」と忠勝に書簡を送った。あくまで興味本位の提案であり、手に入れば幸運、駄目ならそれでも構わない程度のものであった。ところが、忠勝の行動は静子の予想を大きく超えていた。

「静子殿! 種を持って参りました!」

まさかの忠勝本人が種を届けに現れた。彼の熱意に丹羽も驚いたが、忠勝は「某が静子殿に渡し申す!」と譲らず、静子を直接呼び出すことになった。

馬廻衆との出会い

静子が呼ばれたのは、森可成の屋敷であった。部屋に入ると、彼の背後には二人の成人男性と一人の少年がいた。大柄な体躯を持つ男は前田慶次、もう一人の野性味を感じさせる男は可児才蔵であった。慶次は面白そうに静子を眺め、「酒宴で凄い伝説を作った奴か?」と尋ねた。

(何、その凄い伝説って!?)

静子にはまったく記憶がなかった。数ヶ月前の慰労の酒宴に参加したものの、翌朝目覚めたときには自室におり、それ以来周囲の態度が変わっていたのだ。皆が妙に低姿勢になり、その理由を尋ねても誰も答えようとしなかった。

さらに、森可成はもう一人の少年について「私の息子だ」と紹介した。名は勝蔵、後の森長可であった。彼は静子を睨みつけ、「女子に仕えるなど真っ平御免だ!」と反発した。

勝蔵との勝負

信長の命により、勝蔵は静子のもとで学ぶことになっていた。森可成は「軍にも新しい風を入れるべき」との信長の意向を伝え、静子に彼の教育を任せると告げた。

「前半と後半の話が全く繋がらないのですが……何を教えればよいのでしょう?」

静子の問いに、森可成は「すべて静子殿にお任せする」と苦笑した。拒否権がないことを察した静子はため息を吐いた。

勝蔵はどうしても納得がいかず、「女子に何が教えられるのか!」と叫んだ。そこで静子は彼に勝負を提案した。

「私が勝ったら大人しく従う。負けたら信長に話を取り下げる」と条件を提示したのである。

勝蔵は武芸での勝負を想定していたが、静子が示したのは英語の文章だった。

『SHIZUKO「 Why don’t you listen to me?」KATSUZO「 No problem. Everything is fine.」』

「これを日ノ本の言葉に訳してね。見事訳せたら君の勝ち。訳せなかったら君の負けだよ」

場に沈黙が流れた後、勝蔵は絶叫した。

「な、なんだこれは───ッ!?」

「南蛮の言葉の一つだよ」

動揺する勝蔵を尻目に、静子は冷静に答えた。彼が苛立ちを募らせる中、森可成が静かに言葉を発した。

「いいかげんにしろ」

部屋の空気が一変した。可成は淡々とした口調で「戦場で己の思い通りにいくとは限らない。もしこれが戦なら、貴様は既に首をはねられている」と告げた。

勝蔵は悔しそうに拳を握り締めたが、森可成は静かに勝負の結果を宣言した。

「この勝負、静子殿の勝ちだ」

こうして、静子は森長可の教育係となることが決まったのであった。

千五百六十七年九月中旬

静子の馬廻衆の決定

慶次と才蔵の任命\

前田慶次利益と可児才蔵吉長が静子の馬廻衆に任命された。この決定は容易ではなく、織田家内で大いに揉めた。有能な家臣の引き抜きは軍のパワーバランスに影響を及ぼし、家臣たちはそれを拒んだ。そのため、優秀でありながら問題を抱える者たちの中から二人が選ばれた。慶次は養父・前田利久が信長によって隠居させられたことで行き場を失い、放浪の旅に出ようとしていた。そこへ信長が「変わった奴に仕えてみないか」と誘いをかけた。女の家臣がいることに興味を抱いた慶次は、「仕える価値がないと判断した場合は自由に去る」という条件で承諾した。一方、才蔵は斎藤家滅亡後に織田家へ仕えたが、武将としての適性に欠けると判断され、秀吉の配下となった。しかし、秀吉ともそりが合わず柴田勝家の元へ移ることになったところで、信長が静子の馬廻衆に回すことを決めた。

長可の配属と試練
信長は馬廻衆として慶次と才蔵を静子の元へ送る直前、予定外の人物を追加した。森長可である。彼は美濃と近江の流れ者を集めて独自の軍団を形成していたが、近隣住民からの苦情が相次いだ。それを耳にした信長は即座に軍団を解散させ、長可を謹慎処分とした。しかし、寺での謹慎中も傍若無人な振る舞いを続けたため、最終的には追い出されることとなった。信長は長可を更生させる手段として、静子の村に送り込むことを決めた。ただし、「妙なことをすれば即刻斬る」と厳命した。

長可は静子の村でも変わらぬ態度を取り、三日目には鶏を盗んで食べようとした。しかし、血の臭いを嗅ぎつけた狼たちに見つかり、制裁を受けることとなった。狼の世界では序列が絶対であり、静子の所有する鶏を勝手に食べる行為は許されなかった。武器を持たない上、狼を傷つければ自らの立場が危うくなるため、長可は逃げるしかなかった。さらに、静子への直接攻撃を試みるも、慶次によって阻止され、二度目の試みでは寝相の悪い静子に捕まり、無意識のうちに関節技を極められた。朝まで関節を決められ続けた長可は、ついに抵抗を諦めた。

長可の矯正と滝落とし\

静子への襲撃未遂が信長や森可成に報告されると、長可は森可成によって滝へと連れ出された。そこで「這い上がれば今回の件は不問とする」と告げられ、滝へ蹴り落とされた。これはまさに「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」という故事の実行であった。長可は死に物狂いで滝を這い上がり、何とか登頂に成功した。しかし、試練は終わらなかった。静子を襲撃しようとした事実が忠勝の耳に入り、彼の怒りを買うこととなった。忠勝による「罰」は、長可の身に降りかかることとなる。

槍の訓練と学問\

長可は静子の指導の下で訓練を受けることになった。彼が槍を使うと聞いた静子は、槍の基本戦術として「叩く」「払う」「突く」の重要性を説明し、特に「叩く」ことの効率の良さを説いた。体力強化のために獣道を走る訓練を課したが、長可は何度も転び、穴に落ちた。それでも気合で立ち上がり、走り続けた。さらに、山を駆け上がった後は「一分間スクワット」が待っており、彼は肉体的に極限まで追い込まれた。

軍事だけでなく、学問の重要性も説かれた。長可は計算や漢字の読み書きが苦手であったが、静子は「戦においても計算と知識が不可欠」と説き、学問の必要性を叩き込んだ。彼は渋々ながらも問題を解き続けた。「戦に強い者は真面目なのよ」静子の言葉に、長可は「天下無双の豪傑よりもか?」と尋ねた。彼女は「勇猛果敢な豪傑は確かに強いが、指導者としては信用されにくい」と説明し、「どんな場面でも責任感を持ち、主君の命令を遂行できる者こそ、真に強い武将である」と諭した。

濃姫、ねね、まつの訪問\

静子が村の管理に追われる中、濃姫、ねね、まつの三人が突然訪問した。ねねとまつは戦国時代の武家の妻として礼儀作法に優れ、穏やかに静子と対話した。特に濃姫は静子の知識や技術に興味を持ち、彼女の取り組みを詳しく観察した。

濃姫は静子が作った石窯に興味を示し、「これでどんな美味なるものができるのじゃ?」と尋ねた。静子が「鶏の蒸し焼きを作っている」と答えると、ねねとまつは驚愕した。彼女たちは肉食を避けるべきとする考えに縛られていたが、濃姫は「野鳥と鶏に何の違いがあるのか」と問い、宗教的な戒律が庶民を縛ることの矛盾を指摘した。

その後、三人は静子の料理を試食し、鶏の蒸し焼きの美味しさに驚いた。特にねねとまつは、最初はためらっていたものの、一口食べると次々と箸を進め、最終的には静子の分まで平らげた。こうして濃姫たちの訪問は、静子の技術と新たな価値観を広める契機となった。

永禄十一年上洛

千五百六十八年一月上旬

戦国時代の正月と静子の計画

武士たちの正月と静子の過ごし方

戦国時代の正月は、現代と大きく変わらず、親族や仲間との初詣や酒宴で祝われた。ただし、武士たちは主君への挨拶と共に登城し、その後は家臣への挨拶回りを行うのが通例であった。慶次と長可は帰郷し、才蔵は愛宕権現へ参拝を希望した。静子は彼らに支度金と食料を渡し、過剰な気遣いに困惑しながらも最終的に受け入れられた。静子自身は村人と宴会を楽しみ、二日目に信長へ挨拶に赴いた。酒会では昨年の失敗を踏まえ、禁酒を貫いたが、依然として織田家中での知名度は低かった。

日用品の必要性と技術村の計画

静子は帰宅後、調理器具や測定道具のスケッチを描いた。生活の安定と共に、日用品の不便さに気づいたためである。戦国時代では鉱石類が武器製造に優先され、生活道具の質が低かった。天下統一後の安定した社会を見据え、静子は日用品の改善を目指し、特に鍛冶職人の確保を急務とした。当時、刀工鍛冶が重用され、生活鍛冶職人は軽視されていた。しかし江戸時代にはその立場が逆転することを知る静子は、技術村の設立を決定した。商業の発展する織田領では職人が集まりやすく、募集から二日で規定人数に達し、選考試験を経て優秀な技術者集団が結成された。

農業の発展と貯蔵問題

農業技術の向上により、百姓たちは豊作を迎えたが、収穫量に見合う貯蔵施設が不足していた。作物を商人に売ることは可能だったが、信長との契約上、勝手な取引は禁止されていた。そこで静子は貯蔵施設の建設と加工・保存技術の指導を行ったが、今度は保存容器が不足した。この問題は商人や信長の協力なしでは解決できず、結果的に一割の野菜を破棄せざるを得なかった。これを機に静子は「信長に頼れば解決する」という慢心に気づき、準備不足を痛感した。以後、器具の確保を徹底することを決めた。

計量単位の導入と新たな技術村

静子はこの機会に**MKS単位系(メートル・キログラム・秒)**を導入することを決定した。大規模な規格統一は混乱を招くため、一つの村で試験導入し、メートルの原器には現代の定規、秒の基準には日時計を使用した。キログラムの基準は一円玉(1g)を元に複製を作成したが、完璧な精度は求めず普及を優先した。この技術村には生活鍛冶職人、織物職人、焼き物職人、木工職人が集められ、日用品の生産拠点とする計画が進められた。

商人・久治郎の訪問

ある日、織田家公認の商人・久治郎が村を訪れた。胡散臭い雰囲気を持つが商才に優れた男であり、まず陶石を持ち込んだ。これは磁器の原料であり、当時の日本ではまだ発掘されていない貴重な資源であった。久治郎は上杉や遊佐領から陶石を持ち込んだと語り、静子は即座に購入を決定した。さらに久治郎はもう一つの木箱を見せた。静子が確認すると、驚愕し、即座に買い取ることを決めた。それは、現代のスポーツバッグであった。

スポーツバッグに残された日記

静子はバッグの中から一冊の日記を発見した。それには、現代からタイムスリップしたと思われる人物の記録が記されていた。日記の持ち主は妻と娘を持つ中年男性で、家庭菜園のために種や苗を集めていたが、バス移動中に突如戦国時代に迷い込んだ。彼は武士たちに襲われたが、謎の男に助けられた。その男は戦国時代の知識を持ち、ためらいなく敵を斬ることができる人物であった。日記の最後には「この種や苗木を育ててほしい」という願いが書かれていた。

刻の落胤と謎の男

静子は、この日記の持ち主が自分と同じ「刻の落胤」であると確信した。しかし、彼を助けた男の正体は不明であった。「この男はただのタイムスリップ者ではない。戦国時代の知識と戦闘技術を持ち合わせているのは不自然だ」と考え、静子は警戒を強めた。もし敵対すれば、信長や織田家に甚大な影響を与える可能性があるため、情報収集を最優先課題とした。現代人が三人も戦国時代に存在するという事実に、静子の胸には不安が募るばかりであった。

千五百六十八年二月上旬

技術屋集団の街の特徴

異質な街並みと燃料問題

静子が作り上げた技術屋集団の街は、当時の常識から見れば異質な存在であった。各家庭には掘り炬燵と囲炉裏が設置され、湿度調整のため室内干しの物干し場が用意されていた。これらは冬場の疾病予防を目的としたものであったが、薪の消費が激しく、森林資源の枯渇が懸念された。そこで静子は竹炭の活用を提案した。竹は成長が早く、持続可能な燃料資源として適していた。孟宗竹が最適ではあったが、江戸時代以降に普及したため、久治郎に種や地下茎の入手を依頼した。それまでの代替策として、真竹や淡竹を利用した竹林の整備を進めた。

竹炭とその副産物の利用

竹炭の生産過程で竹酢液と木タールが副産物として得られた。竹酢液には消臭、防菌、防虫、土壌改良の効果があり、入浴剤としても利用できた。木タールは防水・防腐効果があり、建材に塗布することで耐久性を向上させた。しかし、これらの資源は静置法により熟成期間が必要であり、即時の利用は困難であった。

街の衛生管理と食事制度

街では汲み取り式便所を設置し、定期的に肥溜めへ移送し、肥料として再利用する仕組みを整えた。燃料として竹を使用し、入浴の習慣化を促進した。食事面では、食堂制度を導入し、家庭での調理よりも効率的な食材管理と廃棄物処理を行った。ただし、各食堂ごとに味の違いが生じ、町民の間で好みが分かれることとなった。

警備制度と犬の活用

街の治安維持のため、現代の警察制度を参考にした組織を整備し、各所に派出所を設置した。警備員は交代制で配置され、さらに犬を利用したツーマンセルの巡回体制を敷いた。犬は優れた嗅覚と聴覚を持ち、警備・偵察・伝令・負傷者の発見など多岐にわたる役割を担った。特に日本犬は忠実かつ勇敢であり、番犬として最適であった。技術屋集団の街では軍事技術の開発は行われず、軍事技術の民間転用が主な目的であったため、間者にとって重要な軍事情報が得られる場ではなかった。

技術革新の試みと職人たちの挑戦

街の住民が生活に慣れた頃、静子は職人たちに新たな課題を与えた。彼らに示されたのは、現代のペットボトルのキャップであった。静子は火縄銃のネジ技術を応用すれば、竹水筒の気密性を高める蓋が作れると説明し、二ヶ月以内に再現するよう指示した。また、機織り職人にはスポーツバッグに入っていた衣類の再現、焼き物職人には登り窯の活用、生活鍛冶職人には農耕器具の再現を課した。さらに、木工職人と鍛冶職人には蒸留器の製造を命じた。ゴムの代用品としてファクチスの利用も考慮したが、硫黄の確保が課題となり、現時点での実用化は困難であった。

農業改革と種苗の整理

静子はスポーツバッグに入っていた種や苗木の育成を決意したが、無計画な栽培は土壌のバランスを崩す可能性があった。そのため、作物の選別を行い、適切な組み合わせを考慮して栽培を進めた。しかし、一部の苗木は損傷しており、特に梅の苗の被害が深刻であった。梅の自家結実性が弱いため、代替手段が求められた。最終的にレモン、ミカン、スナックパインの苗木を中心に育てることとなった。

信長の農業政策と「三組之一街」制度

信長は新たな農業政策として「三組之一街」制度を導入した。各村から20〜30人を選び、基点となる村を設立し、その村を中心に3〜5の衛星村を作る。この単位を「組」とし、三つの「組」をまとめたものを「街」とした。各組は年ごとに異なる作物を栽培し、収穫の一部を織田家に納める制度であった。三年ごとの作物ローテーションを五回繰り返した後、税率を四公六民に変更し、福利厚生として餅を配る計画であった。信長は民の労働意欲を維持するため、恩恵を段階的に提供する戦略を採用した。

塩田の開発と漁業の導入

静子は信長の命を受け、大型塩田の開発に着手した。しかし、知多半島は慢性的な水不足に悩まされる地域であり、生活用水の確保が不可欠であった。そのため、天白川から水を引く計画を立てた。また、住民には漁業の兼業が命じられ、漁船の建造が進められた。延縄漁業・かご漁業・たこつぼ漁業を中心に採用する方針が決定したが、経験のない者が多く、静子は基礎から指導することとなった。

漁業の開始と安全対策

漁船が到着すると、村人たちは早速漁に出た。しかし、彼らは川魚専門の漁師であり、海の生物には不慣れであった。そのため、初めて捕獲したタコやイカに戸惑う様子を見せた。安全対策として、旗の設置、命綱の着用、悪天候時の出漁禁止などのルールを設定した。当初はその重要性が理解されていなかったが、事故が発生したことで、その必要性が認識された。

漁獲物の処理とタコの締め方

漁から戻った村人たちはタコやイカの処理方法を知らず、静子が実演指導を行った。タコの急所を突いて締める方法や、ヌメリを取るための大根おろしの活用を教えた。村人たちは最初こそ戸惑ったが、次第に漁業の技術を習得していった。静子は「タコはたくさんいる」と述べながら、さらなる漁業技術の向上を促した。

千五百六十八年二月下旬

干物作りの指導と漁師たちの学び

魚の締め方と干物作りの指導

静子はタコに続き、イカや魚の締め方について漁師たちに指導した。中型以上の魚は締めておくことで鮮度が保たれ、加工しやすくなるためである。特に鰺は開き干しにするよう指示し、内臓を取り除いた後、海水に浸して一夜干しにする方法を実演した。また、海老も干物にし、殻は捨てずに粉末化して利用することを説明した。作業の合間、慶次、才蔵、長可が静子の指導の様子を見守っていた。彼らは、静子が漁師でも料理人でもないにもかかわらず、的確に干物作りを指導する姿に驚き、その知識の源を不思議に思っていた。

不審な動きと間者の処理

間者の存在とその対応

漁の指導が続く中、慶次は周囲を警戒しながら不審な動きを察知した。才蔵に確認を促すと、彼も即座に状況を把握し、間者の存在を示唆した。どうやら静子の功績を快く思わない勢力が、彼女の失態を探るために間者を送り込んでいたようである。その後、長可が静子に「そろそろ戻る時間」であることを伝えに向かう間、慶次と才蔵は間者の背後関係について話し合った。間者の存在を信長に報告すれば、その一派は粛清される可能性が高かった。才蔵はしばらく様子を見るか、大々的に広めて牽制するかを検討しつつ、この問題が根深いものであることを実感していた。

百姓の移住と新たな村の形成

信長の命による移住計画

三月中旬、信長の指示により、選別された百姓たちが指定の村へ移住を開始した。これは現代の引っ越しに相当するが、移住先は自由に選べるものではなかった。ただし、住居や衣類、少量の食料と支度金が支給され、親族との引き合わせも手配されたため、家族離散の心配はなかった。静子の村からも50人の百姓とその家族が移住し、村の人口は大幅に減少した。これにより税収も減ったが、信長にとっては計算のうちであった。一方で、500人の兵士の駐屯計画は、訓練施設の整備が遅れたことで当初の予定よりも遅延していた。

尾張と三河の綿花栽培協定

協定の締結と席次の問題

三月下旬、尾張と三河の間で正式に綿花栽培の協定が結ばれ、第一回の話し合いが清洲城で行われた。尾張側は静子、三河側は忠勝が代表として参加した。忠勝は異例な席次に戸惑ったが、静子は「同盟は対等であるため、上下を決める必要はない」と説明した。忠勝は納得しつつも、静子が多くの技術を持っていることから、彼女が上座に座るべきではないかと問いかけた。静子は、「その差をなくすために情報を共有する」と返し、小姓に指示して綿花に関する詳細な資料を配布した。

三河側の警戒と静子の意図

しかし、資料はあまりに詳細であったため、三河側は逆に警戒心を強めた。戦国時代では技術の秘匿が常識であり、無償での情報提供に不信感を抱くのは当然であった。静子は火縄銃が24年で全国に広まった経緯を例に挙げ、綿花の普及にも時間がかかることを説明した。さらに、綿花の共同栽培の理由として「一揆対策」「子供の死亡率の低減」「広大な土地の必要性」を挙げた。木綿は寒さを防ぎ、幼児の死亡率を下げる効果があること、一揆を防ぐためには百姓の生活を安定させることが不可欠であると説いた。しかし、三河側の警戒心は完全には解けず、初回の交渉は大きな進展なく終わった。

硝石の生産と黒色火薬の成功

火縄銃による実験

その後、静子は三年間かけて作り上げた硝石を採取し、調合を試みた。森可成が立ち会う中、火縄銃を用いた実験が行われた。結果として、20発の銃弾がすべて成功し、不発弾は一発もなかった。これにより、硝石の調合技術が確立されたことが証明された。硝石を自給できるようになれば、織田軍は火薬の輸入依存を減らし、軍事的優位を確立できる。信長もこの成果に満足し、「望みの褒美を与える」と静子に告げた。

静子の望みと農業への専念

農業への回帰

しかし、静子が求めたのは金でも名誉でもなく、「広い土地と百姓仕事の時間」であった。信長はこれに驚きつつも、彼女の意思を尊重し、仕事の整理を命じた。こうして静子は農作業に没頭する時間を得た。彼女は自らの農地を開墾し、持ち込んだ二種類の米を栽培した。そのうち一つは「ともほなみ系列」と呼ばれる品種で、収穫量が多く、病害に強かった。もう一方は寒冷地や暑い地方でも育つが、食味が劣る品種であった。しかし、寒冷地での稲作を可能にする点を評価し、静子はこの品種の栽培に力を入れた。

技術の革新と新たな道具の開発

道具の開発と国家戦略

農作業と並行して、静子は竹水筒の開発を進めた。現代のケータイマグに似た構造で、飲み口が大きく、中の液体を確認しやすい利点があった。竹の材齢や伐採時期を厳選することで耐久性を高めたが、大量生産には課題があったため、「旋盤」などの加工技術の導入を計画した。さらに、「身長測定器」「体重測定器」「木桶蒸留器」といった道具の開発も進めた。これらの技術は長期的な国家戦略の一環であり、国民の栄養状態の改善につながると静子は考えた。

森可成や秀吉、竹中半兵衛は、静子の思考の広さに驚きつつも、その成果が織田家の発展を加速させていることを認識した。竹中半兵衛は彼女の姿を見つめながら、天下布武が単なる夢で終わらない可能性を感じていた。

千五百六十八年四月中旬

兵士の移住と新街区の遅延

上洛計画と軍備の拡張

信長の上洛計画が現実味を帯びる中、兵士の確保が急務となり、新街区の拡張計画は繰り返し延伸された。美濃を支配し、徳川と清洲同盟を結び、お市の方を浅井家に嫁がせることで同盟を築いた信長にとって、唯一の障害は南近江を支配する六角氏であった。六角氏は信長の交渉に応じず、戦を避けようとしなかった。信長は六角氏との対決を見据えつつ、伊勢国北部への侵攻を進めた。美濃での戦と異なり、クロスボウ部隊とファランクス部隊の高い練度によって、侵攻は予想以上に速やかに進行した。戦場にいた武将たちは、個人の武勇よりも集団戦が主流になりつつあることを漠然と感じ取った。しかし、集団戦が主流となるとしても、集団を率いる将の重要性を理解していた者は少なかった。

長可の訓練と住み込みの決定

過酷な訓練と教育

静子の村では長可が日々訓練に励んでいた。200メートルの砂のレーンを20回走り、砂を桶に入れて100メートル先に運ぶ。さらに甲冑を着たまま野山を駆け回り、一文銭の穴に竹竿の先端を突き刺す訓練も行った。加えて、読み書きや四則演算などの基礎学習にも励んでいた。静子は、教育に活用するためにスマートフォンに保存されていた「七十二時間で学び直す義務教育」シリーズを複写し、今後さらに他のシリーズを記録しようと考えていた。

栄養改善と住み込み生活

長可の食事に問題があると気づいた静子は、彼を住み込みにすることを決めた。特に動物性タンパク質が不足しており、それが瞬発力の向上を妨げていた。幸い長可は鶏肉に抵抗がなかったため、発芽玄米ご飯、けんちん汁、鶏のササミ、ぬか漬けを基本とした食事を三食提供することにした。この栄養改善により、長可の体力は向上し、慶次や才蔵、彩も食事に加わったことで、五人は日ノ本でも屈指の健康体となった。

信長の健康改善と長可の成長

食生活の改善

信長もまた、静子の影響を受けた一人であった。彼は四十代ごろから高血圧症に悩まされていたが、静子が作成した栄養学の資料を読み、半信半疑ながら食生活を改善した。最初の一ヶ月は変化がなかったものの、二ヶ月、三ヶ月と経つうちに頭痛や倦怠感が消え、体調の改善を実感した。信長は食事の重要性を理解し、さらにはラジオ体操やストレッチを取り入れるほどになっていた。

角力大会への参加

長可の体は、動物性タンパク質による瞬発力と、日本古来の食事による持久力を兼ね備えたものへと成長していた。彼の実力が試される機会として、信長主催の角力大会が開催された。今年は武家の元服前の男子限定の大会も併せて行われることとなった。長可は十歳であり、条件を満たしていたため、大会への参加を希望した。静子も特に反対せず、森可成もそれを認めたことで、彼の出場が決定した。

角力大会での長可の圧倒的勝利

大会の様子

大会前日、信長から静子にも賑やかしとしての参加命令が下された。静子は慶次、才蔵、そして長可とともに大会の会場へ向かった。すでに参加者とその付き添いで会場は混雑していた。武家の子供限定のため、どの子も鍛えられた体つきをしていた。森可成の案内で、静子たちは見物席に案内された。大会が始まると、小学校の運動会のような賑やかな雰囲気が広がった。信長は、角力の勝敗が揉めるのを避けるため、見極め人を設置して進行を円滑にした。さらに、見物人と力士を区別するため、四本の柱を立てて縄で囲うことで土俵の原型を作った。

長可の圧勝

長可の番が回ると、彼は相手と組み合うことなく、張り手一発で相手をノックアウトした。その後も圧倒的な実力で対戦者を次々と薙ぎ倒し、終盤には対戦者が戦意を喪失するほどであった。最終的に、彼は挑んできた相手とだけ戦う特別ルールのもとで優勝を果たした。

信長の視察と技術革新

竹製品と耐火煉瓦

五月上旬、育苗と田起こしが始まる中、信長は静子の技術屋集団を視察した。竹中半兵衛が静子の竹製ケータイマグを気に入り、勝手に装飾を施したことがきっかけで、信長の耳にもその存在が届いたためである。信長の視察のもと、静子は木工職人たちの手による竹製の日用品を紹介した。竹は成長が早く、加工しやすいため、木材よりも低コストで調達できる素材であった。信長もその利点に納得し、さらなる発展を期待した。

磁器と蒸留酒

次に、信長は焼き物職人の村を訪れた。ここでは耐火煉瓦を用いた登り窯を建造し、陶器や磁器の生産を進めていた。静子は他国から陶石を輸入し、磁器の生産を開始していた。信長も「天下布武」の文字が描かれた磁器に興味を示した。さらに、信長は蒸留器を使って製造されたアルコールにも関心を寄せた。彼はこれを攻城戦に活用する考えを示唆し、静子はその意図を理解しつつも深入りすることを避けた。

黒歴史ノートとタイムスリップの謎

ノートの記録と新たな発見

信長の視察から一週間後、静子は自身のノートを見返していた。スマートフォンの充電池が劣化しており、記録を紙に残す必要があったためである。その中で、スポーツバッグの持ち主が記したノートを再び手に取った。日記を読み直すうちに、彼が農家に渡した羊羹や、譲り受けた種と苗に見覚えがあることに気づいた。静子の村に住む源吉という老人が、日記の内容と一致する種を求めていたことを思い出した。

タイムスリップの仮説

さらに、タイムスリップの原因について考える中で、ある仮説が浮かんだ。それは「自分がタイムスリップしたのではなく、誰かのタイムスリップに巻き込まれたのではないか」という可能性だった。この仮説に思い至った瞬間、静子は恐怖を覚えた。自分が主体的に過去へ飛んだのではなく、何か別の要因によってこの時代へ連れてこられたのではないか――その疑念が、彼女の心を深く揺るがしていた。

書き下ろし番外編  暗渠排水工事

湿田の調査と問題の確認

静子は信長の命を受け、慶次と才蔵を伴いとある村へ向かった。到着すると村長らしき人物が出迎えたが、静子が女性であることに驚きを見せた。しかし、彼女の後ろに控える慶次や才蔵、兵士たちを見て、すぐに態度を改めた。静子は儀礼的な挨拶を省き、湿田の場所を尋ねた。

案内された田んぼは、一目で湿田であることが分かる状態であった。農業用水路からわずかに水が流れ込み、田んぼの排水が滞っていた。湿田は排水が悪く、作物の根に酸素が行き渡らず、生育不良を引き起こしていた。さらに、ぬかるみが激しく農作業が困難であり、労力に対して収穫量が見合わない問題を抱えていた。

静子はスコップを手に取り、土を掘り始めた。作土層の厚さは13センチと理想的であったが、さらに掘ると硬い粘土層に突き当たった。粘土の表面に水が溜まり始める様子を確認し、静子は問題の根本を把握した。

工事の開始と暗渠排水の導入

静子の作業を見守っていた村長は、不安げに慶次へと尋ねた。しかし、慶次は静子を信頼しており、「何とかするだろう」と豪快に笑い飛ばした。静子は工事が必要であると判断し、同行していた土木工事担当の者たちに作業開始を指示した。彼らは互いに顔を見合わせた後、すぐに荷物を手に取り作業を始めた。

村長がどのような工事をするのか尋ねると、静子は「暗渠排水をするだけだ」と簡潔に答えた。暗渠排水は水はけの悪い湿田を乾田へと改良するための設備であり、素焼土管を埋設して排水性を向上させる方法である。この技術は、日本では明治時代から使用され始めたが、世界では古バビロニア王朝時代から存在していた。

静子は、基幹部分には耐久性の高いコンクリート土管を使用し、支流部分には素焼土管を設置するよう指示した。また、交換頻度の高い部分には竹を使用することで、コストを抑えながら効率的な排水システムを構築した。

工事の完了と村の未来

工事が始まると、村人たちは自分たちの田んぼが掘り返される様子に驚き、不安を露わにした。ある農民が悲鳴を上げたが、慶次は笑いながら彼の背中を叩き、「静子に任せておけば悪いようにはならん」と励ました。

工事は日没前に無事完了し、静子は村長に結果を伝えた後、挨拶を済ませて村を後にした。その後、この村の田んぼは例年にない大豊作を迎えることとなるが、それはもう少し先の話である。

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こも

いつクビになるかビクビクと怯えている会社員(営業)。 自身が無能だと自覚しおり、最近の不安定な情勢でウツ状態になりました。

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