簡単な感想
静子は戦略的に武田信玄の想定の上を行って武田軍を蹂躙。
その結果、巨星堕つ。
どんな本?
戦国小町苦労譚は、夾竹桃氏によるライトノベル。
農業高校で学ぶ歴史好きな女子高生が戦国の時代へとタイムスリップし、織田信長の元で仕えるという展開が特徴。
元々は「小説家になろう」での連載がスタートし、後にアース・スターノベルから書籍としても登場。
その上、コミックアース・スターでも漫画の連載されている。
このシリーズは発行部数が200万部を突破している。
この作品は、主人公の静子が現代の知識や技術を用いて戦国時代の農業や内政を改革し、信長の天下統一を助けるという物語。
静子は信長の相談役として様々な問題に対処し、信長の家臣や他のタイムスリップ者と共に信長の無茶ブリに応える。
この物語には、歴史の事実や知識が散りばめられており、読者は戦国の時代の世界観を楽しむことができる。
2016年に小説家になろうで、パクリ騒動があったらしいが、、、
利用規約違反、引用の問題だったらしい。
読んだ本のタイトル
戦国小町苦労譚 8 岐路、巨星墜つ
著者:#夾竹桃 氏
イラスト:#平沢下戸 氏
(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。
あらすじ・内容
山県昌景、秋山虎繁を擁し総動員、兵力およそ3万で臨む武田軍に対し、信長が徳川軍の後詰めとして指名したのは、総大将奇妙丸、以下静子、佐久間、平手、水野を擁する大軍団だった。
静子軍の呈した秘策――水面下で準備を進めていた新式銃が本格的に戦に投入――に武田軍はどう打って出るのか? 三方ヶ原の戦いで大きく変わろうとする歴史。目が放せない展開の第八巻が登場!
戦国小町苦労譚 八、岐路、巨星落つ
感想
静子は戦略的に武田信玄の想定の上を行った。
武田家3万に対して正面には織田家、徳川家連合は2万5千ほど。
その周辺に伏兵を8千を用意。
静子の直轄軍では新兵器のダイナマイト、射程の長い銃を多数揃えて武田軍を迎撃する。
新兵器による混乱。
伏兵による動揺。
そして、徳川軍が後方に回って包囲網を完成されて武田家3万が潰走した後に降伏する。
武田信玄は捕らえられ斬首される。
真田家もほぼ全滅。
その結果を聞いて、織田家本隊は長島を呆気なく占領して遂に喉の小骨の一向宗を追い出す事に成功する。
織田の天下統一に大手が掛かる。
(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。
同シリーズ
戦国小町苦労譚 シリーズ
小説版
漫画
その他フィクション
備忘録
元亀三年決戦、三方ヶ原の戦い
千五百七十二年十一月下旬(漫画16巻)
十月三日、織田家に激震が走った。武田信玄が2万2,000の軍勢を率いて出陣したという報が届いたのである。信玄は事前に山県昌景と秋山虎繁がそれぞれ5,000の兵を率いて進軍していることから、武田家が総力を挙げて戦いに臨んでいることが明らかであった。徳川だけでなく、その背後にある織田家をも狙っていると誰もが理解した。
信長は横山城で浅井・朝倉の状況を確認中にこの報告を受けた。武田家の動きに対し、光秀は徳川に援軍を送るべきと進言したが、信長はそれを即断で却下した。信長は泰然と構えていたが、他の諸将は動揺していた。
尾張にいる静子も武田軍の出陣を知っていたが、彼女はいつもと変わらぬ態度であった。彩が足満を呼び、例のものを持ってくるように指示すると、静子は慶次に連絡係を依頼した。静子は武田を破った先に活路があると確信していた。
静子は家臣たちを集め、武田軍が甲府から出陣したことを伝えた。静子は徳川の後詰めに行くのが自分たちであると告げ、新型火縄銃を用いて武器の質で数を補う作戦を提案した。静子は武田軍の兵力に対抗するため、新型銃を使用し、その性能を見せることで家臣たちの不安を取り除こうとした。
静子は家臣たちに、武田軍との戦いで名を上げる機会を与えることを伝えた。特に鉄砲衆の存在感を示すことで、織田家の名を天下に鳴り響かせる作戦であった。家臣たちは静子の信頼に応えるべく、決意を新たにした。静子は彼らの気合いを感じ取り、解散を命じた。
十月三日、織田家に武田信玄の軍勢が出陣したという報告が届き、織田家中に激震が走った。武田は持てる力を総動員して遠征に臨んでいることが判明し、織田家にとって重大な危機であった。信長は岐阜を離れ、近江にある横山城にて対浅井・朝倉の状況を確認している中で、武田の報告を受けた。
信長は徳川に援軍を送る必要があるとする光秀の提案を即断で却下し、泰然と構えていたが、他の諸将は動揺していた。尾張にいる静子も武田軍の出陣を知っていたが、動揺することなく、冷静に対応していた。
静子は家臣たちを集め、武田軍の出陣を伝えた後、自身の軍を動かし、武田軍を迎え撃つ準備を進めるよう指示した。彼女は新型の火縄銃を使用し、武器の質で数を補う作戦を提案した。静子の落ち着きと決意を感じた家臣たちは、その指示に従い、準備を進めることにした。
徳川家康もまた、武田軍の圧力に苦しんでいた。家康は織田に援軍を要請する案を考えたが、織田も四方を敵に囲まれているため、援軍を送る余力がないと判断した。降伏の案もあったが、今更降伏しても受け入れられる可能性が低く、家康は悩んでいた。
半蔵は静子が軍を尾張に配置したまま動かないことに疑問を持ち、静子の意図を探ろうとした。家康は静子が岩村城に兵を送ることを疑ったが、静子軍の動きを信じることができず、武田軍をどうにかする策を見つけられなかった。
静子は織田・徳川連合軍を率いて武田軍に挑む決意を固めており、家康も武田軍との戦いに向けて準備を進めることにした。武田軍の出陣により、静子と家康はそれぞれの立場で危機に立ち向かうことになった。
十一月下旬、織田家は武田軍の快進撃によって緊迫した雰囲気が漂っていた。武田軍が徳川領を攻め、織田家も次に攻撃される可能性が高いため、戦いは避けられない状況であった。信長は武田と戦う意思を示さなかったが、静子は物資のチェックに追われていた。銃の部品や甲冑の装備が不足しており、熟練工に報奨金を与えることで生産を増やす方針をとった。
静子は戦時動員に近い形での無理を強いていたが、織田家が武田に勝つためにはそれが必要であると理解していた。兵士の訓練は森可成が担当しており、静子の直轄部隊も厳しい訓練に参加していた。玄朗は鉄砲衆を組織していたが、部隊の結束に時間がかかっていたため、静子は訓練内容を見直すことにした。
計画の修正が進む中、静子は十二月十日前後には武田が三方ヶ原へ向かうと予想し、その時に織田家が勝利を得ることを期待していた。織田家が勝つためには、予想外の事態に柔軟に対応し、勝利に導くことが重要であると考えていた。十一月も終わりに近づき、信長からの指示で徳川への援軍が送られる話が来るだろうと静子は予想していたが、その時、慌ただしい足音が静子の耳に届いた。
千五百七十二年十二月中旬(漫画16巻)
十二月一日、信長は家臣たちを集め、武田を倒す決意を表明し、徳川への援軍を派遣することで織田家の力を示す方針を打ち出した。決戦の場となる浜松城は、守りに優れた城であり、家臣たちは籠城戦を覚悟していた。
信長の人事は意表を突くもので、後継者の奇妙丸を総大将に据え、静子、佐久間、平手、水野の軍を配下とし、大軍団を組織した。浜松城には静子軍が主力として送り込まれ、徳川軍と合わせて武田軍と同等の兵力となる。
この動きに、秀吉ら家臣は驚きつつも信長の意気込みを感じ取った。秀吉は、今川との決戦時のように勝利を信じており、武田に勝てばその武威が天下に鳴り響くと期待していた。
秀吉と秀長、竹中半兵衛らは会話を交わしながら信長の采配を理解し、意識的にその策に乗ることを選んだ。彼らは信長の決断を信じ、戦に臨む覚悟を固めていた。
信長の命により徳川への援軍を指揮することになった静子は、部隊長を含めた軍勢を集めた。すでに多くが派遣の話を知っていたが、静子は改めて軍としての方向性を確認するため、決意を宣言した。簡潔に「いつも通りに出陣し、戦い、勝利する」と述べ、特別な準備を強調することはなかった。
主要な部隊長たちは普段通りに日々を過ごし、静子も書類仕事と農作物の確認に専念していた。出陣の三日前、静子は鉄砲衆の訓練成果を確認した。射撃速度にばらつきがあったが、射撃精度には一定の評価を得た。静子は短所を責めるより長所を伸ばす方針を示し、部隊に自信を持たせた。
新型銃の性能を隠すため、見た目からは距離を誤認させる訓練を行っており、その真価はまだ誰にも知られていなかった。兵たちはその性能を過小評価していたが、それが静子の策略であり、いざという時にその威力を発揮することを期待していた。静子は部隊に自信を持たせることで、士気を高め、決戦に備えていた。
信長が徳川への後詰めを命じたことが広まり、敵方は織田軍の余力に驚きを見せたが、信玄はこれを予測しており、岐阜にはまだ2万から3万の兵が残っていると見ていた。そのため、二俣城の水源を断つことで兵の降伏を促した。一方、静子軍1万と佐久間、平手、水野の軍が浜松城に到着し、徳川軍と合わせて1万5000の兵力となった。
浜松城で籠城する間、他の城から武田軍の背後を突き、挟撃する作戦が立てられていた。しかし、信玄はこの作戦を予測しており、静子は才蔵を伴い家康のもとへ向かった。家康は苦悩していたが、静子は二俣城がすでに落ちていることを伝え、信玄を包囲しないようにする策を説明した。
静子の策に家康は一応納得したが、信玄がこの策に乗らない可能性もあり、賭けに出ることに不安を抱えていた。徳川家の選択肢が少ない中、信長の策に賭けるしかなかった。静子は浜松城に軍備を運び入れる許可を得て、輸送作戦を開始した。静子は順調に事が運んでいることに満足し、さらに他の懸念事項についても話し合うことにした。
信長から徳川への後詰めを命じられた静子は、補給部隊を白須賀に待機させ、浜松城への物資輸送を迅速に進めていた。足満は効率的に指示を出し、補給部隊はコンテナを積んで浜松城へ向かい、圧倒的な物量が徳川家臣たちを驚かせた。だが、これらの物資の多くは武田軍と戦うための軍需物資であり、籠城のための生活物資ではなかった。
静子はヴィットマンファミリーを連れて浜松城に到着しており、その圧倒的な存在感に家康は驚きを隠せなかった。家康は静子とともに運び込まれた物資の視察を行い、そのスムーズな流れに感心したが、物資の中身やその意図は理解できなかった。静子は視察を終え、兵士たちへの振る舞いを指示した。静子の準備が着々と進んでいることに家康は安心し、信頼を寄せるようになった。
織田軍が徳川軍への後詰めとして出陣し、静子は兵士たちに酒を振る舞った。これは、明日から始まるであろう籠城戦に備えたものだった。静子軍の兵士たちは騒ぎ立て、徳川家家臣たちもそれに加わり、共に夜を楽しんだ。
彼らは籠城戦が長引くことを恐れており、今のうちに不安を忘れるために盛り上がっていた。静子は、その騒ぎを見守りつつ、武田軍との決戦が控えていることを意識していた。彼女は、準備してきた策を信じ、武田軍を圧倒する意気込みを持っていた。
足満は静子を信頼し、彼女の思いを支える覚悟を示した。彼は、静子が政治の世界に巻き込まれることを危惧していたが、彼女を守ることが自分の役目であると考えていた。静子は静かな決意を胸に、明日が歴史を変える日になることを確信していた。
その夜、兵士たちは星空を見上げながら静子の言葉に耳を傾け、運命の日である翌日に備えて就寝した。
千五百七十二年十二月下旬 一(漫画17巻)
織田軍が徳川軍への後詰めとして出陣した十二月二十二日、静子は白装束を纏い、兵士たちの前に立った。これは決死の覚悟を示すものであり、兵士たちに大きな安心感を与えた。静子は武田軍を討ち滅ぼすことを誓い、兵士たちを鼓舞した。
静子の演説により、兵士たちの士気は高まり、その顔つきは鋭さを増した。静子は弐号装備を命じ、特に射撃精度の高い兵士たちを選抜し、別任務を与える準備をした。静子軍の高い士気と整然とした統率力は、徳川家家臣たちに強い印象を与えた。
籠城戦に備える徳川家の家臣たちは、静子の軍の士気の高さに驚きを隠せず、静子が何か大きな計画を企んでいるのではないかという予感を抱いた。
十二月二十二日、静子は白装束を纏い、武田軍との決戦に臨んだ。武田軍は浜松城を目指して進軍していたが、攻城戦をする気はなく、城を迂回して次の城を目指す戦略を取っていた。信玄は家康を城から引きずり出し、三方ヶ原での野戦に持ち込むことで早期決戦を狙っていた。
信玄は小山田信茂に密かに指示を与え、軍を進めさせた。浜松城では家康が軍議を開き、信玄の行動に気を揉んでいたが、静子は冷静に刻を待っていた。武田軍が進軍を再開し、兵を分けたとの報せを受けた家康は、待望の勝機を見出した。
その間、静子は軍議から姿を消し、精鋭銃兵を率いてある場所に陣取っていた。彼女は投石兵を狙撃するタイミングを見計らっていた。武田軍が浜松城への投石を開始すると、静子はクーゼを手に取り、投石兵への狙撃を命じた。銃口が一斉に火を噴き、静子の策略が始まった。
十二月二十二日、静子の指揮のもと、武田軍に対して新式銃が初めて実戦で使用された。最初の一斉射では100人の鉄砲衆が射撃し、武田軍の投石衆300人のうち40%を倒すことに成功した。この驚異的な結果に静子軍の兵士たちは驚愕したが、静子の号令で素早く次の射撃が行われ、武田軍は壊滅状態に陥った。
続く第三射と第四射で武田の投石衆はほぼ全滅した。静子は犬笛を吹いてヴィットマンファミリーと調教された犬軍団を呼び寄せ、武田軍の軍監を襲撃させた。狼や犬の鋭い嗅覚により、隠れた軍監たちは次々に見つけ出され、襲われた。
静子は武田軍の首級を探すことは無理だと判断し、目的を変更することにした。最後に、静子は一世一代の演技をする覚悟を決め、クーゼを担いで家康のもとへ向かった。
徳川家康は浜松城に攻め寄せた武田軍の数がわずか300名という報告を受け、混乱していた。武田軍の少数部隊が何を企んでいるのか理解できず、家康は悩んでいた。一方、徳川家臣たちは敵の狙いが分からず、意見がまとまらずにいた。
佐久間は、武田軍の動きが読めないとしても、城から出撃すべきだと家康に促した。家康は、どちらを選んでも徳川の敗北は避けられないと考え、苦悩していた。徳川家と織田家が分断されれば、どちらかが先に滅びるという未来が見えていた。
その時、静子が現れ、信長からの命令書を渡した。命令書には、静子の指示に従うようにと書かれており、家康は彼女の指示を信じることにした。静子は、武田軍の狙いを暴き、彼女の策を説明した。その策に家康と家臣たちは引き込まれ、最終的に家康は静子の策に従うことを決意した。
家康は、「徳川家の命運を静子に託す」と宣言し、家臣たちに準備を命じた。徳川家臣たちは士気を高め、戦いの準備に取り掛かった。
織田・徳川連合軍2万は、浜松城から出陣し、三方ヶ原台地を進軍した。静子は山県昌景が合流した信玄の本隊2万7000が待ち構えていることを察知していたが、途中で襲撃は受けなかった。
武田軍の圧迫感に対抗しつつ、静子は兵たちに気合いを入れるよう命じた。彼女の指揮の下、各部隊は素早く配置につき、静子軍を中核に、左右に佐久間、平手、水野、後方に徳川軍が陣取った。静子は馬上で兵士たちを鼓舞し、武田軍を恐れることなく、彼らが武功を立てる機会とするよう呼びかけた。
兵士たちは静子の言葉に応え、声を上げて士気を高めた。その声は遠く離れた武田軍の信玄のもとにも届いたという。静子は、連合軍が武田軍に劣らない精鋭であると信じ、全力で戦うよう奮い立たせた。
織田・徳川連合軍の気勢を虚勢と見た武田軍は、侮蔑の声を漏らしつつ、魚鱗の陣を敷いて攻撃の準備を整えていた。信玄は高まった士気に警戒を示しつつも、野戦での優位性から勝利を確信していた。
武田軍の布陣は以下の通りであった。先鋒は小山田信茂、背後に山県昌景の二軍が第一陣。左翼に馬場信春、中央に内藤昌豊、右翼に真田信綱・昌輝・昌幸兄弟の三軍が第二陣。左翼に諏訪勝頼、中央に武田信豊、右翼に米倉丹後守の三軍が第三陣。そして武田家一族や高坂昌信と信玄自身が率いる本陣が控えていた。
信玄は攻撃命令を下し、法螺貝と陣太鼓の合図で武田軍が咆哮を上げ、織田・徳川軍に突撃した。信玄は、数で勝る武田軍の勝利を確信し、戦いに臨んでいた。
千五百七十二年十二月下旬 二
織田・徳川軍は武田軍の突撃を迎え撃ち、両軍は弓の射程に入ると盾を並べ、矢の応酬が始まった。そんな中、静子は新式銃の準備を整えさせ、鉄砲衆を最前線に配置した。彼女は危険を顧みずに最前線に立ち、兵を鼓舞した。
鉄砲衆に向けて静子は訓練の成果を誇るように励まし、彼らを勇気づけた。そして、合図とともに一斉射撃を命じた。結果として、武田軍の最前線にいた小山田信茂の部隊は蜂の巣のように銃弾を浴びた。この行動により、織田・徳川軍は武田軍に対抗する強力な一撃を与えたのである。
武田軍の盾持ちが織田・徳川軍の鉄砲衆による一斉射撃で倒れ伏し、その光景に武田軍は驚愕した。静子はさらなる射撃を指示し、次々と武田軍の前線を崩壊させた。武田軍は盾が貫通され、銃声の間隔が短すぎることに混乱し、戦闘の恐怖が増大した。
その隙に長可軍が突撃を開始し、山県昌景の赤備え部隊を狙った。長可は敵の攻撃を受け流す甲冑を装備し、武田軍の鶴翼の陣形を崩壊させる。さらに、炸裂筒という爆発物を使い、武田軍を混乱させた。
長可と彼の兵たちは、戦場で恐怖を克服しつつ、名誉と褒賞を得るために赤備えを討ち取ることを目指した。混乱した戦場で長可軍は赤備えを討ち取り、山県昌景の首を狙い続けた。
静子は斥候の報告を受けて、首一つに割高な恩賞を出した効果を実感していた。戦場では才蔵、足満、慶次、高虎が武田軍の第二陣と戦い、足満の部隊は異質な戦術を見せていた。彼は武田の間者を麻薬で狂わせ、兵として利用し、味方ごと敵を撃つ非道な作戦を展開した。足満の冷酷な策によって、馬場信春軍は混乱し、戦力を失った。
足満は馬場信春を囮にして、才蔵が彼を討ち取る機会を作った。最初から足満は馬場信春を討ち取るつもりはなく、才蔵にその役割を譲っていた。馬場信春は足満の挑発に乗り、最前線に出たところで才蔵の槍に討たれた。才蔵は馬場信春の首を掲げ、勝利を宣言した。
長可は少数の精鋭を従えて山県昌景に向かって突撃していた。長可の勢いは赤備えを圧倒し、ついに山県昌景を捉えた。山県昌景は赤備えの名誉を守るため、撤退せずに単騎で長可に挑んだ。長可は父の教えを思い出し、全力で山県昌景に一撃を放った。
山県昌景はその攻撃を受け止めようとしたが、長可の圧倒的な力により、片腕を両断された。さらに、長可の攻撃はその勢いを止めず、山県昌景の首をも斬り裂いた。致命傷を負った山県昌景は、自らの手で自分の首を落とし、立派な死に様を見せた。長可はその姿を称え、山県昌景の首を天高く掲げて勝利を宣言した。
静子軍の名声が高まるとともに、長可、才蔵、慶次の名も知られるようになった。しかし、すべての部隊が順調に戦っていたわけではなく、高虎率いる部隊は苦戦していた。高虎の部隊は武田軍の副将である内藤昌豊と対峙していた。昌豊は戦況を冷静に分析し、高虎の部隊の連携不足を巧みに突いていた。高虎は指揮に迷走し、思うように兵を動かせず、部隊は疲弊していった。
戦局が悪化する中、高虎は自らが先頭に立つことで兵たちの士気を高め、状況を打開しようとした。その結果、騎兵の突破力を活かし、織田軍は再び勢いを取り戻した。昌豊は武田軍の全体的な劣勢を見て戦力を温存しようとしたが、馬場信春の討ち死にが伝わると武田軍に動揺が広がり、本陣が崩壊してしまった。
この混乱を機に、静子は全軍突撃を命じ、織田軍は雄叫びを上げて武田軍に突撃した。徳川軍の行方は不明であり、その動向は後に明らかになることになる。
千五百七十二年十二月下旬 三
馬場信春と山県昌景の討ち死にの報せが信玄のもとに届いたのは、静子が武田軍への突撃命令を下す直前であった。この報せを受け、武田軍は甚大な被害を受けたことを理解した。信玄は撤退か継戦かの選択を迫られたが、主力を失ってもまだ戦力は拮抗していると判断し、名誉のためにも戦い続ける決断を下した。しかし、信玄の情報不足は致命的なミスを招き、織田・徳川連合軍の増援が現れることで戦局は大きく傾いた。
信玄はこの状況を打開するため、高坂昌信に密命を下し、一計を案じることを決めた。慶次と真田信綱の一騎打ちでは、慶次が勝利を収めたものの、真田信綱の武士としての誇り高き姿勢に敬意を表した。
戦場の混乱の中、真田昌幸(武藤喜兵衛)は兄たちの首を引き換えに自分と兵の助命を慶次に願い出た。慶次はこれを承諾し、静子のもとに連れて行くことを提案した。慶次は自身の武功を立てるよりも、武藤喜兵衛を静子に引き合わせることを優先し、兵たちとともに本陣へと戻ることを選んだ。これにより、慶次隊は他の軍が勝ち戦に盛り上がる中、本陣に戻るという異例の行動をとったのである。
戦の勝敗を左右する要因には多くのものがあるが、その中でも「流れ」は感覚的で不可解なものであった。信長が桶狭間の戦いで今川義元に勝利した例のように、本陣奇襲によって「流れ」をつかむことができれば、数や質で劣っていても勝利を得られることがあった。
森可成は十文字槍を振るい、武田兵を次々と倒し、彼の裂帛の気合いが敵兵の心を萎縮させた。そこに彼の次男、長可が現れ、可成とともに戦場の主導権を握った。長可は可成との最後の共闘を望み、可成の部隊と連携して戦場を制圧していった。
長可は戦場の「流れ」を本能で感じ取り、武田軍の第二陣が崩壊することを察していた。これにより、森親子は武田軍の本陣へ突撃する機会を伺っていた。
長可、可成、可隆の森親子は、織田軍が武田軍を押し返そうとしている隙を突いて横撃を仕掛けた。この奇襲により、武田軍の陣形に大きな穴が開き、武田軍はそれを埋める余力を失ってしまった。森親子の連携と「流れ」を読んだ戦術が、織田軍に有利な状況を作り出し、武田軍を追い詰めることになった。
静子は双眼鏡で武田軍の動きを監視し、諏訪勝頼の軍が後退し、別の軍が前に出ようとしていることに気づいた。信玄は敗北を受け入れ、最後の攻勢をかけようとしていることを悟った。静子は鉄砲衆に指示を出し、織田軍を後退させて鶴翼の陣形を取らせた。
武田軍はその動きを見逃し、攻勢を仕掛けたが、織田軍は新式銃を駆使して武田軍の勢いを止め、士気を挫いた。弐式カ弾と弐式サ弾を用いて、武田軍は大きな損害を受け、雑兵たちは逃げ始めた。静子は勝利を確信しつつも、油断せず次の戦いに備えるよう配下に伝えた。
武田軍は士気を失い、徳川軍が背後を突くと、完全に包囲された。武田軍は逃走もできず、武将たちは敗北を認めざるを得なかった。静子は投降を呼びかけ、武田軍は投降して戦いは終わった。静子の指導の下、織田・徳川連合軍は歴史的な勝利を収めたのであった。
徳川軍の到着が遅れたため、諏訪勝頼と高坂昌信は取り逃がしたが、信玄を捕縛したため静子は満足していた。信玄が本物であることを確認し、彼の影武者も捕縛した。静子は信玄を討つべきか捕縛するべきか迷っていたが、家康の選択により捕縛することになった。政治的な理由で、信玄を生け捕りにし、彼に敗北を語らせることが重要だった。
信玄の捕縛により、武田家の戦力はほとんど失われ、諏訪勝頼が家督を継いでも武田家は徐々に包囲される運命にあった。静子は綱渡りの策を成功させ、信玄を捕縛するに至った。彼女の策は、徳川軍の移動や織田軍の武将たちの秘密裏の移動により成し遂げられたものであった。
武田軍は敗北を認め、信玄も完敗を認めた。信玄は静子に対し、彼女の勝利を称賛し、軍配団扇と愛刀を贈った。信玄は最後の言葉を残し、忠勝により首を落とされた。信玄の首は公には晒されず、甲斐へと戻された。静子の策は成功し、信玄の敗北は織田・徳川連合軍の勝利を確固たるものとした。
千五百七十二年十二月下旬 四
織田・徳川連合軍は三方ヶ原の戦いで武田軍を壊滅させ、信玄を討ち取ったことで日本中を震撼させた。信長や信忠をはじめとする織田家の武将たちは、この知らせを聞いて歓喜し、武田軍の主力であった山県昌景や馬場信春らが討ち取られたことに対して大きな評価を与えた。
戦いの後、静子は捕虜として捕らえた武藤喜兵衛に対し、彼の生死を自ら選ぶことを提案し、武藤喜兵衛は真田家の行く末を見届けた後、静子のもとに参じることを決めた。この選択は武藤喜兵衛にとって一世一代の賭けであり、彼の将来を静子の配下として築く意図があった。
静子は戦後の処理として、武田軍の死者を弔うことを提案し、家康からも協力を得た。この意図は衛生的な観点からのものであったが、家康には慈悲深い行為として受け取られ、双方の同盟をさらに強固にした。
祝勝会が行われた後、静子は次の作戦として長島一向一揆への攻撃を計画していた。これは武田軍の敗北による混乱を利用して、迅速に長島を制圧することを目的としていた。織田軍は長島への移動を開始し、静子は遠江の武田軍の追放に協力することとなった。
静子はこの戦いに向けて周到に準備を進めてきたが、その結果は予想を上回ることになるのだった。彼女はヴィットマンファミリーとともに翌日に備えて眠りにつき、翌朝には徳川の小姓を驚かせる光景が見られた。
武田の敗北と信玄の訃報は、信忠や信長のみならず、反織田連合陣営や中立勢力にも瞬く間に伝わり、大きな衝撃を与えた。朝倉はすぐに帰国し、浅井では家臣たちが動揺し始め、内通者が現れた。小谷城の防衛もままならず、城の防衛力が低下していった。
本願寺の顕如たち寺社勢力も驚愕し、門を閉ざして籠城する決断をしたが、情報収集が遅れ、状況を正確に把握することができなかった。将軍義昭は当初、報告を信じられずに伝令を罵倒したが、事実を理解すると恐怖に震えるばかりであった。
信長はこの機に乗じて長島から一向宗を駆逐しようと決断し、兵を率いて長島へ向かった。織田軍は信忠と合流し、24日の早朝には5万の軍勢が長島に集結した。軍議の結果、海上封鎖や砦の攻略が決定し、新式銃の弾薬製造が急務となった。
新式銃の投入が見送られたにもかかわらず、織田軍の進撃は止まらず、一ノ江砦や香取砦などが次々に陥落した。信長は生き残った敵を利用して織田軍の恐ろしさを喧伝させ、敵に心理的圧力をかけた。
その結果、輪中の外側の砦は降伏を申し出、織田軍は長島一向衆を次々と撃破した。長島城前では根来衆と雑賀衆が布陣していたが、織田の鉄砲衆がそれを蹴散らし、圧倒的な勝利を収めた。信長は玄朗を称賛し、その満足げな姿が見られた。
織田軍は快進撃を続け、信長は長島と協力的だった豪族たちを飴と鞭で調略した。長島との関係を断つなら寛容に対応するが、協力を続けるならば根切りに処すという信長の方針に、多くの豪族が服従した。反逆した豪族も根切りとされた。
29日の明け方、長島の一向宗と精鋭兵1000が信長本陣に特攻を仕掛けたが、指揮官たちは撃ち殺された。これに絶望した願証寺五世の顕忍は自殺し、長島側は助命を条件に開城を願い出た。信長は武装解除と長島退去を条件に降伏を受け入れ、長島側は条件を受け入れた。
信長は城や砦を検査し、多くの金銀や武器が隠されていることを発見した。降伏はポーズに過ぎないと悟った信長は、乱妨取りを解禁し、足軽や雑兵たちが財を奪い合った。
浜松城にいた静子軍は尾張へと到着し、遠江の武田軍追い出しは成功した。武田軍の敗北を知った遠江の国人たちは徳川へ鞍替えし、甲斐への撤退を図る諏訪勝頼や高坂昌信を襲ったが失敗した。
静子は最終兵器としてテルミット弾を使用し、長島城の破壊に成功した。人に向けて使わなかったことに安堵しつつ、テルミット弾の威力を信長に認識させ、封印されることとなった。静子は新年に向けて荷物整理を考えつつ、のんびりとした生活を願っていたが、その願いは叶わず、今後も表舞台に立たざるを得ない状況にあった。
外伝
01.父親たちの苦悩
前久が静子から譲り受けた別邸で、信長、前久、足満の三人が静子の婿取りについて話し合っていた。静子の婿取りは重要な課題であり、彼女の政治的地位や莫大な事業権益を考慮すると、慎重に選ぶ必要があった。足満は静子が認めた相手でなければ許さないとし、静子に不利益をもたらす者は斬ると断言した。静子は戦国時代において、武家の重要な存在であり、彼女の才能と技術は織田家の財政を支えるものであった。
静子がどこかの家に入れば、その家は急激に力を付ける可能性があるため、信長たちはその影響を懸念していた。さらに、静子の軍や技術の扱いも問題であり、彼女の軍が崩壊すれば織田軍の兵站が崩れる恐れがあった。信長は静子を信用していたが、婿については警戒していた。
信長は静子の独身が彼女に対する誤解を招くことを心配しており、静子が幸せを感じるためにも結婚は考えるべきだと述べた。しかし、静子自身が結婚を望んでいるわけではなく、彼女の才能と影響力を考慮すると、婿選びは困難な課題であった。結論は出ず、問題は持ち越されたが、この議題は既に何度も先送りされていた。
02.多彩な技術者集団
静子が率いる黒鍬衆は、ローマ軍団をモデルにしつつ戦国時代に合わせた改良を施していた。彼らは優れた兵士であり、同時に土木建築技術を身に付けた工兵でもあった。黒鍬衆は軍事訓練を受けつつ、建設技術をしっかりと習得していたため、素早くかつ高品質な作業を行うことができた。
ある日、黒鍬衆の中で「親方」と呼ばれる指導者が「子守」と呼ばれる部隊長たちを招集し、静子からの仕事を任されたことを告げた。その仕事は水車の建設であり、短期間で多くの水車を設置する挑戦的な内容であった。しかし、親方はこれを機会と捉え、子守たちを鼓舞していた。
子守たちはその意図を理解し、親方の指示に従って仕事に取りかかった。彼らは効率的かつ高品質な作業を信条としており、手早く完璧なものを作ることを目指して日夜研鑽していた。そのため、仕事は通常の半分の時間で完了し、彼らの信頼は高まった。
親方は子守たちに対して、作業の際には十分な休息と食事を取るように厳命し、静子が健康管理を重視していることを伝えた。過去には無理をして徹夜した際に、静子から作業を中止させられたこともあったため、子守たちは親方の言葉を重く受け止めていた。
最終的に、黒鍬衆は水車の設置を予定より早く終え、静子の期待に応えた。彼らは徹夜せず、普段通りのペースで効率的に作業を進めることができたため、静子や親方の指導が正しかったことを実感したのであった。
03.女子式 茶の湯
戦国時代、茶の湯は武家や公家にとって必須の教養であった。信長は上洛時に茶の湯に目をつけ、御茶湯御政道という政策を実施した。この政策は、茶の湯を政治的に利用し、家臣に許可なく茶の湯を開くことを禁じるものであった。信長は大きな功績がある者にのみ許可を与えることで、茶器を土地と同等の価値に押し上げた。
濃姫にとって茶器はただの器に過ぎず、良い茶器を使っても茶が美味しくなるわけではないと考えていた。彼女の茶の湯は、茶と茶菓子があればよいとする自由なもので、形式に囚われず、楽しむことを重視していた。
濃姫の茶の湯は男子禁制であり、腹を割って会話する場でもあった。参加者には守秘義務があり、会話はその場で終わらせることが求められた。茶と茶菓子が美味しいことが最も重要であり、これにより会話が弾むとされた。
濃姫は茶会で茶と茶菓子を楽しみながら談笑し、茶の湯を娯楽として楽しんでいた。彼女たちにとって茶の湯は政争の道具ではなく、楽しみのひとつであった。
一方で、静子は信長に呼ばれて茶会を欠席していた。濃姫たちは、静子のおかげで様々な娯楽が楽しめるようになったことに感謝していた。そして、静子が「らあめん」と呼ばれる唐の麺料理を作るという話題で盛り上がり、彼女に作らせようと決めた。
その頃、静子は背筋に寒気を感じて大きなくしゃみをしていた。
04.倉掃除
静子は多くの倉を所有し、税として得たものや贈り物、自ら購入したものなど多様な品々を保管していた。消耗品以外は基本的に減らないため、静子は半年に一度、使わないものを倉から運び出して販売していた。この販売は、江戸時代の蔵屋敷に似ており、使用していないものを選別し、品質チェックを経て蔵屋敷で販売するものであった。
蔵屋敷開放の日には、特産品や衣類、食料、工芸品などが並び、多くの人々が訪れた。商人たちは安く仕入れて高く売ることができるため、多くの人々が集まるのも無理はなかった。
この日、慶次は蔵屋敷に入るとすぐに去ろうとしたが、才蔵と長可に止められた。彼らは酒を飲みたいと言っていたが、静子は呆れつつも、今は仕事をするように促した。
蔵屋敷の視察中、静子は後ろから市に肩を叩かれた。市は茶々や初のために布を購入しており、支払いは信長がするとのことであった。静子は市の浪費を心配し、ほどほどにするように注意した。
市は静子を買い物に誘ったが、静子は仕事中であることを理由に断った。市は今を楽しむことが大切だと主張したが、静子は先のことを考えるべきだと説得しようとした。
二人のやり取りは続き、周囲の人々は微笑ましく見守りつつも、巻き込まれないように距離を置いて観察していた。
05.麺戦争
現代日本は、世界でも有数の麺好き国家であった。戦国時代、静子の街では様々な麺料理が人気を競っていた。蕎麦が最も人気であったが、うどんやラーメンも人気を集めていた。当時のラーメンは、現代のようなかん水を使用した麺ではなく、小麦粉と水、塩で作られたもので、柔らかいのが特徴であった。かん水は高価なため、沖縄蕎麦のように灰汁を代用していた。
麺料理店では、それぞれが自分たちの麺を売り込み、他の麺をけなす言葉が飛び交っていた。静子はこの騒々しい活気を見て、少々頭を悩ませたが、それは人々が余裕を持って生活している証でもあると理解した。食事は文明の尺度であり、その国の経済力や美的感覚を示すものであると、静子は感じた。
静子は麺料理店に続き、他の料理店も視察した。料理店通りでは、麺料理店と同様に活気があり、静子はこのエネルギーを他のことに活かせないかと考えた。彼女が視察していたのは、料理店通りに対する苦情がたまっていたためである。慶次とともに視察し、彼女は問題がないと判断したため、報告書には介入の必要なしと記した。視察を終えた静子は慶次と家に戻り、昼食後に報告書を作成した。
06.卯月御記(現代文風)
四月十四日、織田信長から献上された猫、卯月は見目麗しく気品ある佇まいであった。天皇は卯月の世話を自ら行うことになり、後宮の女房や公家衆は難色を示したが、信長に逆らう力がない以上、致し方なかった。
卯月は宮中で大変人気者となり、その愛らしさに皆が頬を緩ませていた。六月には卯月の体調不良が心配されたが、織田信長の助言によりネギ類が原因であると判明し、専用の鍋が贈られたことで解決された。夏には熱中症にも見舞われたが、涼しい場所で休ませたことで回復した。
天皇は卯月の健康を気遣い、小屋を新たに建てさせた。卯月が神仏に祝福された猫であると考え、後宮の者たちも卯月を無下に扱わなくなった。十二月には卯月の二歳の誕生日を祝うために前祝いが行われた。
卯月と過ごす日々は、天皇にとって心温まるものであり、翌年も卯月との生活を楽しみにしていた。後世、宇多天皇、一条天皇、正親町天皇は「三大猫好き天皇」として知られることになった。
07.死に場所を捨てた
慶次は縁側で月見酒を楽しんでいた。彼は夜空の煌めきを酒の肴にして、静かなひとときを堪能していた。そこに才蔵が現れ、共に月を眺めながら酒を飲むことになった。才蔵は最近の慶次の様子について心配し、何か悩みがあるのかと尋ねた。慶次は死に場所を失ったと感じていることを告げたが、それ以上の詳しい話はしなかった。
慶次は静子の描く平穏な世の中に興味を持っており、戦場での死に場所を捨ててでもその世界を見てみたいと思っていた。才蔵は静子に仕えることが自分の生きる道であり、死後もなお仕えたいと述べた。二人は静子の存在が自分たちをつなぎとめる潤滑油であることを認識し、静子を離れるつもりはないと語った。
また、慶次は以前に倉で「アワビ肝の塩辛」を食べ尽くしてしまった失敗を思い出し、今後は注意する必要があると反省した。二人は静子の酒の肴が絶品であることを讃え、彼女の料理が生活を豊かにしていると感じていた。
二人は、月を眺めながら時折酒を飲み、談笑を続けた。彼らは、豊かな人生には美味しい食事と酒が欠かせないことを再確認し、心地よい時間を過ごした。
08.血のたぎり
信長は食事の場で森可成に武田戦への参加を命じた。可成は困惑しつつも、信長の言葉の意味を理解し、再び戦場に戻ることを決意した。彼は肩の負傷を理由に前線を退いていたが、心の奥底では再び戦いたいという思いがくすぶっていた。信長はそのことを見抜いており、「貴様が考え、どうしたいかだけ答えよ」と告げた。
可成は信長の言葉に感謝し、己の信念に従うことを決意した。信長は可成の決意を尊重し、軽く返答した。可成は修羅となる覚悟を決め、信長の許を後にした。
信長は、武田戦が終われば鉄砲が主戦力となり、個人の武勇が重要視される時代が終わることを認識していた。戦国の世が変わりつつある中、信長は可成の忠勤に対する恩返しとして、彼の願いを叶えようとした。信長は可成に「存分に暴れてこい」と言い、彼の背中を押したのである。
番外編 戦い、終えて
長島一向宗征伐が終わり、信長は久しぶりに爽快な目覚めを迎えた。第一次織田包囲網の結成以来、安眠できる日々はなかったが、武田と長島一向宗を打ち破り、差し迫った憂いが消えたことで、心安らかに眠れるようになった。信長は風呂を沸かすように小姓に命じ、ラジオ体操を行い体を動かした。入浴によって血行が促進され、心身の疲労が解消された。
入浴中に濃姫が現れ、信長の隣に座った。彼女は信長をからかいつつ、南蛮の風習を学んでいると言った。信長は彼女の稚気に呆れつつも、彼女の振る舞いを受け入れた。濃姫が信長の背中を流そうとすると、信長は素っ気なく応じたが、二人のやり取りには親しみと信頼があった。濃姫は静子に特別に作らせたタオルを手に、信長の背中に向かった。
満ち足りる
三方ヶ原の戦いから長島一向宗征伐までの一連の戦いが一段落した翌朝、信長は久しぶりに爽快な目覚めを迎えた。信長は食事の場で、森可成にその戦いぶりが兵たちの間で語り草になっていると告げた。可成は自身の満足感を語り、信長は可成が天下の行く末を見届けるよう命じた。信長は、戦国最強と謳われた武田を破り、天下統一への道を切り開いたことを噛みしめ、勝利の美酒に酔いしれた。
信長は、可成に最近の眠りについて問いかけた。可成は傷のせいで眠れない日々が続いたが、昨晩はよく眠れたと答えた。信長は心地よい湯に浸かることを提案し、可成はどこへでも付き従うと応じた。二人は、天下一の宿泊施設である静子邸に向かうことを決めた。
信長と可成は、供をつけずに馬で駆け出し、静子邸を訪れた。その夜、静子邸では深夜まで笑い声が絶えず、静子はこの日の出来事を決して語ろうとはしなかった。
Share this content:
コメントを残す