どんな本?
『ユア・フォルマ IV 電索官エチカとペテルブルクの悪夢』は、菊石まれほによる本格SFクライムドラマシリーズの第4巻である。電子犯罪捜査局を標的とした一連の事件の首謀者とされたAI「トスティ」の開発者が、世界のどこにも実在しない人物であることが判明する。エチカとハロルドはその正体を追うが、捜査は難航する。そんな中、アミクスを狙った殺傷事件が発生し、その手口はハロルドの恩師ソゾンが惨殺された「ペテルブルクの悲劇」と酷似していた。ハロルドは再び悪夢に直面し、エチカとともに事件の真相に迫る。
主要キャラクター
• エチカ:主人公であり、電索官。高い電索能力を持つが、相棒ハロルドの秘密を知ったことで能力が低下し、一般捜査員として活動する。
• ハロルド:エチカの相棒であるRFモデルのアンドロイド。かつての恩師ソゾンを失った過去を持つ。
• ビガ:新元ハッカーで、現在は捜査に協力している。
• ソゾン:ハロルドの恩師であり、故人。
物語の特徴
本作は、ハロルドの過去と「ペテルブルクの悲劇」に焦点を当て、彼の内面やエチカとの関係性が深く描かれている。また、AI「トスティ」の謎や新たな事件が絡み合い、緊迫感あふれる展開が読者を引き込む。シリーズを通じて培われたキャラクター間の絆や成長も見どころである。
出版情報
• 出版社:KADOKAWA
• 発売日:2022年4月8日
• ISBN:9784049141528
• ページ数:360ページ
読んだ本のタイトル
ユア・フォルマ IV 電索官エチカとペテルブルクの悪夢
著者:菊石まれほ 氏
イラスト:花ヶ田 氏
(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。
あらすじ・内容
悪夢は再び始まりを告げる。ハロルドが向かう道は復讐か、それとも――。
電子犯罪捜査局を標的とした一連の事件の首謀者とされたAI「トスティ」。しかしその開発者は世界のどこにも実在しない人物だった。開発者の正体を探すエチカとハロルド。ハッカーから足を洗ったビガも本格的に捜査に加わるが、一向に足取りを掴むことができない。そんな中、アミクスを狙った殺傷事件が発生。その手口は、かつてハロルドの恩師ソゾンが惨殺された「ペテルブルクの悲劇」と酷似していて……。第27回電撃小説大賞《大賞》受賞の本格SFクライムドラマ、波乱の第4弾!
感想
ハロルドにとって消えない記憶である「ペテルブルクの悪夢」が再び姿を現した。かつて彼の相棒であり、家族でもあったソゾンが犠牲となった連続殺人事件。
その模倣とも思える新たな事件が発生し、アミクスが標的とされた。
復讐の念を抱くハロルドは、真犯人を追い求めるが、彼の冷静さが揺らぎ、エチカは彼の暴走を防ぐべく奔走する。
事件の裏に潜む陰謀、二転三転する展開、そして明かされる真実――物語は過去と現在を交錯させながら、未解決の謎へと引き込んでいく。
記憶に囚われる者たち
本巻は、過去に縛られた者たちの物語であった。
ハロルドは敬愛規律に従うアミクスでありながら、ソゾンの死に責任を感じ、復讐というアミクスにあって良いのか疑問な感情に突き動かされる。
一方で、エチカは彼を止めようとしながらも、次第に彼の苦しみを理解し、共に歩もうとする。
二人の関係は微妙に揺れ動き引き込む展開になる。
人間のようでありながら人間ではないハロルド、そして彼を支えようとするエチカ――この関係性の描写が本作の魅力の一つであった。
緊迫した展開と二転三転する真相
ストーリー展開はサスペンス要素が強く、手に汗握る展開が続く。
模倣犯とされる事件は単なる再現ではなく、過去の事件の真相へと繋がる伏線となっていた。
ハロルドの目線と共に真実を追いながら、予想を覆す展開に何度も驚かされる。
特に、犯人が身近な存在であったこと、さらには事件の背後に「トスティ」の開発者が絡んでいる可能性が示唆されることで、物語はさらに深みを増した。
ミステリー要素が強く、単なる刑事ものではなく、SFとしての魅力も十分に発揮されていた。
ハロルドとエチカのすれ違い
ハロルドは復讐に囚われ、エチカは彼を守ろうとするが、その思いはすれ違う。
お互いを大切に思うからこそ、ぶつかり合い、決裂の危機を迎えた。
特に、終盤でハロルドが感情を露わにし、エチカが彼を引き止める場面は、シリーズを通して最も印象的なシーンの一つであった。
ハロルドが涙を流し、自らの感情に向き合う姿は、彼の成長と変化を象徴していた。
終わらぬ事件と新たな敵
一連の事件が解決したかに見えたが、ソゾンを殺した真犯人は未だ捕まっていない。
そして、「トスティ」の開発者ラッセルズの影が事件の背後に浮かび上がった。
物語は一区切りを迎えながらも、新たな謎が残されており、次巻への期待を高めた。
エチカとハロルドの関係がどう変化するのか、そして彼らがどのように事件と向き合っていくのか、今後の展開が気になるところであった。
総括
緻密なストーリーと緊迫感に満ちたミステリー
過去の因縁と現在の事件が絡み合い、惹きつけるストーリー展開。
ハロルドとエチカの関係の変化が繊細に描かれ、彼らの成長を感じられる巻であった。
サスペンスとしてもミステリーとしても見応えがあり、次巻への布石も十分に敷かれていた。
シリーズの核心に迫る一冊であり、今後の展開が待ち遠しい。
最後までお読み頂きありがとうございます。
(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。
備忘録
序章 贖罪
闇に沈む地下室
ハロルドは、暗闇の中で柱に縛り付けられていた。天井からの光は届かず、腐敗した土の匂いと血の香りが充満している。隣ではソゾンが椅子に縛られ、右腕を切り落とされていた。犯人は覆面を被り、血に濡れた電動鋸を手にしていた。ソゾンの苦しむ姿を前に、ハロルドは敬愛規律のせいで何もできず、ただ拘束されたまま状況を見ているしかなかった。犯人はソゾンに向かって冷酷に語りかけ、さらに左脚へと刃を振り下ろした。
ペテルゴフへの訪問
サンクトペテルブルク郊外、ペテルゴフへ向かう車内で、ダリヤは深い緊張を抱えていた。彼女はソゾンの遺品を受け取るため、彼の実家を訪れることを決めていたが、不安を隠せなかった。ハロルドは助手席の彼女を気遣いながらも、ソゾンを失った家族の思いを案じていた。
ソゾンの実家での対面
ハロルドとダリヤは、ソゾンの弟ニコライに迎えられた。家の中は整理が行き届かず、寂れた雰囲気を漂わせていた。二人はソゾンの遺品がまとめられた部屋へ案内される。ハロルドはそこにある物の数々を見ながら、かつてソゾンと過ごした記憶を呼び起こしていた。一方で、母エレーナの体調が優れず、記憶が曖昧になる症状が続いていることが明らかになった。
エレーナの拒絶
遺品を整理していた最中、エレーナが現れた。彼女はハロルドの姿を目にすると、怒りを露わにし、彼を「役立たず」と罵った。息子を救えなかったハロルドに対する憎しみは消えず、機械である彼を容赦なく拒絶した。ダリヤは母の態度に動揺し、ニコライもなだめようとするが、エレーナの怒りは収まらなかった。結局、ハロルドとダリヤは家を後にせざるを得なかった。
二人の絆と罪の意識
家を出た後、ダリヤは罪悪感を抱えていた。彼女はハロルドに、ソゾンの代わりではなく、彼自身の人生を生きるよう願っていた。しかし、ハロルドはそれを受け入れながらも、彼を救えなかった過去の償いとして、ソゾンの持ち物を身に纏い続けていた。
消えぬ記憶と復讐の決意
ダリヤを慰めつつも、ハロルドの心は過去に囚われていた。ソゾンが無残に殺害された光景が、鮮明に蘇る。犯人の姿、鋸の音、血の飛び散る様子――全てが脳裏に焼き付いている。アミクスの記憶は完璧であり、彼は望めばいつでもその瞬間へ戻ることができた。だからこそ、今なおハロルドにとって地下室の悪夢は終わっていなかった。そして彼は、あの影を見つけ出し、復讐を果たすことを心に誓った。
第一章 悪夢の靴音
ペテルブルク支局の捜査会議
十月下旬、ペテルブルクの電子犯罪捜査局では、国際会議が開かれていた。トトキ課長の指揮のもと、各国の支局が捜査状況を共有していたが、進展は乏しく、重苦しい雰囲気が支配していた。ペテルブルク支局のフォーキン捜査官は、違法な分析AI「トスティ」の回収状況を報告したが、新たな手がかりは得られていなかった。また、トスティの開発者を名乗るアラン・ジャック・ラッセルズの正体も未だ判明していない。
フォーキン捜査官の負担
会議が終了すると、フォーキンは疲れ切った様子で机に突っ伏した。彼は特別捜査班の班長を任され、プレッシャーに苛まれていた。エチカとハロルドは彼の様子を見守りながら、トスティのソースコード解析が難航していることについて言及する。プログラムの内容とその性能が一致せず、AIが何らかの手段で本来のコードを隠している可能性が高いと推測された。
爆発事件とエチカの銃の腕前
フォーキンは過去の事件を引き合いに出し、エチカの銃の腕前を話題にした。彼女が防火シャッターの中に閉じ込められた際、視界が悪い中で正確にドアの蝶番を撃ち抜いたことを持ち出し、射的の誘いをかける。しかし、エチカはそれを偶然の成果だと主張した。
ビガとの再会
その後、エチカとハロルドは支局の前でビガと再会した。彼女はペテルブルクへ引っ越し、捜査支援課で働きながら研修を受けていた。最近の調査では、彼女のアドバイスが功を奏し、トスティを所有していた看護師が発見されたことが報告された。ビガは二人に感謝の気持ちを込めて贈り物を用意し、ハロルドには新しいマフラーを、エチカには栄養ゼリーの詰め合わせを渡した。
市警からの呼び出し
その夜、トトキ課長からハロルドへ連絡が入った。ペテルブルク市警から、ある事件について話を聞きたいと要請があったという。市警の刑事部からの依頼であり、特にハロルドが重要視されているらしい。驚くべきことに、亡くなったはずのソゾン刑事から市警へ電話がかかってきたというのだ。
市警での事情聴取
翌日、市警でハロルドの元上司であるナポロフ警部補と面会した。彼によれば、二週間前に市警の端末へソゾンの声で電話があったという。録音された音声は、確かにソゾンのものと一致していた。彼は「犯人を探し出してほしい」と懇願するように語り、二回目の電話では市警を非難しつつ、「再び悪い夢を見ることになる」と脅迫めいた発言を残していた。
ペテルブルクの悪夢
この事件は、二年半前にペテルブルクで発生した連続殺人事件「ペテルブルクの悪夢」を彷彿とさせるものだった。友人派の人々が生きたまま切断され、遺体は胴体の上に頭を飾る形で遺棄されるという猟奇的な事件であった。被害者の中にはソゾン刑事も含まれており、ハロルドは彼を救出しようとしたものの、拘束されてしまい、最終的にソゾンは惨殺された。犯人は今も捕まっていない。
新たな殺害事件
市警での会話の最中、新たな事件が発生したとの報告が入った。モスクワ勝利公園で、切断されたアミクスの死体が発見されたのだ。現場に駆けつけたエチカたちは、胴体の上に頭を載せるという「悪夢」事件と同じ手口を確認した。しかし、今回の被害者は人間ではなくアミクスだった。この違いから、ハロルドは模倣犯による犯行と推測した。
捜査の可能性と危惧
ハロルドは、犯人が「ペテルブルクの悪夢」を意図的に再現し、市警に事件の再捜査を促そうとしているのではないかと指摘した。しかし、エチカはハロルドが捜査に深入りすることを危惧し、彼をその場から引き離した。彼の中に燻る復讐心が、事件を通じて再び燃え上がることを恐れていたのである。
日常への回帰
エチカはハロルドと共に車へ戻り、日常の仕事へと戻る準備を進めた。だが彼女の中には、漠然とした不安が残っていた。ハロルドの平静を装った表情が、どこか危うく感じられたのだ。彼が再び「悪夢」の犯人に執着し、何かしらの行動を起こすのではないかという予感が、彼女の心に影を落としていた。
ペテルブルク港湾地区の調査
エチカたちはペテルブルクの港湾地区を訪れた。再開発が進むこの地域には近代的なビルが立ち並び、その中心には特徴的な円錐形の超高層タワー「コースマス・タワー」がそびえていた。彼らの目的は、トスティの回収作業の一環として、分析AIを導入している企業の調査であった。グリーフケア・カンパニー『デレヴォ』もその対象の一つであり、エチカたちはフォーキン捜査官と共にビルへ向かった。
ハロルドの様子とビガの心配
フォーキンの指示でビガも調査に同行することになった。彼女は自身の意見が評価されたことを喜び、意気込んでいた。一方で、エチカはハロルドの様子が気になっていた。彼はタワーを見上げたまま沈思しており、先日の模倣事件の影響が残っているように見えた。また、ビガはハロルドへの贈り物であるマフラーを彼が使っていないことを気にしていた。
メディアの報道と不安
タワー内の広場には豪華な噴水が設置されており、多くの人で賑わっていた。その中で、ニューストピックスが流れるエスカレーターの側面には、「ペテルブルクの悪夢再来か?」という見出しが踊っていた。先日の事件はすでに報道されており、内容は事実と異なる部分も多かった。エチカはこの過熱報道が市警への圧力となり、模倣犯の思惑通りに進むのではないかと危惧した。
デレヴォの訪問と異質なカスタマイズモデル
デレヴォのオフィスはコースマス・タワーの五十五階にあり、窓からはペテルブルクの中心部までが見渡せた。エチカたちを出迎えたのは、スリーピーススーツを着こなしたロシア人男性のアミクスであった。彼はカスタマイズモデルであり、一目見ただけでは人間と区別がつかないほど精巧に作られていた。フォーキンは調査目的を説明し、分析AIのデータ提供を求めた。
経営者シュシュノワと彼女のパートナー
オフィス内に案内された彼らを出迎えたのは、デレヴォの経営責任者であるシュシュノワだった。彼女は調査協力を快諾し、分析AIのソースコードを公開した。その最中、カスタマイズモデルのアミクス「ベールナルド」が彼女のもとへやってきた。彼はシュシュノワに対し、自然な口調で会話を交わし、さらには彼女の頬に軽くキスをして去っていった。エチカたちはその光景に驚愕した。
シュシュノワはベールナルドを「人生のパートナー」として認識しており、彼と正式に結婚していることを明かした。彼女の薬指には銀の指輪が輝いていた。エチカは、この関係がどこまで本物といえるのか、疑問を抱かずにはいられなかった。
デジタルクローンと死者の再現
一方、フォーキンとハロルドは社員のPCを調査していた。その過程で、デレヴォが故人のデータを利用し、デジタルクローンを作成する技術を扱っていることを改めて認識した。デジタルクローンは故人の記録を元にAIとして再現され、遺族が生前のように会話をできるようになるものだった。しかし、それはあくまでAIによる模倣であり、本物ではなかった。フォーキンはこの技術に否定的な意見を持ち、「死者は死者のままであるべきだ」と呟いた。
ソゾンのデータの発見
ハロルドはオフィス内のデータ保管シェルフを目にし、不意にある疑念を抱いた。フォーキンの協力を得て、その中を調べたところ、そこには【ソゾン・アルトゥーロヴィチ・チェルノフ】の名が記された記録媒体が保管されていた。さらに調査を進めると、二週間前にソゾンのデジタルクローンが作成され、依頼者である彼の母エレーナに引き渡されていたことが判明した。
しかし、受け取りに来たのはエレーナ本人ではなく、代理人だった。その名は【アレクセイ・サーヴィチ・アバーエフ】。
ハロルドはこの名前を確認すると、ついに大きな手掛かりを掴んだと確信した。
アバーエフとデジタルクローンの関係
アバーエフは「ペテルブルクの悪夢」遺族会の代表であり、エレーナとも親交が深かった。彼がソゾンのデジタルクローンを代理で受け取った理由は不明であったが、先日の脅迫電話と何らかの関係がある可能性が示唆された。ナポロフ警部補は、電話がデジタルクローンによるものであれば、会話が成立した理由になると考えた。しかし、デジタルクローンが脅迫的な言葉を発することに疑問を抱いた。トトキはディープフェイク技術の可能性を指摘しつつも、会話の成立という点でデジタルクローンの線が最も濃厚だと結論づけた。
ハロルドの捜査介入とトトキの反応
エチカはハロルドが事件から離れるように努めていたが、フォーキンの連絡によって合流すると、彼がすでに捜査に深く関与していたことに気付いた。さらに、トトキはナポロフからの報告を受け、ハロルドが浮浪アミクスの死体を検分したことを知った。ナポロフは彼を咎めたが、ハロルドは「ペテルブルクの悪夢」を模倣した事件に直面し、傍観者ではいられなかったと説明した。
トトキの決断とハロルドの策略
トトキは、通常なら関係者が事件に深く関与することは推奨されないとしつつも、ハロルドがアミクスであることを理由に例外を認めた。人間と異なり、トラウマを負う可能性が低く、冷静に捜査を進められるというのがその判断理由であった。しかし、エチカはその決定がハロルドの計算によるものではないかと疑った。彼は意図的に市警の捜査に関与し、トトキの同情を引き出して、自身の関与を正当化したのではないかと考えた。
トトキはナポロフに対し、ハロルドを模倣事件の捜査に正式に貸し出すことを提案した。ナポロフは驚きながらも了承し、エチカにも同行を命じた。エチカはハロルドの策略に気付きながらも、それを止めることができなかった。
エチカの疑念とハロルドの意図
通話が終了し、ラウンジに静寂が戻った。エチカは、ハロルドが過去の事件に深入りすることが、彼自身を傷つけるのではないかと懸念した。彼は冷静を装っていたが、エチカにはその裏にある計算が見えていた。
ハロルドは「計算ではない」とし、デレヴォの資料からソゾンの家族がデジタルクローンを取り寄せていたことを思い出したと説明した。しかし、エチカはそれが単なる偶然ではなく、彼の意図的な行動であったと確信していた。
ハロルドはエチカの腕に触れ、いつものように相手を操る仕草を見せた。彼は穏やかに「重要な事件であることは分かっている」と告げ、エチカの協力に感謝の意を示した。
過去に囚われるアミクス
人間は時間とともに過去を忘れ、傷を癒やしていく。しかし、アミクスであるハロルドは記憶を消すことができず、痛みを抱えたまま生き続ける。彼が過去の事件にこだわるのは、忘れることができないからではないか。もし、彼が過去に縛られ、前へ進めないのであれば、それはあまりにも皮肉な現実であった。
第二章 再演
ペテルブルク市警への捜査協力の開始
エチカとハロルドは、ペテルブルク市警本部へ向かった。ナポロフ警部補は、アバーエフを聴取のために呼び出していたが、約束の時刻に姿を見せなかった。一方、ソゾンの母エレーナは既に到着し、聴取を受けていた。エチカはハロルドと共に彼女の聴取に立ち会うことを決め、市警本部内のミーティングルームへと向かった。
ニコライとの出会い
市警本部のラウンジで、エチカたちはソゾンの弟、ニコライと遭遇した。彼は母の付き添いで警察に来ていたが、落ち着かない様子だった。エレーナの精神状態が不安定であり、警察の聴取がスムーズに進むかを心配していた。エチカはハロルドがニコライと親しげに話す様子を見つめながら、彼の態度に一抹の違和感を覚えた。
エレーナの電索の決定
エレーナはデジタルクローンを依頼したものの、事件への関与があるかは不明瞭であった。アキム刑事の提案により、彼女の機憶を探るための電索が決定された。エチカはハロルドが補助官として電索に同行することを提案したが、ニコライは母にはハロルドの存在を知らせないよう頼んだ。ハロルドもそれに同意し、彼がエレーナに知られることを避けたがっている理由が明らかではなかった。
エレーナの記憶とアバーエフの関与
エレーナの電索が始まり、彼女がデジタルクローンの依頼を取り下げたがっていたことが判明した。彼女はアバーエフに委任状を渡し、デジタルクローンをキャンセルするよう頼んでいた。しかし、アバーエフはその依頼を無視し、代わりにクローンを受け取っていたことが明らかとなった。エレーナ自身は事件に関与していないと判断され、アバーエフが模倣犯である可能性が強まった。
エレーナの激しい拒絶反応
電索の最中、エレーナは突然覚醒し、ハロルドの存在に激しく動揺した。彼女は過去の記憶を蘇らせ、彼を見た瞬間に恐怖と怒りをあらわにした。エチカは、その反応が単なる錯乱ではなく、ハロルドの過去と関係しているのではないかと推測した。
アバーエフの自宅捜索
アバーエフの行方が分からないまま、市警は彼の自宅の捜索令状を請求し、エチカとハロルドも捜査に同行することになった。彼のアパートへ向かうと、既に警察の車両が待機しており、現場は慌ただしくなっていた。ナポロフ警部補の態度は重く、通常の捜索とは異なる様子を見せた。
アバーエフの惨殺
エチカとハロルドがアバーエフの自宅に踏み込むと、そこには惨たらしい光景が広がっていた。アバーエフはソファの上で四肢を切断され、胴体の上に頭部が置かれていた。その手口は、かつて「ペテルブルクの悪夢」と呼ばれた未解決事件と全く同じであった。床には彼の血で「真作」と書かれており、ユア・フォルマが抜き取られていたことから、犯人が情報を盗んだ可能性が浮上した。
事件の再来
ハロルドは即座にアバーエフの遺体を検分し、この殺害が「ペテルブルクの悪夢」の犯人によるものであると断言した。市警はアバーエフを容疑者として捜査していたが、彼自身が犠牲者となったことで、新たな疑問が生まれた。エチカは目の前の惨状を見つめながら、この事件が単なる模倣ではなく、より深い闇を孕んでいることを痛感した。
鑑識による現場調査
鑑識課がアバーエフの自宅に到着し、複数の鑑識官が死体や室内の状況を詳しく調べ始めた。分析蟻も展開され、現場の微細な痕跡を検出していた。ハロルドは、アバーエフの死亡推定時刻が午前二時頃であることを確認すると、模倣事件の報道により本物の犯人が刺激され、報復として彼を殺害した可能性を指摘した。
証拠の発見
ナポロフ警部補は、アバーエフの指紋が付着したボストンバッグを提示した。その中には、循環液で汚れた電動鋸や衣類が入っており、浮浪アミクス殺害に用いられたものと一致していた。これにより、アバーエフが模倣犯であったことがほぼ確定したが、彼が殺害されたことにより、新たな謎が生じた。
犯人の侵入経路
ハロルドは、室内の窓や玄関に破壊の痕跡がないことから、アバーエフが犯人を自ら招き入れた可能性を示唆した。アパートの構造上、外部の人物が侵入するには住民の許可が必要であり、犯人がアバーエフの知人であったと考えるのが自然であった。
「ペテルブルクの悪夢」の犯人の特徴
ハロルドは、ソゾンがプロファイルした犯人の特徴を共有した。それによれば、犯人は三十代から四十代のロシア人男性で、幼少期に虐待を受けた経験があり、慎重な性格で高い知能を持つが、交友関係は狭い。また、死体の扱い方から医療従事者である可能性が高く、空想癖を有していた。今回の犯行では、これまでの事件とは異なり、被害者の血で「真作」と書かれていたことから、犯人が感情的になっていたことが推察された。
犯行のメッセージ
シュビン鑑識官は、血文字が利き手とは逆の手で描かれ、指ではなく画筆を使用した形跡があることを発見した。これにより、犯人が美術分野に関心がある、もしくはその業界に関わっている可能性が浮上した。ハロルドは、この手がかりが新たな進展をもたらすと考えたが、ナポロフは慎重な姿勢を崩さなかった。
エチカの動揺
エチカはアバーエフの遺体が脳裏に焼き付き、耐えきれずに現場を離れた。外の空気を吸いながら、事件が「ペテルブルクの悪夢」の本物の犯人によるものだと認めたくない自分に気付いた。模倣犯が捕まれば事件は終息するはずだったが、事態は逆に深刻化していた。
ハロルドの決意
エチカはハロルドに、捜査から離れるよう勧めたが、彼はそれを断固として拒否した。彼は、今回の事件が犯人を追い詰める好機であり、感情的な犯行によって新たな手がかりが得られると主張した。エチカは彼の言葉に反論したが、ハロルドは「自分は間違えない」と断言し、捜査への執着を露わにした。
決裂
エチカは、ハロルドの復讐心が暴走することを恐れ、彼を捜査から引き離そうとした。しかし、彼の意志は固く、ついにはエチカを捜査から外すようナポロフに進言した。エチカは驚愕し、これまで築いてきた信頼が一瞬で崩れるのを感じた。
ナポロフとの会話
ナポロフの車に乗せられたエチカは、ハロルドとの衝突について説明した。警部補は彼女の心配を理解しつつも、今回の事件が市警にとっても重要であることを説いた。ソゾンの死は、市警全体にとっても痛恨の出来事であり、彼らにとっても復讐と捜査の意味を持つ事件であった。
ハロルドの過去
ナポロフは、ハロルドがソゾンの相棒であった経緯を語った。ソゾンは機械派でありながら、ハロルドだけは特別に受け入れていた。しかし、その関係性が犯人に誤解され、ソゾンは誘拐・殺害された。ハロルドは当時、彼の行方を突き止めたが、市警は彼の推理を軽視し、対応が遅れたことでソゾンを救うことができなかった。ナポロフはそのことを深く後悔していた。
エチカの葛藤
エチカは、ハロルドを守りたいという自分の気持ちが、彼を苦しめる結果になっていることに気付いた。彼を事件から遠ざけるべきか、あるいは捜査に関わらせるべきか、自分の判断に自信が持てなくなっていた。ただ一つ確かなのは、彼を止めることができるのは、もう自分だけかもしれないということだった。
アバーエフの遺体の搬出と捜査の行き詰まり
日が沈んだ頃、アバーエフの遺体はシュビンとハロルドに見送られながら、警察のバンへと積み込まれた。現場には警光灯が回り続け、分析蟻による捜査も行われていたが、結局、有力な手がかりは見つからなかった。シュビンは、犯人の犯行が感情的でありながらも衝動的ではなく、慎重に計画されたものであると分析した。
また、犯人が血文字を描くために画筆を使用したことについて、ハロルドはその意図を考察した。指先で書くことも可能だったはずだが、あえて道具を選んだことには意味がある。犯人は自分の趣向を意図的に明かしたのか、それとも無意識のうちに痕跡を残したのか──その狙いは依然として不明であった。
次なる殺人の可能性
ハロルドは、犯人が今回の犯行に満足せず、新たな標的を見つける可能性が高いと判断した。二年半前、ソゾンを殺害した後に活動を停止していたが、今回の事件を契機に再び殺人を繰り返す恐れがある。ハロルドは被害者遺族への警告を提案し、各家庭に警官を配置するべきだと進言した。シュビンはナポロフ警部補に伝えることを約束し、話題は彼自身のカウンセリングの話へと移った。
シュビンはかつて、強盗殺人課に所属していた頃、ソゾンからカウンセリングを受けていた。しかし今はもう平気だと語り、ハロルドは彼の心情を読み取ることができなかった。
証拠品の受け渡し
シュビンは、証拠保管袋に入ったアバーエフのタブレット端末を小脇に抱えていた。ハロルドは、その端末を貸してほしいと申し出た。シュビンは了承したが、袋から出さずに扱うよう念を押した。しかしハロルドは、指紋の付かない自分なら問題ないと判断し、端末を直接手に取り、画面を起動した。
デジタルクローンとの対面
画面が光を放ち、ソゾンのデジタルクローンが映し出された。彼の姿は本物と見分けがつかないほど精巧であり、視線が合うと、まるで生きているかのように錯覚させた。ただ、依頼者であるエレーナが提供したデータには、ハロルドの記録が含まれていないため、デジタルクローンは彼を認識していなかった。
ハロルドは、自分が感傷的になったことに嫌悪を抱いた。デジタルクローンがどれほど精巧であろうと、それは所詮、ソゾンの記憶を持たない「別の存在」に過ぎない。だが、彼は何を期待していたのか。許しを求めたかったのか──そんな感情は、かつて一度も抱いたことがなかったはずだった。
エチカへの疑念と焦燥
ハロルドの思考はエチカへと向かう。彼女があれほど捜査から遠ざけようとした理由は何なのか。単なる心配ではなく、彼の「秘密」に勘付いているのではないか。もしそうなら、なぜ彼を告発しないのか。アミクスの運用法に違反する神経模倣システムの存在を知りながら、彼女がそれを見逃している理由が分からなかった。
それでも、今考えるべきは犯人のことだけだった。思考の負荷を振り払うように、ハロルドはデジタルクローンを無視し、端末内のメッセージ履歴を確認した。しかし、そこには何のやりとりも残っていなかった。唯一、アバーエフの娘の写真が保存されていたが、それ以上の情報は得られなかった。
シュビンが戻ってくる気配を感じ、ハロルドは端末の電源を切った。彼にとって重要なのは、ただ一つ。
決意
ソゾンが殺されたあの日から、ずっと待ち望んでいた時が来た。犯人を追う機会を、再び手にすることができた。もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。必ず、犯人を見つけ出す。
道標は変わらない。変わることは許されない。
──あの日から、ずっと。
幕間 I wanna go home with you.
ハロルドとソゾンの出会い
四年前の冬、ハロルドはペテルブルクの路地裏でソゾンと出会った。その日は寒風が吹き荒れ、フォンタンカ川近くの腐臭漂う場所で彼は膝を抱えて耐えていた。ボディは劣化し、システムはメンテナンスを推奨し続けていたが、彼にはその手段がなかった。
その時、警察官であるソゾンとアキムが現れ、最近発生した殺人事件についてハロルドに尋ねた。ハロルドはメモリを検索し、犯人と思しき人物の手術痕を報告した。しかし、検索の負荷が大きすぎたため、循環液の管理ができなくなり、システムは強制的に機能停止へと移行した。
盗難された過去とショーケースの中の囚われ
ハロルドはかつて英国王室に献上される予定のRFモデルだった。しかし、王室の寄付後に盗難に遭い、違法な闇オークションで売り払われた。彼の記憶には、その期間の記録は残っていない。再起動した時には、すでにモスクワ近郊の資産家の手に渡っていた。
その資産家は違法取引に関与する人物であり、ハロルドをショーケースに閉じ込めた。彼の役割は、ただ鑑賞用として「美しく存在する」ことだった。最初は戸惑いながらも、ハロルドはその状況を受け入れようとした。しかし、次世代型汎用人工知能の彼は、従来のアミクスとは異なり、感情を持つ存在だった。閉じ込められることの「苦痛」を知り、次第に苛立ちを覚えるようになった。
敬愛規律に従い、人間を敬うことは当然だった。それでも、ショーケースの中で彼は確かに不快感を覚えていた。人間を喜ばせることが機械の本質であるならば、何故自分はここまで強い不満を抱いたのか──その疑問が、心に根を張った。
逃亡と路地裏での生活
そんな日々が続く中、ある日、資産家の愛人がハロルドをショーケースから解放した。彼女は同情からロンドンへ送り返そうとしたが、ハロルドが次に目覚めた時には、ペテルブルク市内の路地裏にいた。
その後、彼は街をさまよいながら生き延び、最終的にフォンタンカ川沿いの路地に定住した。そこで出会ったのが、一匹の白い野良猫だった。彼は猫を「スノウ」と名付け、互いに寄り添いながら過ごした。寒さや劣化するボディの不調を感じながらも、その時間は静かで穏やかだった。
修理と警察による回収
ハロルドは最終的に故障し、路地裏で倒れた。その後、彼を修理したのはペテルブルク市内の修理工場だった。修理を終えたハロルドは、警察に連行されることになり、窃盗課で事情を聞かれた。彼のシリアルナンバーが照合された結果、盗難されたRFモデルであることが発覚した。
その場には、ソゾンとアキムもいた。ソゾンはハロルドのメモリが連続通り魔事件の解決に貢献したことを認めつつ、彼に対して冷たい態度を取った。ハロルドは、自分の身を守るために浮浪アミクスとして過ごしてきたが、こうして再び人間の管理下に戻ることになった。
資産家の罪と協力の提案
ソゾンはハロルドのメモリを調べる過程で、彼の元の所有者である資産家の関与が疑われる殺人事件の情報を得た。その被害者は、ハロルドを逃がした愛人だった。ソゾンはハロルドの協力を求め、メモリを提供するよう命じた。
ハロルドは敬愛規律を理由に拒否したが、ソゾンは強引に彼のメモリを取得した。その過程で、ハロルドは自分が本心では資産家の逮捕を望んでいたことに気付く。自分を売買した人間を守ろうとしながら、実は解放されることを願っていたのではないか──その矛盾に愕然とした。
ソゾンの本質と興味
ソゾンはアミクスに対して否定的な態度を取っていた。しかし、彼の本質は単なる機械嫌いではなく、「アミクスと接する人間の変容」を恐れていた。機械と関わることで、人間は無意識のうちに歪んでいく。その歪みに影響されることを嫌い、彼はアミクスを遠ざけていたのだ。
しかし、ハロルドはそんな彼に興味を抱いた。アミクスを単なる道具ではなく、「人間の映し鏡」として捉える彼の考え方は、これまで出会ったどの人間とも異なっていた。
新たな所有者としてのソゾン
驚くべきことに、ソゾンはハロルドの新たな所有者になることを決めていた。彼は捜査の補佐としての能力を買い、正式に引き取るためにロンドンのノワエ・ロボティクス本社へ赴いた。
レクシー博士はこの申し出を快諾し、ハロルドは正式にソゾンのパートナーとなった。
新たな居場所
ロンドンを離れる朝、ペテルブルクへと向かう道すがら、ハロルドはソゾンに問いかけた。なぜ彼を引き取ろうとしたのか、と。
ソゾンは、ハロルドが自分の捜査を手伝うことを期待していた。しかし、それ以上に、「勝手に修理した責任」を取るつもりだった。
その言葉を聞いた瞬間、ハロルドは彼が「歪んでいない人間」になろうとしているのではないかと気付いた。自らが持つ歪みを自覚し、それでもアミクスを道具としてではなく、一人の存在として扱おうとする彼の在り方に、ハロルドは救いを感じた。
ソゾンは言った。「帰るぞ、ハロルド」と。
その言葉を聞いた時、ハロルドは気付いた。
今までずっと、自分も「帰る場所」を求めていたのだと。
ソゾンの家族とハロルドの新たな生活
ソゾンにはダリヤという妻がいた。彼女はアミクスを歓迎し、ハロルドを家族の一員として受け入れた。物置として使われていた部屋が彼の新たな居場所となり、ソゾンは壁を湖のような青色に塗り替えた。クローゼットには、人間の衣服が増えていった。ハロルドはそこで、自分が「気に入る」という感情を持っていることに気付いた。
市警での仕事とナポロフの信頼
市警での勤務が始まり、ハロルドはソゾンの補佐として強盗殺人課に配属された。課長のナポロフは、彼の性能を公にしないよう指示しつつも、歓迎の姿勢を見せた。シュビンとも初対面を果たすが、彼はそそくさと逃げるように去っていった。
ソゾンはハロルドに、人間の行動や心理の「サイン」を教え込んだ。目撃者の態度、まばたきの回数、瞳孔の収縮、肩の動き──それらを分析することで、人間の心理を読み取る技術を磨いた。学習を重ねることで、彼は人間の「勝手」に振り回されることなく、適切な接し方を選べるようになった。
ソゾンとの日常と家族の時間
休日には、三人でエルミタージュ美術館やマリインスキー劇場へ足を運んだ。ハロルドは芸術の魅力を理解し、バレエを「飛んでいるかのようだった」と評した。夏にはダリヤが別荘の菜園を世話し、彼らも週末をそこで過ごした。ダリヤは作物を育てるのが下手で、夕食がブルーベリーだけになったこともある。
年越しには三人で新年の花火を眺め、ハロルドが用意したシャンパンでダリヤは悪酔いした。彼女はソゾンに捜査ばかりの生活を改めるよう絡み、ついにはソファで眠り込んだ。ソゾンは彼女に毛布をかけ、ハロルドと静かにシャンパンを飲んだ。その夜、ハロルドは問いかけた。「あなたは今、私と話すご自身を歪んでいると思いますか?」 ソゾンはわずかに瞳を投げかけ、「そもそもお前は最初から、俺の望むように振る舞っていないだろ」と答えた。
友人派連続殺人事件の発生
二年が経過し、五月下旬に友人派連続殺人事件「ペテルブルクの悪夢」が始まった。最初の被害者はペテルブルク大学の学生で、遺体はバラバラに切断され、ベンチの上に「飾られて」いた。第二、第三の犠牲者が相次ぎ、被害者に共通する点は「友人派」であることが判明した。
ソゾンは現場を観察し、犯人が証拠を一切残さず、計画的に犯行を繰り返していると推測した。しかし、手がかりは乏しく、捜査は難航した。彼は深夜までオフィスに残り、現場写真と向き合い続けた。
ある夜、ハロルドはソゾンに休むよう促したが、「奴が野放しになっているうちは、どうせぐっすり眠れない」と返された。翌朝、彼は戻らなかった。
ソゾンの失踪と墓地の痕跡
ハロルドとダリヤが異変に気付いた時、ソゾンの位置情報はすでに消えていた。彼の車はカリーニンスキー地区の墓地で見つかり、監視カメラには、墓地へ入った車と入れ替わるように出ていくピックアップトラックの姿が映っていた。ナポロフたちは、ソゾンが誘拐されたと判断し、トラックの運転手を拘束した。
しかし、ハロルドは納得しなかった。墓地には監視カメラを避けるルートが存在し、犯人が計画的に逃げる手段を持っていたと考えた。彼は独自に捜査を続け、オフタ川沿いの住宅街に狙いを定めた。
独自の捜査と廃屋での遭遇
一人で現場へ向かい、赤い屋根の古びた廃屋を見つけた。整備されたバンが停められており、墓地と同じ種類の小石がタイヤの溝に挟まっていた。慎重に中へ入り、地下室へと続くハッチを発見した。
そこに、椅子に縛り付けられたソゾンがいた。額には血が滲み、頰には殴られた痕があったが、生きていた。安堵のあまり彼の名を呼ぶと──ソゾンの瞳が恐怖に見開かれた。
次の瞬間、ハロルドは背後から拘束された。
「ペテルブルクの悪夢」の真の姿
犯人は影のような存在だった。その影は、ハロルドの目の前でソゾンを「バラバラ」にしていった。まるで花弁を一枚ずつ剥ぐように、冷酷な手際で。ハロルドは柱に括り付けられたまま、なす術もなく、その光景を見続けることしかできなかった。
敬愛規律がシステム内で繰り返し警告を発する──「人間を尊敬し、人間の命令を素直に聞き、人間を絶対に攻撃しない」。しかし、何の役にも立たなかった。
ソゾンの腕は、床の土に爪を立てるように動いていた。それはかつて現場を観察する時に指を突き合わせた手、紙煙草を挟んでいた手、ダリヤの髪を梳いていた手だった。
──「帰るぞ、ハロルド」
だが、人間は修理が利かない。
ソゾンは、もう戻らない。
決意と夜の予感
思考は黒く渦を巻く。これから先、どれほど長い夜が続くのか、予感だけが胸を締めつける。
そして、その影の姿を記憶の奥底へと刻み込んだ。
「私は必ず、お前を見つける」
第三章 丘をのぼる羊たち
憂鬱な朝と「悪夢」事件の再燃
エチカは億劫な気分でアパートを出た。寒さが身に染みる朝、彼女は昨日のハロルドの冷たい態度を思い出しながら市警へ向かった。ニュースでは「ペテルブルクの悪夢」の再来が報じられ、模倣犯かと思われた事件が、今度は「本物」によるものだったと判明した。エチカは、事件の捜査に戻れず悶々としていたが、捜査を前進させるためにも今は同僚としてハロルドを支えるべきだと自らに言い聞かせた。
途中、交差点でビガと遭遇した。彼女はアカデミーへ向かう途中であり、捜査の進展について尋ねてきた。エチカは慎重に答えながらも、「的は絞れてきている」とだけ伝えた。別れ際、ビガは「早く戻ってきてください」と励ましたが、エチカは返答に迷った。
市警本部での緊張
ペテルブルク市警本部に到着すると、エチカはミーティングルームへ向かった。扉を開くと、アキム刑事がアバーエフの上司に事情を聞いていた。壁際にはハロルドが控えていたが、彼の冷淡な視線はエチカを一瞥した後、すぐにテーブルへと戻った。
ハロルドが仕事の話には応じると分かり、エチカは少し安心した。アキムの質問に対し、上司は「アバーエフはいつも通り出勤していた」と答えたが、有力な情報は得られなかった。その時、ハロルドのウェアラブル端末にナポロフからの着信が入った。彼は足早に部屋を出て通話を始めた。
エチカは彼を追いかけるべきか迷ったが、情報を把握する必要があると考え、通路へ向かった。ハロルドは「昨晩からニコライが行方不明」と報告を受けていた。その知らせに、彼はわずかに動揺を見せたが、すぐに冷静さを取り戻した。
ソゾンの実家での捜査
二人はナポロフと合流し、ペテルゴフにあるソゾンの実家へ向かった。すでに数台の警察車両が集まり、住民たちが様子を窺っていた。ナポロフは、ニコライの車が池の前に放置されていたこと、捜索しても手がかりが見つからなかったことを説明した。
ハロルドはナポロフに詰め寄り、警備がいたにもかかわらずニコライが外出した経緯を問いただした。ナポロフは、警備が限られていたことと、ニコライ自身が警官の同行を断ったことを理由に挙げた。両者とも感情的になり、言い争いに発展しかけたが、最終的にはエレーナへの事情聴取を優先することとなった。
エレーナの拒絶とハロルドの誓い
家に入ると、エレーナが激昂し、ハロルドの存在を拒絶した。彼女は「今度はニコライを死なせるつもりか」と怒りをぶつけた。ナポロフが彼女をなだめるが、エレーナは罵声を浴びせ続けた。
しかし、ハロルドは動じず、彼女の前に進み出た。そして、彼女の肩を摑み、「ニコライを見つける」と断言した。エレーナは驚愕しながらも、憎悪を込めた視線を向けたが、ハロルドの強い意志に圧倒されて言葉を失った。
彼はすぐにその場を離れ、外へ出た。エチカは彼の後を追い、庭先のニーヴァのそばに立つ彼を見つけた。彼は静かに荒れた耕作地を見つめていた。エチカは「ニコライを見つける」と励ましたが、ハロルドは「ソゾンも、殺される直前に行方不明になった」と、弱々しく呟いた。彼は最悪の可能性を想定していたが、エチカは「最善を尽くせばいい」と力強く応じた。
ビガの電話と新たな手がかり
その後、ハロルドに家の中の捜索を任せ、エチカはニコライの車が見つかった池へ向かった。現場では、彼の毛髪が発見され、誘拐の可能性が高いと判断されていた。
手がかりを探していた時、公衆電話からビガからの着信が入った。彼女は「犯人に繫がる手がかりを見つけた」と興奮していた。しかもナポロフの許可を得て、エチカを指定通信制限エリアへ呼び出していた。
エチカはすぐに向かう決意をし、ハロルドにメッセージを送る。彼より先に犯人へと辿り着くことを心に誓いながら、ニーヴァのエンジンをかけた。
ビガの推測が当たっていることを祈りつつ、エチカは車を走らせた。
エチカの失踪と捜査の進展
エチカから最後に届いたメッセージを何度も見返したハロルドは、警察車両内でホロブラウザを睨み続けていた。受信時刻は八時間前であり、彼女と別れた後、自宅を捜索したが有力な手がかりは得られず、ナポロフと共に合流地点へ向かった。しかし、エチカの姿はなく、ただ短いメッセージが残されているのみだった。日が傾くまで待っても彼女は現れず、不安が募る中、ナポロフが彼女の最後の位置情報を特定したと告げた。ネヴァ区のパーキングロットで足取りが途絶えており、これまでの誘拐事件と異なるパターンにハロルドは焦燥を募らせる。
パーキングロットでの調査
ネヴァ区のパーキングロットに到着すると、市警の鑑識課が監視カメラの破壊を調べていた。周囲の駐車場と比べ、この場所は人目に付きにくく、犯人が計画的に選んだ可能性が高い。ハロルドは車外へと出て、捜査中のフォーキン捜査官とビガに合流。鑑識官によると、付近の監視ドローンには犯人の車両の記録がなく、証拠は乏しい状況だった。さらに調査を進めると、地面に不自然な血痕が広がっており、ハロルドはそれが単なる痕跡ではなく、未完成の血文字であることに気付く。犯人が書いたものではなく、エチカが誘拐される直前に残したメッセージだと推測された。
犯人の手口の解明
ハロルドは血文字がアバーエフの殺害現場に残されたものと関連していると考え、エチカが何かを伝えようとしていたのではないかと推理する。そして、過去の事件の被害者たちも、犯人の「声」に誘導されていた可能性に思い至った。犯人は被害者の知人の声を偽装し、信用させて誘き出していたのだ。ビガは「バイオハッキング」を用いた変声デバイスの可能性を示唆し、ハロルドたちはペテルブルク近郊のバイオハッカーのもとへ向かう。
バイオハッカーの証言と犯人の特定
バイオハッカーの協力を得て顧客リストを調査すると、「モンマルトル」という名義で変声デバイスを購入した人物が浮かび上がる。その名前がパリの「殉教者の丘」に由来し、過去の犯行手口と美術的な共通点を持つことが判明。さらに監視カメラ映像から、モンマルトルの正体が市警の鑑識官シュビンであることが明らかとなる。ハロルドはナポロフに連絡し、シュビンが「ペテルブルクの悪夢」の犯人であると確信する。
エチカとニコライの監禁
一方、エチカは意識を取り戻し、冷たいコンクリートの上に拘束されていた。彼女は同じく囚われの身であるニコライと再会し、彼を助けようと試みる。犯人が部屋を出ると、エチカは手足を使い何とか脱出を試みるが、抵抗する間もなく、ニコライが犯人に連れ去られてしまう。彼の悲鳴が響き、それが途絶えると、彼女は必死に脱出を図る。
警察の突入とシュビンの逃走
その後、ナポロフ率いる警察が現場へ突入し、エチカとニコライを発見。シュビンは逃走を図るが、警察が包囲網を敷く。しかし、シュビンは隙を突いて車で脱出し、ハロルドが単独で追跡する。彼は決してシュビンを逃がさぬよう、ラドガ湖周辺の森へと追い詰める。
ハロルドとシュビンの対峙
ハロルドは執念の追跡の末、シュビンのバンを道路外へと追いやることに成功。バンは木に激突し、シュビンは負傷するが、命は助かっていた。ハロルドは彼を車外へ引きずり出し、ついに犯人を捕らえた。しかし、復讐心がこみ上げ、理性を保つことが難しくなる。そこへフォーキンが到着し、シュビンの身柄を確保。だが、ハロルドの脳裏には、シュビンの行動の不可解な点が浮かんでいた。
ナポロフの不可解な行動
フォーキンとの会話の中で、ナポロフの通信が途絶えていることが判明。指定通信制限エリアでもないのに、彼の位置情報が不明となったのは異常だった。ハロルドはその事実に違和感を覚え、急いで現場へ戻ることを決意する。
シュビンの動機と真実の追及
ナポロフとエチカが向かったのは、ソゾンが殺害された空き家だった。ナポロフはシュビンの行動を追うため、エチカを伴って待ち伏せることを決める。しかし、エチカは地下室で奇妙な違和感を覚える。ナポロフの言動が、まるでシュビンを誘い込むかのように思えたのだ。その直後、エチカは突然の衝撃を受け、意識を失う。
最終決戦の始まり
一方、ハロルドは自身の思考の誤りに気付き、猛スピードでナポロフの元へ向かう。シュビンが「真の犯人ではない」可能性が浮上し、すべての事件の裏に隠された真実を暴く決意を固める。エチカとナポロフがいる場所へと急ぐ彼の胸には、再び誰も失わないという強い意志が燃えていた。
地下室での襲撃
エチカは突然の衝撃に思考を奪われ、視界が揺らいだ。彼女は地下室の床に叩きつけられ、黴の匂いが鼻腔を満たす。直後、うなじに絶縁ユニットを挿入され、続けざまに脇腹を蹴り上げられた。苦しみながらも、彼女は反射的にホルスターの銃に手を伸ばすが、ナポロフによって簡単に蹴り飛ばされる。彼は穏やかな口調で語るが、その手には押収されたはずの電動鋸が握られていた。エチカはナポロフの正体を理解しながらも、彼が善良な警部補であったことを思い出し、信じられない思いに囚われる。
ハロルドの介入
絶望的な状況の中、地下室の階段下に現れたのはハロルドだった。彼は冷静な表情のままナポロフを見つめ、事件の真相を語り始める。ナポロフは友人シュビンを操り、全ての罪を彼に着せる計画を立てていたことを明かした。ハロルドは冷静にその論理を解きほぐし、彼の犯行を追及する。しかしナポロフは動じず、皮肉げにハロルドを「名探偵」と呼んだ。エチカはハロルドを止めようとするが、負傷した体では動くことができない。
決定的な一撃
突如、銃声が地下室に響く。ナポロフの片腿が撃ち抜かれ、彼は膝をついた。ハロルドがエチカの銃を拾い、冷徹な正確さで狙いを定めたのだ。彼はナポロフに向かって問いを投げかけ、ソゾン殺害の理由を追及する。ナポロフは動機を語ることを拒みながらも、犯行の詳細を認めた。ハロルドは復讐を遂げるため、電動鋸を手にする。彼の動きに、エチカは震えながらも警告を発するが、彼は聞き入れない。
エチカの選択
ハロルドがナポロフに止めを刺そうとした瞬間、エチカは反射的に引き金を引いた。弾丸はハロルドの右肩を貫通し、彼の手から電動鋸が落ちる。循環液が土に滴り落ち、彼の顔には動揺が浮かんでいた。だが、それでもハロルドはエチカを拘束し、冷徹な視線を向ける。彼はソゾンを救えなかった自責の念に囚われ、それを償おうとしていた。しかしエチカは、彼の行動が復讐ではなく贖罪であることを見抜き、彼の心の傷に触れようとした。
許しと夜明け
エチカはハロルドを抱きしめ、静かに語りかけた。彼がソゾンを殺したわけではないこと、自分を許していいことを伝える。ハロルドは戸惑いながらも、エチカの言葉に揺れ、ついには抑えきれず涙を流した。彼はそれでも自分を許すことを拒もうとしたが、エチカは彼の代わりに許さないでいると告げた。その言葉に、ハロルドはようやく復讐の連鎖から解放される。
外に出ると、空はすでに夜明けを迎えていた。ハロルドはエチカの手を取り、共に歩き出す。彼の瞳には、ようやく見えた新しい道が映っていた。
警察の突入と捜査の開始
空き家に数台の警察車両が到着し、警官たちは迅速に屋内へと突入した。指揮を執るのはアキム刑事である。彼はナポロフ警部補の事件を暫定的に引き継ぎ、状況を把握しようとしていた。ナポロフの正体が明らかになると、アキムは大きく動揺した。彼にとって信頼してきた上司が連続殺人犯であった事実は、到底受け入れがたいものであった。
エチカはハロルドの怪我について問われると、ナポロフに撃たれたことを説明した。ハロルドは重傷を負いながらも、エチカを庇っていたのである。警察の捜査が進む中、フォーキン捜査官が現れ、ナポロフが意識を取り戻したと報告した。
ナポロフの意識回復と緊急搬送
警察官たちは負傷したナポロフを地下室から救急車へ運び出そうとした。しかし、彼は動脈の損傷を免れており、警官に支えられれば自力で歩ける状態だった。フォーキンがナポロフの搬送を手配する間、アキム刑事はエチカから事件の発砲状況について聴取を進めた。エチカは、ハロルドがナポロフに人質に取られ、自分が警部補を撃ったという偽の供述を並べた。しかし、ナポロフが何を証言するかによっては、全てが覆る可能性があった。
突然の銃声とナポロフの自殺未遂
警察が捜査を進める最中、突然の銃声が屋内に響いた。エチカとフォーキンは驚愕し、現場へ駆けつける。そこには、血だまりの中に倒れたナポロフの姿があった。彼は運び出される際、隙を突いて警官の銃を奪い、自らの頭を撃ち抜こうとしたのである。ナポロフの行動は、単なる逃避ではなく、彼の誇りを守るための最期の抵抗だった。
ナポロフの電索準備と真相への接近
ナポロフは緊急搬送されたものの、意識が戻ることはなく、昏睡状態に陥った。アキム刑事は事件の真相を明らかにするため、エチカとハロルドに電索を要請した。エチカはハロルドとともに集中治療室を訪れ、ナポロフの記憶へと潜る準備を進めた。
ナポロフの機憶の中には、彼がこれまで犯してきた殺人の記録が鮮明に残されていた。幼少期のトラウマ、母親との歪んだ関係、支配的な人間関係への執着が、彼を連続殺人犯へと変えた過程が明らかになっていく。しかし、彼の記憶をさらに遡ると、意外な事実が発覚した。
ソゾン刑事の死の真相
ナポロフは「ペテルブルクの悪夢」の犯人であることに間違いはなかった。しかし、電索を進めるうちに、ソゾン刑事の殺害に関しては別の犯人が存在することが判明した。ソゾンはナポロフではなく、模倣犯によって殺害されていたのである。この事実はエチカとハロルドにとって衝撃的であった。
ハロルドは長年ソゾンの死の責任をナポロフに求めてきたが、実際には模倣犯による犯行だった。ナポロフは、模倣犯によるソゾン殺害を機に、自らの犯罪計画を断念していた。模倣犯がナポロフの事件を横取りしたことに対し、彼は強い憎悪を抱いていたのだ。
模倣犯の影と未解決の事件
エチカとハロルドは、ナポロフがソゾン刑事を殺害していないことをアキム刑事に報告した。事件は終結したかに見えたが、ソゾンの殺害犯が未だに野放しであるという新たな問題が浮上した。捜査関係者の中に真犯人がいる可能性が高く、事件はさらに混迷を深めていく。
ハロルドは「影」の正体を突き止める決意を固めるが、同時に復讐心を抱えていた。エチカは、彼が新たな復讐に走らぬよう、そばで見守ることを誓った。
未解決の真実と二人の歩み
ナポロフの死亡により、彼の証言が世に出ることはなくなった。これにより、ハロルドの秘密が守られる形となったが、それでも事件の核心は未だ解決していない。エチカは、ナポロフの機憶から浮かび上がった「影」の存在に疑問を抱きつつも、捜査を続ける決意を固めた。
ハロルドはエチカに、もし自分の秘密が公になったとしても庇わないでほしいと頼んだ。それは彼自身の覚悟の表れであった。二人は未だ解決しない事件の真相に向き合いながら、互いに支え合い、新たな一歩を踏み出した。
終章 萌芽
ペテルブルクの晴天と再会
ペテルブルク市街地の病院を出発した直後は曇天だったが、ペテルゴフに到着する頃には晴れ間が差していた。ラーダ・ニーヴァがソゾンの生家の前に停車し、ハロルドは後部座席を振り返った。ニコライの退院が決まり、ダリヤとハロルドが彼を自宅まで送ったのである。
玄関先ではエレーナが待ち構えていた。彼女はショールを羽織りながら駆け寄り、息子を強く抱きしめた。病状が悪化していたため、見舞いに行けなかった彼女にとって、この再会は待ち焦がれた瞬間だった。ニコライは恥ずかしそうにしながらも、母の気持ちを受け止めた。
事件の影響と市民の反応
『ペテルブルクの悪夢』の容疑者であるナポロフとシュビンが逮捕されてから二日が経過していた。この未解決事件の急展開は世界中で報じられ、市警察への批判が高まる一方で、事件の解決を歓迎する声も多かった。
しかし、未だに市民の不安は拭いきれなかった。なぜなら、ソゾン刑事を殺害した真犯人はナポロフではなく、模倣犯が関与していることが判明したからである。市警察は捜査継続を宣言し、模倣犯逮捕に全力を尽くすと発表したが、先行きは不透明だった。
ソゾンのデジタルクローンの受け渡し
ハロルドは、グリーフケア・カンパニー『デレヴォ』から送られてきたソゾンのデジタルクローンをエレーナに手渡そうとした。しかし、彼女はこれを拒んだ。以前はデジタルクローンを望んでいたが、今では過去に縛られることを恐れ、受け取る意思を持っていなかった。
エレーナはハロルドを見つめ、「ソゾンの殺害犯はまだ見つかっていない」と静かに言った。そして、「よろしく頼みます」と彼に告げた。その言葉には、深い信頼と期待が込められていた。
帰路と新たな決意
ダリヤは、義母エレーナがハロルドに対して少しでも心を開いたことに喜びを隠せなかった。ハロルド自身も、その変化を感じていた。しかし、模倣犯の正体は依然不明であり、事件は終わっていない。
ダリヤは彼の身を案じ、事件の捜査に深入りすることを心配していた。しかし、ハロルドは「必ず帰る」と約束しており、その決意は揺るがなかった。ダリヤは彼の義理堅さを称賛しつつ、「そのマフラー、よく似合ってる」と微笑んだ。
『デレヴォ』訪問と異変の発見
グリーフケア・カンパニー『デレヴォ』を訪れたハロルドは、シュシュノワと再会し、ソゾンのデジタルクローンの端末を返却した。彼女はそれを快く受け取った。
その際、ハロルドはシュシュノワのパートナーであるアミクス、ベールナルドに異変を感じた。彼は人間のように振る舞い、握手を求めてきたのである。アミクスは通常、人間の目がない状況ではそういった行動を取らないはずだった。
ハロルドが尋ねると、シュシュノワは「五年前にカスタムメイド業者に依頼した」と説明した。その業者の名は、アラン・ジャック・ラッセルズ。ハロルドはその名を聞いた瞬間、嫌な予感に襲われた。
ラッセルズの関与と隠された改造
電子犯罪捜査局での取り調べにより、シュシュノワはラッセルズが違法なカスタムメイド業者だったことを知らなかったと証言した。しかし、ノワエ社の技術者がベールナルドのシステムコードを解析した結果、「隠し扉」が存在することが判明した。
この隠し扉は、アミクスに不要な自律性を与えるコードを組み込むものだった。これにより、ベールナルドは本来のプログラムを逸脱し、自ら散歩に出かけたり、鳩に餌をやるなどの行動を取っていた。シュシュノワは「彼が危険な存在だとは思わなかった」と涙ながらに語った。
トスティ事件との関連性
ハロルドは、ラッセルズが『トスティ』のオープンソース化よりも前から活動していたと推測した。ベールナルドの改造は五年前に遡る。つまり、ラッセルズは以前からアミクスの制御コードを書き換える技術を持っていた可能性が高かった。
ラッセルズがアミクスのシステムを改造した理由は依然不明だった。しかし、トスティ事件と共通する点は、どちらも国際AI運用法を逸脱していることである。この発見により、捜査は新たな局面を迎えることになった。
新たな追跡の始まり
シュシュノワの証言により、ラッセルズがカスタムメイド業者を騙っていたことが明らかになったが、すでにその痕跡は消されていた。彼が請け負っていた改造は、全てオンライン上のやり取りのみで行われていたため、直接の手がかりはほとんど残されていなかった。
ラッセルズが手掛けたアミクスの改造は、ベールナルドだけに限らない可能性がある。今後、さらなる調査が必要であることが確定した。
捜査の再開と新たな任務
エチカとハロルドは、ラッセルズの活動範囲を追跡するため、捜査を本格的に再開することとなった。ちょうどその頃、ビガが捜査局に姿を見せ、ハロルドの無事を確認すると、マフラーを使っていることに喜びを隠せなかった。
その後、エチカとハロルドは取調室を後にし、捜査の次の一手について話し合いながら歩き出した。模倣犯の正体、ラッセルズの目的、アミクスの改造計画──全ての答えは、これからの捜査に委ねられていた。
同シリーズ






その他フィクション

Share this content:
コメントを残す