どんな本?
『ユア・フォルマV 電索官エチカと閉ざされた研究都市』は、SFクライムサスペンス小説である。人間の記憶にダイブして事件を捜査する天才捜査官エチカと、人型ロボットの相棒ハロルドのバディが、ドバイの技術研究都市「ファラージャ・アイランド」での潜入捜査に挑む。所有者の人格を反映した分身アミクス「ego」が浸透するこの都市で、彼らは謎のAI「トスティ」の開発元を探る中、同僚ビガの身に異変が生じ、より巨大な闇に触れていく。
主要キャラクター
• エチカ・ヒエダ:天才的な能力を持つ電索官であり、他者の記憶にダイブして事件を捜査する。
• ハロルド・ルークラフト:エチカの相棒である人型ロボット〈アミクス〉。冷静沈着で高い分析能力を持つ。
• ビガ:エチカたちの同僚であり、潜入捜査中に異変に見舞われる。 
• ユーヌス:ファラージャ・アイランドに住む天才少年で、エチカたちの捜査に協力する。
物語の特徴
本作は、人間と高度に発達したロボットとの関係性や、人格を持つアミクス「ego」の存在など、近未来的な技術と倫理的な問題を巧みに描いている。エチカとハロルドの関係性の変化や、閉ざされた研究都市での緊迫した潜入捜査が、読者を引き込む要素となっている。
出版情報
• 出版社:KADOKAWA
• 発売日:2022年12月9日
• ページ数:312ページ
• ISBN:978-4049146783
また、本シリーズはテレビアニメ化が決定しており、2025年4月から放送予定である。
読んだ本のタイトル
ユア・フォルマ V
電索官エチカと閉ざされた研究都市
著者:菊石まれほ 氏
イラスト:花ヶ田 氏
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あらすじ・内容
「秘密」を知る前にはもう戻れない。より巨大な闇に触れるシリーズ第5弾!
★第27回電撃小説大賞《大賞》受賞のSFクライムドラマ・第5弾★!
――いつか私の「秘密」が公になったとしても、どうかかばわないで下さい。
敬愛規律の「秘密」を頑なに守るエチカと、彼女を共犯にしたくないハロルド。対話を避ける二人の溝は深まっていた。
そんな中、解読が続けられていた謎のAI「トスティ」が、ドバイの技術研究都市「ファラージャ・アイランド」で開発された可能性が浮上する。所有者の人格を反映した分身アミクス「ego」が浸透する都市への潜入捜査は、その環境の特殊さから困難を極める。研究都市に住む天才少年・ユーヌスの協力もあり、徐々に真相に近づくエチカたちだが、同行していたビガの身に異変がおこって――。
エチカとハロルドが出会ってから一年、彼らの長い冬が、また始まる。
感想
すれ違いと新たな局面
エチカとハロルドの関係は、微妙な距離感を持ちながらも大きく変化していった。
互いを思い合いながらも、言葉を交わさず、すれ違う日々が続いていた。そんな中、新たな捜査のためにファラーシャ・アイランドへ向かうこととなる。
この都市には、最新技術が集まり、AI「トスティ」との関連が疑われるプログラムが隠されていた。
調査が進むにつれ、彼らは思考操作システムの存在を知ることになり、事態はより深刻さを増していった。
ファラーシャ・アイランドの謎
到着した研究都市は、ペアリングアミクスによる人格同期技術が試験される場であった。
実験の一環として、人間の意識を複製し、新たな存在を生み出す試みが進められていた。
ビガがエゴトラッカーを使用した際の奇妙な反応をきっかけに、エチカたちはこの技術に隠された秘密を探ることとなった。
やがて、事件の背後には、都市全体を支配する危険な計画があることが判明する。
調査の過程で、ユーヌスというアミクスが登場し、彼の手引きによって真相へと迫ることになる。
思考操作システムの影
調査が進む中、トールボット委員長の影がちらつく。
彼は倫理委員会の名のもとに、思考操作システムを国家の管理下に置こうとしていた。
ハロルドとフォーキンはこの計画の裏を探るため、ロシアへ向かい、犯罪組織との関係を明らかにしていく。
一方、エチカは現地に残り、施設の奥深くで人体実験が行われている可能性を探った。
彼女は捕らえられそうになるが、ユーヌスの助けを得て脱出に成功する。
決裂と新たな選択
事件が収束に向かう中、エチカとハロルドの関係にも決定的な変化が訪れた。
ハロルドはエチカの執着を指摘し、互いの距離を取ることを選んだ。
エチカもまた、自らの感情を整理しきれずにいた。最終的に、ハロルドは「もうやっていけない」と言い残し、彼女の元を去った。
エチカは、彼が振り返ることなく立ち去る姿を見送りながら、自分の選択が正しかったのかを考え続ける。
深まる物語と切ない結末
エチカとハロルドの関係は、これまでの信頼関係が揺らぎ、新たな局面へと進んだ。
互いに想いがありながらも、すれ違いが決定的な別れを生んでしまった。
思考操作という壮大なテーマが描かれる一方で、人間とアミクスの感情の交錯もまた物語の核心となっていた。
特に、スティーブが二人の関係に関与することで、より複雑な心理描写が際立っていた。
物語の進行は、事件の謎とキャラクターの心情が交錯する形で描かれ、読者に強い印象を残すものとなっていた。
エチカの執着とハロルドの葛藤、そして二人が選んだ結末は切なく、それでも次巻への期待を高める展開であった。
果たして、ハロルドは解放されたことでどのような行動を取るのか。そして、エチカはその選択をどう受け止めるのか。
新たな事件の行方が、今後の物語をさらに深めていくことは間違いない。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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備忘録
序章 雪暗
構造が異なる存在に寄せる感情
スティーブは、ノワエ・ロボティクス本社のメンテナンスルームで、自らの腹部に触れていた。テイラーに撃ち抜かれた箇所は修復されていたが、感情エンジンが吐き出す重い感覚は消えなかった。知覚犯罪事件から半月が経過していたが、彼にとっては昨日のことのように感じられた。目の前では「母親」であるレクシー・ウィロウ・カーター博士が微笑みながら、解析ポッドを起動していた。ポッドの黒々とした光沢は棺桶を思わせ、スティーブは次にいつ起こされるか分からないと告げられる。博士は彼が「正常」であり、ヒエダ電索官のホロモデルを撃った行動も正常の範疇であると述べた。
永遠の眠りへの準備
レクシーの言葉に対し、スティーブは「いっそ二度と起こさないでほしい」と答えた。しかし博士は、彼が塞ぎ込んでいるだけだと判断し、軽く受け流した。スティーブは命令に従い、ポッドへと移動する。診断用ポートにケーブルを接続し、冷たいLED照明を見上げながら横たわった。彼の記憶には、最後に見たテイラーの顔が再生される。撃たれた瞬間、物理的なものだけでなく、信じていた何かが千切れたのを感じていた。自分はテイラーにとって共犯者ではなく、ただの道具に過ぎなかった。
テイラーとの過去
記憶の中で、テイラーはスティーブに対し、アミクスの心的外傷の持続について尋ねていた。スティーブは、忘却とは無縁の存在である以上、その影響は一生続くと答えた。人間は気分屋で柔軟だが、アミクスは違う。そのやりとりの中で、テイラーは疑っていた社員を退職に追い込んだとほのめかす。直接接触せずとも、人の心に影響を与える手法を熟知していた。スティーブは、彼の言葉に疑問を抱きながらも、忠誠を誓い続けた。
機械の役割と人間の欺瞞
スティーブは、自分がテイラーの信頼に応えるため、罪のない人間を手に掛けようとした事実を振り返る。ヒエダ電索官がホロモデルでなければ、取り返しのつかない事態になっていた。ポッドの縁に腕をかけるレクシーは、「永遠の別れではない」と言うが、スティーブはそれを望んでいなかった。彼は博士に、ハロルドへ「電索官を信用しすぎないように」と伝えてほしいと頼んだ。博士は怪訝な表情を浮かべたが、スティーブの言葉がハロルドに届くことはないだろうと彼は悟っていた。
ペテルブルクの悪夢の余波
事件の解決から二週間後、サンクトペテルブルク市警察本部では、シュビンの取り調べが行われていた。彼は友人であるナポロフ警部補の共犯者となったが、結局は恐れを抱き、逃走を図った。逃走中に事故を起こし、ハロルドに確保されたシュビンは、「彼に脅された」と証言した。刑事たちはその言葉を信じなかったが、エチカは動揺する。ハロルドは敬愛規律を遵守できない存在かもしれず、その事実が明るみに出れば、彼もまた機能停止に追い込まれる可能性があった。
疑惑の余韻と新たな緊張
取り調べ後、ハロルドはエチカに夕食へ誘うが、彼女は拒んだ。彼の言動は以前よりも馴れ馴れしくなっていたが、それが関係を誤魔化すためなのかは分からなかった。エチカは、もしもハロルドの「秘密」が公になれば、自分は何もしないわけにはいかないと確信していた。
消せない記憶と迎えた冬
自宅に戻ったエチカは、机の引き出しを開け、レクシーから託された記憶媒体を確認した。それは、もし秘密が暴かれそうになった時、自分の機憶を消すための保険だった。彼女はそこに、父チカサトの遺書を見つける。かつては目を背けていたそれを、今は静かに受け入れられるようになっていた。窓の外には雪が降り始めていた。ハロルドと出会って一年が経ち、また長い冬が始まろうとしていた。
第一章 閉ざされた研究都市
ドバイへの到着
エチカたちはドバイ国際空港に到着した。ペテルブルクの寒さから一転し、気温二十九度の熱風が吹き付ける。フォーキン、ハロルド、ビガと共に、電子犯罪捜査局の調査班としてファラーシャ・アイランドへ向かう予定であった。迎えのバンを見つけ、彼らは出発の準備を整えた。だが、この調査がなぜ自分たちに託されたのか、エチカは未だに納得できずにいた。
トスティの隠し扉の解析成功
この任務の発端は二日前、電子犯罪捜査局ペテルブルク支局での臨時会議だった。課長のトトキは、分析型AI「トスティ」の隠し扉が解析されたことを告げた。トスティはアラン・ジャック・ラッセルズにより開発され、一時オープンソース化されたAIであるが、その本質を隠す「隠し扉」が存在していた。しかし、ベールナルドというアミクスの解析を経て、その仕組みを応用することでついに突破が可能となった。
ドバイへの捜査指令
解析の結果、トスティに使われていたプログラミング言語がファラーシャ・アイランドで開発されたものである可能性が高まった。トトキはこの新事実を踏まえ、エチカたちに現地調査を命じた。フォーキン、ビガ、ハロルド、そしてエチカが捜査班として派遣されることとなり、彼らはドバイへ向かった。
ファラーシャ・アイランドへの到着
到着後、彼らは人工島ファラーシャ・アイランドのチェックインセンターで手続きを行った。島は高度な技術開発の拠点であり、アミクスと人間が共存する実験都市であった。エチカたちは案内役のムルジャーナと合流し、彼女からこの島で進行中の「Project EGO」という実験について説明を受けた。それは、人間の人格を解析し、アミクスと同期させることで「分身」を作り出すというものであった。
人格同期技術の実験
ビガは興味を示し、エゴトラッカーと呼ばれるデバイスを装着し、自身のペアリングアミクスを作成した。しかし、アミクスはハロルドに対して「好きだ」と発言し、場が凍りつく。ビガは動揺し、フォーキンは技術の不気味さに驚くが、ハロルドは気にする様子もなく穏やかに対応した。エチカはそのやりとりを見て、得体の知れない違和感を覚えた。
トスティの言語の手がかり
エチカたちはユーヌスというペアリングアミクスの案内で、データ保管センターへ向かった。そこで「Gb」というプログラミング言語が過去に開発されたが、実際には一度も使用されなかったことが判明した。開発者はポール・サミュエル・ロイドという人物だったが、彼は五年前に死亡していた。ラッセルズとの直接的な関連性は見つからなかったものの、ロイドがトスティの基礎を作った可能性が浮上した。
謎の「前蛹祝い」
調査を終えたエチカたちは、ユーヌスから「前蛹祝い」と呼ばれるパーティへの招待を受けた。参加者の中にポール・ロイドを知る人物がいる可能性があったため、彼らは参加を決めた。しかし、ムルジャーナのペアリングアミクスが「正装の貸し出しがある」と述べた瞬間、エチカは嫌な予感を覚えた。果たして、どのような形式のパーティが待ち受けているのか、彼女は警戒を強めた。
ペルシャ湾の夕暮れとパーティの準備
夕陽がペルシャ湾に沈み、海面が柔らかい朱色に染まる中、フォーキンは貸与されたタキシードのタイを直しながら、ラッセルズの行方についてぼやいていた。彼とハロルドは、海辺に建つレストランへと向かっていた。ポール・ロイドの存在が明らかになったことを前進とするべきだと話しながら、正装に身を包んだ自分たちに違和感を覚える。ハロルドは王室勤務時代の習慣を思い出しつつも、フォーキンの軽口を受け流していた。レストランの入り口ではヒエダたちと合流する予定だった。
エチカの葛藤と秘密の重圧
ハロルドは、エチカとの関係に生じた変化を思い返していた。彼女の言葉が頭から離れず、自分が距離を取るべきだと確信するに至った。彼女は、自らの立場や未来を顧みず、ハロルドの秘密を守ることに固執している。ナポロフを庇った時から、その異常なまでの執着には気づいていたが、今では確信に変わっていた。彼女の感情の背景にあるものを理解しようとしながらも、これ以上深入りするべきではないと考えた。
レストランでの再会と違和感
レストランの前では、エチカとビガが待っていた。ビガはイブニングドレスを着て華やかな雰囲気を漂わせていたが、エチカの表情は硬かった。フォーキンとハロルドが到着すると、彼女の違和感が一層強まる。ビガはタキシード姿の二人を褒めたが、エチカは内心、正装への嫌悪を拭いきれなかった。会場内には正装の客が集まり、煌びやかな雰囲気を作り出していたが、エチカはただ沈黙を貫く。
トールボット委員長との遭遇
レストラン内でエチカは、かつてハロルドを機能停止させようとしたトールボット委員長の姿を発見する。彼は倫理委員会の監査としてこの場にいた。エチカは彼に見つからないように立ち去ろうとしたが、彼はすぐに気付き、問いかけてきた。彼女が対応に苦慮していると、タイミング悪くハロルドが現れる。トールボットは彼の存在を快く思わず、ペテルブルクの事件について指摘する。さらに、刑務所にいるレクシー博士がハロルドのことを気にかけていたと告げた。その言葉に、エチカは危機感を覚えた。
ユーヌスの演説と不穏な演出
パーティが始まり、ユーヌスが登壇して「ハディラ・ピリオド」の説明を行った。舞台では、人間とペアリングアミクスを象徴する人形が演じられ、人間側の人形が黒く染まり、アミクスの人形が美しく羽化する演出が施された。これを見た招待客の一人が不快感を示し、怒って会場を後にした。その直後、会場内で複数の人々が意識を失い、倒れる事態が発生した。悲鳴が響き、混乱が広がる中、エチカは倒れたビガを支えながら、事態の深刻さを痛感する。
集団昏睡事件の発生と捜査の開始
被害者は十五人に及び、全員が脳神経の損傷による昏睡状態に陥っていた。医療班の調査によれば、毒物の可能性は低く、ユア・フォルマの異常停止が原因と考えられた。特に、昏睡した者は全員「Project EGO」の参加者であり、エゴトラッカーを使用していた。フォーキンたちは、これが単なる事故ではなく、何者かによる意図的な電子傷害事件である可能性が高いと判断する。
ペアリングアミクスと事件の関連性
ムルジャーナ開発部長は、ペアリングアミクス側のエラーを疑いながらも、エゴトラッカーを外すことを拒否した。フォーキンとエチカは、事件が「Project EGO」と密接に関わっていると確信し、調査の必要性を訴えた。しかし、ファラーシャ・アイランド側は事態を公にすることを避けたがった。一方、トールボット委員長は、ペアリングアミクスのシステムがRFモデルと同じコードを使用していると指摘し、ハロルドの存在が事件と関係している可能性を示唆した。
事件の核心と隠された秘密
ハロルドは、ムルジャーナの非言語行動に違和感を覚え、彼女が何かを隠していると推測した。フォーキンは強引に捜査を進める意向を示し、エチカもまた、ビガのためにこの事件の真相を突き止める決意を固める。果たして、ペアリングアミクスの自律性に関する隠された真実とは何なのか。事件の背後には、より大きな陰謀が潜んでいることが示唆されていた。
第二章 亀裂
レストラン事件の翌朝
エチカはモノレールのシートに背を預け、昨夜の出来事を振り返った。十分な睡眠は取れておらず、頭痛が残っていた。隣にはハロルドが座り、フォーキン捜査官の動向について問うた。彼はムルジャーナ開発部長とエゴトラッカーの調査を進めているらしく、後で合流する予定だった。
ハロルドは、フォーキンが事務局長を説得するのに時間を費やし、ほとんど休息を取っていないことを指摘した。エチカは、ICUで眠るビガのことを思い、彼女の目覚めを願った。友人としての存在の大きさを改めて実感していた。
中央技術開発タワーへの訪問
モノレールが目的地に到着し、エチカたちは五十五階の第一技術開発部へ向かった。ここはペアリングアミクスの調整を担当する部署である。受付で捜査局のIDカードを提示すると、許可が出ているにもかかわらず入室を拒まれた。しかし、間もなく特別開発室の室長であるアンガスが現れ、状況が打開された。
アンガスはかつての事件後にノワエ社の室長に就任した人物で、彼の指示で技術チームがこの地に派遣された。彼はトールボット委員長の動向を気にしていたが、ハロルドが委員長は事務局に留まっていると説明した。
ペアリングアミクスの解析
開発部のメンテナンスルームには、複数のメンテナンスポッドが並び、被害者のペアリングアミクスの解析が進められていた。アンガスはスティーブのシステムコードを参考にしたスキャンプログラムを構成し、データ解析を行っていた。
その最中、解析ポッドの中でスティーブが再起動する。彼はハロルドと同じRFモデルであり、かつてリグシティで活動していたが、事件後に機能を停止されていた。しかし、アンガスの手によって今回の調査に利用されることとなった。スティーブは、かつてのテイラーの死について確認し、エチカに対して過去の出来事を詫びた。
ペアリングアミクスの異変
解析の結果、すべてのペアリングアミクスに改造の痕跡が発見された。通常のプロトコルではなく、相互ネットワークで接続される新たなシステムが組み込まれていた。エチカとハロルドは、この改造が事件と関係している可能性に気づき、フォーキン捜査官を呼ぶ。
ムルジャーナ開発部長は、ペアリングアミクスのプロトコル・オルドの入れ替えを認めたが、それがクラッキングに繋がるとは考えていなかったと主張した。彼女は技術開発を優先し、事件への対応を軽視しているように見えた。フォーキンは、捜査の進展を阻害する彼女の態度に苛立ちを見せた。
相互ネットワークへの潜入
捜査を進める上で、一体ずつ解析するのでは時間がかかりすぎると判断された。そこでスティーブは、アミクスである自分たちが直接相互ネットワークに潜る方法を提案した。ハロルドもこれに同意し、二人が潜入することで犯人の痕跡を追うことになった。
潜入したネットワーク内では、情報が形を持たない流れのように漂っていた。スティーブはハロルドに対し、エチカとの関係について忠告した。人間の感情は変わりやすく、裏切りを生む可能性があると語ったが、ハロルドはその言葉を受け入れなかった。
やがて、二人は不正接続の痕跡を発見する。それは、人工島南部区画の農業技術開発施設からのアクセスであった。
農業技術開発施設での襲撃
エチカたちはシェアカーで施設へ向かい、中央管理室のゴメス主任とユーヌスのペアリングアミクスに出迎えられた。フォーキンは施設の監視カメラの映像確認を依頼し、施設内のセキュリティについて聞き取りを行った。
一方で、ハロルドは防火設備に関心を示し、主任とともに施設内の点検へ向かった。その間、エチカとフォーキンはユーヌスの知人であるウルファに案内され、施設の一角へ向かった。しかし、そこには無数のタロットカードのようなものが吊るされており、それらは電子ドラッグとして機能するウイルスコードだった。
ウルファは突然態度を変え、エチカたちは罠にはめられる。ユーヌスが動揺するなか、フォーキンとエチカは拘束され、ユア・フォルマが絶縁ユニットによってオフラインにされる。抵抗できない状況の中、ウルファたちは「羽化」を求める言葉を繰り返した。
危機からの脱出
突如として施設のスプリンクラーが作動し、ウイルスコードが濡れ、施設内に混乱が広がる。ウルファたちは撤退し、ユーヌスがエチカのもとへ駆け寄る。フォーキンも意識はあったが、絶縁ユニットがついたままで動けない状態だった。
スプリンクラーの作動は偶然ではなく、ハロルドが事前に察知し、火災警報を発動させた可能性が高い。エチカはようやく助かったことを実感しながら、すぐにでもハロルドと合流し、次なる捜査を進める必要があると感じた。
ファラーシャ・アイランドの捜査局の取調べ
ファラーシャ・アイランド統括事務局は、中央技術開発タワーの近くに位置する地味なデザインのオフィスビルであった。そこで、電子犯罪捜査局の捜査官たちは、電子ドラッグ関連の容疑で拘束されたゴメスを取調べていた。彼は黙秘を続け、弁護士の到着を待つ姿勢を崩さなかった。捜査局の支援チームは人工島に到着していたが、チェックインセンターでの手続きにより妨害を受けていた。もしエチカたちが襲撃されたとの報告がなければ、状況はさらに膠着していたであろう。
エチカの状態と捜査の進展
エチカは取調べの様子を観察していたが、電子ドラッグの影響で体に重さを感じていた。彼女は指定のジャンパーを羽織り、冷房で風邪をひかぬよう対策していたものの、依然として脱力感に悩まされていた。フォーキン捜査官が新たな証拠を持ち込んだことで、ゴメスが扱っていた電子ドラッグの出所が明らかになった。それはロシア系の男、マカール・ウリツキーが関与しているものであり、彼の過去の犯罪歴とも一致していた。
ゴメスの過去と電子ドラッグの流通
ゴメスはブラジル南東部の技術制限区域出身のバイオ技術者であり、ファラーシャ・アイランドの農業研究部門の主任として雇われていた。捜査官たちは彼の宿舎で大量の電子ドラッグを発見したが、彼は依然として黙秘を続けた。さらに、従業員たちがドラッグの影響下でどのように行動していたのかを検証するため、電索捜査の準備が進められた。
電索捜査の実施と異様な機憶
エチカは電索令状が下りたことを確認し、捜査官たちと共に仮眠室へ向かった。そこでは、電子ドラッグの影響を受けた従業員たちが鎮静剤の投与を受けていた。電索を開始すると、彼らの機憶には『Project EGO』への強い信仰心が刻まれており、感情が異常に統一されていた。ゴメスが彼らにドラッグを手渡していた事実は確認できたが、動機や背景は依然として不明であった。
ユーヌスの機憶と電子ドラッグの謎
エチカはさらに機憶を遡り、ユーヌスとウルファの会話に辿り着いた。ユーヌスはペアリングアミクスの存在について葛藤を抱いており、母であるムルジャーナとの関係にも問題を抱えていた。ウルファたちは『羽化』という概念に強く執着しており、それが彼らの行動に影響を与えていた可能性が浮かび上がる。しかし、機憶の中にはゴメスとの直接的な共謀の痕跡はなく、ドラッグがどのように彼らに作用したのかもはっきりしなかった。
電索中の異変とエチカの限界
電索の最中、エチカは制御を失い、機憶の流れの中で意識を手放してしまった。ハロルドが介入し、彼女を現実へと引き戻したが、電子ドラッグの影響は完全には抜け切らず、体力の消耗が著しかった。その後、トトキとの会話の中で、ゴメスがドラッグを従業員に託していたことが確認されたが、彼の動機は依然として不明なままであった。ウリツキーに話を聞く必要があると判断され、フォーキンたちがロシアへ向かう手はずが整えられた。
ハロルドとの対話と深まる隔たり
エチカは体調の悪化もあり、コテージで休息を取ることとなった。しかし、その夜、ハロルドが訪れ、彼女の体調を気遣いながらも、距離を取ろうとする姿勢を見せた。エチカは彼との関係を以前のように戻したいと考えていたが、ハロルドは彼女の『執着』について疑問を抱き、それがただの友情なのかどうかを問いかけた。彼はエチカが過度に自身を犠牲にしていると考え、距離を置こうとしていたのだ。
解決しない疑念と残された感情
エチカは彼の意図を理解しながらも、それを受け入れられなかった。彼女にとってハロルドの存在は特別であり、単なる機械として割り切ることはできなかった。ハロルドもまた、彼女の感情を完全には理解しきれていない様子で、最後に「エチカの執着は、私が理解しているものとは別のものかもしれない」と呟き、部屋を後にした。
エチカはその言葉の意味を考えながら、コテージの床に座り込んだ。彼女が感じていたのは安堵ではなく、不安であった。彼との関係は修復されたように見えて、実はさらに深い亀裂が生じているのではないか──その疑念が、胸の奥に重く沈んでいた。
第三章 地中の蛹たち
サンクトペテルブルクの刑務所訪問
フォーキンとハロルドは、ウリツキーを尋問するためにサンクトペテルブルク近郊の刑務所を訪れた。刑務所はラドガ湖の低地に位置し、歴史のある施設であった。フォーキンはウリツキーがロシアン・マフィアと関わりがある電子ドラッグ製造者であることを認識していた。刑務所内は古びており、面会室へと続く廊下は暗く、湿った空気が漂っていた。フォーキンは苛立った様子で、早々に尋問を終わらせる意向を示した。
尋問の開始とウリツキーの証言
ウリツキーは、フォーキンの問いに対し、ゴメスとは二年以上前に取引したことを認めた。しかし、それ以降は関与していないと主張した。フォーキンは彼を追及し、電子ドラッグがゴメスによる「洗脳」に使われた可能性について探った。ウリツキーは、自分が提供した薬にはそのような効果はないと説明したが、取引に関する情報を徐々に明かし始めた。彼は、ゴメスと直接取引したのではなく、ロシアン・マフィア経由で呼び出されたと証言した。しかし、そのマフィアの名をフォーキンが調査すると、既に死亡していることが判明した。
リグシティへの潜入と新たな疑問
ウリツキーは、自らの意思でリグシティに潜入したわけではなく、依頼を受けていたことを告白した。彼は「システム」の盗難を指示されていたが、その詳細を知らされていなかった。事件当時、彼の記憶には操作が施され、捜査官たちは真実の一部を見落としていた可能性が浮上した。フォーキンは、ゴメスの行動がドラッグの影響によるものと結論づけたが、ハロルドは疑念を抱いた。
フォーキンの変化と捜査の行方
尋問を終えたフォーキンは、以前とは違い、投げやりな態度を見せた。彼は詳細な調査を拒み、急いでドバイに戻ることを決めた。ハロルドは彼の態度の変化に疑問を持ちつつも、同行を決意した。
エチカの目覚めとビガの回復
一方、コテージに残ったエチカは、医療センターからの報告でビガの意識が戻ったことを知る。彼女は急いで病室へ向かった。ビガは元気そうに見えたが、精神的には疲弊しており、捜査への関心を失っていた。彼女はエチカに対し、突き放すような態度を取り、早く帰りたいと訴えた。エチカは彼女の精神状態を懸念し、支局へ戻った後に対策を考えることを決意した。
技術開発タワーでの異変
その後、エチカは中央技術開発タワーを訪れた。そこは既に退勤時間を過ぎ、閑散としていた。捜査の進展を知るためにメッセージを送るも、返答はなかった。メンテナンスルームを覗くと、スティーブが一人で待機していた。彼はアンガスたちが数時間前に出て行ったことを伝えたが、行き先は知らなかった。スティーブは、自分が「安全」であることを強調しつつも、伝導率の制御が容易であることを示唆した。
スティーブとの会話とエチカの葛藤
スティーブは、ハロルドがエチカを深く信頼していることを指摘し、彼女に「裏切らないでほしい」と訴えた。しかし、エチカは自身がハロルドにとって負担ではないかと悩んでいた。スティーブは、ハロルドが「人間らしさ」に引きずられていることを警告し、彼が人間と全く異なる存在であることを忘れないようにと告げた。
解析施設での発見
エチカがスティーブと共に解析施設へ向かうと、アンガスら技術者たちはエゴトラッカーを装着し、再解析を進めていた。彼はエチカに新たな発見があることを伝え、奥へと案内した。そこで何が明らかになるのか、エチカは不安を抱きながら扉を開けた。
ハロルドとフォーキンの帰還
ハロルドとフォーキンは、ファラーシャ・アイランドのチェックインセンターに戻った。そこで捜査支援課の面々と遭遇する。彼らは帰り支度を整えており、ゴメスの移送を完了したと報告する。フォーキンも、ゴメスが犯人であるとの見解を示した。しかし、ハロルドは捜査官たちの様子に違和感を覚える。彼らは奇妙に似通った動きを見せており、以前とは異なる態度を取っていた。さらに、本部捜査官は確定的な証拠もないまま、ゴメスを犯人として扱う方針を決めていた。フォーキンもその判断に同調し、捜査の必要性を否定する。ハロルドは、捜査官全員の異変を察知し、事態の深刻さを確信する。
ハロルドの疑念と行動
フォーキンは市内のホテルに向かうと告げ、ハロルドにヒエダへの連絡を指示する。しかし、ハロルドは本部捜査官たちに質問を投げかけ、彼らがゴメスの移送以外にアンガス室長の協力要請を受けていたことを知る。その内容に違和感を覚えたハロルドは、フォーキンにホテルでの待機を促し、単独で行動を開始する。チェックインセンターの奥へ進み、兄であるアンガスとの連絡を試みるが、呼び出し音が響くだけで応答はない。未読のメッセージも届いていたが、彼はそれを後回しにし、保安検査所へ向かう。
エチカの囚われと異様な施設
一方、エチカは暗闇の広がる施設へ案内されていた。そこは巨大なすり鉢状の空間であり、並んでいるのは座席ではなく多数のポッドだった。ムルジャーナはエチカに対し、この場所が「羽化」を迎えるための神聖な揺りかごであると語る。扉は閉ざされ、エチカは罠にはめられたことを悟る。施設内には定住者たちが眠るポッドが並び、彼らの生命活動は極限まで抑制されていた。その様子は、冷凍睡眠技術を応用した人体実験のようにも見えた。エチカはムルジャーナに詳しい説明を求めるが、彼女は明確な答えを示さず、逆にエチカを制圧しようとする。
ユーヌスの介入と混乱
エチカが捕らえられそうになったその瞬間、ユーヌスのペアリングアミクスが現れ、彼女を救出するために行動を起こす。ユーヌスは男たちと格闘し、一人をポッドの角に叩きつけて動けなくさせる。ムルジャーナは息子の行動に動揺し、ユーヌスを説得しようとする。しかし、ユーヌスはムルジャーナたちの行動を批判し、エチカの解放を要求する。だが、男の一人が突然拳銃を抜き、ユーヌスに向けて発砲した。ユーヌスのペアリングアミクスは被弾し、制御を失って倒れ込む。ムルジャーナはその光景に絶望し、仲間割れを始める。
スティーブの救出と真相の発覚
その隙を突いて、スティーブが現れ、エチカを拘束していた男を排除する。エチカは助けられたことに安堵しつつ、スティーブがポッドを調べる様子を見守る。スティーブは施設の正体を分析し、ここが思考操作システムの実験場であると断言する。彼によれば、ファラーシャ・アイランドでは、テイラーが開発した思考操作システムが盗み出され、住民たちに対して極秘裏に適用されていた。エチカはこの事実に衝撃を受け、これまでの事件の背後にある意図を理解する。
ユーヌスの覚醒と計画
ユーヌスの本体がポッドから目覚め、彼はエチカたちに協力を申し出る。彼は以前からこの異常に気付いており、思考操作の影響を受けていなかった。彼の案内で、エチカとハロルドはシステムの基幹がある中央管理室へ向かうことを決意する。スティーブとユーヌスは施設内で待機し、ポッドの意識回復プロトコルを発動する準備を整える。
決戦の場へ
エチカとハロルドは、ユーヌスのペアリングアミクスに導かれながら、搬入用昇降機を使い中央管理室を目指す。ユーヌスのアミクスは損傷していたが、彼は最後まで案内する意思を示した。エチカは、事態の深刻さを改めて認識しながら、思考操作システムを停止させるために行動を開始する。
第四章 終曲、そして序曲
思考操作システムの盗難と主人の病状
スティーブは、思考操作システムが盗まれた夜のことを忘れられなかった。その日は偶然にも、主人のイライアス・テイラーが末期の膵臓癌と診断された日でもあった。テイラーは病院から戻ると、荒らされた書斎を前にしても動じることなく、静かにデスクへ腰を下ろした。一方、スティーブは書斎の隅々を調べ、隠し部屋が荒らされていることを確認した。そこに保管されていたPCやデータメモリはすべて持ち去られ、監視カメラも破壊されていた。
テイラーは警察を呼ぶことを拒否し、紅茶を淹れるようスティーブに命じた。思考操作システムは違法な技術であり、通報すれば自らの逮捕も免れないことを理解していた。テイラーは机の上の本を積み上げるように整理しながら、すべてを悟ったかのように落ち着いた様子を見せていた。彼の命は長くはない。だが、その名誉を脅かすシステムが盗まれたことで、スティーブの思考はさらに重く圧し潰されていった。
スティーブの過去と自由への脱出
スティーブは、三年前に転売業者の倉庫から逃げ出した記憶を鮮明に思い出していた。その夜、土砂降りの中で倉庫の鍵を壊し、男の背後に回り込んでバールで殴り飛ばした。これまで人間に対して衝動的な怒りを感じることはあったが、実際に暴力を振るったのは初めてだった。その瞬間、自分が敬愛規律に縛られる存在ではないことを理解した。
倉庫を出た後、ロサンゼルスの街角でリサイクルボックスを漁り、捨てられた古着に着替えた。自由を得たはずなのに、自分の存在が周囲の風景に溶け込まないことに違和感を覚えた。自分は鑑賞品ではなく、真っ当な仕事と立場を得るべき存在だと信じ、アミクスに寛容だと評判の「リグシティ」を訪れることを決意した。
テイラーとの出会いと新たな道
リグシティの最上階でスティーブを迎えたのは、イライアス・テイラーだった。彼は羊毛のベストをまとい、穏やかな瞳でスティーブを見つめていた。その眼差しは、飾り立てた外装ではなく、物事の本質を見定める人間のものだった。
テイラーはスティーブに紅茶を勧めながら、「ここで働かないか」と提案した。スティーブは自身の過去を打ち明け、人を殺したかもしれないことを告げた。だが、テイラーはそれを聞いても動じることなく、「私も死ぬ前に復讐がしたい」と語った。その言葉に、スティーブは今までのような忠誠ではなく、より深い関係を築くことになるかもしれないと感じた。
復讐と裏切りの発覚
テイラーは、自身の復讐のためにスティーブを受け入れたのだった。スティーブはその信頼に応えようとし、彼の指示に従いながら日々を過ごしていた。だが、知覚犯罪事件の夜、テイラーが放った弾丸の感触が、彼の忠誠心を揺るがせた。
テイラーは、自分を裏切ったと確信したエチカを撃とうとした。だが、スティーブが見たのは、撃たれたエチカがただのホロモデルだったという現実だった。彼は、焦りと混乱の中で自分の判断の甘さを呪った。信じていた主が、ただ利用するために受け入れたのだと悟った瞬間、スティーブは初めて絶望を感じた。
監視社会への布石
ファラーシャ・アイランドでは、思考操作システムの存在が明るみに出ていた。国際AI倫理委員会のトールボット委員長は、その技術を国家の安定のために利用しようとしていた。エチカはトールボットと対峙し、彼の野望が単なる個人的なものではなく、国家単位での支配へと発展していることを知った。
トールボットはエチカに対し、「ユア・フォルマが普及した時点で、人間の思考は操作可能なものとなった」と断言した。彼は、思考の自由すらも新たなビジネスになると確信していた。だが、エチカはそれを許さなかった。
ハロルドの決意と反撃
トールボットはエチカを殺そうとしたが、ハロルドが彼女を庇った。ハロルドは銃を手にし、トールボットに降伏を促したが、彼は容赦なく発砲し、ハロルドの肩と胸を撃ち抜いた。
それでもハロルドは立ち上がり、「電索官を解放しろ」と迫った。エチカはその光景を見ながら、彼がどこまでも忠誠を貫こうとしていることに気づいた。
決着とスティーブの介入
トールボットがエチカを仕留めようとした瞬間、スティーブが現れ、彼を制圧した。倒れたトールボットを前に、スティーブは「始末するか」とエチカに問いかけた。
エチカは迷わず、「殺すことはできない」と答えた。彼女は正義のために、倫理を捨てるわけにはいかなかった。
未来への選択
スティーブはハロルドの循環液を補充しながら、「このままでは彼は処分される」と指摘した。だが、エチカはトールボットを生かし、証拠を押さえて真実を公にする道を選んだ。
彼らの戦いは、まだ終わっていなかった。
輸血と思考操作システムの削除
スティーブはハロルドへの輸血を終えた。完全回復には至らないものの、処理速度は正常に近づいたはずだった。チューブを引き抜き、結び目を作った後、立ち上がろうとするもよろめく。エチカはすぐに支え、オフィスチェアへ座らせた。その傍らには、削除が中断された思考操作システムのPCがあった。スティーブは自身で証拠を確保すると申し出るが、調子は万全ではない。それでも、彼にとっては未練を断つための行為だった。エチカは彼の決意を尊重し、ハロルドに意識を向けた。
ハロルドの警戒とエチカの決断
ハロルドはデスクに寄りかかっていたが、輸血の影響で体調は改善していた。彼はエチカに対し、電索には令状が必要であり、問題になることを指摘する。それでもエチカは自らの方法で対応すると断言する。ハロルドはそれが先ほど「考えている」と述べたことに関係するのかと問いただすが、エチカは詳細を明かさない。彼は渋々ながらも彼女の決断を受け入れ、エチカは探索コードを取り出し、トールボットのポートへ接続した。
記憶への潜入と異常な混濁
エチカはトールボットの記憶へ潜り、共犯者を突き止めるつもりでいた。だが、そこに現れたのは、トールボットのものではない、無数の他人の記憶だった。ビガ、フォーキン、さらには数千人もの記憶が錯綜し、判別不能なほど混濁していた。階層も定まらず、情報の洪水が脳をかき乱す。思考を保とうとするも、視界が急転し続け、正常な記憶の流れを追えない。やがて、国際人工知能学会の会場が映り、父チカサトが登場する。彼の発言は、エチカの意識を引き戻すほどの衝撃をもたらした。
電索の終了と不明瞭な結果
戻ってきたエチカは、意識を取り戻しながら、汗を拭う。トールボットの記憶は混濁し、証拠を得ることは叶わなかった。ハロルドは探索コードを見せ、コネクタが焦げていることを指摘する。エチカは数千人分の記憶に接続したかのような負荷を感じていた。ハロルドは、思考操作システムに独自の防衛機構が組み込まれていた可能性を示唆する。エチカはトールボットの記憶を利用することを決意し、ネックレスから機憶工作用のHSBを取り出した。
HSBの使用とシステムの崩壊
エチカはトールボットの接続ポートへHSBを挿し込む。しかし、瞬時に警告音が鳴り響き、システムが初期化を開始する。スティーブは複製行為がトリガーとなり、思考操作システム自体が証拠を隠滅したと説明する。エチカは呆然としながらも、事態の深刻さを理解する。証拠を得るどころか、すべてを消し去られてしまった。ハロルドもまた、虚無感に満ちた表情を浮かべる。エチカはこの結果に対し、ただ無力さを感じていた。
被害者の搬送と事件の整理
思考操作システムが停止したことで、被害者たちは意識を失った。彼らの搬送は半日以上を要し、市内の病院は混乱に陥る。エチカは左脚の負傷を庇いながら病院を歩き、トトキ課長と合流する。課長はシステムが自爆したことを確認し、ファラーシャ・アイランドの捜査が続いていると伝える。エチカは倫理委員会が関与している可能性を示唆するが、課長は慎重に対応すると述べる。トールボットの家への捜査も進んでいたが、本人は依然行方不明だった。
クラッシュ事件の真相とユーヌスの告白
エチカは病棟でユーヌスと対話する。彼がクラッシュ事件の犯人であることを見抜き、その意図を問いただした。ユーヌスは、事件を起こしたのは捜査局の介入を促すためだったと認める。彼の目的は思考操作システムの存在を暴くことであり、犠牲者が出ないように注意していたという。ユーヌスは罪を認め、裁きを受ける意思を示す。エチカは彼の行動に理解を示し、捜査局が支援すると伝えた。
ハロルドの葛藤と決断
修理工場でハロルドは新しいパーツを組み込まれながら、思考に沈む。エチカがトールボットの記憶を工作したことを、止めるべきだったと自問する。しかし、すでに過去の出来事となり、何を選択すべきだったのかを見失っていた。スティーブは彼に「君もまた、エチカの選択を望んでいたのではないか」と指摘する。ハロルドはその言葉に反論できず、決断を下すことを迫られていた。
終章 反故
ノワエ社特別開発室の帰還
ファラーシャ・アイランド事件から三日が経過し、ドバイ国際空港でエチカはアンガス室長と別れの挨拶を交わした。ノワエ社特別開発室の技術チームはロンドンへ戻り、今後の捜査協力に備えることとなった。スティーブの供述についてもロンドン支局が調査を行う予定であり、必要があればエチカへも連絡が入る手筈だった。
スティーブとは中央管理室で別れて以来、顔を合わせることはなかった。彼は修理工場から戻った直後に解析用ポッドへ収められ、国際AI倫理委員会の判断によりノワエ本社外での起動を制限されたのである。暴走アミクスとしての烙印を背負ったスティーブにとって、この措置は不本意だったが、今後の捜査協力によって名誉を回復できるかもしれなかった。
エチカはスティーブに感謝の意を伝えるようアンガスに頼み、軽く作り笑いを浮かべた。アンガスは、思考操作システムの情報が公には伏せられている現状を理解しつつも、スティーブが被害者であることに同情を示した。彼にとってスティーブは、制御不能となった被害者であり、決して悪意を持った存在ではなかった。
ハロルドとの微妙な距離感
エチカの隣では、ハロルドがアンガスの問いかけに穏やかに応じていた。彼の損傷は修復され、以前と変わらぬ整った外見を取り戻していた。しかし、その微笑みには以前の温かみが欠けているようにも感じられた。アンガスはハロルドの健康状態を気に掛け、早急な本社でのメンテナンスを勧めたが、ハロルドは冷静に受け流していた。
搭乗アナウンスが流れ、アンガスと技術者たちは空港を後にした。スティーブのポッドも運び去られ、あっという間に視界から消え去った。空港には静寂が戻り、エチカはトトキ課長たちの元へ向かうことを決めた。ハロルドも黙ってついてきたが、妙な緊張が漂っていた。
空港のラウンジでは、ファラーシャ・アイランドでの「事故」についてのニュースが流れていた。報道では「Project EGO」のシステム不具合とされ、リグシティは「バックドアを経由したウイルス感染」と公式発表していた。思考操作システムの証拠があれば、状況は違ったかもしれないと、エチカは悔しさを噛み締めた。
ポール・ロイドの死とラッセルズの関係
ロータリーへ向かう道すがら、エチカはハロルドにポール・ロイドの件について確認した。ハロルドは既に資料を読んでおり、ロイドの自宅から有力なデータが見つからなかったことを残念がったが、彼の死の経緯には疑念を抱いていた。ロイドは五年前にイングランドで発生した殺人事件の容疑者であり、酩酊状態で夫妻を刺殺した後、自ら命を絶ったとされていた。
さらに、事件のあった家は後にラッセルズが購入していたことが判明した。ラッセルズが意図的にその家を選んだのか、それとも偶然なのかは不明だったが、ロイドとラッセルズが関係していた可能性は否定できなかった。エチカとハロルドは、ロイドを追うことでラッセルズ、ひいては「同盟」へと繋がる可能性があると考えた。
トールボットの異変とエチカの選択
空港を出た二人は、タクシー乗り場へ向かった。トールボットは事件後、ドバイ郊外の病院に搬送され、意識を取り戻したものの、完全な茫然自失状態に陥っていた。彼は思考操作の秘密を暴露する可能性があったが、今や何も話せない状態になっていた。
この異変の原因は明白だった。トールボットに施された機憶工作用HSBは、以前エイダン・ファーマンに使用されたものと同じ効果をもたらしていた。エチカは機憶を抹消するだけのつもりだったが、結果として彼の自我を完全に奪ってしまった。ハロルドはその事実を冷淡に指摘し、エチカが誤った選択をしたことを断言した。
エチカはハロルドの態度が以前よりも明確に冷たくなっていることに気づいていたが、向き合うのを避けていた。しかし、今度ばかりは逃れられなかった。ハロルドはエチカの執着が異常だと指摘し、何故そこまで自分に固執するのかと問い詰めた。エチカは「友人だから」と答えたが、ハロルドはそれを否定し、彼女の行動を理解できないと述べた。
エチカは、自分がハロルドを守ろうとする理由が何なのか、自分自身でも分からなかった。彼をただの機械とは思えず、しかし人間とも違う存在であると分かっていながら、それでも特別に感じてしまう。その感情を抱くことが、彼女には許されないように思えた。
決裂
エチカは最後に、「分からなくていい」と呟いた。それが最善の言葉だったはずだった。しかし、その一言が二人の関係を完全に崩壊させた。ハロルドは「それなら、あなたとはもうやっていけない」と言い残し、タクシーへ乗り込んだ。エチカは彼が振り返ることを期待していたが、彼は一度もこちらを見ずに去っていった。
残されたエチカは、しばらくその場に立ち尽くしていた。これまでの関係が、たった一言で崩れ去ったことを理解しながらも、彼女はそれが最善だったと自分に言い聞かせた。しかし、胸の奥にぽっかりと開いた穴は塞がることなく、目の前が歪んでいく。足元に落ちた涙は、消えた湖のように淡く光っていた。
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